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第一章 逃げ出してやる!

高い弓形の窓から朝の光が差し込み、寝室の石畳に琥珀色の縞模様を描いていた。

 アウレリアは目を開け、天井に刻まれた精緻な装飾をしばらくぼんやりと見上げているうちに、唇がゆっくりと弧を描き、やがて堪えきれない小さな笑い声がこぼれた。

 今日だ。

 重い毛布を跳ね除けてベッドの縁から足を下ろし、枕元に揃えた革のスリッパに爪先を通すと、洗面台まで早足で向かって冷水を顔に打ちつけ、肌を刺すその冷たさに、まとわりついていた眠気は一息で消え去った。

 鏡の奥の自分に、囁いた。

「今日、出ていくのよ」

「姫さま」侍女が視線を落としたまま囁く。「国王陛下が、大広間でのご朝食にお越しくださいませ、と」

 アウレリアは穏やかに微笑んだ。

「珍しいわね、お招きなんて」

「は……?」

「いいえ。すぐ向かうと伝えてちょうだい」

「かしこまりました」

 侍女は一礼し、足音も立てず退がった。アウレリアは青い絹のドレスの裾を整え、部屋を出る。

 回廊は、迷宮だ。冷たい石壁が果てしなく続き、どの角を曲がっても同じ風景が繰り返され、交差点のたびに鉄の鎧を纏った衛兵が顔を鋼のバイザーの奥に隠して直立しているが、彼らはアウレリアを見ないし、アウレリアもまた彼らを見返さない。

 ようやくたどり着いた大食堂の扉は、手彫りのマホガニー材で天井近くまでそびえていた。深く息を吸い、両脇の衛兵に軽く頷いて――獅子の巣へ足を踏み入れる。

 巨大な宴卓を囲むのは、五人の異母きょうだいたち。

 アウレリアが姿を現した途端に場の空気が変わり、それまで交わされていたひそひそ話がぴたりと途切れて、代わりに忍び笑いと嘲りの視線が四方から突き刺さってくるのを肌で感じた。十歳のレオが十三歳のセドリックに何か耳打ちし、セドリックが甲高い笑い声を上げた。十四歳のエヴリンと十五歳のクラリッサは頭を寄せ合い、アウレリアの質素な衣装を蔑むように一瞥する。

 唯一、ジュリアンだけが席から温かな笑みを向けてくれていて、二十歳になるこの皇太子は、誰に対しても気負いのない穏やかな品格を、まるで息をするように自然にまとっているのだった。アウレリアは兄と目を合わせ、同じ笑みを返した。凍てつく部屋の中に灯る、たったひとつの温もり。

 十七歳。年齢では上から二番目でありながら、宮廷での序列は最下位――「第六王女」。側室の娘。血筋の汚点。

 はみ出し者。

 上座には父、アリステア王。シャンデリアの光を受けて王冠が鈍く輝く。蒼白い瞳は虚ろで、娘の存在など映してもいなかった。その隣にはカッシア王妃。

「座りなさい」

 カッシアの声に毒が滴る。鋭い目が、頭から爪先までを舐め回す。

「ご機嫌うるわしく、王妃さま」

 アウレリアは膝を折った。

「相変わらず、顔色がお悪いこと」

「おかげさまで」

 アウレリアは微笑んだだけだ。礼儀正しい仮面。王妃の陰湿な悪意など、とうに気にならない。母を亡くした十代の娘を相手に日がな一日陰謀を巡らせる大人の女――滑稽としか言いようがなかった。

 長い卓の末端に腰を下ろす。家族と食卓を囲むよう呼ばれたのは、これが人生で二度目のことだ。側室の子として幼児期を生き延びられただけでも幸運だと知っている。カッシアの殺意は宮廷中に知れ渡る伝説だった。

 幼い頃、母に訊いたことがある。なぜ自分たちは生かされているのか、と。

『お父さまが、処刑の命令書に署名するのが面倒だっただけよ』

 母はかすれた声でそう言った。目に恐怖を湛えて。

『だから代わりに、この部屋に閉じ込めたの』

 子供心にも、あれが慰めの嘘だとわかっていた。父は怠惰で動かない人間ではない。すべてが計算なのだ。

 溜め息を飲み込み、視線を国王に据えた。突然の招待が家族愛から出たものでないことくらいわかっている。父は何かを欲している。そしてそれがろくでもないものであることも。

