表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
乙姫は恋を知らない  作者: HANABI


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/13

第3話 竜宮の主と、その一番古い臣

竜宮城は、海の底に浮かぶ 誰にも触れられない泡の宮殿だ。

その膜をくぐることを許された人間は、ほとんどいない。

地上の漁師、浦島太郎が竜宮城へと来てから、数日が過ぎた。


最初の頃、城の者たちは皆、彼と少し距離を置いていた。未知なる地上の人間。そして、何より我が儘な姫のお気に入り。


一体全体、どう扱えばいいのか分からなかったのだ。

けれど。太郎は妙なところで、他人の心の壁を壊すのが上手かった。



「だから! そのお魚さん、まだ絶対俺のこと怒ってますって!」


大広間の隅で、太郎が本気の真顔で訴えかけている。

それを聞いた大柄な魚人の武者たちが、ぶはっと一斉に吹き出した。


「違いますって! あれは我が海族なりの熱烈な歓迎です!」


「歓迎のくせに、思いっきりガブッと噛むんですか!?」


「深い愛情表現にございます!」


「竜宮城、普通に怖ぇな!?」


広間の片隅で、魚人たちが腹を抱えて大笑いしていた。太郎だけは困った顔のまま、まだどうしても納得していない。


私はそんな賑やかな様子を、静かな回廊の陰からじっと眺めていた。


「……なによ、あれ」


思わず、私の口からぽつりと呟きが零れる。


あの堅物の魚人隊長が、あんなに大声を上げて笑っているのを初めて見た。

いつも無愛想で、宴の席でもただ黙々と酒しか飲まない男なのに。


隣にいた侍女が、ぽかんと大きく口を開けていた。


「乙姫様……あの魚人隊長が、あんなに楽しそうに笑っています……」


「見れば分かるわよ」


「いえ、あの方、ここ百年くらいは一度も笑ってませんでした」


それを聞いた瞬間、私は思わずくすくすと吹き出してしまった。


「太郎って、本当に変な才能があるのね」



「それ、少し重くないですか?」


太郎が、大量のごちそうを運ぶ小柄な侍女へ優しく声をかける。声をかけられた侍女は、驚いて目を丸くした。


「え……?」


「それ、半分俺が持ちますよ」


「い、いえ! 大切なお客人へそのような雑事をさせるわけには……!」


「いやでも、もしバランスを崩して落としたら危ないでしょう」


太郎はそれが当然だというみたいに、重い皿をひょいと受け取る。そのまま、何食わぬ顔で普通に歩き始めてしまった。残された侍女たちは、お互いに顔を見合わせている。


これまで竜宮へ招かれた地上の客人は、皆、もてなされる側だった。誰かの仕事を率先して手伝う男など、歴史上、一人もいない。


「……ねえ、なんでそんなことするの?」


気になって思わず後ろから聞いていた。

太郎が不思議そうに振り返る。


「なんでって……普通に困ってそうだったんで」


本気で、何が変なのか分からないという顔。

私は少しだけ、言葉を失って黙り込んでしまう。

そんなあまりにも純粋な理由で動く人間を、私はあまり知らなかった。



「姫様、最近ずっとお機嫌が良いわね」


城の侍女の一人が、物陰でこっそりと囁き合う。


「わかる。さっきなんて、あの魚人隊長の冗談で笑ってらしたわ」


「えっ、あれって冗談だったの?」


小さな笑い声が、綺麗な回廊の向こうへと広がっていく。その回廊の向こうを、私は太郎と肩を並べて歩いていた。


「……絶対にあの魚、俺のこと獲物だと思って狙ってますって……」


「ふふ、ただの気のせいよ」


私は耐えきれず、またふふっと小さく吹き出した。


「太郎、あなたって本当に、魚にまで好かれる才能があるのね」


「全然嬉しくねえです……」


本当に困り果てたような顔。

その頼りない顔を見るたび、私の胸の奥が少しくすくぐったくなる。


