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第十一話 振り返らないふたり

 あれから、三ヶ月の月日が流れた。


 実はあのウェンディゴの一件の後、私はすぐにでも国境の峠を越えるつもり満々だったのだ。けれど、現地の年老いた猟師たちに「ハーフットの娘っこがこの時期の雪山に挑むなんて、本気の自殺志願者か」と涙目で止められてしまった。魔族であるベルだけならいざ知らず、人間の、それも小柄な私が吹雪の冬山に入るのは物理的に不可能なのだという。

 結局のところ私たちは、国境の手前にある「チェルノボ連邦」の小さな村で、冬を越すための足止めを余儀なくされることになった。


 けれど――その三ヶ月という時間は、私たちにとって決して無駄な空白ではなかった。


 ベルは、これまでの人生で溜まりに溜まっていた鬱憤を晴らすかのように、毎日のようにギルドへ通っては数多の討伐クエストを片っ端からこなしていった。今や村の誰もが、困ったときには彼を頼る「最強の守護戦士」だ。

 とりわけ一ヶ月前、近くの山脈を根城にして村を脅かしていた巨大なアイスドラゴンを、彼がたった一人、自慢の雷槍だけで屠って帰ってきたときの騒ぎといったらなかった。村中がひっくり返るような大宴会になり、おばちゃんたちに囲まれて困惑していたあの時の彼は、文句なしの、村の英雄だった。


 一方の私も、ただキャトルの上で彼の戦果を呑気に眺めていたわけじゃない。

 商人としての熱い血がふつふつと騒ぎ、村の一角にある古い空き家を借り受けて、小さな仮店舗を構えてみたのだ。ベルが討伐のついでに雪山から採取してきてくれた珍しい薬草や魔獣の素材――それを私が調合・加工し、特製の魔道具やハーブ石鹸、高純度の回復ポーションとして売り出すと、これが予想を遥かに超える大ヒット!

 極寒の地で肌荒れや怪我に悩んでいた村人たちに飛ぶように売れ、私はすっかり「チェルノボのやり手看板娘」として、村の経済を激変させるほどの一石を投じていたのだった。おかげで、あの一頭買いでスッカラカンになったお財布は、今や冬前よりもずっしりと重い。


 そして、長く、どこまでも厳しかった冬が、ようやくその重い幕を閉じようとしていた。

 冷たく凍てついた死の大地だったチェルノボにも、柔らかく穏やかな春の陽光が降り注ぎ、あちこちで雪解けの川の音が心地よく響き始める。


 地表を覆っていた白銀が緑へと姿を変え、ようやく、あの険しい国境の峠を越えられる季節がやってきたのだ。


 ◆◆◆


「……なんだか、少し名残惜しいわね」


 三ヶ月の間、私たちのささやかな城であり家でもあった仮店舗。その手作りの看板を壁から外し、長毛キャトルの大きなバックパックへ丁寧に詰め込みながら、私はぽつりと呟いた。最初は足止めのための村だったけれど、去るとなれば、胸の奥が少しだけチクリと痛む。


「ああ。温かい場所だった。……だが、俺たちの旅はまだ途中だ」


「そうね! さあ、出発しましょう、ベル。やっと、本当の目的である国境の峠を目指せるんだから!」


「ああ、行こう、レニー」


 朝もやの中、お世話になった村の人々に盛大に手を振られ、見送られながら、私たちは再び北へと進路を取った。


 世界の中心――魔王領の奥深くでは、今まさに「次世代の魔王」の座を巡る、王子たちの血生臭い権力闘争が本格化し、きな臭い暗雲が渦巻いているはずだった。けれど、雪解けの爽やかな春の風に吹かれて歩き出した私たちには、まだその不穏な報せは届いていない。


 ただ、新しい季節の生命力に満ちた匂いと、すぐ隣を歩く相棒の、力強く確かな足音だけが、今の私たちの世界を優しく支配していた。


「見て、ベル! あの山菜の新芽、あそこ。崖の隙間に生えてるやつ! あれは新鮮なうちに摘んで乾燥させておけば、街の薬屋で銅貨一枚にはなるわよ。それにね、衣をつけて油で揚げて食べると、サクサクして最高に美味しいんだから!」


「見て、ベル! あの鷹の飛び方、よく覚えておいて。あの子が低空で小さく旋回し始めたら、それは雨の前触れ。でも今はあんなに高いところで気持ち良さそうに風に乗ってるでしょ? だから、今日は一日最高の快晴よ!」


