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第一一章 エリシウム・アカデミー・後編

門をくぐったアウレリアは、思わず呆然と口を開けた。ズカと緑の髪の少女イナラの後ろに付いていくが、目の前の光景は想像を遥かに絶している。

 エリシウム・アカデミー。それは単なる学術機関ではなく、一つの広大で自立した都市そのものだ。

 足元には、陽光を浴びて温かなオレンジ色に輝く石畳が、どこまでも美しく敷き詰められている。

 等間隔に配置されたソーラー・ストーンの円柱が、日中の陽光を吸い込んでは夜のキャンパスへ穏やかな光を放つ仕組みらしい。

 見渡す限り並ぶ奇抜で壮麗な建築群の奥には、雲を突き刺すような研究の尖塔が、圧倒的な存在感でそびえ立っている。

 そして学園の西端を守るように広がるのは、風が吹くたびに秘密めいた囁きを漏らす、深く鬱蒼とした太古の森だ。


 寄宿舎の門前まで来ると、ズカはまるで恐ろしい疫病から逃れるように、大慌てで別れを告げて走り去る。

 イナラもまた、アウレリアが笑顔で振った手を完全に無視し、女子棟へ滑るように歩みを進めていく。

 ライダーが革の鞄を肩に掛け直し、アウレリアへ向き直る。

「さて、船長。俺も男子棟の部屋を探して、荷物を解くことにします」

「そうね。昼食の後、中央広場で落ち合いましょう」

 アウレリアは頷き、彼を見送る。


 視線を転じれば、そこには三百人以上のエリートが暮らすという、五階建ての巨大な石造りの女子寄宿舎がある。

 重厚なオーク材の入り口に歩み寄り、扉に留められた手書きの貼り紙を見た瞬間、アウレリアの唇が楽しげに歪む。

『男子禁制。立ち入ろうなどと考えることすら許さない』


 重い扉を押し開けると、心地よい鐘の音がロビーに響き渡る。

 マホガニーの重厚な受付デスクの奥では、眼鏡を鼻にかけた気難しそうな年配の女性が、帳簿と格闘している。

 アウレリアが近づくと、彼女は顔を上げ、しわがれた乾いた声を発する。

「アウレリアさんですね?」

「はい、そうです」

 アウレリアは人当たりの良い笑みを浮かべる。


 老女は分厚い革の登録簿を開くと、羽ペンをインクに浸して名前を書き込む。

 それから背後の木製キャビネットから、一〇二番の数字が刻まれた重い真鍮の鍵を取り出す。

「部屋は二人部屋です」舎監は鍵を差し出しながら淡々と説明する。「学期の途中での編入ですから、空いているベッドは一つしかありません。一〇二号室で、武術科のイナラさんと同室になります。もし部屋の変更を希望するなら――」

