第二章 自由と秘密の船
だぶだぶのズボンに、麻のシャツ。
アウレリアは「エリン」という偽名にふさわしい男装に身を包み、自分に挑みかかってきた少年と対峙する。
トビー。
平均的な背丈に、砂をまぶしたような無造作な金髪、鼻梁にぱらぱらと散ったそばかす、そしてその茶色い瞳の奥には、隠そうともしないあからさまな侮蔑がゆらゆらと揺れている。
トビーは鼻先でせせら笑うような声を上げながら、使い込まれた狩猟ナイフを慣れた手つきで手のひらの上にくるりと転がしてみせた。
「おいおい、本気かよ、ちび公?」
見下すような視線がアウレリアを射抜く。
しかし、アウレリアは乗らない。微笑みが消えた。代わりに、氷のような静寂。金色の瞳を鋭く細めた。
「お遊びのつもりはない」
声のトーンを落とし、冷ややかに囁く。
「始めるのか? それとも、そこで洗濯女のように井戸端会議でも続けるつもりか?」
トビーの得意げな笑みが引きつる。目をしばたたかせ、痩せこけた「少年」から放たれるただならぬ威圧感に、明らかに気圧されている。
少し離れた特等席では、ケーレン船長の瞳に微かな可笑しみが宿る。唇の端が、本人にしかわからないほど僅かに持ち上がる。
「いいだろう、喧嘩腰のちびめ」
トビーの顔が屈辱で赤く染まる。
「風が吹けば吹き飛びそうなツラをしやがって。ナイフ投げで勝負だ。ガキをいじめたなんて仲間に言われたくないからな」
彼が顎で指し示すと、一人の船員がすかさず立ち上がり、潮風にさらされた木壁に黒炭で中くらいの円を描く。
「各自二投だ」トビーが胸を張る。
「真ん中の点に当てられたら、お前の価値を認めてやるよ」
アウレリアは黙って頷く。
殴り合いを覚悟していたが、相手の傲慢さこそが彼女にとって最大の盾だった。素手での戦闘経験など皆無に等しい。だが、ソリス城の隔離された塔で暮らしていた頃、彼女はたった一つの技術を飽くことなく磨き続けてきたのだ。
ナイフ投げだ。
静かで、致命的。そして、衛兵に気づかれることなく木製の衣装棚を相手に練習できる。
まずトビーが前に出る。投擲用ナイフのバランスを、手のひらで量る。狙う。放つ。刃が空気を切り裂く。鈍い音。黒炭の円の真ん中に、深々と突き刺さった。
船員たちから歓声が沸き起こる中、トビーはゆっくりとアウレリアを振り返り、いかにも勝ち誇ったような笑みを、その顔いっぱいに浮かべてみせた。彼はもう一本のナイフの切っ先を指でつまみ、彼女へと放り投げる。
アウレリアはその柄を空中で受け止める。
母の形見である軽い短剣とは重心の位置も重さも異なっていたが、その重量を手のひらで確かめるように指の引っかかりを調整し、深く息を吐き出す。
一連の滑らかな動作で、右腕をしならせる。
――ドンッ。
真ん中だ。トビーの突き刺したナイフのすぐ隣、黒炭の印のど真ん中に、強烈な力で食い込み、震えている。
アウレリアはゆっくりと顔を戻す。唇の端を持ち上げた。
「それで?」
トビーの口がぽかんと半開きになるなか、周囲の船員たちは水を打ったように静まり返り、的に深々と突き立った刃と、この線の細い「少年」とを、信じられないとばかりに何度も交互に見つめている。
だが、その驚愕はすぐに激昂へと姿を変え、低い唸り声を上げたトビーは固く拳を握りしめて突進し、大振りの粗雑な一撃が彼女の顔面めがけてまっすぐに迫ってきた。
無謀で、予測しやすい軌道。
拳が届く直前、アウレリアは相手の懐へ踏み込む。手首を掴む。もう片方の手のひらを、肩へ激しく叩きつけた。
