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第七章 海賊殺しの帰還

翌朝、アウレリアの目は薄紫の濃い隈に縁取られていた。

 共同の洗面台で顔を洗いながら、水鏡に映る疲れた自分を見つめる。

 周囲では、他の侍女たちが髪をピンで留め、エプロンを整えながら、慌ただしく一日の準備を進める。

 動作の鈍いアウレリアに気づいた年長の侍女が、からかうような優しい笑みを浮かべて近づいてきた。

 侍女の手が伸び、アウレリアの耳元からこぼれた黒髪を器用にピンで留めた。

「おやまあ、大変。ひどい顔よ。この屋敷の幽霊にでも一晩中たたき起こされていたの?」

 秘密の部屋と謎の囚人の生々しい記憶が脳裏をよぎり、アウレリアは力なく苦笑した。

「その……。まだ新しい場所に慣れていなくて」

 侍女の目が母性的な温かさで和らぐ。

「よしよし、かわいそうな子猫ちゃん!」

 ――子猫?

 眉が動く。

 好機だ。

 表情を繕い、好奇心に満ちた瞳で年長の侍女を見上げる。

「ありがとうございます。あの、訊いてもいいですか? ここに来た時、中庭で素晴らしい噴水を見たんです。水がとても高く噴き出していましたけれど、あれは……魔法ですか? あんなの初めて見ました」

 侍女たちは楽しそうにクスクスと笑い声を漏らす。

「ここは魔法なんて使わないわよ、あなた」

 最初の侍女が首を横に振る。

「あの噴水ね、セバスチャン様が大陸の最南端から珍しい光る石を持ち帰ったらしいの。ソーラー・ストーンって呼ばれていて、昼の間に太陽の熱を蓄えて、水を組み上げるポンプにエネルギーを送るんだって。南方の技術なんですって」

 ソーラー・ストーン――。

 アウレリアの頭脳がその情報を素早く記録する中、緑の大陸の技術力は、停滞したカラドリアの封建的な魔法などを遥かに凌駕するほど進んでいるのだと、彼女は改めて実感せざるを得なかった。

 さらに問いかけようとした瞬間、洗面室の重い木製の扉が勢いよく開け放たれた。

 閾口に立っていたのはゲイブル夫人だ。ずんぐりした体躯を怒りで真っ赤に震わせている。

「いつまでそこで油を売っているつもりかい、この怠け者ども!」

 湿った石壁に、金切り声が反響する。

「仕事は勝手に終わらないんだよ! 二分以内にそれぞれの持ち場に着きな。さもないと、あんたたちの給料を私が直々に削ってやるからね!」

 扉が激しく叩きつけられた。

 侍女たちは大慌てで制服を整え、急いでキャップをピンで留めると、アウレリアの手を引いて部屋から飛び出していく。

 午前中、アウレリアは屋敷の決まった作業の手順を体に馴染ませていく。

 幸いなことに、他の侍女たちがさりげなく彼女の不慣れなミスを補ってくれた。暴君である家政婦助手への、小さな無言の反抗だ。

 作業を続けながら、アウレリアは屋敷に奇妙な緊迫感が満ちているのに気がつく。

 使用人たちの動きはいつも以上にせわしなく、どこか興奮を帯びている。

「エリン」

 先ほどの先輩侍女が、思考を遮るように声をかけた。

「西棟の突き当たりにある小さな図書サロンの掃除をしてきてちょうだい。今夜、大切なお客様がいらっしゃるの。埃一つ残さないようにね」

「ただちに、奥様」

 アウレリアは返事をしながら、胸の内で期待の火花が散るのを感じる。

 ブラシ、ダスター、それに艶出し剤の入ったバケツを抱え、入り組んだ廊下を進んで、あの重い黒い扉へとたどり着く。

 これこそが好機だ。

 滑り込むように中へ入り、背後で静かに鍵をかける。

 袖をまくり、短い黒髪が邪魔にならないよう後ろでまとめると、本棚の向かいにある滑らかな漆喰の壁へ歩み寄る。

 拳で軽く叩き、冷たい漆喰に耳を押し当てる。

「海賊さん?」彼女は囁いた。「起きている?」

 長い沈黙の後、反対側から掠れた、弱々しい声が返ってきた。

「ここには近づくなと警告したはずだぞ、小娘。それほど死にたいのか」

 アウレリアの唇が、勝ち誇った笑みに歪む。

「私はただ、仕事をしているだけですわ。でもご心配なく。近いうちにあなたをここから出してあげますから」

囚人は鼻で笑うような、掠れた唸り声を漏らした。

「なぜ俺の身を案じる? 本気で逃げる気なら、こんな鎖などいつでも引きちぎれる。お前のような小娘が首を突っ込んでいい問題ではない。セバスチャン様がどれほど恐ろしく、常軌を逸した力を持っているか、何も知らないのだろう」