 久しぶりに再開した、街道での二人きりの旅路。私はここぞとばかりに、冬の間に頭の中に溜め込んでいた「旅人の豆知識」を、弾んだ声でベルに披露していた。あの過酷な冬を越え、お互いの重い過去を共有し合ったからだろうか。以前の旅よりもずっと、二人の間の空気が柔らかく、肩の力が抜けているような、そんな気がする。


「……ふふ、どうしたの? さっきから感心したみたいに黙っちゃって」


「いや。……こういうのも久しぶりだと思ってな。相変わらずレニーの話はためになるし、聞いていて退屈しない」


 黒髪を春風に揺らしながら、ベルはどこか嬉しそうに、ひどく穏やかな表情で私を見つめていた。戦場しか知らなかった大男の横顔は、今や完全に、一人の優しい旅人のそれだった。


「そう? えへへ、もっと褒めてもいいのよ! この時期の山道にしか手に入らないお宝って、本当に多いんだから。しっかり覚えておくと、いつか絶対役に立つんだからね!」


「ああ。ボスの教えだ、深く胸に刻んでおく」


 互いに笑い合いながら、緑が芽吹き始めた緩やかな山道を登っていく。足取りは羽のように軽く、春の陽光はどこまでも心地いい。


 ――日常の尊さを噛み締めるような、そんな満ち足りた時間だった。

 あんな、世界の理を揺るがすような「最悪の事態」が、すぐ目の前まで迫っているなんて。

 この時の私たちは、夢にも思っていなかったのだ。


 ◆◆◆


 ようやく峠の頂上に辿り着き、一気に視界が開ける。

 眼下には、この旅の最終目的地である国境の大きな街が、うっすらとした春霞の中にぼんやりと浮かび上がっていた。あそこまで降りれば、待ちに望んだ国境の門はもう目と鼻の先だ。


「ついに見えたわね! さあ、このまま一気に坂を降りちゃいましょう……って、ベル?」


 声を弾ませて隣を振り返った私は、言葉を失った。ベルの足は完全に止まっていた。街とは正反対の方向、さらに遥か北の空を、見たこともないほど険しい顔で凝視している。


「どうしたの? 何か忘れ物でも思い出した?」


「……戦火だ。遠く、地平の彼方に……戦独特の、重く昏い黒煙が立っている」


 私は必死に目を凝らし、霞む地平線を睨みつけたけれど、そこにはただ春の青空が広がっているようにしか見えない。人間の、それもハーフットの私には届かないはるか遠くの「現実」を、魔族としての、そして「四天王」としてあまたの戦場を統べてきた彼の超常的な視力は、正確に捉えていた。


「戦火って……まさか、人間と魔族の戦争がまた始まったの?」


「いや。あの煙の上がり方、そして方角……あれは間違いなく、身内同士の『内戦』だ」


「内戦……!」


 その不穏な響きに、私の背筋にゾクリと冷たいものが走った。

 それはつまり、先代の魔王が崩御して以降、危うい均衡を保っていた魔界のパワーバランスがついに崩壊したことを意味していた。血で血を洗う権力闘争――「次期魔王」の座を巡る凄惨な兄弟喧嘩が、ついに表舞台で本格的に火を噴いたのだ。


 私たちが浸っていた穏やかで優しい春は、この峠の頂上までしか続いていなかった。


「ねえ、ベル……」


 口を開きかけて、私は喉の奥で言葉を飲み込んだ。

 本当は、たった一行、確かめたい問いがあった。「あっちに行かなくていいの?」という言葉が、どうしても唇からこぼれ落ちてくれない。


 もし、彼がその問いに「行かなければならない」と答えたら?

 かつて背中を預け合った親友ベリアスが、そして彼が命を賭して守ると誓ったイシュタル姫が、今まさに血みどろの内戦の渦中に放り込まれているのだ。それを知ってなお、彼はこのまま私の隣にいてくれるのだろうか。


 最初の頃の、打算だけで動いていた私なら、きっと迷わず「途中で契約破棄するなら、違約金は二倍よ!」なんて平気な顔で突きつけていたはずだ。でも、今は違う。彼のあまりに壮絶で悲しい生き様を知り、あの過酷な冬を文字通り家族のように支え合って越えてきた。私にとってベルは、単なる「雇われの用心棒」なんて枠を疾うに超えて、この世界で最も失いたくない、代わりのきかない大切な存在になっていたから。


