第八話 戻らないふたり
力を使わずに済む採取や調達のクエストをこなしながら、のんびりと(しかし着実に)歩を進めること数日。私たちは、活気ある潮の香りに包まれた港湾都市「ポルト・サフィール」へと到着した。
青い石畳が美しいこの街は、私たちが目指す国境までのちょうど中間地点にあたる。
「レニー、ここから船に乗らないのか。海路なら、このまま陸を行くより半分の時間で済むはずだが」
立ち並ぶマストを見上げながら、ベルがふと提案した。
確かに、潮風に乗って一気に北上できれば楽だ。日程も大幅に短縮できる。……でもね、ベル。世の中には「時間」よりも重たいものがあるのよ。
「ベル。船だと確かに早いわ。でもね……乗船料を見て。一人500ギルよ」
「……500? もっとクエストをこなせばいけるか?」
「クエストじゃ何年かかるか!この地に根を張って働いたって、そうそう貯められない金額よ! 今は海賊がのさばってるし、民間の船でも重武装の護衛船をつけなきゃ出港すらできないの。1000ギルって言ったら、地方にちょっとしたお屋敷が一軒買える金額なんだからね!?」
私の悲鳴に近い説明に、ベルは絶句した。
「海賊退治をしたら小舟でもいけない物なのか?」
「いくらベルが強くても、海の上の戦いは専門外でしょ? 船を沈められたらおしまいなんだから、プロの護衛代をケチるわけにはいかないの。そんな大金を捻り出すために街で何年も働くくらいなら、遠回りでも陸路を選ぶべきよ」
商売人として、出費と効率の計算は譲れない。1000ギルなんて、今の私たちが地味なクエストで稼げる額じゃないのだ。
「……なるほど。経済というのは、時に軍事戦略よりもシビアな壁になるのだな。わかった、レニーの判断に従おう」
ベルは納得したように深く頷いた。
というわけで、私たちは最短ルートの海路を諦め、少し時間はかかるけれど着実な「北ルート」を選ぶことにした。
「北ルートは山越えがあるから、また採取のチャンスも多いはずよ。路銀を稼ぎながら、気楽にいきましょう!」
「ああ。……今度は、道具を壊さないように気をつける」
ベルが少しだけ自虐的にそう言って、私たちは賑やかな港の喧騒を背に、険しくも豊かな北の街道へと足を踏み出した。
◆◆◆
北ルートへと続く街道の入り口、小高い丘に佇む一軒の民宿。今日は野宿を避け、ここで一晩を過ごすことになった。
「いい、ベル。あなたはそこで大人しくしててね。私がうんと安く泊まれるように交渉してくるから!」
腕を回しながら鼻息荒く宿へと駆け込んでいくレニーの背中を見送り、ベルは夕闇に包まれ始めた宿の外で、一人静かに待機していた。
すると、建物の影から、揺らぐ陽炎のように一つの人影が音もなく現れた。
夜の闇を凝縮したような黒装束。以前も現れたその男は、膝をつき、恭しく頭を垂れる。
「ベルゼルガ様……いや、今は『ベル』様でしたね」
「……スナイプか。なぜここにいる。貴公には、姫様の護衛を命じたはずだが」
ベルの声から、一瞬にして「不器用な相棒」の響きが消えた。かつて魔王軍の頂点に君臨した将軍としての、冷徹で重厚な響き。
「はっ。仰せの通り、影より姫様を護衛しております。務めを疎かにしたわけではございません」
「ならばなぜ、任務を離れてまで俺の前に姿を現した。まさか、姫様に何かあったのか」
ベルの纏う空気が、わずかに鋭さを増す。スナイプと呼ばれた隠密は、首を横に振った。
「逆でございます。……この街『ポルト・サフィール』に、姫様がいらっしゃっているのです」
ベルの銀色の瞳が、驚きにわずかに見開かれた。
「イシュタル姫が……この街に?」
「左様にございます。姫様は、魔王軍再編を謳う第3王子、ベリアス様につくことを決意なさいました。これよりベリアス様と合流するため、港から船を出し、王子の元へと向かわれる予定です」
「……ベリアスか」
ベルの胸中に、かつて共に戦場を駆けた野心溢れる若き王子の顔が浮かぶ。
魔王軍を立て直そうとする王子の元へ向かう。それは、イシュタル姫にとって最も安全で、かつ「王族」としての義務を果たす道なのだろう。
「これは、姫様からの書状にございます」
スナイプから手渡されたのは、小さな紋章が刻まれた一通の簡素な書状だった。
ベルがその封を切り、中に記された文字に目を落とす。
そこには、流麗な、しかしどこか震えるような手つきの直筆で、ただ一つの願いが記されていた。
『ベルゼルガ。あなたが生きていると知り、私は夜も眠れぬほどの喜びを感じています。
どうか、船が出る前に一度だけ。一目だけでも、あなたにお会いすることは叶いませんか。』