アウレリアは壁を見つめ、眉をひそめた。

海賊殺しとは、それほどの手練れなのか。

早めに行動を起こすべきかもしれない。

セバスチャンが不在の今のうちに脱出の手筈を整えれば、奴と直接対峙する危険を完全に回避できる。

私はもう海賊なのだ。

いや、そうなるのだと心に決めている。

同業者を救い出すのは、そのための初仕事として申し分ない。

何より、不可能に抗うという危険な興奮が、彼女の血を沸き立たせている。

――ふう。

突然、温かい吐息が耳元をくすぐる。

アウレリアは息を呑み、心臓が跳ね上がる。

長年の暗殺の危機を切り抜けて培われた本能が、即座に肉体を突き動かした。

身を翻すと同時に、手にした重い木製の箒をハルバードのように薙ぎ払い、柄の先端を侵入者の鼻先わずか一インチのところでぴたりと止めた。

「何者だ!」

息を切らしながら問い詰める。

動揺を隠せなかった。

アウレリアはソリス城での過酷な暗殺の危機を切り抜ける中で、気配を察知する超人的な感覚を培ってきた。

にもかかわらず、この男は音もなく忍び込み、完全に背後を取っていたのだ。

侵入者は三十代前半の、整った容姿の男だった。短く整えられた明るい茶髪に、理知的ながらも鋭い青い瞳。仕立ての良い上品な茶色のスーツをまとい、目の前の箒を心から楽しそうに見つめている。

「おやまあ」

男は降伏を示すように両手を上げてクスリと笑みを見せる。

「なんという幸運だ。この陰気で息の詰まる墓場のような屋敷に、息を呑むほど美しい金色の瞳の天使がいるとはね」

天使?

目を細める。

箒の先をわずかに下ろしたものの、防御の構えは崩さない。

「あなたが、今夜到着する予定のお客様ですか?」

男は声を立てて笑い、猫のようにしなやかな足取りでアウレリアの脇をすり抜けると、安楽椅子に深く腰掛けて足を組んだ。

「ああ、ある意味ではね。私はクロード、セバスチャンの親しい友人だ。それで、君は誰かな、愛しいお嬢さん? 見かけない顔だ。私はこの屋敷のあらゆる美しいものを記憶することにしているのだがね」

全員の顔を?