最近の私は、本当によく笑うようになった。

太郎と並んで一緒にいると、あの分厚い退屈を感じる暇がまるでない。


「姫様」


不意に、背後から低く静かな声が響いた。

振り向くと、そこには宵臣が立っていた。


群青の美しい装束。相変わらず、一筋の乱れもない完璧な立ち姿。けれど、その冷徹な金色の瞳だけは、まっすぐに太郎を見つめていた。


「今夜の宴の準備が、すべて整いました」


「もうそんな時間かしら?」


「はい。姫様が客人と遊びすぎなければ、

もう少しだけ早く進行しておりました」


「それは、私への嫌味かしら?」


「いえ、ただの事実を申し上げたまでです」


一切の淀みのない即答だった。

隣にいた太郎が、小さく肩を揺らして笑いを必死に堪えている。

私はわざと目を細めて、彼を睨んだ。


「太郎」


「はい?」


「今、私の横で笑ったでしょう」


「いえ、ちょっとだけ二人の会話が面白いなって……」


「宵臣のことが?」


「いや、乙姫さんと、なんだか息がぴったりだなって思ったんです」


その瞬間だった。

いつも冷静な宵臣が、ほんの少しだけ、不快そうに目を細めた。私はなぜだか、その瞬間に胸の奥が不機嫌にざわつくのを感じる。


――なんだか、嫌。


その拒絶の感覚が、自分でも少しだけ不思議だった。

私はすぐに、太郎の衣服の袖をぐいと強く引く。


「さあ、行きましょう、太郎」


「え? あ、はい!」


太郎が慌てて私の後ろをついてくる。

背後で、宵臣が小さく重いため息を吐いた気配がした。



今夜の宴も、これ以上ないほどに華やかだった。

真珠の灯りが、広い大広間を柔らかく照らし出している。


珊瑚で作られた楽団が、静かに美しい楽を奏で、

色とりどりの薄い衣を纏った海の民たちが、水の流れみたいに舞っていた。


私はそれが当然だというように、太郎を自分のすぐ隣の席へと座らせる。

その瞬間、周囲の空気が一気にざわついた。


集まった海神の親族たち。地上から招かれた特別な客人たち。皆が皆、ちらちらと物珍しそうに太郎を見ている。


私はそんな視線など一切気にしない。

けれど。太郎はやっぱり、少しだけ居心地が悪そうに身を縮めていた。


「……なんか、俺めちゃくちゃ全員に見られてません?」


「ええ、見られてるわね。これでもかってくらい」


「やっぱり……」


「大丈夫よ。そのうち嫌でも慣れるわ」


「うーん、できれば慣れたくないなぁ……」


その情けない返しに、私はまた声を上げて笑ってしまった。


目の前の膳の上には、地上では逆立ちしても見られない料理が並んでいた。


大海老の美しい艶焼き。

薄紅をした上質な鯨の刺身。

独特な香草と共に香ばしく炙られた海蛇。

琥珀色の肝味噌を贅沢に添えた、鮟鱇あんこうの煮凝り。

立派な甲羅ごと豪快に蒸された巨大な蟹。


そして。

まるで鳥の翼みたいに大きく広げられた、海鷂魚えいの姿焼き。


甘い極上の酒の香りが、潮の匂いへと優しく溶けていく。

太郎は、目の前の光景に完全に固まっていた。

その黒い瞳が、膳と私の顔を何度も何度も往復している。


「……なんですか、これ。一体」


私は手元の盃を傾けながら、くすっと喉を鳴らした。

「見て分からない? 極上の料理よ」


「いや、そういう意味じゃなくて……」


本気で困り果てている顔。私は耐えきれず、ふふっと笑ってしまう。

太郎がおそるおそる、小さな声で口を開いた。


「ねえ、乙姫さん」


「なに?」


「これ、真面目に聞いていいやつですか」


「内容によるわね。あまりに退屈な問いなら答えないわ」


太郎が、大きな海鷂魚の焼き魚を見る。

それから、すぐ近くで豪快に酒を飲んでいる大柄な魚人を見る。


「……本当に、大丈夫なんですか、これ」


その問いに、広間の空気が一瞬だけしんと静まった。


「何が大丈夫じゃないの?」


「その……あそこにいる魚の皆さんの、親戚とかじゃ……ないですよね?」


