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第五章 過去の囁き

傷だらけの空を引き裂くように雷鳴が轟き、逃亡者たちの進むぬかるんだ泥道を白く照らし出す。

「急いで、いい子だから、あと少しよ」

 雨の中、息を切らした女が喘ぐように叫ぶ。

 我が子の手を固く握りしめ、泥水を跳ね上げながら、遠い港を目指して土砂降りの中をひた走る。

 暗い木立ちの奥から、鋭い風切り音が響く。

 豪雨を切り裂いて放たれた金属の矢が、幼い少女のふくらはぎへと深く突き刺さる。

 悲鳴とともに泥の中へ崩れ落ちる彼女の、その美しい金の瞳に、みるみるうちに涙が溢れだす。

「本気で主人から逃げ延びられるとでも思ったか」

 闇の中から浮かび上がったのは、追手の首領の冷酷で嘲るような笑み。

 絶望に染まった母親は、泣き叫ぶ娘をさらに強く抱きしめ、身を震わせる。

「二度と戻らない……たとえここで殺されようとも」

 男が一歩歩み寄り、冷たい鋼の長剣を鞘から滑らせる。

 鋭い剣先が、幼いアウレリアの喉元に押し当てられた。

「ならば大人しく従え。お前の協力次第で、その娘の命をあと数年は引き延ばしてやれるかもしれん」

「離して!」

 母親の腕の中で暴れながら、アウレリアは絶叫した。

「あいつの言うことを聞いちゃダメ、お母様、逃げて」

 愛娘の喉に突きつけられた刃を見つめ、母親の抵抗する意志は崩れ去る。

 力なく肩を落とし、敗北を受け入れるように頭を垂れた。

 足元のおぼつかない様子でゆっくりと立ち上がり、黒い外套をまとった男たちの方へと歩みを進める。

 あまりにも容易い屈服に、首領は退屈そうに鼻を鳴らした。

「興醒めだな。追いかけっこにもならん」

 彼はアウレリアを容赦なく突き飛ばすと、その勢いのまま剣を突き出し、母親の心臓を正確に狙い定めた。

 役に立たない子供など、最初から生かしておくつもりはなかったのだ。

 だが、男は母親の執念を甘く見すぎていた。

 最後の力を振り絞り、母親はアウレリアを庇うように自らの身体を刃の前に投げ出す。

 鋭い鋼が胸を深く貫き、溢れ出た鮮血が激しい雨と混ざり合って流れていく。

 土へと染み込む真紅のシミを洗い流そうとするかのように、雨脚はいっそう強まる。

 鼓膜を破らんばかりの激しい落雷が、幼い少女の切り裂くような絶叫をかき消した。

「嫌! お母様!」


――


 跳ね起きると同時に、肺が狂ったように空気を求めて喘いだ。

 頬は涙で濡れそぼっている。

 狂ったような動悸が収まるまでに、しばらくの時間を要した。

 混乱しながら周囲を見回す。

 身を横たえていたのは、清潔な白いシーツが敷かれた、柔らかく温かいベッドの上だった。

 砕けて激痛を訴えているはずの左肩は、嘘のように何ともない。

 見下ろすと、ゆったりとしたリネンの白い寝間着をまとっている。

 胸――。

 焦燥に駆られ、自分の襟元に慌てて触れる。

(晒しがない……!)

 血の気が引くのを感じた。

 船員の誰かに見られたのだろうか。

 正体が暴かれてしまったのか。

 ベッドから這い出ようと床に足をつけた瞬間、激しい目眩に襲われる。

 部屋の揺れが収まるのを待つように、木製の柱を固く握りしめた。

 身体の芯から力が抜け落ちており、何日もまともな食事をしていないかのように体が重い。

 自分の腕を見つめ、左の手首を回してみる。

 完全に治っている。

 痛みも、痣もない。

 脇腹の深い刺し傷さえも消え去り、滑らかな肌が残るのみだった。

(すべて夢だったのかしら)