「いいえ!」

 アウレリアは興奮のあまり、思わず木製のデスクを手のひらで叩いて遮る。

「あ、いえ……そのままで結構です。ぜひ彼女と同室にさせてください」


 あまりの勢いに、老女は少し面食らった様子で眉をひそめる。

「……そうですか。生徒会長からも言われたでしょうが、学業には一切の妥協が許されませんよ。エリシウムへようこそ」

「ありがとうございます!」

 元気よく答えたアウレリアは、華麗に向き直ると、大理石の階段を軽快に駆け上がる。


 寄宿舎の内部は途方もなく広く、どの階にも全く同じ白いドアが五十枚も整然と並んでいる。

 三階へ到達し、一〇二号室の前に佇む。

 深く呼吸をして緊張をほぐし、鍵を差し込んで扉を開ける。


 室内は広々として清潔で、森の梢を見下ろす大きな弓形の窓が印象的だ。

左右に配置されたベッドの脇には、それぞれ学習机と衣装箪笥が置かれている。

 左側の机は何も置かれず真っ新だが、右側の机には夥しい数の本が山積みになっている。

 アウレリアは足音を殺して近寄り、好奇心に任せて本の背表紙を盗み見る。

『基礎解剖医学』、『高等植物・本草学』、『十の大陸とその秘密』……。

 そして一番下にあった、古びた革装丁の書物に目が釘付けになる。

『太陽石と古代の奇跡』。

 手を伸ばそうとした瞬間、ドアのラッチがカチリと音を立てる。


 振り返ると、部屋に入ってきたイナラが、アウレリアの位置に気づいてピタリと足を止める。

 無言だ。

 ただ光を失ったような虚ろな茶色の瞳で、新しい同居人をじっと見つめている。

 アウレリアはとびきり輝くような笑顔を浮かべ、手を差し出す。

「イナラ! 同室になったみたいね。これからどうぞよろしく!」

 差し出された手は握り返されない。

 イナラは開かれた掌をしばらく見つめた後、再び表情を氷のような無表情へと戻す。

「一度だけ警告するわ、ルームメイト」

 その囁き声は、凍りつくような虚無感を帯びている。

「凄惨で、ひどく苦痛に満ちた死に方をしたくなければ……私のそばに寄らないことね」

 それだけ言い残すと、彼女は滑らかに向きを変え、音もなく部屋を後にする。


「面白い嘘をつくじゃない」

 アウレリアは小さく吹き出し、金色の瞳を面白そうに輝かせる。

「間違いなく、とんでもない秘密を隠しているわね。気に入ったわ」


 簡単な旅装をクローゼットに収めると、アウレリアは中央広場へと戻る。

 大理石の噴水の側で、ライダーが彼女を待っている。

 二人はキャンパスの構造を把握するため、ゆっくりと散策を始める。

「そっちの部屋はどう、ライダー?」

 アウレリアが尋ねる。

 ライダーは首筋をさすり、困ったように頬に冷や汗が流れる。

「男子棟は……控えめに言っても、やかましすぎますよ。部屋に入った瞬間、廊下にいた連中の半分から手合わせを要求されました。本当に騒がしい」

 アウレリアは可笑しそうに笑い声を上げる。

「それは災難ね。私のルームメイトは、例の謎めいた緑の髪のイナラよ」

 ライダーが唐突に足を止め、その表情を強張らせる。

「イナラ? あの門のところにいた娘ですか?」

「ええ、そうよ。どうしたの? 彼女が何か?」

 ソーラー・ストーンのアーチが作る影に身を隠しながら、ライダーは周囲を警戒して声をひそめる。

「さっきの小一時間、男子寮の連中から色々と情報を仕入れていたんです。どうやら彼女、この学園では凄まじい有名人だそうですよ。武術科では無敗を誇る不動のトップで、座学の成績も文句なしの首席。けれど……彼女にまつわる噂話が、本気で悪辣なんです」

「噂?」

 アウレリアは肩をすくめる。

「一体どんな噂なの?」

「彼女は不吉の象徴だと噂されています」

 ライダーは紫の瞳に真剣な色彩を宿し、静かに囁く。

「近づきすぎた者は、全員が無惨で不可解な死を遂げると言われているのです。瞳を覗き込めば魂が呪われ、あの奇妙な緑の髪は、シャドウ・フィエンドの血を引く魔物の証拠だ、と」


 シャドウ・フィエンド――。

アウレリアの頭に記憶が蘇る。古代の戦争を生き延び、世界の果てに独自の暗黒領を築いて支配する、極めて高い知性を持つ魔族の一種だ。

「それで、ここにいるエリート学生たちは、そんな迷信めいた戯言を本気で信じているわけ?」

 呆れたように頭を振る。

「大陸一の知性が集まる場所のくせに、これじゃあ怯える子供と変わらないわね」

「完全に根も葉もない噂とも言えないのです、船長」

 ライダーは眉を寄せる。

「というのも、実際にいくつかの不可解な事件が起き、記録に残っているからです」

「教えてちょうだい」

「先月のことです。人文学科の女子学生がイナラと仲良くなろうと、お菓子のカゴを贈りました。その四日後、立ち入り禁止の森の奥で、凶暴な魔獣に食い荒らされた無残な遺体が発見されたのです。さらに一年前には、入学式でイナラと握手をした高名な貴族の跡取り息子がいました。彼は翌朝、研究の尖塔の頂上から落下して命を落としたのです。他にも不審な事例は数多くありますが、この二件は確実に事実です」


 アウレリアの顔から笑みが消え、冷徹な分析者の表情が戻る。

「なるほど、それで彼女を『呪われた化け物』に仕立て上げたのね。実につまらないわ。少し頭を使えば、そんな不吉とイナラを結びつけるのが馬鹿げていると分かるはずよ。そもそも森は立ち入り禁止で魔獣が巣食っているのだから、女子学生が自業自得で入り込んだのが原因。塔から落ちた少年については、自殺かもしれないし、事故かもしれない……あるいは、もっと底の知れない悪質な何かが裏にあったのかもしれないわ」

 ライダーは合点がいったように彼女を見つめる。

「誰かが意図的にこれらの事件を仕組んでいる、と?」

「ほぼ間違いないわ」

 アウレリアは金色の瞳を険しく細める。

「誰かがわざわざ手を下してイナラを孤立させ、悲劇的な事故を呪いのせいに見せかけている。問題は、なぜそんなことをするのか。他人を彼女から遠ざけて、何を得ようとしているのかしら」

