第四話 戦慄のふたり
次の街までは、まだ数日の旅程。
この道中こそ、絶好の「青空教室」だ。私は歩みを止めず、惜しみなく冒険者として必要な旅のいろはをベルに叩き込んでいく。
「ベル、あの鳥を見て。あれは群れで移動する習性があるから、必ず水場の近くに現れるの。地図がないときは、ああいう自然のサインを道標にして水源を探すんだよ」
「あの鳥が……。なるほど、理に適っている」
ベルはじっと空を見上げ、風に乗って流れる翼の影を、まるで敵陣を偵察するような鋭い眼差しで追っていた。……いや、そこまで真剣にならなくてもいいんだけど。
「それから、基本は川沿いのルートを選ぶこと。水も食料も確保しやすいし、万が一迷っても、流れに沿えば必ずどこかの集落に辿り着けるから」
「川沿い、か。……なるほどな。補給路の確保は、行軍の基本だ」
彼は本当に素直だった。私の教える些細な知恵の一つひとつに「なるほど」と深く頷き、どこから取り出したのか、懐の紙に律儀にメモまで取っている。
しまいには、以前買った安物の地図を広げ、穴が開くほど見つめ始めた。
「レニー、この円に十字が入った記号は何だ?」
「それは宿場町。安くて安全な寝床があるっていう印よ」
「では、この……もじゃもじゃとした曲線は?」
「それは等高線。起伏の激しい森や崖があるって意味ね」
「なるほど……なるほど……。実に理にかなった表現だ」
質問攻めである。その姿は、まるで夏休みの自由研究に没頭する少年のよう。戦場ではさぞかし恐ろしい兵士だったんだろうけど、今の彼はただの「熱心な生徒」だ。
「ベル、勉強熱心なのはいいけど、そんなに一気に詰め込まなくていいわよ。旅の知識は、実際に歩いて、困って、体で覚えたものこそが血肉になるんだから」
「レニーの知識は本当にすごいな。……若いのに、どうしてそんなに色々なことを知っているんだ?」
ベルが感心したように尋ねてきた。見るものすべてが新鮮なのだろう。
私は顔を上げ、少し得意げに胸を張った。
「それはね、私は小さい頃から商人の父と、冒険者の母に英才教育を叩き込まれたからよ。二人ともとにかく厳しくてね……今のベルみたいに、毎日必死にメモして、暗記して。でもね、結局は現場で失敗して、体で覚えたことが一番身についたわ」
「そうか。父と母、か……。俺にはない記憶だな」
ベルの視線が、少しだけ遠くを泳ぐ。
「ベルは、ご両親の記憶はないの?」
「父の記憶は……かすかにあるが。だが、母に関しては全くない。父からその手の話を聞いたこともないし、そもそも父とも、まともな会話らしい会話をした記憶がないんだ。俺にとっては、戦いだけが言葉だった」
「……そうなんだ」
(……そっか。即席パーティーの私が、これ以上踏み込んで聞くのは野暮かな)
一瞬、しんみりとした空気が流れる。けれど、私は湿っぽいのは苦手だ。それに、彼には前を向いて歩いてほしい。私はわざとらしく快活に笑って、彼の肩をパンと叩いた。
「いいわよ、そんな顔しないで! 記憶がないなら、私が母代わりになって、この世界のいろはを叩き込んであげるわ!」
「……母代わり、か。それは心強いな」
「ええ、任せなさい! その代わり、月謝はしっかり『護衛』という形で返してもらうからね!」
私はそう言って笑い飛ばしたけれど、心の奥では自分に言い聞かせていた。
(私は、この人の前では絶対に弱音を吐かない。しっかりしなきゃ。私が道標になるって決めたんだから)
私の知識と強気は、ベルを支えるための盾。
父親譲りの商売敵への対抗心と、母親譲りの冒険への度胸。そのすべてを総動員して、私はこの不器用な「大きな子供」を、立派な冒険者に育て上げてみせると心に誓った。
そう言うと、彼は顔を上げ、噛み締めるように真剣に頷いた。
「レニーは本当にすごいな。こんなに小さくて愛らしいのに、世界のすべてを知っているかのようだ」
…………。
「……ベル。後半の『愛らしい』はともかく、その『小さくて』っていう枕詞、どういう意味かしら?」
やっぱり、この男の中では「レニー = 優秀な子供」という図式が盤信なままらしい。