 いや、そんなはずはない。

 ただ、足元の床は静止しており、船特有の揺れはどこにもない。

 辺りを見渡す。

 そこは、シックな色の床板が敷かれた、こぢんまりとした寝室である。

 正面の壁には大きな鏡が掛かり、窓はブラウンのベルベットの厚手カーテンで閉ざされている。

 強張った体をだましだまし動かして窓辺へ歩み寄り、そのカーテンを開け放つ。

 まばゆい黄金の光が一気に差し込み、思わず顔をしかめて手をかざした。

 光に目が慣れると、窓の外には思わず息を呑むほどの美しい景色が広がる。

 青々とした芝生が絨毯のように広がり、色とりどりの花が美しく咲き誇っている。

 樹齢を重ねた大きなオークの木陰には、品の良いアイアンのテーブルセットが置かれている。

 窓から吹き込む爽やかな風が、松の甘い香りを乗せて、アウレリアの短い黒髪を優しく揺らした。

「ここは一体どこなの」

 アウレリアは呟き、急いで窓を閉めてカーテンを引き直した。

 鏡に向き合って顔を上げた瞬間、そこに映る我が身の姿に凍りつく。

 髪が、本来の艶やかな漆黒に戻っている。

 変装用の染料が綺麗に落ちている。

(体を洗われたんだわ)

 胃のあたりが不快に収縮する。

 あの夜から、何日が経過したのだろうか。

 真実を確かめるべく、裸足のまま静かに部屋を出て、静まり返った廊下を歩く。

 廊下の先にある半開きの扉に近づき、そっと中を覗き込んだ。

 淡い緑色の壁にマホガニーの床板が映える部屋。

 中央には四角い食卓があり、壁際には美しい磁器の並んだ食器棚が見える。

 温かくて幸せな、普通の家庭の雰囲気そのものだった。

 その時、部屋の反対側にある扉が開き、聞き覚えのある声が流れてきた。

「言っただろう、フュージョン草は手で挽くより、すり潰して加えた方がはるかに効果的じゃ」

 しゃがれた老人の声。

「そうね、今度はその方法でやってみるわ」

 温かみのある女性の声。

「ねえ、お昼ごはんはまだ?」

「ええ、もうすぐ――」

 言いかけたローラが、ドアから覗き込むアウレリアの姿を見て硬直する。

 一瞬の静寂。

「アウレリア!!」

 ローラが叫び、飛び上がってアウレリアの首にしがみついた。

 幼いルークも駆け寄り、腰のあたりに抱きつく。

 二人してあまりにも強く締め上げるので、アウレリアは魂が抜け出そうになるのを感じた。

「やめなさい、この馬鹿者ども、息が詰まって死んでしまうぞ」

 白髪で清潔な白衣を着た老人が、小言を言いながら近づいてきた。

 ローラとルークは慌てて身体を離したが、ローラの目には大粒の涙がたまっている。

「ごめんなさい、ただ……嬉しくて」

 涙を拭いながら、ローラはしゃくりあげた。

「やっと目が覚めたのね! もう……戻ってこないかと思ったわ」

 混乱したまま、アウレリアは弱々しく微笑む。

 老医師は真剣でありながらも温かい眼差しで彼女に近づく。

「少しよろしいかな」

 手首をそっと取り、脈を測る老人の動きを、アウレリアは静かに見守る。

 しばらくして、彼は満足そうに頷く。

「信じられん。脈拍は力強く、安定しておる。ここへ運び込まれた時は、臓器不全を覚悟するほどの出血量だったというのに。それが今や完治しておるばかりか、砕けた肩の骨まで綺麗に接合しておる。わずか二週間で、だ」

 信じがたい言葉に、彼女の頭を衝撃が駆け抜ける。

 半月もの間、眠り続けていたというのか。

 もっとも、怪我からの回復の早さそのものについては、幼い頃から人並み外れた奇跡的な治癒力をその身に宿しており、その秘密を誰にも悟られぬよう必死に隠し通してきた彼女にとって、決して完全に予想外の事態というわけではなかった。

