第六話 試すふたり
緑の深まりとともに、森の空気はいっそう清涼さを増していく。
地面を叩いていた雨はいつの間にか上がり、木漏れ日がぬかるんだ土を優しく乾かし始めていた。
「ベル、足元見て。この小さな白い花、覚えておいて。花びらにほんのり解毒作用があるのよ」
「ほう、これが……。こんなに目立たないのに、毒を制する力があるのか」
「ふふん、そうでしょ? 一見地味だけど、いざという時に頼りになる。旅の基本はこういう『小さな味方』をたくさん作ることなんだから」
私は少し得意げに胸を張り、摘み取った花を彼に手渡した。ベルはまるで壊れ物を扱うような手つきでそれを観察し、丁寧にポーチへと収める。
「こっちの太い蔦はね、根元を切ると清潔な水が出てくるの。飲み水がなくなった時の非常用に覚えておくといいよ」
「さすがはボスだ。本当に何でも知っているな」
……まただ。またその「よくできました」と言いたげな、慈愛に満ちた眼差し。
まるで年の離れた兄が妹を褒めるような、あるいは親戚の子供の成長を喜ぶおじさんみたいな……。いい加減、ここらで釘を刺しておかなきゃ。
「ねえ、ベル。ちょっとまって」
「ん? どうした、他にも何かあったか?」
ベルが即座に周囲を警戒する。その過剰な反応を片手で制して、私は彼を見上げた。
「私たちハーフット族はね、人間から見れば小柄かもしれないけど、これが種族としての立派な平均身長なの。わかる?」
「……?」
ベルは、文字通り頭の上に巨大な「?」を浮かべたような顔で私を見下ろしている。
ああ、もう! 昨夜あんなに「兵器」だった男が、どうしてこういう時だけ絶望的に察しが悪いのよ。
「つまりね……私はこれでも、もう立派な16歳の成人女性なの。子ども扱いされる筋合いはないのよ!」
勢い込んでそう告げると、自分でも驚くほど顔が熱くなった。
ベルは一瞬、瞬きを止めて固まり、それから真剣に考え込むように眉間に皺を寄せた。
「……なるほど。ハーフットとしての成人……。しかし、この愛らしさとサイズ感で人生の経験を積んでいるというのは、非常に……なんというか、難しいな、民族の差というのは」
心底困ったように、そしてどこか哲学的な悩みでも抱えたかのように呟くベル。
そのあまりに「天然」な戸惑いっぷりに、さっきまでの私の気負いが馬鹿らしくなって、ふっと肩の力が抜けた。
「……あはは! あんた、戦うこと以外になると本当にポンコツなんだから」
私が笑い飛ばすと、ベルもつられるように、ほんの少しだけ口角を上げた。
たとえ彼が、昨夜のような圧倒的な怪物としての側面を持っていたとしても。
私の隣で、花の名前を一生懸命覚え、私の背丈に困惑しているこの不器用な男も、間違いなく「ベル」なのだ。
空はいつの間にか晴れ渡り、森の奥へと続く道は明るい光に満ちていた。
私たちの旅は、まだ始まったばかり。
次はどんな難問をこの「最強の相棒」に叩き込んでやろうかと考えながら、私は軽やかな足取りで先を歩き始めた。
◆◆◆
休憩中のひととき。私はギルド公認の街道沿いにある休憩所にて、旅のついでに稼げそうな案件を探していた。
(採集に、護衛、小型魔獣の討伐……うーん、どれもパッとしないわね。もうちょっとこう、今の私たちに必要な感じの……)
端に追いやられていた、毛色の違う依頼書が目に留まったのはその時だった。
「あら、『腕試し』……?」
見慣れない項目だ。見落としていたのか、あるいは今この地方で流行っているのか。見出しには威勢のいい文字が並んでいる。
“我こそはという冒険者、戦士、モンク等の実力者求む! 模擬戦形式の試合にて、己の技を磨け。勝者には少額の賞金あり。名誉と修行を求める者、門を叩け。”
魔法描写映像紙には、屈強な戦士たちが大斧を振り回し、武闘家が風を切るような拳を繰り出す様子が映し出されていた。殺し合いではない、しかし熱のこもった「競い合い」の場。
(ふーん、これだけの実力者が集まるんだ……。報酬は雀の涙だけど……待てよ?)
私の脳内で、商人としての勘と「ベルへの教育方針」がピタリと一致した。
(これ、ベルの『トレーニング』に最高じゃない!?)