 彼が、私の手の届かない遠い戦場へ行ってしまうのが、たまらなく怖かった。


 言い出せないまま、ぎゅっと拳を握りしめて俯く私の心を、彼はすべて読み取っていたのだろう。

 ベルはふっと視線を北の空から逸らすと、私の頭の上に、その大きな、温かい手をそっと置いた。


「大丈夫だ、レニー。……俺は、あそこへは行かない」


「え……?」


 驚いて見上げる私に、ベルは自嘲気味に、けれどどこまでも静かに微笑みかけた。


「今の俺があの戦場に現れてみろ。結局、現場が余計に混乱するだけだ。『あの処刑人が戻ってきた』と敵味方が怯えるか、あるいは過剰な期待を寄せて血を流すか……。どちらにせよ、それは残された彼らの自立を妨げることになる」


 ベルは再び、遠くかすかに煙る地平線を見つめ直した。その白い髪を揺らす瞳は、悲しいほどに理知的で、そして誰よりもあとに残してきた者たちの未来を想っていた。


「それに……俺たちは、あの方……魔王様に頼りすぎていたんだ。痛みを知り、裏切りを乗り越え、自分たちの足で立ち、成長していく。国も、人も、魔族も……本来はそうあるべきだろう? 俺の戦いは、もう終わったんだ」


「……う、うん。そうだね。ベルの言う通りだよ」


 胸の奥に澱のように溜まっていた重たい塊が、彼の言葉で、すうっと解けていく。私は泣きそうになるのを堪えてわざと明るい声を作り、いつものようにふんっと鼻を鳴らした。


「それにさ! あんた、私にまだ諸々の貸しを返してもらってないんだからね! 借金を踏み倒して戦死なんて、商人の私のプライドが絶対に許さないわよ!」


 私の精一杯の、そして不器用な引き留めの冗談。

 それを聞いたベルは、私にだけはっきりと見せてくれるあの穏やかな顔で、嬉しそうに相槌を打った。


「……そうだったな。ボスに莫大な借金を残したままでは、あの世で待つ部下たちに合わせる顔がない」


「当たり前よ! さ、湿っぽいお話はここまで! 国境の街の酒場まで、どっちが先に着くか競争よ!」


 私は長毛キャトルの手綱を軽く引き、わざとらしく前へと駆け出した。

 ベルが背負った過去の十字架の重さも、今まさに遥か彼方で起きている動乱の激しさも、この春の陽光がすべてを綺麗に消し去ってくれるわけじゃない。世界は相変わらず残酷で、不穏なままだ。


 それでも。彼が今、私の隣に「ここにいる」と、自分の意志で選んでくれたことが、今の私には何よりも嬉しく、誇らしかった。


 ◆◆◆


 中継都市「デルフィネス」。

 古の神殿を彷彿とさせる白亜の美しい石造りの建築群と、幾重にも重なる大街道が交差するこの都市は、あらゆる種族の思惑と大陸中の物資が交錯する「世界の交差点」と呼ばれていた。


 私たちは街の大きな城門の入り口で、この長い冬の過酷な旅を文字通り文字通り命がけで支えてくれた、愛用の長毛キャトルと別れることにした。


「デルフィネスから先はガラッと温暖な気候になるからね。あんたのその立派なもこもこの毛並みじゃ、この先は茹であがっちゃうもん。……今まで本当にありがとうね」


 私が寂しさを堪えて鼻先を撫でてあげると、キャトルは名残惜しそうに私の頭を大きな舌で舐めた。ちょうどこれから過酷な北を目指して出発しようとしていたベテランの商人が、頑丈な運搬用キャトルを探していたため、相場より少し色をつけて良い値で買い取ってもらった。

 さらば、私たちの暖炉になってくれた相棒。あんたのふかふかの毛並みのおかげで、私たちは凍死せずにここまで来られたわ。


 キャトルと別れた私たちは、徒歩で街の中心部へと向かった。

 一歩、また一歩と街の奥へ進むにつれ、周囲の喧騒はまるで地鳴りのように地を震わせ、密度を増していく。


「ちょっとぉ……! 人が多すぎて、私の視界、完全に荒くれ者のお尻と荷馬車の車輪だけなんだけど! 埋もれて窒息しちゃうよぉ!」


 前後左右を大柄な異種族の戦士や巨大な荷馬車に挟まれ、文字通り人の波に揉みくちゃにされながら、私は悲鳴を上げた。ハーフットのサイズ感にとって、大都市の人混みはただの災害だ。


