第十章 学院(前編)
「エリジウム学院が設立されたのは、今からおよそ百年前のことよ」
土の路面を叩く馬車の車輪が立てる規則的な騒音に対抗するように、アウレリアは囁く。窓の木枠に肩を預け、金色の瞳で外に広がるなだらかな緑の丘陵を目で追う。
「始まった当初は、単なる傭兵の粗末な訓練場にすぎなかったの。創設者たちは、命がけの過酷な戦闘トーナメントを開催することで、なんとか運営資金を稼いでいたわ。戦士たちは生き残りをかけて戦い、勝者には古代の極めて貴重なアーティファクトが授与された。けれど数十年後、学院は破産して門を閉ざすことを余儀なくされたのよ」
対面の座席から熱心に耳を傾けているライダーへ、彼女は視線を巡らせる。
「そこへ現れたのが、現在の学長であるバーナードよ。見捨てられていた場所を彼が引き継ぎ、厳しい実戦訓練と最高峰の学術研究を融合させて、組織を根底から改革したの。彼の指導力によって学院の名声は跳ね上がり、今や世界中の王や皇帝たちが、その高度な教育と絶対に破られないとされる伝説的なセキュリティを求めて、莫大な寄付金を投げ打つまでになったわ」
ライダーは少し感心したように首を振る。
「目的地について、随分と詳しいのですね、船長」
アウレリアは自嘲気味に小さく笑う。
「『リバティ号』の前の船長が、学院の伝説的な宝物庫を襲撃することばかり考えていたのよ。歴史を調べるために何晩も費やしたけれど、結局のところ、作戦が自殺行為に近い規模だと知って彼は計画を断念したわ」
「一度聞いただけでそこまで詳細に記憶しているとは、驚くべき才能です」
ライダーが静かに感嘆を口にする。
「俺などは、よほど興味がある事柄でもなければ、一週間もしないうちに細部を忘れてしまいますから」
紫の瞳に静かな好奇心を宿し、彼は少女を見つめる。
「教えてください、船長……。カラドリアにいた頃、正規の学院や学校に通ったことはあるのですか?」
アウレリアの表情が強張り、瞳から一瞬にして温度が失われた。彼女は小さく首を横に振る。
「一度もないわ。父親である……アリステア王は、側室の娘に教育など不要だと考えていた。私は塔から出ることも許されなかったの」
「では、どうやって……」
ライダーは驚きを顕にし、言葉を切る。
「どうしてそれほど多くの知識を身につけられたのですか?」
「本を読んだのよ」
哀愁を帯びた微笑を口元に湛え、彼女は簡潔に答えた。
「夜の闇に紛れて王立図書館に忍び込み、手に入る限りの航海日誌、歴史書、海図を読み漁る生活を七年間も続けたわ。けれど、本物の教室に足を踏み入れたことは一度もない。本当のことを言うと、少し怖いの。あそこが何を教える場所なのかもわからないし、授業についていけるかどうかも不安だわ」
ライダーは彼女を見つめ、胸の奥深くに強い敬意が芽生えるのを感じる。この時代において、本は極めて高価な贅沢品であり、公共の書庫を利用するのにも莫大な費用がかかる。独学でこれほど膨大な知識を習得したという事実は、驚異という言葉すら生ぬるい。
***
その夜、アウレリアは身を切るような寒さを避けるため、ウールのマントを深く羽織って馬車から降りた。すでにライダーが乾いた薪を集めており、火打石を鋭く打ち合わせると、パチパチと音を立てる鮮やかな焚き火が勢いよく立ち上る。暖かく揺らめく琥珀色の光が、辺りの広場を柔らかく照らし出した。炎の傍らに横たわる滑らかな丸太に腰掛け、彼女はかじかむ手を火にかざす。
