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第六章 真紅の絹と鉄の鎖

静寂が満ちていた。

 アウレリアは、厳格な執事の背中を追って石造りの巨大な邸宅へと入る。

 男の背中からは、周囲を威圧するような冷ややかな空気が常に漂う。

 彼はアウレリアを勝手口の狭い使用人用の入口へと案内し、華やかな表玄関を見せようとはしない。

 それでも、広大な庭園と、中央の中庭で勢いよく水を噴き上げる巨大な大理石の噴水を、隙間から垣間見ることには成功する。

 アウレリアは勢いよく湧き出す水を見つめながら、あれほど高く水を押し上げる装置の仕組みについて、魔術によるものか、それとも高度な工学技術の産物なのかと思いを巡らせた。

 執事は彼女を、簡素で清潔な執務室へと案内した。

 机の上に数枚の羊皮紙とインク瓶、そして羽根ペンを並べ、氷のように冷たい視線でアウレリアを射す。

「お前で今週五人目だ」

 抑揚のない、平坦な声だった。

「忠告しておく。もしセバスチャン卿の身近に仕えたいなどという愚かな幻想を抱いているなら、今すぐ立ち去るがいい。前の愚か者たちと同じようにな」

(セバスチャン卿――)

 アウレリアは心の中で繰り返す。

 それがあの伝説の貴族の名前というわけだ。

 女性たちがこぞって仕えたがるほど、容姿端麗な男なのだろうか。

 実につまらない話である。

 アウレリアは殊勝に頭を下げ、従順な表情を繕う。

「旦那様、私はただ働くために参りました。くだらない恋愛沙汰に興味も時間もございません」

 執事は嘘を見破ろうとするかのように、冷淡な目で彼女の顔を値踏みした。

 張り詰めた沈黙が流れた後、彼はかすかに満足そうに頷く。

「よろしい。ここに身元を記入しろ。まずは見習いとして雇う。給金は働き次第だ」

 アウレリアは羽根ペンを受け取って羊皮紙に記入を始め、名前だけは本名を書きつけたものの、それ以外はすべて慎重に練り上げた作り話で固めていった。

『海賊殺し』ほどの権力者が、下っ端の使用人の身元調査など行うのだろうか。

 おそらく、するはずだ。

 慎重に行動しなければならない。

 過酷な日課について説明を受けた後、アウレリアは執務室を退室した。

 丁寧に一礼し、静かにドアを閉める。

 ふかふかの絨毯が敷かれた長い廊下を進んでいくと、足元に広がる鮮やかな深紅と、大きな窓から斜めに差し込む白い光とが、はっとするほど美しいコントラストを描き出していた。

「そこの新入り。ぼんやり突っ立っていないで動きなさい。洗濯物は勝手に綺麗にはならないよ」

 声をかけてきたのは、家政婦長の助手であるゲイブル夫人。

 常に不機嫌そうに顔をしかめている太った気難しい女性で、アウレリアを見た瞬間から敵意をむき出しにしている。

 湿気と熱気に満ちた洗濯室に足を踏み入れた途端、何人かのメイドたちがいっせいに好奇の視線を向けてきたが、漆黒の髪に金色の瞳という珍しい組み合わせは、どこへ行ってもどうしても人目を引いて目立ってしまうのだった。

 視線を無視し、アウレリアは汚れたリネンが山積みになった巨大な木樽へと向かう。

 重いシーツをごしごしと擦り洗いしながら、心の中で悪態を呟く。

(何よ、あの態度は。一言も話していないのに、追い出したいっていうの? お生憎様ね!)

 ケーレンの船での数々の失敗が頭をよぎる中、手元が狂い、石床の上に泡立った水をぶちまけてしまう。

 床は氷のように滑りやすくなっていたが、背後からゲイブル夫人の重苦しい足音が近づいていることには気づかない。

 次の瞬間。短い悲鳴。濡れた床に、何かが激突する鈍い音が響いた。

 洗濯室全体が静まり返る。

 アウレリアの真後ろで、ゲイブル夫人が無様にひっくり返っている。

 他のメイドたちは手を止め、目を丸くしてその光景を見つめる。

(あら、大変)