一瞬の静寂。

次の瞬間。魚人たちが腹を抱えて一斉に大爆笑し出した。


「違いますわ!!」


「俺たちは誇り高き魚人です! そいつらはただの魚です!」


「でも、半分は魚ですよね!?」


「半分だけです!」


「やっぱりややこしい!!」


太郎が本気で頭を抱えて困っている。

私は耐えきれず、ぶふっと綺麗に吹き出してしまった。


「太郎、あなたって本当に、変なところだけ真面目ね」


「いや、気になるでしょう普通!? 共食いだったらどうしようかと!」


魚人隊長が笑いながら、大きな杯の酒を豪快に煽る。


「安心してください太郎殿! 我々魚人にも、

流石に食べたくない種類の魚くらいありますから!」


「それはそれで、妙に生々しいなぁ!?」


太郎が恐る恐る、海鷂魚の姿焼きを指差した。


「これ、本当に俺が食っていいやつなんですか」


「だめな料理なら最初から出さないわよ」


「見た目のインパクトが強すぎる……」


周囲の侍女たちが、くすくすと可愛い笑い声を零す。

太郎は意を決したみたいに、手元の箸をそっと伸ばした。


ぱり、と美しく焼けた皮が割れる。

中から現れた真っ白な身から、温かい湯気がふわりと立ちのぼった。恐る恐るそれを口へ運ぶ。その瞬間。太郎が大きく目を見開いた。


「……うま」


思わず、口から漏れ出た本音の声だった。


「すごく香ばしい……魚なのに、まるで上質な鶏肉みたいな味がします」


「海鷂魚の身は淡白だから、香草と特製の脂を合わせて焼くのよ」


私は少しだけ得意げに胸を張って答える。

太郎は次に、美しく光る鮟鱇の煮凝りへと箸を伸ばした。


「これも……生まれて初めて食べます」


ぷるぷると揺れる煮凝りを口に入れ、またその黒い目を丸くする。


「なんだこれ……口に入れた瞬間、一瞬で溶けた……」


「鮟鱇の皮と骨を、特別な技法で長時間煮込んで固めたものです」


後ろに控えていた侍女が、静かに誇らしげに説明した。

太郎は感心したように、改めて周囲を見回す。


「ここの皆さん、毎日こんな贅沢なごちそうを食べてるんですか?」


侍女たちが顔を見合わせる。

それから、少しだけ誇らしげに、嬉しそうに笑った。


「本日は、浦島様を歓迎するための特別な宴にございます」


「ここまで盛大な宴は、竜宮でもそうそうございませんよ」


「我が姫様が、数日前からかなり張り切っておられましたので」


最後の一言が響いた瞬間、大広間の視線が一斉に私へと集まった。

私はすんと涼しい顔をしたまま、手元の酒を上品に煽る。

太郎だけが、申し訳なさそうに困った顔でこちらを見ていた。


「……乙姫さん」


「なにかしら?」


「俺、そんな大層なことをした人間じゃないんですけど」


「知ってるわよ、そんなこと」


私は即座に、冷たく言い放つ。


「でも。あなたと一緒にいると、ちっとも退屈しないもの」


太郎が、言葉を失って完全に絶句する。

その顔がまた少し赤くなるのが面白くて、私はまた意地悪く笑った。


すると。一人の若い魚の武者が、太郎の前へと歩み出て盃を差し出した。


「お客人。ぜひ私からも一献、受け取っていただきたい」


体格の良い、見栄えのする若い男だった。

艶のある見事な織り模様の羽織。綺麗に磨かれたかんざし。いかにも海神の一族らしい、華やかで自信に満ちた男。


太郎は少し驚きながらも、持ち前の素直な笑顔を浮かべる。


「あ、どうも、わざわざ――」


そのまま太郎が盃を受け取ろうとした、その瞬間。

私は、太郎の着物の袖を、拒絶するように強く引いた。


「だめ」


広い大広間が、一瞬で冷たく静まり返る。

太郎が不思議そうに目を瞬かせた。


「乙姫さん?」


私は、にこっと有無を言わさない笑顔を浮かべる。


「太郎は今日、私の注ぐ盃しか受け付けないの」


若い武者の笑顔が、一瞬で引きつった。


「……は」


「だから、そのお酒はまた今度にしてあげて」