召使いたちが銀の大皿を次々と運び入れた。焼き肉の山、異国の果実、繊細な菓子類。冬の旱魃で辺境の領民が飢えに瀕しているこの時期に、これ見よがしの贅沢を並べ立てておきながら、ソリス王朝が飢えた民を顧みたことなど一度もなく、改革という言葉を口にするのはいつもジュリアンだけだった。

兄上が玉座に就けば、変わる。

そう思いながら料理をつついた。きょうだいたちの無言の敵意が肌を圧迫してくる。

『召使いの小娘が我々の卓に座っている』――彼らの目がそう叫んでいた。

アウレリアは無視した。優雅に咀嚼を続ける。その泰然とした態度がきょうだいたちを無言の激昂に駆り立てていることなど、百も承知で。

食事が終わり、皿が片付けられ、召使いが退出すると、重い沈黙だけが残った。

「アウレリア」

国王の声が静寂を裂く。深い。揺るぎない。

顔を上げ、表情を完璧な笑みに整えた。

「はい、お父さま」

「お前を嫁がせることにした。ハンクレス王国の皇太子のもとへ輿入れせよ」

天気の話でもするかのように、あっさりと。

衝撃が胸を貫く。きょうだいたちの悪意ある笑みの理由が、ようやく腑に落ちた。ハンクレスの王子は残虐さで悪名高い男だ。過去に二人の婚約者を再起不能にしたと噂されている。

金箔の檻に送り込んで殺す――それが狙いだった。

だが、アウレリアはたじろがない。

微笑みは寸分も揺らがなかった。

「一言、よろしいでしょうか」

国王がかすかに頷く。

「側室の娘である私の身分は、あまりにも低うございます」声は滑らかで、急がない。「誇り高きハンクレスの殿下は、このような縁組を王家への侮辱と受け取られるのではないでしょうか。僭越ながら申し上げれば、正妻のお血筋であるエヴリン姉さま、あるいはクラリッサ姉さまこそ、かの殿下にふさわしい高貴なご縁かと存じます」

エヴリンの顔から血の気が引いた。クラリッサが息を呑む。

アリステア王はアウレリアの微笑みの奥を探るように凝視した。罅ひとつ見つけられず、手を振る。

「部屋に戻れ」

「かしこまりました、お父さま」

立ち上がり、完璧な膝折り礼を決め、背を向けた。

背後で、カッシアの甲高い抗議の声と姉たちの泣き言が噴き上がっている。アウレリアは振り返らなかった。指先が震えている――だがそれは恐怖ではない。

興奮だ。

廊下を軽い足取りで歩く。勝者の足取り。

愚かなカッシア。唇が弧を描く。毒を盛り、溺れさせようとし、今度は売り飛ばそうとした。だが、もう手は残っていない。

朝食への召喚、国王自らの口から告げられた婚姻――あれは周到な布石だ。逃げ場がないと思い知らせるための。

だが父は、見誤った。

寝室に戻って重い扉に鍵をかけ、その冷たい木の感触に背中を預けると、それまで懸命に抑え込んでいた荒い呼吸が、堰を切ったように胸を揺らしはじめた。

十歳のあの日から準備を重ねてきた。母が最後の息を引き取った、あの日から。七年の間、城の冷遇に耐え、孤立を逆手にとって王立図書館の航海記録、歴史書、海図を――一冊も残さず読み尽くした。書物は贅沢品だ。その贅沢を、自分だけの武器に変えた。

衣装棚の二重底から使い込まれた茶色の革鞄を引き出すと、盗み貯めた金貨の袋、丈夫で飾り気のない旅装の替え、そして沿岸領の精密な地図を、慣れた手つきで次々と詰め込んでいった。