 アウレリアは慌てて口元を押さえる。

 ゲイブル夫人の顔は怒りでみるみる紫色に染まり、胸を激しく上下させて激昂している。

 怒声が飛ぶ。その前に、アウレリアはブラシを放り出し、出口へ走り出した。

「厨房の手伝いに行ってきます!」

 彼女は洗濯室を飛び出す。

 背後から響く夫人の狂ったような絶叫を無視して、廊下を全力で駆け抜けた。

 何人かのメイドは笑いをこらえるために唇を噛みしめ、残りの数人が慌てて床でじたばたしている夫人を助け起こす。

 当然、ゲイブル夫人がこれを不問に付すはずもない。

 その日の残りの時間、彼女はアウレリアに次々と過酷な雑用を押し付け、一瞬の休息すら与えようとしない。

 他の使用人たちは、疲弊しきった新入りの少女に同情の視線を送るばかり。

 夜になり、アウレリアは擦り切れた人形のように、硬く小さな簡易ベッドへと倒れ込んだ。

「あの女は悪魔よ……間違いなく、頭に角が生えてるわ」

 枕に顔をうずめながら、アウレリアは恨めしそうに唸る。

 仕事を終えた他のメイドたちが部屋に戻ってくると、今日起きた珍事について噂話を始めた。

 会話は自然と、セバスチャン卿を賛美する内容へと移っていく。

 彼が現在は帝国の公務で不在であり、数日中に戻る予定であるという情報も耳にした。

 やがて疲労に耐えかねて全員が眠りに落ち、アウレリアも深い眠りへと引き込まれる。

 夜中、アウレリアは突如目を覚ました。

 微かな音が眠りを破ったのだ。

 屋敷は静まり返り、不気味で重苦しい闇に包まれている。

 アウレリアは思わず小さく身震いした。実は幽霊というものが大の苦手で、こんな暗く広い豪邸は、ただそこにあるというだけで、何か呪われているかのように感じられてならないのだ。

 再び眠りにつこうと固く目を閉じてみるが、その静けさを破るようにまたあの音が響いてきて、それは低く、腹の底から絞り出されるような、苦しげな呻き声だった。

(誰かが苦しんでいるんだわ)

 恐怖よりも、状況を確かめたいという本能のほうが勝り、アウレリアは夜の冷気から身を守るために古びたウールのショールを肩へ羽織ると、裸足のまま静かに部屋を抜け出した。

 冷たい石床を裸足で静かに踏みしめながら歩いていくと、誰もいない廊下は深い闇の中をどこまでも果てしなく続き、長く伸びた自分の影が、まるで背後からじわじわと忍び寄ってくるかのように感じられた。

 壁に背を預け、ショールを胸の前で固く握りしめながら、いくつもの閉ざされた扉の前で順に耳を澄ませて進んでいくと、廊下の突き当たりの目立たない場所に、不気味な黒い扉をひとつ見つけた。

 呻き声はここから聞こえる。

 微かではあるが、そこには明らかな苦痛が満ちている。

 好奇心に抗えず、アウレリアがそっと扉を押し開けると、小さなきしみ音を立てて開いたその先には、本棚と机、そして三脚の木製椅子が雑然と並ぶだけの、簡素な書斎が広がっていた。

 細い窓から、星の光がかすかに差し込んでいる。

 その時、再び呻き声が耳に届く。

 驚くほど近くで聞こえるが、この部屋には誰もいない。

 アウレリアは書棚の向かいにある壁に近づき、漆喰の壁に耳を押し当てた。

 聞こえてきた声。全身の血が、逆流した。

「相変わらず強情な男だ」

 執事の冷酷で威嚇するような声が壁越しに響く。

「白状してこの苦痛から逃れればよかろう。それほどの地位にある海賊でありながら、誰も助けに来ないのだぞ。見捨てられた相手に忠義を尽くして何になる。宝のありかを吐け」

 かすれた、苦しげな笑い声が応じた。

「お前は本当にうるさいな。黙れ」

 鋭い鞭の音。押し殺した悲鳴。

「今夜は頭を冷やすといい」

 執事の冷酷な言葉が壁の向こうで響く。

「だが、すぐに白状することになる。セバスチャン卿が数日中に戻られるのだ。残された時間を楽しむがいい」

 重い鉄の扉が閉まる。鍵の、回る音。

 アウレリアはその場に立ち尽くしたまま、頭の中を様々な考えが目まぐるしく駆け巡っていくのを、ただ呆然と感じていた。

 この壁の裏に、秘密の拷問室があるというのだろうか。

 闇の中で、囚人の荒い息遣いだけが響いている。

 すると突然、壁の向こうからかすれた声が響き、アウレリアは身体を強張らせる。

「壁の向こうに誰かいるな。誰だ」

 息を呑み、アウレリアは周囲を見回してから、壁に向かって囁き返した。

「新入りのメイドよ。アウレリアというの。あなたこそ誰?」

 しばらく沈黙が流れた。

 やがて、男が力なく笑う。

「部屋に戻るんだな、小娘。余計な好奇心は、自分の墓穴を掘るだけだぞ」

 アウレリアは小さく笑い声を漏らす。

「何がおかしい」

 囚人が不審そうに尋ねる。

「だって、滑稽なんですもの」

 アウレリアは面白そうに囁き返す。

「『海賊殺し』ほどの高名な貴族が、重要人物を本邸の隠し部屋なんかに閉じ込めておくなんて不自然だわ。普通なら厳重な地下牢に入れるはず。なぜ普通の書斎のすぐ裏なの?」