「いや、純粋に感心しているんだ。君を見ていると、俺がいかに無知であったかを思い知らされる」
悪気のない、あまりにも真っ直ぐな称賛。
これじゃあ、本気で怒るに怒れないじゃない。
「……もう、いいわよ。その調子で、しっかり私の背中を見て学びなさいよね!」
ちょっとむくれながら、私は彼の鍛え上げられた背中を軽くどついた。
ほんの少し、八つ当たりに近い力加減で。
けれど、叩いた手のひらから伝わる彼の熱が、なんだかとても心地よくて、私は誤魔化すように足早に先を歩き始めた。
◆◆◆
雨の匂いが混じった風が、洞窟の入り口を通り抜けていく。
湿り気を帯びた空気を切り裂くように、焚き火のオレンジ色の光がベルの横顔を淡く照らしていた。
「……奥で火を焚くと酸欠になる、か。死に至る目に見えない敵。戦場では意識しなかった概念だな」
ベルは感心したようにメモを取る手を動かしている。その所作の一つひとつが、まるで真っ白な画用紙に初めて色を塗る子供のように純粋で、だからこそ、その後の言葉が重く響いた。
「俺は、戦うためだけに造られた存在だと思っていた。命じられるままに敵を討ち、ただ勝利という成果だけを積み上げる……。俺にとっての『世界』は、それ以外に価値を持たなかったんだ」
パチッ、と爆ぜた火の粉が、彼の深い瞳に映り込む。
「魔王様という絶対的な指標を失い、自分の存在意義さえ霧に消えかけていた。……けれど、君に出会って、俺の世界に初めて『色』がついた気がするんだ」
淡々と、けれど祈るような静かな声だった。
ベルは焚き火から視線を外し、隣の私を真っ直ぐに見つめる。
「君が教えてくれる旅の知恵、物の価値、そして……ただの火の暖かさ。そのすべてが、俺にとっては救いなんだよ。ありがとう、レニー」
……。
…………。
(……はええええええええええっ!?)
思考が、文字通りホワイトアウトした。
何その破壊力!? 伝説の槍よりも鋭い言葉が、私の心臓のど真ん中をぶち抜いていった。
「っ……!!」
耳の先まで一気に血が上るのが自分でもわかる。ベルは、そんな私の異変に気づいて、心配そうに顔を覗き込んできた。
「レニー? 急に顔が真っ赤だが、体調が悪いのか? 」
「ち、ちがうっ! 違うから! これは、その……火力が強すぎただけ! ちょっと調整してくるっ!」
「火力? 今は弱火のようだが――」
「ああもう! うるさいっ! 修行不足よ、修行不足!」
私は支離滅裂な言葉を叫びながら、転げるように立ち上がった。
背後で「修行……? 焚き火の火を御す修行か?」と首を傾げるベルの気配を感じつつ、逃げるように水場へと駆け出す。
冷たい夜風が頬を撫でるけれど、内側から溢れ出す熱は一向に引く気配がない。
(な、なんなのよ、あの男……! 自分がどれだけ恥ずかしいこと言ったか、全然わかってないんだから!)
バシャバシャと冷水で顔を洗いながら、私は夜空を仰いだ。
……これじゃあ、どっちが「師匠」だか分からない。
戦しか知らないくせに、不意打ちで人の心を揺さぶる術だけは「超一流」なんて、反則にもほどがある。
静かな雨が降り始めた。
けれど、私の胸の鼓動は、雨音さえかき消すほどに激しく鳴り響いていた。
◆◆◆
炊事場の簡素な水場で、私は何度も顔を洗っていた。
手のひらですくった冷たい水が、ようやく頬の熱を少しだけ奪ってくれる。
(……ふぅ。まったく、あの男は)
目をつぶれば、焚き火に照らされたベルの真剣な横顔が浮かぶ。
「救いなんだ」なんて、あんな顔で言われたら、どんな鉄面皮な商人だって形無しだ。
自分でも呆れるくらい緩みそうな頬を、両手で「ぺちん!」と叩いて気合を入れる。
(どうせ私は、よく働く『子ども』くらいにしか思われてないんでしょうけど……)
ギルドでのあの受付嬢たちの熱視線を思い出す。彼がその気になれば、世の女性なんて選びたい放題なのだ。
――よし、決めた。明日からは「淑女への礼儀」って項目を、旅のいろはに追加して教育してやるんだから。
そんな、呑気で平和な決意を固めていた――その、刹那。
背後の闇から、一切の音もなく「死」の気配が躍り出た。
(……え?)