書状を握るベルの手に、微かな力がこもる。
「……ベル? 何してるの、そんなところで。交渉成立! おまけに夕食にスープもつけてもらえることになったわよ!」
宿から元気よく飛び出してきたレニーの声に、スナイプの気配は一瞬でかき消えた。
手元に残されたのは、潮の香りが染み付いた一通の手紙だけ。
「……ああ。今、行く」
ベルは書状を素早く懐に隠すと、いつもの「相棒」の顔を作ってレニーへと向き直った。
港を出る船、そして会いたいと願う姫。
先ほど「船は高すぎるから陸路だ」と決めたばかりの二人の旅路に、あまりにも重い選択肢が投げ込まれようとしていた。
◆◆◆
夕食を終えた後、ベルは珍しく改まった様子で私に向き合った。
「レニー、今夜は少し……外してきてもいいだろうか。会わなければならない者がいるんだ」
「え? ベルが一人で出かけるなんて珍しいじゃない」
私は少し驚いたけれど、すぐに納得して頷いた。きっと、昔の仲間が近くにいて、積もる話でもあるんだろう。
「いいよ、もちろん。たまには羽を伸ばしてきなさいよ。……でも」
不意に、月明かりに照らされたベルの横顔が、今までに見たことがないほど寂しそうに見えた。いつもは岩みたいに揺るがない彼が、どこか遠くへ消えてしまいそうな、そんな予感。
私は思わず、彼のマントの端をギュッと掴んでいた。
「……大丈夫なんだよね? ちゃんと、帰ってくるよね?」
ベルは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの、あの不器用で穏やかな眼差しに戻った。
「ああ、もちろんだ。俺は君の相棒で、君の護衛だ。……レニーを無事に国境まで送り届けなければならないからな」
「……そっか。ならよし! じゃあ、心配しないで待ってるから。帰ってきたら寒いだろうから、スープ、冷めないように火にかけておくね」
「ありがとう、レニー」
そう言って、ベルは夜の闇に溶け込むように宿を出ていった。
◆◆◆
深夜。静まり返ったポルト・サフィールの港。
ベルはスナイプの案内で、厳重な警備が敷かれた大型帆船のタラップを音もなく進んでいた。
ギィ……という微かな床鳴りとともに、最上層にある豪華な客室の扉が開かれる。
そこには、窓から差し込む青白い月光を背負って立つ、一人の女性がいた。
潮風に揺れる銀糸のような髪、そして、悲しみと慈愛を湛えた深い瞳。
「……ベルゼルガ」
鈴を転がすような、けれど震える声が静寂を震わせた。
魔王軍の至宝と呼ばれた皇女、イシュタル姫。
「姫様……」
ベルはその場に膝をつき、深く頭を垂れた。
民宿でレニーの隣に座っていた「ベル」ではなく、一人の高潔な「騎士」としての姿がそこにはあった。
窓の外では、明日にはこの地を離れる船の帆が、夜風を孕んで小さく音を立てている。
レニーとの陸路の旅と、目の前にいる主君との再会。
運命が二つに分かれる分岐点で、ベルはただ静かに、その名を呼んだ。
「本当に……本当に、久しぶりですね。あの大戦の後、あなたの行方が分からなくなったと聞いて、夜も眠れぬほど心配していました」
イシュタル姫は、潤んだ瞳でベルを見つめた。
鈍感なベル本人が気づくことはないだろうが、その眼差しには、主従の親愛を超えた、隠しようのない恋慕の情が宿っていた。
「……身に余るお言葉です。しかし、この通り無事であります。今の俺は、すでに魔王軍を捨てた身。このような不遜極まりない男に、わざわざ書状まで寄越されたのは何故ですか」
ベルの声は、敬意を保ちながらも、どこか一線を引いた冷徹さを帯びていた。そんな彼に、姫は窓の外の暗い海を見つめ、決然と口を開く。
「単刀直入に言います、ベルゼルガ。ベリアス兄様の下についていただけませんか。兄様はこの戦乱を収め、新たな魔王になるつもりなのです」
その名を聞いた瞬間、ベルの瞳の奥が鋭く揺れた。
第3王子ベリアス。
彼は魔王の資格を得るための過酷な修行――暗黒大陸での「四つの試練」を乗り越え、今まさに本国へと帰還している最中だった。
そして何より、ベリアスはベルにとって特別な存在だった。
幼き頃から兵器として生まれた不幸な境遇にもかかわらず、何かと気にかけてくれた恩人であり、かつて戦場を駆けた戦友であり……そして、己の半身とも言える「槍」を託した、唯一無二の親友なのだから。
「……ベリアス様が、ついに帰還を」
「ええ。兄様なら、荒れ果てた魔界を、そして人間との関係を立て直せるはずです。そのためには、あなたのような忠臣が必要なのです。もう一度、兄様の『槍』となってはくれませんか」
姫の切実な訴えが、深夜の客室に響く。