最後に手に取ったのは、一冊の本。背表紙に、褪せた金文字。小さな革装丁。

――『異邦人たち』。

母の本。唯一の形見。

胸に押し当て、しばし目を閉じた。それから鞄の中心へ丁寧にしまい込む。

「準備完了」

金色の瞳に窓の夕映えが揺れている。残る懸案はひとつだけ――ジュリアン。先刻、暗号で書いた手紙を届けてある。日没に都合がつけば会いに来てほしい、と。

黄昏時。扉を叩く静かな、けれど律動的な音。

わずかに開き、無人の回廊を確かめてから兄を引き入れた。錠が鳴る。

「ジュリアン――」

言いかけた声を、兄が片手で遮った。

「わかっている」その目に悲しみと誇りが交錯する。「決めたんだな? 本当に?」

「今夜、発つわ」

「止めても?」

「無駄よ」

 ジュリアンが小さく笑った。

「だろうな」

ジュリアンが一歩踏み出し、力強く抱きしめた。

「俺の勇敢な妹」声が髪にくぐもる。「忘れるな……お前の兄は、水平線ひとつ向こうにいる。助けが要る時は、必ず駆けつける」

目尻にじわりと熱いものが滲んだ。この毒蛇の巣窟と化した宮廷にあって、ジュリアンの惜しみない愛だけが、彼女に残された唯一の、混じり気のない純粋なものだったのだ。

「ありがとう」身を離し、兄の目を見上げる。「あなたがいなければ、とっくにこの暗闇で枯れていたわ」

ジュリアンの顔が引き締まる。金色の瞳を覗き込むように。

「海は無法の暴力の世界だ、アウレリア。海賊は物語の英雄じゃない。人殺しで、盗人だ」

「知ってる」

顎を上げた。

「でも、彼らは自由よ。自分の運命は自分で選ぶ。王冠の囚人として生き延びるくらいなら――波と戦って死ぬほうがまし」

長い沈黙。

やがてジュリアンは重い息をつき、妹の黒髪をくしゃりと撫でた。

「――なら、追い風があるといいな」

「兄上の頭に、軽い冠が載りますように」

拳で軽く肩を叩き、笑った。

蝋燭を吹き消す。闇が部屋を呑んだ。

革鞄を肩に掛けて石の窓枠によじ登ると、湿った夜風が容赦なく顔を打ちつけ、その風に乗って、遠くからかすかに潮と松の匂いが混じり合って届いてきた。

最後に一度だけ、兄を振り返る。

「行ってくる」

 そして、跳んだ。窓の外に伸びる古い樫の太枝を、慣れた身のこなしで掴み取る。

ジュリアンは妹が葉叢に消えていくのを見送った。窓枠を握る手に力がこもっている。

――行ったか。

手を離した。

――父上の猟犬にも捕まるまい。あの子は賢すぎる。

行け、アウレリア。お前がこの王国に戻る日、俺はあの玉座に座っている。二度と誰にも、お前を脅かさせはしない。

深く息を吸い、窓辺を離れて扉を開けた。廊下の闇に近衛隊長が佇んでいる。

「今夜、父上の衛兵を西の城壁で――足止めしろ」ジュリアンの声が変わった。冷たく、測るような。未来の王の鋼。

「ただちに」

影が闇に溶けた。


***


 庭園に降り立ったアウレリアは湿った土の上に音もなく着地すると、手入れの行き届いた生垣を縫うように身を低くして走り抜け、東の隅にひっそりと佇む苔むした石像まで、一気に辿り着いた。台座に両手をかけ、時計回りに回した。

 低い軋みとともに隠された敷石がずれ、暗く狭い階段が地中へと口を開ける。包囲戦に備えて造られた王家の脱出路――誰もが忘れている。

彼女を除いて。

闇の中に身を滑らせ、石を元に戻す。

「ここから先は、私ひとり」

 囁きが、湿った闇に溶けて消えた。

マッチ一本。蝋燭の切れ端。揺れる炎が、湿った石造りの地下道を照らし出す。

鞄を肩に掛け直す。迷路の奥へ。

「さよなら、ソリス」

 最初の一歩を、踏み出した。

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