 老人は温かい笑みを浮かべた。

「まずは自己紹介だな。私はパーセル、このヒールシェアで医師をしておる」

(ヒールシェア――)

 治癒の郷とは、安息の地にふさわしい名前だ。

「私たちは今、どこにいるの?」

「緑の大陸よ」

 ローラが再び涙を浮かべて答えた。

「二週間も意識が戻らなかったのよ、アウレリア、本当に怖かった」

 パーセル医師が静かに笑う。

「全くだ。ケーレン船長がお前さんを我が家に担ぎ込んできた時は、ほとんど死体も同然だった。生き延びたのは奇跡としか言いようがないな」

 反射的に手を伸ばし、ローラの肩を掴んだ。

「ケーレンは? あの船はどこ?」

「弟なら、交易の仕事で再び出航しましたよ」

 湯気の立つシチューのトレイを手にした女性が、部屋に入りながら答えた。

 四十代後半ほどの優雅な女性で、豊かな茶髪を上品なお団子結びにまとめ、緑色の瞳には母親のような温かい光を宿している。

 その言葉に、アウレリアは眉をひそめた。

 ケーレンは二十代だ。彼女は四十代後半に見える。どういうことだろう。

 困惑するアウレリアの表情を察して、ローラが微笑みかける。

「ジュリア様はケーレン船長のお姉様で、パーセル先生の奥様なの。私たちの面倒を見て、あなたの命を救ってくれたのよ」

 アウレリアはすぐに前へ進み出て、礼儀正しく優雅に一礼した。

「お二人のご親切とご加護に、心より感謝申し上げます」

 ジュリアは優しく微笑み、トレイを置いてアウレリアを椅子に座らせる。

「まずはスープをお飲みなさい。体力を戻さなくてはね」

 食事をはじめ、アウレリアが旨味の凝縮されたスープを口に含むと、眠っていた食欲が一気に爆発した。

「あの、訊いてもいいかしら。トビーはどうなったの?」

 その名を聞いた途端、ローラは硬直した。

 スープ皿を見つめるローラの顔から血の気が失せていく。

 ごくりと息を呑み、その両手は微かに震えていた。

「ケーレンが……発つ前に、厳しい処罰を」

「処罰?」

 アウレリアは鼻で笑い、金の瞳を鋭く光らせる。

「あの野郎なら、全身の骨を砕かれて当然だわ」

 ローラには、その真実を口にする勇気など持ち合わせていない。

 数日前、船内でケーレンを探していた彼女は、暗い船倉で船長がトビーを拷問している現場を偶然目撃してしまったのだ。

 切り裂かれた声帯、声の出ない絶叫、そして血に染まった床の記憶が、一週間にわたって彼女の悪夢を支配し続けている。

 逆らった者に対するケーレンという男の冷酷さは、底知れぬ恐怖そのものだった。

 それ以来、彼女はあまりの恐怖に、彼とまともに言葉を交わすことすら避けるようになる。

(男の人が本気で怒ると、本当に恐ろしいわ)