気づいたときには、すべてが手遅れだった。
「っ――!?」
背後から伸びてきた太く汚れた腕が、私の口を強引に塞ぐ。それと同時に、凍りつくような鉄の感触が喉元に押し当てられた。研がれていない、ひどく脂ぎった刃の匂い。
「動くんじゃねぇぞ、お姫様。声を上げりゃ、その細い首が飛ぶぜ」
耳元で、湿った低い笑い声が響く。
木々の陰から、カサカサと嫌な音を立てて次々と男たちが這い出してきた。
「へへっ、噂通りだ。景気の良さそうな旅人が、護衛もつけずに水場にいるってよ」
「おい見ろ、ハーフットじゃねえか。珍品だぜ、奴隷市場に流せば金貨の山だ」
粗末な革鎧に、泥にまみれたボロボロのマント。
情け容赦のない、ハイエナのような山賊たち。
(くっ……完全に、油断してた……!)
さっきまでの浮かれた熱は、一瞬で氷点下まで引き去られた。
全身を縛り付けるような恐怖と、自分の迂闊さへの怒り。口を塞がれたまま、私は抵抗も許されず、力任せに引きずられていく。
(……ベル。ごめんなさい、私……)
脳裏に、焚き火の前で「なるほど」と頷く不器用な相棒の姿がよぎる。
助けてほしい。けれど、彼が来ればこの賊たちは――。
月明かりさえ届かない深い茂みの奥へと、私は音もなく消えていった。
◆◆◆
月の光に照らされたキャンプサイトは、一瞬にして凄惨な処刑場へと変貌した。
十数人の山賊に囲まれ、私は盾としてベルの前に引き立てられる。首元に食い込むナイフの冷たさと、耳元で響く下卑た笑い。
「おい、そこのデカい兄ちゃん。このハーフットの娘が可愛けりゃ、金目のもんは全部ここに置いていきな」
「おとなしく出せば命までは取らねぇ。……もっとも、この娘を『商品』として置いていくならの話だがなぁ!」
山賊たちは勝機を確信して、汚い歯を剥き出しにして笑う。
けれど、対峙するベルの反応は、彼らの予想とは全く異なるものだった。
「……そのボロの下に見えるのは、魔王軍の紋章か」
地の底から響くような、低く、重い声。
山賊たちがわずかに怯んだ。よく見れば、彼らが纏う煤けたマントの端には、かつての魔王軍の軍章が、無惨にも引き裂かれた状態で残っている。
「へっ、気づいたかよ。だがなぁ、もうあの世に行った魔王様のために、腹を空かせて忠義を尽くす義理なんてねぇんだよ!」
「今は俺たちが自由に生きる時代だ。誇りじゃ腹は膨らまねぇんだよ、あぁん!?」
開き直った山賊たちが自嘲混じりに吠える。
彼らは気づいていない。逆光の中に立つその男が、あの私に絡んできた屈強な兵士たちが慄いた存在であることに。
だが、ベルの肩が、微かに震えていた。
「……子供一人を盾にせねば戦えぬほど、貴様らは堕ちたか。誇りも、覚悟も、そして守るべき法も……すべてを泥に棄てたか」
(ちょ、だから子供じゃないってば……って、それ今、説教するタイミング!?)