肌に鳥肌が立つ。

おどけた態度の裏に剃刀のように鋭利な知性を隠し持っているこの男は、一瞬の油断も許されない極めて危険な人物であるという警告が、彼女の背筋を冷たく撫でた。

彼女は深くカーテシーをして、従順な侍女を演じる。

「さようですか、旦那様。先日雇われました、見習い侍女でございます」

クロードの笑みが深まり、青い瞳に捕食者のような冷酷な光が宿る。

「教えておくれ、可愛い侍女さん。あの漆喰の壁に、何か面白いものでもあるのかい? まるで宇宙の真理でも隠されているかのように見つめていたね」

箒を握るアウレリアの手に力が入り、指の関節が白く染まる。

しかし顔の筋肉は弛緩させ、無垢な困惑を装う。

「滅相もございません。壁に頑固な汚れがついているのに気づきまして、塗装を傷めずに落とすにはどうすればよいか考えていただけでございます」

「へえ……実に熱心で、働き者の侍女だ」

クロードは楽しげに喉を鳴らし、ひらひらと手を振ってみせる。

「だが、もう気にする必要はないよ。下がっていい」

アウレリアはもう一度一礼すると、掃除道具をまとめて足早に部屋を辞した。

心臓が肋骨を激しく叩いている。

冷酷極まりない父、アリステア王でさえ、これほど息の詰まる不気味な気配は放っていなかった。

――連れがこれほど恐ろしいのなら、海賊殺し本人は一体どれほどの怪物なのだろう。

彼女は足早に厨房へと戻っていく。

サロンに残されたクロードの顔から笑みが消え去り、冷ややかな嘲笑が浮かび上がる。

「どうやら……」

彼は無人の室内に向けて静かに呟き、アウレリアの立っていた場所へ視線を据えた。

「賢い小ネズミが、我々の門をすり抜けて入り込んだらしい」

しばらく壁を見つめ、暗い笑い声を漏らす。


***


 夕方近くになると、屋敷全体の空気が急激に張り詰め始める。

 執事とゲイブル夫人が廊下を歩き回り、ヒステリックに命令を飛ばしては、すでに完璧に磨き上げられた場所を執拗に再掃除させた。

 日没の直後、アウレリアは夕食の下準備を手伝うために厨房へ滑り込んだ。

そこでは料理人や下働きたちが、不安と興奮に身を震わせている。

彼女は隣の侍女の脇腹をそっとつつく。

「どうしてみんな、こんなにそわそわしているの?」

「えっ、エリン、知らないの?」

その少女は目を丸くして囁き返した。

「セバスチャン様の旗艦が外港を通過したのよ! 明日の朝ではなく、今夜到着するんですって! あと一時間もしないうちにお戻りになるわ!」

――なんと……。

アウレリアの胃の腑が冷たく凍りつく。

まずい。

今夜、静まり返った隙を見計らって囚人を逃がすつもりだったのだ。

予定より早い帰還は、計画を根底から覆す。

野菜を刻みながら、必死に思考を巡らせる。

様々な逃走ルートや代替案を頭の中で組み立てるが、クロードが徘徊するこの状況では、軽率な行動は命取りになりかねない。

今は時期を待つべきだ。

脱出を成功させるには緻密な計算が不可欠であり、行き当たりばったりの幸運に賭けるわけにはいかないのだ。

ついに馬車が正面玄関に到着した時、屋敷の使用人一同は赤い絨毯が敷かれた階段の両脇に、静まり返って整列している。

四頭の漆黒の駿馬に引かれた、重厚な黒塗りの馬車が停まる。

護衛が扉を開け、背の高い、圧倒的な存在感を放つ男が姿を現した。

端正で貴族的な顔立ちに、射抜くような黒い瞳。

額に数筋の髪を遊ばせた、手入れの行き届いた短い黒髪。

深夜の闇を思わせる上質な漆黒のダブルスーツを着こなし、右手には磨き抜かれた純白のステッキを携え、石段を規則的に叩きながら、優雅かつ威圧的な足取りで歩を進めてくる。

アウレリアは頭を下げたまま、しかしどうしても好奇心を抑えきれずに視線を盗み走らせた。

黒髪。

瞳が追う。

「お帰りなさいませ、旦那様」

使用人たちが声を揃えて一礼した。

セバスチャンはその暗く冷ややかな眼差しを群衆に向けた。

そして、アウレリアのところでその視線がぴたりと止まる。

この地域の淡い色の髪をした使用人たちの中で、彼女の艶やかな黒髪と輝く金色の瞳はあまりにも異彩を放っている。

セバスチャンが足を止め、彼女を見下ろす。

息の詰まるような重い視線に晒され、アウレリアの背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。

耳の奥で、激しい鼓動が鳴り響く。

――気づかれたか?

誰かが密告したのだろうか。

それとも、カラドリア王家の記録で私の顔を見たことがあるのか。

「セバスチャン! おかえり、我が友よ!」

クロードの陽気で大きな声が、凍りついた沈黙を打ち破る。

軽快な笑みを浮かべて歩み寄ると、セバスチャンの肩に腕を回し、耳元で何かを囁く。

セバスチャンの目がわずかに細められた。

彼は低く「ふむ」とだけ呟き、アウレリアから視線を外すと、そのまま歩みを進めた。

クロードが足を止め、悪戯っぽい笑みを執事に向けた。

「ディナーの後、あの金色の瞳の新しい侍女を、セバスチャンの書斎へ向かわせるように」

鼻歌を交じりに呟き、クロードは主人の後を追う。

アウレリアの全身を、氷のような絶望感が満たした。

あらゆる本能が、今すぐ逃げろと、中庭の壁を飛び越えて夜闇に紛れろと叫んでいる。

だが、門を越える前に捕まるのは明白だ。

セバスチャンは強大すぎる。

無謀な逃亡は自ら罪を認めるようなものだ。

――立ち向かうしかない。

彼女は奥歯を噛み締めた。

完璧に演じきってみせる。

そして機が熟したその時には、この屋敷を根こそぎ叩き壊してやる。

食事の後、執事が冷ややかな無表情で近づいてきた。

「指示は聞いたな。書斎へ行け。ただちにだ」

アウレリアは深く息を吸ってエプロンドレスの裾を綺麗に整えると、薄暗い回廊を静かに進み、行く手を阻むようにそびえ立つ重厚なマホガニーの扉の前に立ち、ゆっくりとノックをした。

「入れ」

低く滑らかな声が響き渡る。

ノブを回して一歩足を踏み入れた瞬間、アウレリアはその光景に息を呑み、立ち尽くした。

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