第九章 感情
三週間近く前のこと。アウレリアが真夜中に脱出した、その翌朝の出来事である。ソリス城のきらびやかな回廊を、十四歳の少女が全力で駆け抜ける。
エヴリンの胸は、陰湿で執念深い喜びで満たされている。彼女はノックもせず、入口に立つ近衛兵の鋭い警告の視線を完全に無視して、長兄ジュリアンの執務室の重い両開き扉を乱暴に押し開けた。
「ジュリアン兄上!」
高天井の回廊に、甲高い悲鳴のような声が反響する。
「本当なのですか!? 私の耳に入った噂は、事実なのですか!?」
山と積まれた公文書に埋もれ、王位継承者たる皇太子としての職務に没頭するジュリアン。彼は顔を上げることもなく、羊皮紙の上で羽ペンを規則的に走らせ続けた。
「お前がどこから拾ってきた噂話だろうと、俺には興味がない。出て行け、エヴリン。取り込み中だ」
兄の冷淡な態度は百も承知だが、膨れ上がった興奮を抑えることなどできそうにない。その目は、邪悪で子供じみた悪意にぎらぎらと輝いている。
「あのゴミめが! 本当に逃げ出したそうですわ! 真夜中にこっそり逃亡したらしいのです!」
ジュリアンの羽ペンがぴたりと止まる。
ゆっくりと、彼は頭を上げた。
部屋の中に、息が詰まるような暗い重圧が立ち込める。その佇まいから放たれる捕食者のごとき恐るべき威圧感に、周囲の空気は一瞬にして凍りつく。
黒い瞳が、異母妹を射抜く。
「ち、父上が、玉座の間へお越しになるよう仰っています」
エヴリンは言葉をつまらせ、慌てて踵を返すと、這うような不恰好さで執務室を飛び出す。
こめかみを押さえ、ジュリアンは重く、疲れ切った溜め息を漏らした。
この家族が、心の底から嫌悪してやまない。彼らは一日中、自分たちの劣等感と悪意を、何の非もない母親のいない少女へとぶつけ、憂さ晴らしをしている。王妃カッシアは、実に見事な手腕で子供たちの精神に毒を注ぎ込んだ。
「ギデオン」
ジュリアンが静かに呼ぶ。
影が揺らぎ、部屋の隅から一人の人影が音もなく現れた。身体にぴったりと密着した黒皮の衣を纏い、顔は暗色のマスクに覆われている。むき出しの冷徹な両の瞳だけが、計算高い光を湛えている。彼は恭しく頭を下げる。
「お呼びでしょうか、殿下」
「アウレリアはどうした?」
ギデオンが小さく頷く。
「無事に外縁を突破し、港に到達いたしました、殿下。手配通り、港のあらゆる商船が彼女の乗船を拒否するよう取り計らいました――ケーレン船長の『リバティ号』を除いて」
ジュリアンの表情が和らぎ、安堵の微笑がこぼれた。ケーレンの元にいれば、あの子は安全だ。
「しかし、殿下……」
ギデオンが微かに懸念の滲む声で呟く。
「姫様は、本当にあのケーレン船長の元で安全なのでしょうか。彼の……あの予測不能な気性を、殿下もよくご存じのはずですが」
ジュリアンは低く笑った。
「もし誰かの身を案じる必要があるとするなら、それはケーレンの敵の方だ、ギデオン。あの狂人は本気で頭のネジが何本か飛んでいるが、だからこそ俺はあいつに妹の命を預けられる。敵に回せば、あれは化け物だからな」
立ち上がり、マントを整えたジュリアンは、再び影に溶けていくギデオンを背に玉座の間へと歩みを進める。金箔に彩られた巨大な二重扉に近づくと、衛兵たちは深く頭を下げ、それを重々しく左右に開く。深青色の絨毯を踏みしめ、彼は父であるアリステア王が金の王冠を戴いて鎮座する巨大な玉座へと向かっていく。ホールの脇には異母きょうだいたちが並び、その誰もが勝ち誇った下劣な笑みを浮かべている。だが玉座の前に立ちはだかる王妃カッシアの顔は激しい怒りに歪み、その刺すような視線がジュリアンを正面から睨みつけているのだ。
