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第四章 絶対に死ぬな!

航海七日目の夜明け、心地よい強風が帆をはらませ、商人船は白波を蹴立てて滑るように進みゆく。毎朝の習慣通り、アウレリアはまだ夜が明ける前に目を覚ました。影のように静かにハンモックから這い出し、すぐ隣で眠るローラと幼いルークの規則正しい寝息を起こさないよう細心の注意を払う。小さな木製の卓上に、自分が戻るまで部屋から出ないようにと告げる短い置き手紙を残し、彼女は調理場へと足を運ぶ。

 調理場の下働きたちは手を止め、顎をしゃくったり鼻を鳴らしたりして挨拶を交わす。少なくとも、自分がもう役立たずの荷物ではないことを、彼らに対して証明できているらしい。小麦粉まみれの手を叩き合わせ、ヤンが声を上げる。

「エリン、おはよう! さあ、卵の準備に取りかかってくれ。他のみんなも――」

 彼が再び手を打ち鳴らす。

「とっとと動け! 腹を空かせた野郎どもが待っているんだ!」

 日の出から正午まで、アウレリアは休むことなく働き続ける。昼食時の喧騒がようやく収まると、彼女はそっと甲板へと這い上がり、木製の手すりに身を預けて潮風を深く肺へと吸い込む。

 緑の大陸に着くまで、あとたったの四日。

 果てしない水平線を目で追いながら、アウレリアは心の中で呟く。

 ――一度錨を下ろしさえすればカラドリアの国境を完全に越えられるはずであり、どれほど強大な権力を持つ父であってもこの地にまで追手を差し向けることは叶わず、そこは正体不明の皇帝イザールが支配し彼がほとんど姿を見せない代わりに政務を任された評議会が統治する広大な緑の大陸なのだから自分を見つけ出すことなど絶対にできはしないのだ。

 見上げた無限の青空に呼応するように、彼女の顔に眩い笑顔がこぼれ落ちる。

 ――ついに、自由になれる。

 首筋を脅かす近衛兵も、嘲笑を浮かべるきょうだいたちも、自分を殺そうと毒を盛る継母も、もうどこにもいない。ただ、広い世界だけが待っている。

「その馬鹿げた、だらしない笑みはなんだ?」

 驚いて肩を揺らした彼女は、金縁の眼鏡を懐に仕舞いながら近づいてくるケーレンを見る。胸の奥が、今までに経験したことのない奇妙な鼓動を刻む。

「ただ、もうすぐ到着すると思うと嬉しくて」

 なるべく平静を装い、アウレリアは応じた。

「緑の大陸を冒険するのが待ちきれないの。初めての場所だから……」

 まっすぐに、ケーレンは彼女の輝く瞳を見つめる。その唇の端が、珍しく微かに和らぐ。その瞬間のアウレリアは、過酷な甲板員というよりも、誕生日プレゼントを開けるのを待ちきれない子供のようである。呆気に取られるアウレリアをよそに、ケーレンは無造作に手を伸ばして短い黒髪を撫でる。

「あまり先走るな、エリン」

 低く呟くような声だ。静かな戒めが含まれている。

「この世界の街はどれも同じ石でできている。緑の大陸も例外じゃない。そこには暗く、腐った裏側がある」

 フッと、アウレリアは小さく笑みを和らげる。

「分かっています」

 静かに、彼女は声を返す。警戒心を持ち続けなければならないと自覚しつつも、胸の内の高鳴りを抑えることはできない。くだらない不安など知るものか。あのソリス城から生還したのだから、自分はどんな困難も乗り越えられるはず。

「船長! 一体どこに行ってしまわれたのですか!」

 一等航海士は、書類の山を振り回しながら甲板を走ってくる。その狼狽ぶりは、まるで卵を奪われたニワトリのようだ。その滑稽な様子に、アウレリアは鈴を転がすように笑う。ケーレンはあからさまに顔を顰め、忌々しげに悪態を吐きながら振り返る。ひらひらと手を振りながら、彼女は昼食をとるために下層へと足を向ける。