敵の勢いを利用しながら軸を旋回させ、腰を支点にして相手の体を背負うように投げ飛ばす。
ドサリ。硬い木甲板に、トビーが叩きつけられる。肺の空気を、すべて吐き出す。呻き、悶絶した。
アウレリアはその傍らに片膝をつき、歪む顔を見下ろす。
「君の名前はトビー、だったな? これで僕の勝ちを認めるか、それとももう一回やる?」
トビーは顔を背け、忌々しげに悪態をつく。
そこへ、ケーレン船長が唐突に立ち上がる。
緩んでいた空気が一瞬にして引き締まり、船員たちは弾かれたように直ちに背筋を伸ばすと、慌ただしく散らばってそれぞれの身支度を整えはじめた。アウレリアは思わず身を固くし、彼らが今にも襲いかかってくるのではないかと身構えたが、その予想に反して、大柄な船員の一人が豪快な手つきで彼女の背中をばしりと叩いてきた。肋骨が軋むほどの衝撃に、思わず息が詰まる。
「野郎ども、見ろ! 船長がこのちびを認めたぞ!」
大男が腹の底から笑い声を響かせる。
「やるじゃねえか、小僧! 見事なコントロールだった!」
「どうも」
エリンは小さく頷いた。
張り詰めていた緊張は、一転して騒がしい笑い声と雑談の中へと霧散していく。船員たちは港に錨を下ろしている巨大な商船へと足を向け、アウレリアもまた、その波に呑まれるように歩き出した。
道すがら、アウレリアはあらかじめ用意していた作り話を早口でまくしたてる。幼い頃から海に憧れ、無賃乗船の代わりに雑用として働きたいのだ、と。単純な船員たちは疑いもせず納得したが、ケーレンだけは背後から、彼女の背中を射抜くような品定めする視線を注ぎ続けている。
アウレリアは小さく眉をひそめ、寡黙な船長の隣へと歩み寄る。そして、少年らしい無邪気な笑みを浮かべてみせた。
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか?」
男は顔を向けることさえせず、ただの風の音でも聞くかのように、淡々と歩を進めていく。
アウレリアはきゅっと唇を噛み、視線を冷たい石畳へと落とす。
「ケーレン」
低く、地響きのような声が鼓膜を震わせた。
彼女は弾かれたように顔を上げる。目が輝いた。
「僕はエリンです! よろしくお願いします、ケーレンさん!」
活気あふれる港に近づくにつれて、周囲の空気は一変する。
アウレリアは身を固くした。
カラドリア王家の紋章である深紅の制服をまとった衛兵たちが、そこかしこに配備されている。手配書を片手に旅行者たちを尋問し、強引にフードや帽子を剥ぎ取る横暴さだ。
父の放った猟犬たちに違いない。あるいは、政略結婚を台無しにされたカッシア王妃が、血眼になって追手を差し向けたのだろう。
アウレリアは悟られぬよう静かに呼吸を整えると、大柄な船員たちの背後にそっと身を隠し、その分厚い巨体を盾にして、自らの小さな存在感を気配ごと完全に消し去ってしまった。
ケーレンはそのわずかな挙動を見逃さない。強張った肩から、深紅の制服の衛兵へと視線を走らせる。すべてを察したような冷ややかな薄笑いがその端正な唇をかすめたが、次の瞬間には、いつもの冷徹な無表情へと戻る。
船に乗り込む頃には、港湾労働者による重い木箱の積み込み作業はすべて終わっている。
アウレリアは最後に甲板へ足を踏み入れた。その足が、ぴたりと止まる。大きく目を見開く。あまりにも壮麗な船。
広大な甲板は、西日を浴びて艶やかな黒光りを放つ磨き木で覆われている。天を突くようにそびえるマストには巨大な帆が畳まれ、まるで大空に戦いを挑んでいるかのようだった。