ベリアスという男を誰よりも知っているベルにとって、それはあまりにも重く、抗いがたい誘いだった。
しかし、ベルは静かに頭を振った。
「お断りいたします、姫様。ベリアス様が新たな王となられるのであれば、それは慶賀の至り。ですが……今の俺は、もはや兵士ではありません」
「ベルゼルガ……」
「俺は今、ある『商人』と契約を交わしています。その方を国境まで送り届けること。それが、今の俺にとって全うすべき唯一の使命なのです」
彼の脳裏に浮かぶのは、小柄で、ちゃっかりしていて、けれど誰よりも自分を「一人の人間」として見てくれるレニーの姿だった。
ベルの瞳には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「姫様、ベリアス様は……力に心酔しすぎるのです。兄様が王座に就けば、その圧倒的な武力ですべての兄弟を屈服させ、前魔王と同じ道を歩まれるでしょう。それはすなわち、再び人類と対立することを意味します」
「そんな……。兄様はただ、混乱を収めたいだけなのです」
「ええ、その意志に嘘はないでしょう。しかし、彼のような『覇王』が君臨し続ける限り、俺のような“兵器”として生まれ、戦いの中でしか生きられない魔族が再び生み出されることになります」
ベルは静かに、しかし断腸の思いで言葉を継いだ。
「俺は、その連鎖を断ち切りたいのです。だからこそ……ベリアス様の手を取ることはできません」
イシュタル姫は息を呑み、言葉を失った。ベルが親友であるベリアスを拒む理由が、単なる怠慢ではなく、魔族と人類の未来を憂いてのことだと悟ったからだ。
「姫様、むしろ好機なのは『今』なのです。ベリアス様が不在で、魔王軍の力が分散している今だからこそ、融和路線を説くあなた様が兄君たちを抑え込み、人類と真の手を結べるはずです。血で血を洗う覇道ではなく、共存という未知の道を……」
「……私に、そんな大役が務まるとお思いですか? 私は、ただの姫でしかないのに」
「できます。あなたが慈しみを持って民を導く姿を、私は誰よりも近くで見てきました。その優しさこそが、これからの魔界に必要な光なのです」
ベルの言葉には、かつての将軍としての冷静な情勢分析と、一人の友人としての信頼が込められていた。
「俺は今の相棒……レニーと共に、この世界の隅々を見て回ります。一兵卒では見ることの叶わなかった、人々の暮らしを、感情を。いつか、姫様が結ぶ平和な世界を歩ける日を夢見て」
窓から差し込む月光の下、ベルは最後にもう一度、深く頭を垂れた。
宿で待つレニーの元へ、そして「兵器」ではなく「人間」として生きる明日へと戻るために。
「俺の名前はベルです。ベルゼルガという男は、前大戦で死にました。……それだけは、お見知り置きを」
そう言い残し、ベルは一度も振り返ることなくタラップを降り、港の闇へと消えていった。
背後では、巨大な帆船が潮風を受けて軋む音が響いている。
残されたイシュタル姫は、冷たい夜風に吹かれながら、彼が去っていった暗闇をいつまでも、いつまでも見つめていた。
(ベルゼルガ……。あなたは、私に地獄を歩めと言うのですね。けれど、あなたが信じた私を、私も信じてみましょう)
月光に照らされた彼女の横顔には、か弱き皇女の面影はもうなかった。その華奢な肩に魔界の命運を、そして愛した男が望んだ「平和」という名の重責を背負い、彼女は孤独な修羅の道へと一歩を踏み出す。
◆◆◆
一方、宿へと続く坂道を登るベルの足取りは、鉛のように重かった。
(……俺は、なんということを言ってしまったんだ)
かつて命を賭して守り抜くと誓った女性に、血みどろの権力闘争の渦中へ飛び込めと、一人で国を背負えと唆してしまった。
ベリアスの覇道を止めるため。自分が「兵器」に戻らないため。そのために、彼女に最も過酷な役割を押し付けた。
「……傲慢だな、俺は」
自嘲気味に呟いた言葉は、夜の静寂に虚しく吸い込まれていく。
手に残る書状の感触と、胸に渦巻く後悔。自分だけがレニーという光の中に逃げ込み、彼女を暗い玉座の闘争に残してきたという罪悪感が、彼の歩みを鈍らせる。
しかし、民宿の窓から漏れる微かな明かりが見えたとき、ベルはハッとして顔を上げた。
その小さな窓の向こうには、スープを温め直し、居眠りをしながら自分の帰りを待っているであろう「相棒」がいる。
後悔を消すことはできない。けれど、彼女を裏切ることもまた、今のベルにはできなかった。
「……ただいま、レニー」
口の奥で小さく呟き、ベルは重い扉に手をかけた。
平和という名の、しかしひどく残酷で、それでいて温かな明かりが灯る家の中へ。