柔らかい、お姫様らしい声音で答える。

けれど。そこには断る余地など、一ミリとして存在していなかった。若い武者は慌てて、深く頭を下げた。


「し、失礼いたしました……っ!」


まるで逃げ出すみたいに、足早に下がっていく。

太郎だけが、今の状況を全く理解できていなかった。


「……えっと、今のってなんで……」


「何がかしら?」


私はそれが当然だというように、彼の空の杯へ酒を注ぐ。

太郎はまだ納得のいかない、困った顔をしていた。

その無防備な横顔をじっと見つめていると、妙に胸の奥がくすぐったい。


ふと、お互いの視線が真っ直ぐに合った。

真珠の灯りの下で見る太郎は、思ったよりもずっと、整った顔をしていた。


凛々しい眉。少し切れ長で、澄んだ大きな目。

笑うと、大きめの口元がまるで子どもみたいにくしゃりと緩む。


少しだけ酒が回っているのか、その黒い瞳がいつもより熱を帯びて見えた。

広い肩には、私が昼間に用意させた濃紺の着物が本当によく似合っている。


彼が酒を飲み干すたび、緩く開いた襟元から、男らしい喉仏が上下した。その何気ない仕草が、妙に色っぽく私の目に焼き付く。


盃を持つその指先は、節張っていて、とても大きい。

地上の過酷な海で必死に働く、男の手だった。

竜宮の、線が細くて綺麗な男たちとはまるで違う。

もっと荒っぽくて、確かな生身の熱がある。


太郎がまた、楽しそうに笑う。無防備なくらい、明るい笑顔。

その顔を見るたび、なぜだか私の胸の奥が激しくざわついた。

私は思わず、耐えかねて彼から目を逸らす。


……なによ、今の感覚。


その間にも、太郎はぐいっと目の前の酒を勢いよく煽った。

次の瞬間。


「うわっ、強……っ!?」


一気に顔をしかめて咳き込む。

私は耐えきれず、ふふっと声を上げて吹き出してしまった。


「太郎。それ、そんな風に一気に飲む種類のものじゃないわよ」


「先に言ってくださいよ……! 喉が焼けるかと思った!」


私はさらりと、自分の酒を優雅に口へ運ぶ。


「だってあなた、すぐ誰にでも無防備に懐くんだもの」


「えっ」


「少しは他人を警戒しなさい」


「いや、それだけは絶対に乙姫さんにだけは言われたくないです」


その完璧な返しに、私は思わず盛大に吹き出した。


「なによ、それ」


「だって、初対面の男をいきなり竜宮城まで連れてくる人ですよ?」


「あれは、私があなたを攫ったの」


「なおさら性質が悪かった!」


太郎は真顔のまま、大げさに片手で自分の顔を覆ってみせた。


「村の連中になんて説明すればいいんですか、これ……“なんか綺麗な女の人について行ったら、海の底でした”って?」


「何も間違っていない、ただの事実でしょう?」


「絶対にいかがわしい店と勘違いされて信じてもらえないですって!」


「じゃあ、“竜宮の美しいお姫様にナンパされました”にする?」


「もっと駄目だ!!」


食い気味の即答だった。私は耐えきれず、お腹を抱えて笑ってしまう。

太郎は深々とため息をつきながら、またぐいっと酒を煽った。


「しかも、悔しいけど酒がめちゃくちゃ美味いし……」


「あら、お気に召した?」


「かなり悔しいですけど」


「素直で大変よろしいわ」


「これで最後に“ちょうど食べ頃ですね”とか言われて、俺が調理されるオチなら、俺もう今すぐ走って逃げますからね」


私はにっこりと、最高に妖艶に笑ってみせた。


「安心して、太郎」


「……?」


「私はもう、あなたをここから逃がす気なんてないもの」


「本当に怖ぇな、このお姫様!?」


私が肩を揺らして激しく笑うと、周囲の大広間がまたしんと静まり返った。

侍女たちが、信じられないものを見るような目で私を見つめている。

あの冷酷な乙姫が、あんな風に心から楽しそうに笑うなんて。


その周囲の視線で、私もようやく自分自身の変化に気づく。最近の私は、確かに少しだけおかしい。