「何をぼうっとしている、小僧」
ケーレンの声が降ってきて、彼女は我に返る。思わず肩が跳ねた。
――落ち着きなさい、アウレリア。ここはただの商船よ。海賊船なんかじゃない。
慌てて愛想笑いを作り、小走りでその背中を追いかける。その足取りは、これから始まる旅への高揚感で軽く弾んでいる。
ケーレンは、この妙な「少年」の浮き立ちぶりを怪訝そうに見やる。
「何がそんなに嬉しい。船の暮らしは過酷だぞ。遊び場ではない」
「その……これほど大きな船に乗るのが初めてなものですから」
彼の両目がわずかに細められる。まるで難解なパズルのピースを繋ぎ合わせようとするかのように。だが、その視線もすぐに元の無関心な光へと戻る。
「船倉のラウルを訪ねろ。仕事を割り振ってくれる」
それだけを告げ、ケーレンは船長室の方へと背を向けた。
一人、甲板に取り残されたアウレリア。それから二十分もの間、走り回る船員たちの間をさまよい、船倉の場所を尋ねようと声をかけ続けた。だが、誰もが目前の出航準備に追われ、まともな返事すら返ってこない。
信じがたい冷遇。ほんの数分前まではあんなに騒ぎ立てて歓迎してくれたというのに、今や完全に透明人間扱いだ。
アウレリアは沸き立つ苛立ちをぐっと胸の奥へ飲み込んだが、それは王宮という伏魔殿で生き延びるために幼い頃から培ってきた、悲しくも確かな防衛本能のなせるわざだった。ソリス城では、冷酷なきょうだいたちの神経を逆撫でしないよう、怒りを完璧な笑顔の下に隠し通すしかなかったのだ。ジュリアンだけがいつも盾となってくれたが、彼とて永遠に寄り添ってくれるわけではない。
狭い木製の階段を伝い、船の薄暗い深部へと足を踏み入れる。
入り組んだ通路をいくつか抜けた先で、頑丈に密閉された木箱が天井まで積み上がる巨大な船倉に行き着く。大柄で屈強な男が小さな机に向かい、革表紙の帳簿に猛烈な勢いでペンを走らせている。
「あの、失礼します」
男は顔を上げようともしない。アウレリアは深く息を吸い、扉の脇で静かに待つ。
五分ほど経った頃、男は重い溜め息を吐き出して帳簿を閉じ、ようやく顔を上げた。その鋭い眼光が彼女の姿を捉える。
「誰だ、お前は」
古い樽の底を削り取ったような、不躾なしわがれ声だった。
アウレリアは一歩歩み寄り、警戒心を解くような笑みを浮かべる。
「新入りのエリンです。あなたがラウルさんですか? ケーレン船長に、こちらで仕事をいただくようにと言われました」
ラウルは彼女の華奢な体つきを値踏みするように睨みつけ、それから再び帳簿を開く。
「厨房へ行け。ヤンの手伝いだ」
「厨房……ですか?」
厨房だけは最も避けたい場所だった。しかし、ろくな経験のない新人に選り好みする権利などない。彼女は瞬時に表情を取り繕う。
「厨房はどちらに? こんなに大きな船で迷って、ご迷惑をおかけしたくありませんので」
ラウルは低く鼻を鳴らす。足元にある埃まみれの木箱から、乱雑に丸められた羊皮紙を引き抜き、彼女の胸元に押し付けた。
「船の構造図だ。これを持ってさっさと失せろ。二度と俺の邪魔をするな」
男は追い出すように言い放ち、重い木扉を勢いよく閉ざした。
「本当に、気の短い人ね」
アウレリアは苦笑いしながら羊皮紙を広げる。繊細なタッチで描かれた船内図をなぞるうち、その瞳が驚きに見開かれた。
――想像以上に巨大な船だわ。足を踏み外して海に落ちないよう気をつけないと。……って、私は何をしているの! 目的地を訊くのをすっかり忘れていたなんて!