 凄惨な光景を胸の奥にしまい込みながら、ローラはただ心の中でそう呟く。

 ローラのただならぬ動揺を察したものの、あえて深くは追求しない。

 代わりに、パーセル医師の押し掛け弟子になったのだと嬉しそうに語るローラの言葉に耳を傾けた。

 ローラとルークが安全に暮らし、このヒールシェアで確かな未来を築いていけるのだと知り、アウレリアの心に深い安堵が広がる。

 その日の夜、ローラとルークが眠りについた後、アウレリアは家主たちの寝室のドアを静かにノックした。

 パーセル医師はふかふかの安楽椅子に腰かけて革装丁の本を読み、ジュリア夫人はその傍らで鮮やかな青いマフラーを編んでいる。

 二人は温かい笑みを浮かべて顔を上げた。

「どうしたの、お嬢さん」

 ジュリアは編み物を脇に置いて尋ねる。

「お二人がしてくださったことには、言葉もないほど感謝しています」

 部屋へと一歩踏み込み、静かに告げる。

「けれど、私はここを出ることに決めました。すでに二週間も無駄にしてしまいましたし、早く旅を始めなければ」

 ジュリアは心配そうに眉をひそめる。

「そんなに急いで? まだ体を休める必要があるわ、いい子だから」

 おどけるように腕の筋肉を見せ、アウレリアは自信に満ちた笑みを浮かべる。

「ご心配なく。体調は万全です。身体はもう十分に動きますから。日の出とともに出発します」

 ジュリアがさらに反論しようとしたが、パーセル医師がそれを手で制し、優しく微笑みかける。

「決意が固いなら、ジュリア、我々に止めることはできんよ。ジュリアン殿下が語っていた通りの娘さんだ」

 なぜ、この見知らぬ異国の医師の口から、最愛の兄の名が飛び出すのか――。

「兄を?」

 パーセル医師は声を立てて笑い、深く頷く。

「もちろんだとも。ジュリアンは私が育てたようなものだからね。彼とケーレンは長年の親友なのだよ」

 老医師は懐かしむように目を細めた。

「あやつはよく宮殿を抜け出しては、ここに立ち寄ったものだ。詳しい話は、彼が王位を継いだ時に直接本人の口から聞くといい」

 その温かい眼差しを見つめるうち、アウレリアの胸の奥に温かいものが広がる。

 ジュリアンは最初からすべてを計画していたのだ。

 ケーレンを頼るように仕向けたのも、彼なら自分を安全なパーセルのもとへ連れてくると信じていたからに違いない。

遠く離れていても、兄は今も自分を見守ってくれている。

 親切な夫婦に挨拶をして、アウレリアは自室へと戻る。

 鞄から使い古した地図を取り出し、ベッドの上に広げると、指先で『緑の大陸』の文字をそっとなぞる。

「海賊になるつもりなら、まずは敵を知らなくてはね」

 アウレリアは静かに呟く。

 少し前、アウレリアはパーセル医師にこの大陸の情勢を尋ねている。

 医師は、このヒールシェアにある強大な貴族が住んでいると警告した。

海を越えてその名を轟かせる『海賊殺し』。

かつての大海戦における伝説的な存在であり、単身で数十もの海賊艦隊を壊滅させ、生き残りを隠遁生活へと追い込んだ男だ。

「海賊殺し、ね……」

 アウレリアの唇が、不敵な笑みに歪む。

「始めるには格好の相手だわ。それほど恐れられる理由を、見極めてやろうじゃないの」

鞄に手を伸ばし、母の形見である『異邦人たち』を取り出す。

枕に背を預け、幾度となく読んできたラテン語の記述に再び目を走らせた。

そこには、雪のように白い髪を持ち、恐るべき超自然的な力を操ると噂される、伝説の隠された種族について書かれている。

彼らは人間たちの目から逃れ、完全なる孤立の中で生きているという。

夜が更けるまで読み進め、やがて朝の光が空を白く染め始める。

ベッドから抜け出し、手早く荷物をまとめると、食卓にローラへ宛てた心からの別れの手紙を残して、静かに家を後にした。

ヒールシェアの朝の空気はひんやりと冷たく、咲き誇るハーブの甘い香りに満ちている。

通りはまだ静かで、わずかに早起きの商人たちが見かける程度だ。

本当に美しく、穏やかな街である。

パーセル医師から譲り受けた地図を頼りに、石畳の曲がりくねった道を歩くこと二時間。

目的の場所にたどり着き、そびえ立つ黒鉄の巨大な門を見上げる。

門の向こうには、威圧感を放つ巨大な石造りの邸宅が鎮座している。

そして入口には、剣の柄に重々しく手を置いた、彫像のように無表情な二人の衛兵が控えている。

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