「ずっと尋ねてみたかったのです、船長」
乾燥した小枝を火の中に放り込みながら、ライダーが切り出す。
「今の時代、女性は家の中で安全に暮らし、良い婚姻を結んで家庭を築くことを求められます。それなのに、なぜ荒々しく無法な海賊という道を選んだのですか?」
揺らめく炎の核心を凝視するアウレリアの瞳に、激しく爆ぜる火花が映り込む。
「子供の頃、私は一度だけ純粋な自由を味わったのよ……」
深く古い悲哀を帯びた声で、彼女は囁く。
「けれどそれは、あまりにも無残に奪い去られてしまった。これまで、百戦錬磨の兵士であっても涙を流すような惨状をこの目で見てきたわ。だからあの暗い塔の中で、自分自身に誓ったの。もし自由を手に入れたなら、そしてこの世界の腐敗し、朽ち果てた根底に牙を剥く力を得たなら、必ず立ち上がろうと。海に出て、完全なる独立の旗を掲げること――それだけが、人間の支配する諸王国に対して真の戦いを挑む唯一の方法なのよ」
黙ってライダーは彼女を見つめた。その言葉には、底知れない重々しい謎が潜んでいる。どんな凄惨な傷を乗り越えてきたのか、美しい金色の瞳の奥にどんな暗黒が眠っているのかと思わずにはいられない。けれど、彼は深く詮索しないことを選んだ。そっと息を漏らし、また一本の薪を火に投じる。
「あなたは本当に神秘的な女性だ、船長」
静かに彼が言う。
アウレリアから、鈴を転がすような軽やかな笑い声がこぼれる。
「そうかもね。おやすみなさい、ライダー」
草の上に厚手の毛布を広げ、彼女は身体を丸めて瞼を閉じた。ライダーは眠ることなく、火の傍らで胡坐をかいて座る。その手は常に剣の柄に添えられ、不気味にざわめく暗い森へ鋭い警戒を向けている。
***
しかし、眠りはアウレリアに安息を与えない。意識が薄れるにつれて、彼女はいつもの悪夢へと引きずり込まれていく。
錆びついた重い鉄鎖が石畳に擦れる、あの忌まわしい金属音が耳の奥で反響する。鼻孔を突くのは、腐敗した肉の悍ましい臭気。彼女は再び、あの凍てつく血塗られた石の床に倒れ伏している。死の影が、周囲を容赦なく埋め尽くす。
「嫌……お願い……もうやめて……」
眠りの中で、か細い悲鳴が唇からこぼれ出た。顔を持たない、骸骨のように痩せこけた影たちが、暗闇の中で引きずられていく。彼らの声なき絶叫が、脳裏に直接響き渡る。自分の番が、刻一刻と迫る。
立ちふさがる巨大な影。磁器の仮面を被り、純白の手袋をはめた男が、彼女に向かって歩み寄ってくる。恐怖に悲鳴を上げて這い下がろうとするものの、純白の手袋をはめた細い両手が伸び、骨を噛み砕くほどの力で両手首を締め上げる。
「船長! 目を覚ましてください! 船長!」
アウレリアは息を呑み、跳ね起きるように上体を起こした。全身が激しく震え、必死に空気を求めようと胸が上下に波打つ。冷たい汗が襟元を濡らしている。すぐ隣には、心配そうに跪くライダーの姿がある。
「悪夢ですか?」
彼は優しく問いかけ、水筒を差し出した。
「ええ……」
震える声で答え、水を一口だけ含むと、アウレリアは表情を隠すように顔を背ける。
(どうして……!)