「分かりませんね」

 ライダーは低く唸る。


 中央図書館の側を通り過ぎる時、アウレリアは周囲の女子学生たちが、頬を染めてライダーを見つめていることに気づく。

 長く滑らかな金髪と印象的な紫の瞳を持つ彼は、嫌でも人目を引く美貌の持ち主だ。

 だが本人は、注がれる熱視線に全く頓着していない。

 アウレリアはうんざりしたように溜め息をつく。

 あの髪……絶対に切らせなきゃ。

 今回は難攻不落の金庫室に忍び込み、秘宝を奪い返すために来ているのだ。

 相棒がのぼせ上がった令嬢たちを引き連れて歩くなど、最も避けたい事態である。


 文句を言おうとした瞬間、事務棟の階段を降りてくる二つの姿が視界に入る。

 一人は、特徴的な赤茶色の髪をした十四歳の少女で、尊大に顎を上げている。

 その隣には、同じ髪色をした十五歳の少女がいて、重い革鞄を持たせた貴族の少年たちを引き連れて笑っている。

 アウレリアの瞳が、突如として恐怖に凍りつく。

 エヴリンとクラリッサ!


 ライダーが言葉を発するより早く、アウレリアは爆発的な力を発揮する。

 彼の大きな襟首を掴んで強引に石柱の影へと引っ張り込み、同時に大きな手で彼の口を塞ぐ。

 自らの背中を冷たい石柱に押し当て、息を殺す。

「んぐっ!?」

 ライダーは目を丸くして困惑する。

「静かに!」

 アウレリアは鋭く囁き、狂ったように高鳴る胸を抑える。

 嘘でしょう!?

 私の運の悪さは、どこまで底知れないの!?


 柱の陰から慎重に様子を窺うと、二人の異母姉妹が通り過ぎていくのが見える。

 彼女たちはカッシア王妃の娘であり、アウレリアとは外見的な共通点がほとんどない。

 姉たちの姿が完全に消えたのを見届け、アウレリアは安堵の息を吐き出してライダーを解放する。

「もし見つかったら、完全に破滅だったわ。彼女たちは一目で私だと気づき、すぐにカッシア王妃へ報告するでしょう。そうなれば、数日もしないうちにアリステアの近衛兵が押し寄せて、宝物を手に入れる計画は台無しよ」

 ライダーの表情が一瞬にして冷徹な殺意で満たされる。

 手がサーベルの柄に置かれ、紫の瞳が暗く輝く。

「ご心配なく、船長。あの娘たちが危険をもたらすというなら……永久に沈黙させましょう」

 アウレリアは思わず吹き出し、彼の腕を叩く。

「忠誠心はありがたいけれど、絶対に駄目よ。学園内で王の嫡女を暗殺するなんて、狂気の沙汰だわ」

「では、どうなさるのです?」

「変装が必要ね」

 彼女は即座に決断を下す。


 アウレリアは彼を女子寮に近い学園の西の境界へ連れ戻す。

 猫のようなしなやかさで石壁をよじ登り、開いたままの窓から部屋へ滑り込む。

 数分後、彼女は鞄から取り出した肩までの金髪のウィッグを被り、正面玄関から出てきた。

 ライダーの前で、わざとらしく大げさなポーズを取ってみせる。

「さて、我が騎士殿? いかがかしら?」

 ライダーは彼女を見つめ、優しく微笑んだ。

「実に見事です、船長。とてもよく似合っていますよ」

「ありがとう」

 アウレリアはウィッグの毛先を整えながら、いたずらっぽく微笑む。

「ですが、船長……」

 ライダーは彼女の荷物箱を持ち上げて尋ねる。

「髪を染めるのでは駄目なのですか? ウィッグよりも安全だと思いますが」

 アウレリアはがっくりと肩を落とした。

「染め粉がないのよ、ライダー! こんな警備の厳しい軍事アカデミーのど真ん中で、カッシアの毒蛇みたいな娘たちと出くわすなんて、計画に入っていなかったんだもの」


 午後、二人は専攻科を選択するために学術登録所へと足を運んだ。

 担当者から、学園が誇る精鋭学科のリストを渡される。

 アウレリアは紙面に目を通し、最上段を指差した。

「武術科。私は戦闘技術を鍛えたいわ」

 だが、ライダーは異なる選択肢を指した。

「私は商業・交易科にします」

 アウレリアは意外そうに彼を見つめる。

「商業? てっきり私と一緒に武術科を選ぶと思っていたわ。あなたはあれほど優れた剣士なのに」

「剣の技術なら、すでに極めていますからね」

 ライダーは自信に満ちた余裕の笑みを浮かべた。

「学園の教官から学ぶべきことはありません。しかし商業は……極めて実用的です。船長がいつかご自身の海賊艦隊を築くとき、交易法や荷物の流通、港湾の交渉を理解している人間が必要になります。私があなたのクォーターマスターになりましょう」

 アウレリアの胸に、温かい感謝の気持ちが広がっていく。

「ありがとう、ライダー」

 二人は夕食後、秘密の金庫室の捜索を開始するため、図書館の近くで待ち合わせる約束を交わした。

 人混みをかき分け、それぞれ割り当てられた教室へ向かいながら、これから始まる挑戦に向けて気持ちを引き締めた。

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