太郎の顔を見るだけで、無性に笑いたくなる。

もっと彼を困らせたくなる。

もっと、その黒い目で私だけを見てほしくなる。


その時だった。


「あぁっ!」


一人の侍女が、運んでいたお盆の上の杯を不注意で落としかけた。こぼれた強い酒が、太郎の着物の袖へと激しく飛び散る。


「あぁっ、申し訳ございません! 浦島様……っ!」


不敬罪を恐れて、侍女の顔が一瞬で青ざめた。


けれど、太郎はすぐにその場に立ち上がった。


「大丈夫です! 少し濡れただけですから、気にしないでください」


彼は決して怒らないし、相手を責めることもしなかった。むしろ、申し訳なさそうに困ったように笑っている。


「ほら、火傷とかケガをしてないなら全然平気ですから」


そう言いながら、太郎は慌てて片付けようとする侍女の前にしゃがみ込んだ。


床に落ちた杯を拾い、濡れてしまった卓を自分の手で布で拭く。侍女たちは、完全に戸惑って固まっていた。


「う、浦島様……そのような雑事、大切なお客人へさせるわけには……!」


「いやいや、俺の袖も一緒に濡れてますし、同じことですって」


太郎は侍女から布をひょいと受け取ると、自分の袖を拭きながら苦笑する。


「しかし……」


「それより、このお酒、すごくいい香りがしますね」


太郎が、自分の袖からふわりと漂う香りへ鼻を近づけた。


「少し甘いっていうか……なんか、花みたいな匂いがする」


侍女がパチパチと目を瞬かせた。


「そ、それは……珊瑚花さんごばらの蜜酒にございます」


「へぇ……すごく美味そうだなぁ」


太郎が、本当に純粋に、おねだりするように素直に笑う。


「これと同じやつ、俺ももう一杯だけもらってもいいですか?」


その瞬間だった。

怯えていた別の侍女が、はっと恋に落ちたように勢いよく動いた。


「た、ただいまお持ちいたします!!」


ぱたぱたと、慌てて大急ぎで走っていく。

さっきまで青ざめていた彼女たちの顔が、一瞬でリンゴのように赤くなっていた。


私はその一部始終をじっと眺めながら、小さく、不機嫌に目を細める。


――本当に、とんでもない男。


普通なら、このような粗相をされた時点で、宴の空気は氷のように冷え切る。激烈に怒る者もいる。侍女を怯えさせて喜ぶ者もいる。


なのに太郎は、いつの間にか相手の緊張を綺麗に解いてしまうのだ。しかも恐ろしいことに、本人はその自覚が全くない。


「太郎」


「はい?」


「あなた、地上で“人たらし”って言われたことない?」


太郎はきょとんとした顔をした。


「え?」


「無自覚なのが、一番性質たちが悪いのよ」


「一体なんの話です?」


本気で分かっていない、マヌケな顔。

私は思わず、ふふっと溜息混じりに笑ってしまった。

でも。私の胸の奥が、少しだけ、熱くて痛かった。



長く華やかな宴が終わったあと。

私は太郎を連れて、二人だけで静かな城の回廊を歩いていた。


光る膜の向こうでは、たくさんの魚たちの群れがゆらゆらと優雅に泳いでいる。青白い神秘的な光が、まるで水面みたいに天井へと揺らめいていた。


太郎が、ぽつりと静かに呟く。


「すごく……綺麗ですね」


「ここを、気に入ってくれた?」


私は、足を止めて振り返る。


太郎は少しだけ真面目に考えてから、大きく頷いた。


「……はい。ここ、不思議な場所ですけど」


「不思議?」


「夢みたいで。でも、なんだか、ちゃんと温かいです」


その言葉に、私の胸が、小さくドクンと鳴った。

私はさらに一歩、彼との距離を詰め近づいた。


「ねえ、太郎」


「はい」


「もし。私があなたを、一生地上へ帰さないって言ったら……どうするかしら?」


冗談めかした、いつもの軽い声。

でも。私の赤い瞳だけは、少しも笑っていなかった。

太郎の喉が、ごくりと静かに鳴る。


その瞬間だった。

私の感情に呼応して、胸元の潮満珠が、かつてないほど強く激しく脈打った。


ざぁぁぁっ――!!