ジュリアンは恭しく、しかし浅い礼を捧げた。その顔には冷淡な無関心という名の仮面が張り付いている。彼は父を憎んでおり、カッシアに対しては、それを遥かに凌ぐ嫌悪を覚える。
「どのような御用でしょうか、父上」
感情を削ぎ落とした、平坦な声でジュリアンは問いかけた。
カッシアは威嚇するように一歩踏み出し、ジュリアンの胸元に非難の指先を突きつける。
「私たちを愚弄する気、ジュリアン!? あの小娘の逃亡を手引きしたのはお前でしょう! 吐きなさい! あいつはどこへ行ったの!?」
ジュリアンは首を傾げ、唇の端に嘲るような笑みを浮かべた。
「おや。飼い猫が檻から逃げ出しでもしましたか、カッシア叔母上? でしたら、ご自身でドブ川の中を探し回るのがよろしいのでは」
ジュリアンは断固として、カッシアを母とは呼ばない。彼女は陰険な策略を巡らせてアリステア王の妻の座を奪い取った女であり、彼にとっては心底軽蔑すべき対象でしかなかったからだ。
ジュリアンは、数年前に謎の失踪を遂げた正妃キャロラインの唯一の息子である。キャロラインは強大な魔力と高貴な血筋を併せ持ち、自由奔放な魂を宿した傑物にほかならない。姿を消した際、彼女が王に残していった書き置きは、あまりにも不遜で短い。
『親愛なるアリステアへ。とっても面白そうな秘密を見つけてしまったから、ちょっと自分で調べてくるわね! 戻るまでかなり時間がかかるかもしれないけれど、私たちの可愛いジュリアンをよろしく頼むわ。愛を込めて、キャロラインより』
キャロラインの背後にある強力な実家の後ろ盾と、彼女自身の規格外の魔法の才ゆえに、王妃カッシアは彼女がいつか帰還するのではないかという恐怖に怯え続けている。それゆえにジュリアンから侮辱された瞬間、その表情は怒りと屈辱で真っ赤に染まる。
「ジュリアン」
アリステア王の重々しい声が、言い争いを切り裂く。
ジュリアンは冷え切った視線を父親へと向ける。
「あいつを野に放つことが、この世界に混沌をもたらすだけだと、お前も知っているはずだ」
父親らしい温かみなど微塵もない声で、王が告げる。
「世界のことなど知るか」
揺るぎない確信を込めて、ジュリアンは即座に言い返した。
「海を目指すことは、妹の夢だ。あの子を再び引きずり戻そうとするなら、俺はこの国をすべて灰にしてやる」
アリステア王は、静かに息子を凝視した。
「こ奴を地下牢へ連れて行け」
王が命じる。
エヴリンとクラリッサは歓喜の息を呑み、王妃カッシアは勝ち誇った邪悪な笑みを浮かべた。しかしジュリアンはただ微笑み、まるで午後のお散歩にでも出かけるかのような足取りで、警備兵たちの先導に従って歩き出す。
部屋を出る寸前、彼は足を止め、冷やかすような視線を父親へと投げかけた。
「人間の夢というのは、古い樫の木のようなものだ、アリステア。命が尽きるその日まで、野生のまま奔放に伸び続ける。怯えた仔猫のように、その金ぴかの玉座で縮こまっているがいいさ、老いぼれ」
彼は心からの嘲笑を響かせながら、悠然と歩み去る。
去りゆく息子の背中を見つめる王の冷徹な瞳に、微かな、暗い肯定の光が宿る。ジュリアンは覇王の器を持ち、完璧な仮面を被り、王に求められる冷酷さを備えている。彼こそが、完璧なる後継者だ。