 乗組員用の食堂にたどり着く前に、狭い通路でひとつの影が立ちはだかる。

「よお、エリン」

 行く手を塞ぎ、トビーが卑屈な笑みを浮かべる。眉をひそめ、アウレリアは足を止めて猜疑心を露わにする。

「何の用、トビー?」

 トビーは脂ぎった不快な笑みを張り付け、アウレリアの手を掴もうと手を伸ばしてきた。

「ちょっと面貸せよ。見せたいものがあるんだ」

 反射的に身を引き、アウレリアはその卑しい手を回避する。

「今、忙しいの。他を当たってちょうだい」

 そのまま立ち去ろうとしたが、トビーが耳元で囁いた次の言葉が、冷水を頭から浴びせられたような衝撃を彼女に与える。

「……へえ。じゃあ、あの可愛いカミさんとガキの命はどうでもいいってわけだ」

 その瞬間、アウレリアの動きが完全に硬直する。ゆっくりと振り返る彼女の顔から、すべての血の気が失われていく。金の瞳は冷徹な氷の刃へと変貌し、野性的なまでの殺気を放ち始めた。

「彼らに、何をしたの?」

 低く、しかし骨を削るような静かな怒りを帯びた声が通路に響く。

「言いなさい!」

 一瞬、トビーの顔に本物の恐怖がよぎり、その身体がびくりと強張る。少女の瞳を見つめることは、飢えた獣の眼光と正面から対峙するに等しい。しかし、彼はすぐに傲慢さを取り戻し、冷酷な嘲笑を口元に歪める。

「ついてきな、あいつらに生きて会いたいならな」

 トビーは低く囁く。状況を測りながら、アウレリアの脳裏が高速で回転する。単なる脅しの可能性も捨てきれない。だが、もしトビーたちが本当に二人に手を出していたら、一刻の猶予もない。先にケーレンに知らせに行けば、焦った彼らが暴挙に出る危険性が高い。自分で解決するしかない。

「案内しなさい」

「ただしトビー、よく聞きなさい。二人に向かって傷一つでもつけてみろ、お前は二度と生きて緑の大陸を拝めないと思いな」

 トビーは船内の静まり返った下層へと彼女を導く。船員のほとんどが昼食のために調理場に集まっているため、通路には人影が一切ない。船尾にある、鉄で補強された頑丈な扉の前でトビーは足を止め、扉を開いて中に入るよう顎で示した。中へと足を踏み入れた刹那、凄まじい勢いで扉が閉ざされ、鍵の回る金属音が響く。心臓が激しく脈打つ。罠だ。

 薄暗く埃っぽい部屋の隅から、くぐもった悲痛な声が鼓膜に届く。目が暗闇に慣れるにつれ、アウレリアは息を呑む。捕らえられたローラとルークが、頑丈な木製の椅子に縛り付けられている。その傍らには、三人の大柄な甲板員が立ちはだかり、醜い嘲笑を顔に浮かべている。怒りに拳を握り締め、彼女はトビーに向き直る。

「正気なの!? これはどういうつもりよ!」

 身構える隙すら与えず、鋼のような拳がアウレリアの腹部に深々と突き刺さる。肺からすべての空気が一気に吐き出される。激痛に呻き、彼女は膝から崩れ落ちて床に倒れ込み、腹を押さえてのたうち回る。

 トビーは追撃の手を緩めず、重い革ブーツの爪先を彼女の顔面に向けて蹴り出した。寸前のところで頭を後ろに逸らしたものの、硬い革が頬をかすめ、血が滲む赤い傷跡が残る。

「卑怯者……!」

 呼吸を荒くし、彼女は強張った身体で床から立ち上がろうと抗う。狭苦しい室内では俊敏な動きが制限され、相手の体格は自分の二倍以上もある。己の油断を激しく呪う。ケーレンの船という安全圏に慣れすぎて、母の短剣を私室に置いたままにしてしまったのだ。もし大声を上げることができれば、甲板の誰かに届くかもしれない。

 悪辣な思考で、トビーは彼女の意図を察する。ベルトから不気味な長短剣を抜き放ち、冷たい刃をローラの喉元に押し当てる。

「叫んでみな、助けを呼べよ、誰かが扉を開ける前にこの綺麗な首を切り裂いてやるからな」

 悲鳴がアウレリアの喉元で消え去る。怒りと無力感が胸を締め付け、呼吸すら困難になる。どうして自分はいつもこのように無力で大切な人々を守ることすら叶わず、ただ恐怖に震えることしかできない――弱者?