「ねえ、ベル。ちょっと聞いて」
私は岩に腰掛け、槍の手入れをしていた彼を呼び止めた。
「あんた、『試合』ってしたことある?」
ベルは手を止め、少しだけ困ったように首を傾げた。
「……試合、か。俺がこれまでしてきたのは、敵を効率よく『排除』し、陣地を『破壊』することだけだったからな。そういう、様式美のある闘いは経験がない」
「やっぱりね。でも、これは“壊さない”戦いなのよ。相手を殺さず、怪我もさせすぎず、ただ技術で上回る。……今のあんたに一番足りない練習だと思わない?」
「壊さずに、戦う……」
ベルの瞳がわずかに揺れた。あの凄惨な山賊たちの記憶を振り払うかのように、彼は自分の大きな掌をじっと見つめる。
「強い人もたくさん集まっているみたいだし、実戦形式なら体で覚えられるでしょ。魔物相手じゃこうはいかないわよ」
「なるほど……。さすがはボスだ、常に俺の先を見ているのだな。強者との模擬戦、確かに興味深い」
「でしょ? よし、そうと決まればさっそく会場へ向かいましょう! ベルにとって“ちょうどいい練習台”を、私がしっかり吟味してあげるから!」
私は勢いよく立ち上がると、スレートに表示された会場の地図を保存した。
内心では、ベルがうっかり相手を場外まで吹き飛ばさないかという不安も半分。でも、それ以上に彼が新しい世界に適応していく姿を見られることに、小さなワクワクが止まらなかった。
◆◆◆
私は会場を見渡し、今のベルに最も必要な「経験」を与えてくれそうな相手を吟味した。目に留まったのは、使い込まれた大剣を背負ったシルバーランクの戦士だ。立ち居振る舞いからして、勝ち負けよりも技術の研鑽を尊ぶベテランといった風情。……もっとも、ベルの実力からすれば、暴風の前に立つ羽虫のような差があるかもしれないのだけれど。
「よろしくお願いします、先輩! うちの新人の相手、お願いできますか?」
私が愛想よく頭を下げると、筋肉の塊のような戦士は豪快に笑って応じた。
「おっ、威勢がいいな! 新人の腕試しか、大歓迎だ。おい兄ちゃん、遠慮はいらねぇ、本気で来いよ!」
(……いや、それは絶対にやめた方がいい。文字通り、命がいくつあっても足りなくなるから)
内心で冷や汗をかきながらベルを振り返ると、彼はすでに試合場に立っていた。
「そっちの槍使いが相手か。なるほど、立っているだけで隙がねぇ……ん? 兄ちゃん、その仮面はどうした?」
戦士が不審そうに目を細める。ベルの顔を覆っているのは、さっき私が無理やり着けさせた探知阻害の魔導具だ。戦闘時の魔力放射や素顔を隠す逸品で、この手の「訳あり」が集まる場所では、裏のルートを通さずとも案外すんなり手に入る。
「えっと……ちょっと前まで戦場にいた兵士でして。顔にひどい傷があるのと、色々事情があって目立ちたくないらしいんです」
私がもっともらしい嘘を並べると、先輩戦士は「なるほどな、そういう御仁は珍しくねぇ」と、あっさりと納得してくれた。冒険者ギルドという場所は、詮索しすぎないのが暗黙のルール。いい人で助かった。
「よし、事情は飲み込んだ。俺も小細工なしでいかせてもらうぜ! さあ、始めようじゃないか!」
◆◆◆
戦士が重厚な大剣を構え、空気がピリリと引き締まる。ベルはといえば、仮面の奥で静かに息を整え、まるで石像のように微動だにしない。
(……ベル、殺しちゃダメよ、絶対によ!)