内心でツッコミを入れたのは、それが最後だった。
刹那――視界が、真っ赤に染まった。
「あ――」
温くて、生臭い、鉄の匂いのする液体が私の頬に飛び散る。
首元にナイフを押し当てていた山賊の腕から、力が抜けた。いや、腕だけではない。彼の頭部は、悲鳴を上げる暇さえ与えられず、虚空へと消し飛んでいた。
「ベル……?」
震える声でその名を呼んだとき、彼がこちらを見た。
その瞳を見た瞬間、私の心臓が凍りついた。
(なによ、……あれ……)
鈍色の瞳ではない。それは月光を吸い込み、銀色に猛々しく発光する、伝説の魔狼――フェンリルを思わせる、絶対的な捕食者の双眸。
「貴様らに、魔王軍を名乗る資格はない。……塵に還れ」
彼が動いた。
物理法則を無視したような、残像さえ残さない神速。
次の瞬間には、山賊たちの肉体が「破壊」という名の荒嵐に巻き込まれていた。
地獄は、もう、始まっていた。
ベルが動くたびに、耳を覆いたくなるような音が響く。
肉が裂け、骨が砕け、命だったものがただの「物質」へと変わっていく音。
二人がかりで襲いかかった山賊を、ベルは表情一つ変えず、左右の手に分かち、まるで紙細工のように引きちぎった。
必死に攻撃魔法を唱えていた魔導士は、詠唱が終わる前にベルの拳に捉えられ、背後の岩壁ごと粉砕された。
生き残った山賊たちは、逃げることさえ忘れ、ただ腰を抜かしてその光景を見上げている。
目の前で繰り広げられているのは、悪夢そのものだ。
けれど、私は――叫ぶことさえできなかった。
だって、そこで命を「処理」している“それ”は、間違いなく、いつも私の隣を歩いて、不器用に薬草の名前をメモしていた私の相棒・ベルなのだから。
けれど、今の彼に「優しさ」の欠片もない。そこにいるのは、感情を切り捨て、効率のみを追求した、冷徹な“兵器”そのものだった。
「ひいぃっ、化け物……化け物だあああ!!」
数人の山賊が、ようやく動いた足で蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
けれど、ベルは逃がさない。一切の怒りも、復讐心すらも見せず、ただ淡々と、逃げ遅れた背中を追う。
「……!」
一人の首を、無造作に折る。
もう一人の胸を、手刀で容赦なく貫く。
そこには情けもなければ、躊躇もない。今のベルにとって、彼らは「命」ですらない。ただ排除すべき「不純物」に見えているようだった。
そして、震えながら命乞いをする最後の山賊に、彼が足を向けた。
「やめて――!! ベル!!」
ようやく、喉の奥に張り付いていた声が出た。
ガタガタと震える脚を無理やり動かし、私は背後から、血の匂いのするベルの背中に思い切りしがみついた。
その瞬間――ベルの動きが、ぴたりと止まった。
「……レニー?」
恐ろしいほどに冴え渡っていた銀色の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
そして、ふわりと、いつもの穏やかな、少し困ったような瞳に戻った。
「怪我は……ないか? 怖がらせてしまっただろうか」
いつもと変わらない、私を気遣う穏やかな声。
その落差が、たまらなく怖くて、そして悲しかった。
「……バカッ!!」
私は、全身の力を込めてベルの硬い胸を拳で叩いた。何度も、何度も。
「なんで……なんでそんなに簡単に、人の命を奪えるのっ!? さっきのあなた、まるで――!」
声が震えて、まともに言葉にならない。溢れる涙が、視界をぐちゃぐちゃにする。
「……だが、こいつらはゴミだ。魔王軍の名を騙り、弱者を虐げるクズは、俺の手で処分しなければならない」
ベルは淡々と言い放ち、再び足を上げた。気を失って横たわる山賊の頭を、今度こそ踏み潰そうとして。
「だめえっ!!!」
私は必死に、彼の腕にしがみついた。なりふり構わず、裂けんばかりの声を張り上げる。
「ベル……! あなたは、こんなことをするために、私と一緒にいるんじゃないでしょ!?」
「……!」
「変わろうとしてたじゃない! 兵士じゃなくて、旅人として、冒険者として生きようとしてたじゃない! それを今、自分の手で壊してどうするのよ!? もう、あなたが人を物みたいに壊す姿なんて、見たくない……!」
涙でぐしょぐしょの顔で、私は叫び続けた。
「お願い……戻ってきて。私の知ってる、不器用で、優しいベルに……!」
私の必死な声が、彼の奥深くに届いたのだろうか。
振り上げられていたベルの足が、静かに、地面へと下ろされた。
「……すまない、レニー」
零れ落ちたその声は、ひどく掠れていて、どこまでも人間臭い後悔に満ちていた。
その響きに、私は安堵でまた、新しい涙をこぼした。