 抵抗を放棄したと判断するや、巨漢たちが覆いかぶさり、彼女の両腕を床へねじ伏せる。必死にもがいて抵抗を試みるものの、男たちの力は万力のように強い。トビーは嘲笑しながら、短剣を左右の手で放り投げて弄びつつ近づいてくる。そしてスナップを利かせ、冷酷に刃を投じる。短剣は彼女の耳元をかすめ、頬に赤い一本の傷線を刻み込み、床の木板に深く突き刺さる。

「おっと」

「投擲は少々錆びついていてね。お前のような神童じゃないんだよ、エリン」

 拘束された状態でローラは激しく暴れ、涙を流しながら必死にくぐもった悲鳴を上げる。三番目の船員が不愉快そうに鼻を鳴らし、ローラの腹部に強烈な蹴りを叩き込んだ。激しい怒りに、彼女の金の瞳が爆発する。

「やめろッ!」

 トビーは彼女の短い黒髪を掴み、力任せに頭部を後ろへと引っ張り上げる。

「痛むか、この寄生虫野郎? もやしっ子の小綺麗なガキが、船員たちの前でよくも俺に恥をかかせてくれたな。骨の髄まで噛み砕いてやる」

 彼は彼女の左腕を押さえている大男に合図を送る。巨漢は容赦なく彼女の左腕を後ろへと捻り上げ、解剖学的な可動域を超えて押し込んだ。口元を強張り、アウレリアは唇を強く噛み締める。ここで弱みを見せれば、奴の残酷さはますます肥大化するだけだ。

 ――バキッ。

 骨の砕ける不気味な音が響き、肩に白い熱線を伴う激痛が奔る。あまりの痛みに、アウレリアの視界が白濁する。彼女は床に沈み込み、身体を激しく震わせるが、涙を見せることなどしない。どれほど甚振っても沈黙を貫く少女に対し、トビーは激怒する。彼は拳を彼女の顎に叩き込み、その頭部を木製の甲板に強打させると、さらに破壊された肩をブーツの底で踏みにじった。

 全身の力が抜け、意識の灯火が揺らめき始める。気絶したと判断し、トビーは床に唾を吐いて一歩退く。

「くだらねえ、そのガキを抱え上げろ」

「海水をバケツで持ってきて、目を覚まさせろ」

 水を取りに行くために男たちが拘束を緩めた瞬間、アウレリアの瞳が見開かれる。脳内に分泌された強烈なアドレナリンが生存本能を呼び覚まし、破壊された左肩の激痛を麻痺させる。床の上を這った右手が、突き刺さったままの短剣の柄をしっかりと握る。全力でそれを引き抜き、爆発的な速度で飛びかかって刃をトビーの喉元に深く突き立てる。

「動いてごらんなさい、この部屋をお前の血で塗り潰してあげるわ」

 静かに、彼女は囁く。それは死神の吐息のように冷徹な宣告だ。三人の船員が荒い息を呑んで硬直する。トビーの目が丸くなり、刃の鋭利な感触が皮膚を切り裂いて血を滴らせるのを感じて、顔から一気に血の気が引いていく。

「二人を解放しなさい、今すぐに!」

 男たちは躊躇したものの、アウレリアの手首が脅迫的にピクリと動いたのを見て、慌ててロープを切り裂く。口の布を剥ぎ取ったローラは、ルークを抱きしめてアウレリアへ駆け寄ろうとする。しかし、彼女たちが近づく前に、大男たちが立ち塞がってローラの腕を強引に掴み取る。人質を盾に要求を突きつけようとしたアウレリアだったが、ローラの悲痛な絶叫がその意識を乱す。

「アウレリア! 後ろ!」

 突如として、アウレリアの脇腹に灼熱の激痛が走る。視界が急速に濁り、世界が大きく傾いていく。袖口に二本目の小さな短剣を隠し持っていたトビーが、その刃を彼女の肉体へと深々と突き刺したのだ。トビーは嘲笑し、突き刺した刃を抉るように捻ってから引き抜く。傷口から温かい鮮血が噴き出し、彼女の青いシャツを赤黒い血潮で染め上げていく。短剣は彼女の手から滑り落ち、彼女は横向きに床へと崩れ落ちる。冷たい木板が急速に迫ってきた。