唯一の心残りは、何年も前にアウレリアを処刑しておかなかったことだ。たとえ、あの子の生存が『あの御方』によって直々に望まれていたとしても。
王はカッシアと娘たちに向き直り、冷たく言い渡した。
「エヴリン、クラリッサ。身支度を整えよ。明日、エリジウム学院へ向けて出発するのだ」
姉妹は驚き抗議の声を上げかけるが、父の凍てつくような一瞥を浴び、一瞬で口を閉ざす。
***
現在に戻る。ヒールシャイアにあるパーセル医師のこぢんまりとした診療所で、アウレリアが海賊の青年を救ってから一週間が過ぎる。アウレリアは、その朝に届いたばかりの磨き上げられた木箱を抱えて客間へと入る。木箱には、セバスチャン卿の紋章が刻まれた手紙が添えられていたのだ。
ベッドの上では、海賊のライダーが上体を起こしている。枕に背を預け、アウレリアの古い航海日誌を静かに読み耽る。その長い金髪は清潔に整えられ、印象的な紫の瞳は知性に満ちている。
「おはよう」
アウレリアが声をかける。
ライダーは顔を上げ、唇に穏やかで敬意を湛えた笑みを浮かべた。
「おはようございます、船長」
アウレリアは微笑む。その肩書きの響きは、彼女をひどく満足させる。
時間を数日前に巻き戻そう。
救出された翌朝、ライダーが目を覚ますと、ベッドの脇の木製椅子に腰掛けたアウレリアが、猛烈な勢いで日記にペンを走らせている。
「あんた……誰だ?」
塵のように乾ききった喉から、掠れた声が漏れ出た。
「やっと起きたのね!」
アウレリアは嬉しそうに声を上げ、手早く冷たい水をコップに注いだ。
「私はアウレリア。さっきまではメイドのエリンに変装していたけれど、それももうおしまい。あなたの名前は?」
「ライダーだ」
彼は静かに答えた。
「二十一歳だ」
アウレリアの瞳が、獲物を狙う肉食獣のような興奮でらんらんと輝きだす。
「じゃあ私より四つ年上ね! 完璧だわ。ねえライダー……私のクルーになりなさい!」
ライダーは完全に困惑した様子で少女を見つめ、やがて漏れるような苦笑を漏らした。
「随分と単刀直入だな、お姫様。……あんた、海賊なのか?」
「そうよ!」
誇らしげに彼女は胸を張る。
「私の夢は、無敵のクルーを集めて未踏の海へ漕ぎ出し、失われた財宝を見つけ、この世界の腐敗した支配体制を打ち倒すことなの!」
彼女の眩しく、燃え盛るような表情を、ライダーは黙って見つめる。仲間が敗北して以来、彼は生きる目的を失い、死を待つだけの虚ろな殻として生きてきた。しかし、目の前の少女が宿す金色の瞳には、冷え切った彼の胸にふたたび命の灯火を点す不思議な力がある。
「あんたは俺の命の恩人だ、船長」
彼は静かに告げた。
「その旗の下で戦えるなら、喜んでお供しよう」
その日以来、ライダーが公然と自分を船長と呼ぶたびに、アウレリアの気分は天にも昇るほど高揚した。
そして現在。アウレリアは床に置いた木箱を開ける。そこには、名門エリジウム学院の制服二着と、簡潔ながらも優美な筆跡で書かれた短い手紙が収められている。
『貴様と、その海賊のゴミ屑をエリジウム学院へ入学させておいた。私が手を貸すのはここまでだ。残りはすべて己の力で成し遂げよ。回収すべきアーティファクトは、古代の異国ルーンが刻まれた黒いダイヤモンドのブレスレットだ』
「偽善者め」
アウレリアは毒づき、手紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ投げ捨てる。
その時扉が開き、ローラが入ってきた。清潔な包帯と消毒液が入ったカゴを抱えている。淡いブルーの素朴なドレスを纏う彼女の、エメラルドグリーンの瞳には今日も元気な光が宿っている。