私は祈るような気持ちで、ボスの特等席――試合場の最前列からその対峙を見守った。
観客たちの期待混じりのざわめきを切り裂くように、試合開始の合図が鳴り響いた。
対峙する二人。じりじりと間合いを詰める緊迫感の中で、先手を取ったのは先輩戦士だった。
「行くぜ、小僧ッ!」
熟練の咆哮とともに放たれた、鋭い斜め斬り。そこから淀みなく繋がるフェイント、鋭く地を這う足払い、さらには死角から突き上げる裏拳――。
それは、数多の修羅場を潜り抜けてきた者にしか成し得ない、実戦仕込みの老獪なコンビネーションだった。
だが――ベルは微動だにしなかった。
押し寄せる技の奔流を、まるで実体のない風をいなすかのように捌いていく。槍の穂先すら使わない。ただ指先ひとつで、大剣の腹を弾き、相手の重心をわずかにずらし、その攻撃の「芯」をことごとく殺していく。
「くっ……なんだ、この手応えのなさは……!」
先輩戦士が焦燥にまみれた舌打ちをした。
自分の技が、相手の皮膚に触れることさえ許されない。まるで底の見えない深い沼を切り裂こうとしているかのような空虚感。対するベルは、ただ静寂を纏って立ち尽くしている。反撃の兆しすら見せない。
(……やっぱり、手を出せないのね)
私は最前列でぽつりと呟いた。
ベルの瞳はどこまでも冷静で――そして、ひどく迷っていた。
彼はまだ「壊さない」戦い方を見つけられずにいた。圧倒的な力を持つ者が、相手を慈しみながら勝利を収めるという矛盾。その難題を前に、彼は自分の拳をどう動かせばいいのか、立ち止まってしまっていた。
そんなベルの「静」の姿勢に、戦士としてのプライドが刺激されたのか、先輩が苛立ちを剥き出しにして吠えた。
「おい、舐めてんのかッ! 手を出す気がないなら試合にならねぇだろうが! 本気で来い、元兵士ッ!」
その言葉が、引き金だった。
瞬時、会場の空気が物理的な重さを伴って凍りついた。
ベルの纏う気配が、一瞬にして氷点下へと叩き落とされる。
それは殺気――いや、もはや生物的な本能すら凌駕する、戦場そのものが凝縮されたような濃密な「死」の気配。場を支配していた熱気が、一瞬にして死地のような冷徹さに塗り替えられた。
「……っ!?」
叫ぼうとした先輩戦士の喉が凍りつき、全身が石化したように硬直した。剣を握る手が、ガタガタと目に見えて震え出す。観客のざわめきも、心臓の音さえも消え失せたかのような静寂。
ベルは、ただ一歩だけ、音もなく前に出た。
たったそれだけの動作が、先輩戦士の心を完全に折った。
彼は力なく武器を下ろし、肺に残った空気をすべて吐き出すように大きなため息をついた。
「……参った。こんなもん、勝てるわけがねぇ」
力ない降伏の言葉。
審判が慌てて我に返り、震える手でベルの勝利を宣言した。
◆◆◆
「うーん、やっぱりダメだったかぁ……」
私はがっくりと肩を落として、小さくため息をついた。
わかっていたことだけど、生半可な相手では、ベルは「力を抑える」どころか、自分の存在をどう扱えばいいのかさえ見失ってしまう。蟻を踏み潰さないように歩こうとして、結局、身動きが取れずに固まってしまう巨人のようだ。
彼にとっての修行には、もっと圧倒的なまでに「上の存在」が必要なのだと、改めてその規格外の化け物っぷりを痛感させられた。
試合終了の合図とともに、ベルは憑き物が落ちたようにスッと冷徹な気配を引っ込めた。そして、まだ震えの止まらない先輩戦士に向かって、深く一礼した。
「申し訳ない。俺はまだ……手加減というものが、うまくできないんだ」
その声は、先ほどの死神のような威圧感が嘘のように、どこまでも申し訳なさそうで、ひどく不器用だった。
「……そうか。戦場での、消えない傷ってやつか……」
先輩戦士は、ベルのその不自然なほどの不器用さを、別の意味で解釈したらしい。地獄のような最前線を経験し、命のやり取りに魂を焼き尽くされ、穏やかな試合ができなくなってしまった武人――そういう「壊れた英雄」を、彼はその長いキャリアの中で何度か見てきたのだろう。
「いや……気にするな。充分だ。あの一瞬でわかったよ……あんた、本物だ」
先輩は、恐怖をねじ伏せるように苦笑いを浮かべ、自嘲気味に肩をすくめた。
私はようやく大きく胸を撫で下ろした。命を奪い合う惨劇に発展しなかった。それだけで、今日のところは十分な成果だと自分に言い聞かせる。
試合場を支配していた異様なざわめきが、波が引くように落ち着いていく。
仮面の奥の瞳に、いつもの穏やかな光を宿したベルが、トボトボとした足取りで私のもとへと戻ってきた。
お花を優しく摘むように、人と優しく戦うのはもう少し先のことになりそうだ。