悔しさと苛立ちが胸に渦巻く。どうして、あの忌まわしい過去の暗影が、今になって這い出てくるのだろうか。血を流して倒れた母の姿、冷たく荒涼とした孤児院での記憶、そしてその後に経験した数々の悪夢のような光景が脳裏をよぎる。彼女は激しく頭を振り、記憶のすべてを意識の奥底にある頑丈な鍵付きの金庫へと力ずくで押し戻した。過去に自分を壊させはしない。
***
朝になり、馬車はふたたび走り出した。数時間もしないうちに、活気あふれる街のそびえ立つ石造りの城門が地平線上に姿を現す。
「ここがそうなの、御者さん?」
悪夢のせいで未だに気分の沈んでいるアウレリアが問いかけた。
「いいえ、お嬢様」
御者が振り返って答える。
「エリジウム学院は次の領地にございます。物資を補給するために、この街を通過する必要があるのです」
街に入っても、アウレリアは塞ぎ込んだまま会話を拒む。今すぐにでも船に飛び乗り、荒れ狂う潮風で悪夢の残滓を洗い流してしまいたい。けれど、果たさなければならない使命がある。ライダーの自由を勝ち取るため、彼女は己の感情を殺す。
ライダーと御者が食料調達のために市場へと向かう間、アウレリアは一人で賑やかな通りを散策することにした。数分と経たないうちに、彼女の鋭い感覚が背後を追ってくる数人の男たちの足音を捉える。残酷で鋭利な笑みが、その唇に浮かんだ。都合がいい。気分転換が必要だ。彼女は雑踏をすり抜け、追跡者たちを意図的に暗く静まり返った路地裏へと誘い込む。立ち止まり、ゆっくりと振り返って彼らと向き合う。
「いつまで私をつけてくるつもりかしら、お仲間さんたち?」
影から姿を現したのは、三人の大柄な男たち。その下劣な視線で彼女の緑の旅ドレスを舐めるように見つめ、傲慢な嘲笑を浮かべている。
「おや、おや」
リーダー格の男が下卑た笑い声を漏らす。
「可愛いお嬢ちゃんが俺たちに気づいちまったか。良家の娘のようだな、お前。その深そうなポケットを空にして、俺たちに差し出したらどうだ?」
「お手伝いしたいのは山々なのですけれど、あいにく、私のドレスにはポケットなんてついていませんの」
男の笑みが消え失せ、怒りで顔が赤黒く染まる。彼は突進し、アウレリアの襟元を掴んで宙へ持ち上げた。
「俺をコケにする気か、この淫売が!」
淫売。その言葉が、アウレリアの逆鱗に触れた。金色の瞳に、恐るべき殺気の火花が散る。
「来世では大人しくしていることね」
感情を失った、冷酷な声が路地に響く。男がその言葉の意味を理解するよりも早く、アウレリアの右手が閃いて手首を捉える。強引に捻り上げ、腕の骨を容赦なくへし折る。さらに男の突進する勢いをそのまま利用して体勢を入れ替え、肩をその胸板に押し当てながら、巨大な身体を背負い投げで叩き落とした。骨の砕ける鈍い音が響き、男はうつ伏せに転がる。悲鳴を上げる隙すら与えず、アウレリアは彼の背中に重いブーツを踏み下ろした。肋骨を噛み砕くほどの圧力で、男を石畳に縫い留める。顔の原形が失われ、男が泣き叫ぶまで、彼女は容赦なく拳を叩き込み続けた。
残された二人は絶叫し、顔面を土気色に染めながら一目散に逃げ去る。
「臆病者め」
スカートの埃を払いながら、アウレリアは吐き捨てる。悪夢の陰鬱な気分は完全に吹き飛び、心地よい興奮が全身を満たしている。彼女は足取りも軽く、表通りへと戻っていく。
***
「もしもし、そこのお嬢さん」
掠れた声が呼びかけてきた。黒い重厚なコートを着た老商人が、小さな荷車の傍らから、一本の美しい髪飾りを指し示している。
「これを見ていかないかい? あんたの珍しい漆黒の髪に、よく似合うと思うんだがね」
足を止め、アウレリアは髪飾りに視線を吸い寄せられた。黄金と白銀が織りなす繊細な細工の合間で、贅沢な宝石たちがきらきらと瞬いている。美しい――けれど、こんな贅沢品を買う金などない。