「おはよう、アウレリア! ライダーも、おはよう!」
彼女はカゴを置くと、すぐさまライダーの傷の回復具合を確かめ始めた。
「ローラ……」
アウレリアが躊躇うように切り出した。
「ライダーの傷はもうすっかりいいわ。私たち……明日の日の出とともに、南の地方へ旅立つことにしたの」
ローラの皮膚を検査していた手が、ぴたりと凍りつく。明るい温もりは一瞬で消え去り、その顔を深い衝撃が覆い尽くす。
無言のままライダーの包帯を巻き終えると、ローラはアウレリアの腕を力任せに掴み、そのまま部屋の外へ引っ張り出した。自分の狭い寝室へ連れ込むと、勢いよく扉を閉めて鍵をかける。
「ローラ?」
不意を突かれたアウレリアが問いかける。
向き直ったローラの緑の瞳にみるみる涙が溜まり、頬を伝ってこぼれ落ちた。
「どうして……」
感情が決壊したように、彼女は激しく泣き崩れる。
「どうして私を、クルーに誘ってくれなかったのよ、アウレリア!?」
呆然として、アウレリアは見つめ返した。
「でも……ローラ、あなたは海賊を軽蔑しているって言っていたわ。あなたのお父様だって……」
「わかってるわよ!」
ローラの叫び声が響き、アウレリアの両手をきつく握りしめる。
「自分が何を言ったかなんて知ってる! でも私、医術の勉強をしていたのよ! いつか立派な医者になって、あなたの役に立ちたくて、毎日死に物狂いで努力してきたの!お願いだから……私を置いていかないで、アウレリア!」
温かく、深い感情がアウレリアの胸にこみ上げる。彼女は一歩踏み出し、泣きじゃくる親友を強く抱きしめた。
「ごめんなさい、ローラ。私、本当にバカだったわ」
身を引き、ローラの瞳を真っ直ぐに見つめながら、侵すべからざる誓いを告げる。
「一生懸命勉強して、この大陸で一番の医者になってちょうだい。そしていつかその時が来て、私が自分の船を造り上げたら……必ずこの港に戻って、私の船医としてあなたを迎えに来るわ。約束する」
ローラは喜びのあまり再び涙を溢れさせ、何度も激しく頷きながら、もう一度アウレリアを強く抱きしめ返した。
***
さらに一週間後。ライダーの傷は完全に癒え、旅立ちの許可が下りた。アウレリアは旅鞄に荷物を詰め込み、二人は大陸の南端に佇むエリジウム学院へと向かう馬車に乗り込む。
出発の間際、幼いルークがアウレリアのスカートを掴んで泣きじゃくり始めた。彼にとって、アウレリアは親しい姉のような存在になっていたのだ。アウレリアは地面に膝をつき、そっと秘密を囁く。
すると、ルークの涙がぴたりと止まる。
袖で鼻をこすり、小さな胸をぐっと張って、誇らしげな足取りで診療所へと引き返していく。
ローラが不思議そうに弟を見つめた。
「何を言われたの、ルーク?」
ルークは得意げに、いたずらっぽく微笑む。
「ひ・み・つ!」
馬車が動き出し、馬たちが土埃の舞う道を駆け抜けてヒールシャイアを遠ざかる中、車内でライダーがくすくすと笑い声を漏らす。
――私の勇敢な弟。
次に会う時は、強くて立派な男になった姿を見せてちょうだい。だからもう泣かないで、お姉ちゃんを守ってあげるのよ。
アウレリアがルークに託したのは、小さな騎士への静かな誓いである。
アウレリアは革張りの座席に身を預け、流れていく外の景色をじっと見つめる。その金色の視線は、遠い南の地平線を見つめている。
エリジウム学院が、その到着を静かに待っているのだ。