「レニー、俺が担ごうか? その方が視界もいいだろうし、踏まれる心配もない」


 隣を歩くベルが、何でもないことのようにひょいと両腕を差し出して提案してくる。


「いや! それは絶対にやめとく! なんかこう、人間としての尊厳というか、プライドが失われる気がするし! ……っていうか、私、こう見えても成人女性なんだから、流石に街中で担がれるのは恥ずかしいわよ!」


 私が顔を真っ赤にして全力で抗議すると、ベルは「そうか……」と少し残念そうに首を傾げた。


「では、せめて俺から絶対に逸れないようにしてくれ」


 ベルは私の半歩前へと進み出た。そしてその圧倒的な威圧感で、荒波のように押し寄せる人混みを真っ二つに割る、頼もしすぎる「動く防波堤」となってくれた。彼の背中の後ろだけは、驚くほど風通しが良くて安全だ。


 だが、彼の背中に守られながら歩き進めるうちに、私はある異変に気づいた。

 この地響きのような喧騒は、活気ある大都市のそれとは明らかに違っていた。人々の声に混じっているのは、熱気ではなく、焦燥と、恐怖と、飢えだ。


 街の中央広場や、白亜の建物の影にある路地裏には、内戦によって故郷や居場所を失った難民たちが、いたるところに無数の即席テントのコロニーを作っていた。さらに、戦火の激化に伴って方々から命からがら流れてきたであろう、角や牙を持つ魔族の難民までもが人間に混じり合っており、街の治安は目に見えて悪化し、ピリピリとした一触即発の空気が漂っている。


 何より異様だったのは、その不穏な街を行き交う者たちの、ベルに対する「反応」だった。


 行き場をなくした浮浪者や難民に混じって、戦後食い詰めて用心棒や傭兵に身を落としたらしい、元魔王軍兵士と思わしき男たちがちらほらと屯していたのだが――彼らはベルの姿を一目見るなり、まるで幽霊でも見たかのように顔面を蒼白にさせたのだ。


「ひっ……! 『処、処刑人』……!?」


 ある男は抱えていた盗品まがいの荷物をその場に放り出し、路地裏の奥へと脱兎のごとく逃げ出した。またある男たちは、ベルと絶対に目を合わせないようにその場に深くうずくまり、「自分はただの白い石の壁です」と言わんばかりに気配を消してガタガタと震え、死んだふりを始めている。


「……ベル、あんたやっぱり隠居するには有名人すぎるわよ。その規格外の威圧感でバレバレじゃない」


「……これでも、気配を消しているつもりなのだが。やはり、本物の戦場を生き残ってきた者たちの記憶までは欺けないらしい」


 ベルは困ったように大きな肩をすくめてみせたが、その切れ長の瞳には、どこか深く沈痛な色が混じっていた。


 彼がかつて、命を奪うための兵器として戦場に君臨していたという消せない事実。そして、その結果として、怯え、食い詰めてここに流れ着いた同胞たちの姿。

 ここデルフィネスには、私たちが雪解けの春を謳歌していたその影で、今なお終わりを見せない、残酷な戦後の爪痕が深く、生々しく刻まれていた。



 ◆◆◆


「二人で、に、2ギルだぁ!?!?!?」


 宿のフロントで宿泊代を提示された瞬間、私の魂の絶叫が白亜のロビーに響き渡った。あまりの衝撃に本気で目眩がして、思わず大理石のカウンターにガタガタと手をつく。

 大都市だし、内戦のせいで物価が上がっているのは覚悟していた。していたけれど……いくらなんでも、この金額は私の予想の斜め上を突っ走りすぎている!


「おいおい、嬢ちゃん、そんなに驚くなよ。外の惨状は見てきただろう?」


 宿の親父は、私の懐事情を完全に見透かしたような、実に嫌らし〜い商売人の笑みを浮かべて肩をすくめた。


「今のデルフィネスは、まともに寝る場所もない難民や、いつ背中から刺してくるかわからない命知らずの荒くれ者で溢れかえってるんだ。もちろん、これより安い宿はいくらでもある。だが……嬢ちゃん、あの地獄みたいな路地裏のテントで、その小さな身体を丸めて夜を明かしたいか? うちの売りは、魔族の襲撃だって防げる強固な障壁と、絶対の安全だ」