膜の外の深い海流が、一気に大きく揺れ動く。

頑丈な城の床が、ぐらりと不穏に傾いた。


「っ」


バランスを崩した私の身体が少しふらつき、思わず前へと手を伸ばす。


次の瞬間。逞しくて強い腕が、ぐい、と私の身体を真っ直ぐに引き寄せた。


太郎だった。

その強い勢いのまま、私の身体が彼の広い胸へと正面からぶつかる。


――熱い。


一瞬で、息が止まった。

見上げた先には、よく日に焼けた精悍な男の顔。


地上の冷たい現実を必死に生きる、生身の男の匂いが、衣の奥からじわじわと伝わってくる。

想像していたよりもずっと、彼の身体は大きくて、男らしかった。


「……あ」


彼の耳が、みるみるうちに真っ赤になっていく。

我に返ったみたいに、太郎の腕が慌てて私から離れようとした。


その瞬間だった。

私は自分でも無意識のうちに、自ら彼の首へと両腕を回していた。彼が、私から離れてしまわないように。


これまでの何百年もの人生で、男の身体をこんなにも近くに感じたことなんて、一度もなかった。


太郎の身体が、ぴくりと驚いたように強張る。


「……乙姫、さん」


低くて、少し掠れた声だった。

戸惑ったみたいに、太郎の腕が優しく私を軽く抱き寄せた。


二人の熱が、さらに近くで交わる。

太郎が困ったようにへにゃりと眉を下げる。


「今の揺れ……絶対に乙姫さんの、その胸元の珠のせいですよね」


彼の視線が、私の胸元の潮満珠へと落ちる。

珠はまだ、淡く、興奮したように光を激しく揺らしていた。


「あんまり感情的になって海を揺らすの、よくないですよ」


「……どうしてよ?」


「魚の皆さんも、びっくりして泳ぎ回ってますし」


どこまでも真面目な声。でも。その耳はまだ真っ赤に染まっている。


私は嬉しくて、少しだけ意地悪く笑った。


「でも、これ全部あなたが悪いのよ?」


「え? 俺ですか?」


「そうよ。太郎、あなたがあまりにも魅力的すぎるからだわ」


そう耳元で囁いた、その瞬間。

太郎の喉が、ごくりと大きく鳴った。

その黒い視線が激しく揺れ動く。彼は照れを誤魔化し逃げるみたいに、少しだけ目を伏せて。


それでも。私の背中に回されたその両腕だけは、決して離れなかった。

やがて。頭上から、掠れた低い声がぽつりと落ちる。


「……こんなに、ずっと傍にいると」


熱い吐息が、すぐ近くで優しく揺れた。


「本当に……地上へ帰りたく、なくなりそうだ」


一瞬、私の心臓が完全に停止する。

太郎自身も、今の言葉を口にしたあとで、ハッと固まっていた。


「……いや…その」


自分が一体何を口にしてしまったのか、今さら気づいたみたいに、顔から耳、首の根元までを一気に真っ赤に染め上げていく。


私は驚いて目を見開いた。

胸元の潮満珠が、ドクン、ドクンと、これまでで一番大きく激しく脈打った。


身体が離れた瞬間。

私は生まれて初めて、少しだけ「寂しい」と心から思ってしまった。

私はそれを太郎に誤魔化すみたいに、慌てて膜の外の海を見る。

たくさんの魚たちが、まだゆらゆらと驚いたように泳いでいた。


「……変なの」


小さく、消え入りそうな声で呟く。


「え?」


「なんでもないわよ、別に」


でも。私はもう、はっきりと分かっていた。

これはもう、ただの退屈しのぎの“遊び”なんかじゃない。太郎がいつか地上へ帰ってしまう未来を想像するだけで、私の胸の奥が、ちぎれそうなくらいに苦しかった。


その時だった。

二人の背後から、ぱたぱたと軽い足音が静かに響く。


「お姉様ーー!」


振り向くと、そこには白い衣を大きく揺らしながら、

一人の美しい少女が満面の笑みで駆け寄ってくるところだった。


玉依姫たまよりひめ

私の、たった一人の大切な妹だった。


「タマヨリ」

「やっと見つけた! 最近お姉様がずっとここにいるって聞いて――」


そこまで一気に言って、玉依姫がぴたりと足を止めた。私と、私の隣に立つ太郎の姿を、何度も何度も交互に見比べる。

それから。じっと、私の顔を深く覗き込んできた。


「……ねえ、お姉様」


「なによ?」


「お姉様……もしかして、恋をしてるの?」


その言葉が響いた、その瞬間――

胸元の潮満珠が、今日一番のまばゆい光を激しく揺らした。


私は。彼女の問いに、何一つとして答えることができなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