「ごめんなさい。このような品を買い求める持ち合わせはないの」
首を振り、歩きだそうとした彼女の腕が、突然掴まれた。老人の細い手がアウレリアの手首を捉える。その力は異常なほど強く、振り払うことができない。アウレリアの身体が強張り、驚愕に目を見開く。
「金ならいいんだよ、お嬢ちゃん」
商人は呟き、髪飾りを無理やり彼女の手のひらに押し込んだ。
「どうせ今日で店を畳むつもりだったのさ。贈りものとして受け取っておくれ」
「船長?」
人混みの向こうから、食料の袋を抱えたライダーが歩み寄ってきた。アウレリアは慌てて手を引っ込め、髪飾りをサッチェルバッグへと滑り込ませる。
「ただの……お散歩よ」
気まずさを誤魔化しながら、アウレリアは背後の出店へ視線を戻す。しかし、荷車も老商人も、影も形もなく人混みに消え去っている。音一つ立てずに。
アウレリアは眉をひそめた。クロードといい、この商人といい、緑の大陸には奇妙で不可解な人間が多すぎる。首を振り、彼女はライダーと共に馬車へと戻り、旅路を再開する。
***
国境を越える頃、しとやかな雨が降り注ぎ、広大な大地を鮮やかなエメラルドグリーンに染め上げていく。馬車が通り過ぎる脇で、古の森から野生の動物たちが顔を覗かせる。
さらに一日半に及ぶ旅路の末、ついにエリジウム学院の壮大な石門が目の前に姿を現す。御者は荷物を降ろすと、別れを告げて馬車を折り返させた。
ライダーが強固に補強された巨大な鉄門へと近づき、衛兵に声をかける。
「新入生が到着した! ライダーとアウレリアだ!」
天高くそびえ立つ頑強な石壁の前に、黒い鍛鉄の重厚な門扉が閉ざされている。やがて軋むような低い音を立てながら、褐色肌のたくましい二人の衛兵によって、その巨門がゆっくりと左右に引き開けられた。
門をくぐり抜けた瞬間、アウレリアの表情は苛立ちで歪んだ。
(ふざけないでよ、セバスチャン!)
胸の内で悪態をつく。こんな物々しい場所から、どうやって伝説のブレスレットを盗み出せというのか。あらゆる角に衛兵が直立している。これは学校などではなく、鉄壁の守りを誇る要塞都市そのものだ。仮に目的のアーティファクトを手に入れたとしても、生きて脱出することなど不可能に等しい。完全に罠へ飛び込んでしまったと悟り、暗い怒りが湧き上がる。しかし、隣に立つライダーの姿を見て、彼女は強引に感情を抑制した。彼を自由にするためだ。私はやり遂げなければならない。
「アウレリア様と、ライダー様でしょうか?」
金色の刺繍が施された高貴な青い制服に身を包んだ、二人の生徒が近づいてきた。帳面を手にした少年が、鋭く事務的な視線で彼らを見定める。
「エリジウム学院へ歓迎いたします。私は生徒会長を務めているズカです」
アウレリアは礼儀正しく頷いたものの、その視線は少年の背後に控える少女へと引き寄せられた。淡い緑色の奇妙な髪と、深い茶色の瞳が印象的な少女。しかし、その瞳には光がない。感情を完全に喪失したその眼差しは、歯車の機械仕掛けで駆動する精巧な人形を思わせる。少女は小さく一礼しただけで、アウレリアの温かい微笑を無視した。
「彼女の非礼を許してほしい」
ズカは静かに、しかし苛立ちを滲ませて呟き、先導するように歩き出す。歩きながら、アウレリアの鋭い聴覚が、彼の小声の愚痴を捉えた。
(ちくしょう、なぜ今日に限ってあいつがついて来るんだ?)
アウレリアの金色の瞳が、突如として楽しげな光に輝く。その口元へ、不敵な笑みが静かに浮かび上がる。
(海賊の直感が叫んでいるわ。あの緑色の髪の少女が被る冷徹な仮面の奥に、とびきりの秘密が隠されているってね。この学院がどんな謎を抱えているのか、じっくり見せてもらいましょう)