「アウレリア!」

 男を力任せに振り切り、ローラは血の海に倒れるアウレリアの身体を抱きしめる。両手で傷口を強く圧迫し、噴き出す血液を止めようとするが、血は指の隙間から際限なく溢れ出す。

 狂気的な歓喜に顔を歪めたトビーが、ローラの長い三つ編みを掴んで引き剥がす。その顔面を殴りつけると、ローラは鼻と口から血を流して壁に激突した。

「こいつをアウレリアと呼んだか?」

「女の名前じゃねえか! 本当にただの、女装した出来損ないの化け物だったんだな! トドメを刺してやる。今日がこいつの命日だ!」

 七歳のルークが絶叫し、トビーの足に小さな拳を叩きつけた。

「お姉ちゃんたちを苛めるな、この怪物! 僕の姉ちゃんを傷つけるな!」

 トビーは鬱陶しそうにルークの顔を殴り飛ばし、少年を部屋の端まで吹き飛ばす。屈強な船員の一人が前に出ると、倒れたルークの脇腹を容赦なく蹴り上げ、少年が埃っぽい床で完全に意識を失ってぐったりするまでそれを繰り返した。

 狭まりゆく視界の端で、アウレリアはその光景を見つめる。重苦しい絶望が胸を支配する。四肢を動かそうと試みるが、肉体はまるで反応しない冷たい石の彫刻のようだ。

 ――動いて、お願い、動いて。

 まただ。

 神様、お願い。

 もう誰も、失いたくない――。

 世界の色彩が失われ、人々の叫び声は遥か遠くの反響へと消えていく。

 突如、木製の重扉が破城槌のような衝撃を受けて吹き飛んだ。蝶番が破壊され、木片が木っ端微塵に飛び散る。破壊された入り口から、オリヴァーと武装した船乗りたちを引き連れたケーレンが姿を現した。室内の温度が一瞬にして氷点下へと急降下する。普段は冷静沈着なケーレンの深い緑の瞳が、いまは凄まじい殺意で激しく燃え盛る。その顔からすべての人間味が消え失せ、死神の仮面がそこにある。トビーと船員たちは完全に凍りつき、その顔面から血の気が失せて真っ白に染まる。

「よくも……」

 地の底から響くような声で、ケーレンは呟く。その響きは、室内のすべての男の背筋に冷たい悪寒を走らせた。

「よくもやってくれたな、トビー!」

 目にも留まらぬ速さで、ケーレンが跳躍する。彼の蹴りがトビーの胸部に直撃し、骨の砕ける鈍い音が響き渡る。トビーは吹き飛ばされて壁に激突し、糸の切れた人形のように崩れ落ち、大量の血を吐き散らした。残された三人の船員は、その場に膝をついて激しく震え出す。

「船、船長! お待ちください、俺たちは――」

 彼らの命乞いを、ケーレンは冷酷に黙殺する。血の海に横たわる死人のように蒼白いアウレリアを見つめ、傷だらけのローラと、意識のない幼いルークへと視線を向けた。船長はオリヴァーに視線で無言の命令を下す。オリヴァーは表情から一切の温もりを消して頷き、武装した船員たちに合図を送って四人の裏切り者を引きずり出させた。彼らが明日の朝日を拝むことはないだろう。

 アウレリアの傍らに跪き、ケーレンは驚くほど優しい手つきで彼女の身体を抱き上げる。立ちすくむローラを見据え、彼は静かだが拒絶を許さない声で命じる。

「ついてこい、その子供を連れて」

 泣きじゃくりながらルークを抱きかかえ、ローラは必死の思いで立ち上がって彼の後を追う。

 自身の身体が、温かく強固な胸へと抱き上げられるのを感じる。必死にケーレンの顔を見つめ、彼が囁きかけてくる言葉を聞き取ろうとしたが、身体からすべての力が完全に抜け去っていくのを感じるばかりだ。そして、最後のか細い呼吸を静かに吐き出すと同時に、彼女はすべての抵抗を諦め、冷たく静寂に満ちた深い闇の抱擁の中へとゆっくりと沈み込んでいく。

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