第3話 とある夫婦の、温かなおもひで
夜、閉店が近づく純喫茶『ナカマ』に最後まで残っていた客は、一組の男女だった。
提供されていた一杯のコーヒーを手に、白髪の混じった壮年期の男性は、向かいに座る女性へと上機嫌に語りかけている。
「いやあ、実はね、僕らの娘が、ほら、洋子がさ、今度、結婚することになってねえ。手塩にかけて育てた愛娘を、なんでおまえなんかに~っ……て思ったら、これがなかなか良いやつでねぇ、ははは……ひっく」
「あらあら、もう、飲みすぎですよ。こんなに酔っちゃって……ここへ来る前も、その御婿さんと、随分と飲んでいらしたんじゃないですか?」
「なあに、ぜんぜん、酔っちゃいないさ! まだまだ飲めるよ、ほおら! あっ、あちちちっ……ん」
手にしていた熱々のコーヒーを一気飲みしようとし、案の定、火傷しそうになる男性に、若い女性は「あらあら、もう」と呆れながらも、優しく話を続けた。
「ねえあなた、洋子は元気ですか? ほら、私たちは早くに別れることになっちゃったから、ずっと気になっていて。大きな病気なんて、していない? 美人さんに、なったのかしら」
「ああ、ああ、元気なもんさ。そりゃあもう、きみそっくりの美人になったよ」
「まあ、私に似ているなんて言うと、洋子が怒っちゃうんじゃないかしら。寂しい思いをさせて、きっと私のこと、薄情な女だって恨んでいるでしょうに」
「そんなことないさ、恨み言の一つも、聞いたことなんてないよ。洋子はね、今でもずっと、きみのことが大好きだよ」
「そう、そうなの。うふふ、そうだったら、嬉しいんだけど」
笑い合う二人に、けれど閉店の時間は近づいてきて、女性はおもむろに言った。
「ねえ、あなた。今までずっと、男手一つで、洋子を立派に育ててくれて、ありがとうございます。離れていても、本当に、心から感謝しているのよ」
「うん……うん、うん……」
「でもね、そろそろあなたも、自分の幸せを求めても、良い頃ではないかしら。洋子も巣立って、あなた一人では、寂しいでしょう。……私のことなんて、気にしなくていいのですからね? 洋子の幸せを願うように、私はずっと、あなたの幸せだって祈っているのだから。たいして長い付き合いでもなかった私のことなんて、さっさと忘れちゃいなさいな!」
「うん。……うん……」
男は白髪まじりの頭を傾け、何度も頷いて。
若い女性は「相変わらず涙もろくて、仕方のない人ね」と呆れながら、穏やかに頬んで、見守っていた。
やがて閉店の時間になって、男性は立ち上がる。
ただ最後に、座っている女性に向けて、こう言った。
「僕はね、忘れないよ。
きみのことを、絶対に、忘れない。
これから先、どんな人生を送るとしても、何があっても。
きみと過ごした時間のことを、きみと話したことを、忘れない。
短いだなんて、関係ない。幸せってね、長さじゃなかったよ。
僕と、洋子と、出会ってくれて、ありがとう。
ずっと、ずっと、きみのことを、愛しているよ」
「ええ。……ええ、私もよ。どんなに離れていても、どこにいても、あなたのことを、洋子のことを、ずっと、ずっと、愛しているわ」
それから会計を済ませた男は、一人で店を出ていった。
礼をして退店を見送った女性店長ナカマは、顔を上げて、本日最後の客が去ったテーブルへと歩み寄る。
そうして誰もいない空いたテーブル席の、空になったコーヒーをトレイの上に乗せた。
ただ、代わりに、正方形の御盆に乗せた御膳を置いていく。クラシックスタイルの純喫茶には、微妙にミスマッチだが、今夜だけは特別だ。
丸く盛った白米と、一汁三菜、どれも蓋は開いている。
お箸を一膳、供えて。
「お疲れ様でした。どうぞ、ごゆっくりなさってください」
微笑みながら手を合わせて、ナカマは穏やかに呟いた。