己のうっかり加減に呆れて頭を振り、それでも気を取り直して図面通りに厨房へと向かう。
足を踏み入れた厨房は、まさに混沌の極みだった。立ち込める白い湯気、飛び交う怒号、肉の爆ぜる強烈な音。
荒くれ者たちが信じがたいほど統制されたテンポで動き回り、巨大なスープ鍋や穀物の袋を次々に運んでいく。料理など、これまでの人生で一度も経験したことがない。もしここで使えないと判断されれば、即座に厄介者として見捨てられるだろう。
だが、アウレリアは小さく首を振る。否、知識こそが武器だ。自分の食べるものさえ確保できない者が、無法の海で生き残れるはずがない。
彼女が料理長であるヤンに歩み寄ってみると、驚いたことにその男は、外にいる粗野な連中とはまるで異なる、実に陽気で温厚な人物だった。彼は歓迎の笑みを浮かべて小ぶりのナイフを差し出し、山積みのジャガイモを指し示す。
指先はまたたく間に細かい傷で覆われ、染み出すでんぷん質がチクチクと痛む。だが、持ち前の手先の器用さとナイフさばきによって、アウレリアは驚くべき速さで作業を終わらせてみせた。とはいえ、他の厄介な台所仕事に慣れるには、まだ相当な時間がかかりそうだったが。
ついに船が錨を上げると、アウレリアは怒涛のような重労働の渦に引きずり込まれる。息をつく暇さえ与えられない。重い木箱を運び、物資を整理し、何時間も立ち働き続ける。その中には、船長の書斎へ運ぶべき重要書類が入った頑丈なチェストの搬入作業も含まれていた。
静まり返ったキャビンの奥で、海図や航海日誌を広げた机に向かい、険しい表情で思索に沈むケーレンの横顔を、彼女はドアの隙間からそっと盗み見た。
夜が訪れる頃には、全身の筋肉が悲鳴を上げている。昼間の騒がしい怒号は消え失せ、代わりに船体がきしむ優しい波の調べと、船底を叩く波の音が規則正しく響くだけだ。
大半の船員はすでにハンモックに潜り込んで眠りについている。甲板に残っているのは、静かに佇む夜番の監視兵だけだった。
束の間の静寂を求め、アウレリアは冷たく塩気を含んだ潮風を吸い込もうと、そっと甲板へと忍び出る。
だが、そこには先客の姿がある。ケーレンが船尾の板の上に直に寝そべり、頭の後ろで腕を組んで、ビロードのような星空を見上げている。
船長という人種は、一晩中自室にこもって書類とにらめっこをしている冷酷な仕事中毒者だと思い込んでいたのだが、どうやら認識を改める必要があるらしい。
「何か用か、小僧」
ピクリとも動かぬまま、彼の低い声が鼓膜を打つ。アウレリアは一歩近づき、満天の星を見上げた。
「星空を眺めていらしたのですか?」
ケーレンは答えず、ただ無言で顎をわずかに引く。アウレリアは思い切ってその隣に腰を下ろし、吸い込まれるような空の下、同じように仰向けになった。肩のあたりが、冷たく滑らかな甲板の木肌に触れ合う。
ケーレンの鋭い視線が横から射抜くように注がれる。この線の細い新入りが、許可もなく船長のすぐ隣で横たわった大胆不敵さに、明らかな困惑を露わにする。
「一つ、訊いてもいいですか?」
瞬く星の海を見つめたまま、彼女は囁くように声を落とした。
男は鼻先で短く息を吐き出す。それを沈黙の許諾と見なす。
「この船は、どこへ向かっているのですか?」
ケーレンは信じられないと言わんばかりに彼女を見つめた。それから、喉の奥から堪えきれない笑いが漏れ出る。慌てて手で口元を覆ったが、噴き出す息までは隠せない。
夜の暗闇に紛れながらも、アウレリアは頬がカッと熱くなるのを感じる。
「何がおかしいんですか?」
「お前だ」
彼は顔をこちらに向け、まだ楽しそうに喉を鳴らしている。
「行き先も知らずに深海を渡る商船に乗り込むとはな。妙なやつだ、エリン」
「ただ、仕事が必要だっただけです」
彼女は決まり悪そうに目を逸らした。
「緑の大陸だ」
そう告げた彼の声が、わずかに和らぐ。
緑の大陸。そこは、ライラが逃げ込んだ場所。
完璧だ。アウレリアは満天の星を見つめ、胸の内で勝利の笑みを噛み締めた。
ケーレンはその静かな高揚を見つめ、星明かりの下、彼女の繊細な顎のラインから細い首筋、そして夜風に揺れる柔らかい顔立ちの輪郭へと、静かに視線を滑らせていく。
「教えろ」
彼の声が不意に一段と低くなり、危険な熱を帯びる。
「――お前、女か?」