 男は沈黙を守る。

「罠かもしれないわね」

 アウレリアは状況を分析するように推理を展開していく。

「あなたが名のある海賊の重要人物なら、あえて侵入しやすい本邸に捕らえておくことで、仲間を救出におびき寄せる格好の餌になる。助けに来た仲間を一網打尽にするための罠よ。あるいは、新入りの使用人からスパイを洗い出すためのテストかもね」

 そこまで言って、アウレリアは背筋が凍るような感覚に襲われた。

 もしこれがスパイを捕らえる罠で、自分がこうして壁に向かって囁き合っているとしたら、とんでもない窮地だ。

「戻って寝るんだな」

 男の口調が少し和らぐ。

「今夜は何もなかった、いいな」

「もう遅いわ」

 アウレリアは引き下がらない。

「なぜあなたがここに捕らわれているのかを聞くまでは、動くつもりはないから」

 男は重いため息を漏らす。

「俺の言う通り、俺は海賊だ。そこそこ名の知れた一味でな。船長が秘宝の収集に執念を燃やしていたおかげで、莫大な富を築いていたからだ。だが、その富が『海賊殺し』の目を引いてしまったらしい。奇襲を受けた。俺たちは弱くはなかったが……あいつは化け物を解き放った。血のように赤い髪をした、あの少女をな」

 男は言葉を濁らせ、暗い影を漂わせる。

「逃げようと思えば逃げられた。だが、俺にはもう生きる目的がない。だから鎖に繋がれてもどうでもよかったのさ」

 アウレリアの好奇心は最高潮に達した。

 血のような赤髪の化け物少女。

 そして、生きる意欲を失った海賊。

「あなた、とても面白い人ね」

 アウレリアの唇が、不敵で大胆な笑みに歪む。

「決めたわ。あなたをここから助け出してあげる」

 壁の向こうの囚人は答えなかったが、アウレリアには関係のないことだ。

 一度決意したからには、何者も彼女を止めることはできない。

 書斎を抜け出し、使用人たちの区画へと戻ろうとする。

 しかし数分も歩かぬうちに、彼女は立ち往生し、同じような暗い石廊下を見回して絶望する。

(最悪だわ、完全に迷子になった!)

 その時、廊下の奥から温かく輝く光が現れ、宙をゆっくりと漂ってきた。

 アウレリアの心臓が喉から飛び出そうになる。

 膝が抜けた。その場に崩れ落ちる。両手で顔を覆い、固く目を閉じた。

(幽霊だわ! やっぱり呪われているんだ! 誰か助けて!)

「こんな時間に、廊下で一体何をしているんだい」

 アウレリアは恐る恐る目を開ける。

 目の前に立っていたのは、真鍮のランタンを掲げたゲイブル夫人。

 温かい光に照らされたその冷酷な顔が、恐怖に怯える元王女には、まるで救いの天使のように見えた。

「ゲイブルさん!」

 アウレリアは叫び、なりふり構わず夫人の腰にしがみつく。

「お手洗いに行こうとしたのですが、完全に迷ってしまって! 廊下が暗くて、本当に恐ろしいのです!」

 ゲイブル夫人は訝しげに眉を寄せ、見下ろした。

「使用人部屋の区画内にも、立派な洗面所があるだろう、この唐変木め」

 アウレリアは冷や汗を流す。

(しまった、失念していた!)

 大慌てで純粋無垢な困惑の表情を作る。

「えっ……本当ですか? 全く知りませんでした!」

 夫人は忌々しそうに鼻を鳴らし、アウレリアを突き放した。

 そして冷たい床にひざまずかせ、規則と規律、そして知性についての一時間に及ぶ説教を始めた。

 ようやく解放された頃には、アウレリアの脚は限界に達している。

 毛布に潜り込み、敗北感に打ちひしがれながら木製の天井を見つめた。

(やっぱり、あの人は悪魔だわ)

 彼女はそっと目を閉じた。

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