「ぐぬぬぬぬ……ッ! 足元見やがって、この悪徳商人……!」


 悔しいけれど、親父の言うことは一理ある。今の治安が最悪なデルフィネスで、ハーフットの私が無防備に野宿なんてしたら、明日には身ぐるみ剥がされて奴隷市場行きだ。私は財布をぎゅっと握り締め、涙目で親父を睨みつけた。


「……いいわよ! 払えばいいんでしょう、払えば! その代わり! こんだけふんだくるんだから、夕飯には最高級のワインくらいつけてくれるんでしょうね!?」


「ははっ、嬢ちゃん、そりゃあ無理だ。うちは一応高級宿だが、このご時世、まともな酒は仕入れるだけでも一苦労でね。……まぁ、そのちんちくりんな身体に似合わない威勢の良さに免じて、グラス一杯くらいならおまけしてやるよ」


「グラスじゃなくてボトルよ! ボトル一本!」


「ぐっ、……おいおい、ハーフットの癖になんて強欲な交渉術だ。わかった、わかったよ! ボトル一本、つけてやる! だからほら、前払いだ、きっちり2ギル、置いていきな!」


 ジャラリ、と財布から重たい金貨が消えていく。私の血と汗と涙の結晶が……。

 このままじゃ、チェルノボの冬の仮店舗で必死に稼ぎまくった路銀も、あっという間に底をついてしまうわ。とっととデルフィネスでの用事を済ませて、一刻も早くここを脱出しなきゃ。私は心の中で、明日からの血も涙もない超・節約生活を固く誓った。



 宿の最上階。高いだけあって、部屋の防音と安全性は確かだった。

 その少しだけ贅沢な部屋の窓辺で、ベルは物言わぬ大石像のように佇み、夕闇に包まれつつある街の喧騒を静かに見下ろしていた。


 日が落ちるにつれ、デルフィネスの至る所で、難民たちが熾す調理の濁った煙が上がり始める。だが、それ以上にベルの目を引いたのは、その煙の向こう――さらに北の地平線から、目に見えない圧力となって街へと押し寄せてくる、内戦の昏い気配だった。

 かつて自分が先頭に立って戦った「前大戦」の傷跡は癒えるどころか、今なおこうして、同胞である魔族たちの心と生活を生々しく蝕み続けている。


(……きっとイシュタル様なら、いつか我々魔族に、戦いに依存しない明るい未来を見せてくださる。それまで、この痛みは新しい時代を迎えるための、避けられぬ産みの苦しみなのだろうか。そして……ベリアス様。貴方は今、あの黒煙の向こうで、何を想い、どこを目指してその大剣を振るっておられるのですか)


 ベルがそんな風に、魔族の行く末と、かつて背中を預け合った旧友への切ない想いに耽っていた、まさにその時。


「ベル! 待たせまくりのお夕飯、相当豪華になりそうだよ! 金貨の元、死ぬ気できっちり取らなきゃね!」


 背後から、深刻な空気なんて微塵も感知していないレニーの、底抜けに明るい声が飛んできた。

 ベルがハッとして振り返ると、そこには宿特製のメニュー表を片手に、獲物を狙う獣のように目を爛々と輝かせた、我がボスの姿があった。


「いい? 食べ放題のパンは当然として、スープもおかわり自由。メインのローストビーフは、あんたのお腹がはち切れるまで注文し続けるからね!」


 あまりの切り替えの早さと、どこまでも逞しい現実主義のハーフットを前にして、ベルは一瞬呆気にとられた。けれど、彼女のその突き抜けた屈屈のなさに、胸の奥に凝り固まっていた暗い迷いが、音を立てて解けていくのを確かに感じた。

 ベルの口元に、ふっと自然な笑みがこぼれる。


「ああ。わかった、ボス。宿の厨房の肉の備蓄が、完全に枯渇するまで食い尽くしてやろう」


「あら、良い返事じゃない! わかってきたじゃないの。それこそが我がエコーイングベルズの商売人魂よ!」


「……商売人魂とは少し違う気がするが、まぁ、ボスが良いと言うならそれでいい」


 二人の晴れやかな笑い声が、高い宿泊代を払った少しだけ贅沢な部屋に響き渡る。


 窓の外では、魔界を揺るがす内戦の嵐が吹き荒れようとしていた。世界は相変わらず残酷で、不条理だ。

 けれど、この分厚い障壁に守られた部屋の中だけは、スープの温かい湯気と共に、どこまでも穏やかで優しい夜が更けていった。

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