第十二話 突き進むふたり
翌朝。デルフィネスの空はどこまでも高く、抜けるように晴れ渡っていたけれど、私の頭の中はそれとは真逆の荒れ狂う大嵐だった。
「うぅ……頭が、頭が割れそう……。あの親父、『高級宿のワイン』なんて言っておいて、絶対に粗悪な醸造酒を出したわね……うぐぐ……」
慣れないワインを「元を取る!」と意気込んでボトル半分も空けてしまった自業自得の報いだ。ズキズキと不快に響くこめかみを両手で押さえながら、私はベルに引かれるようにして、なんとか宿の重厚なドアを出た。目指すは国境の手前にある北西の街。そこを越えれば、ついに悲願の国境門だ。
けれど、白亜の街並みを包む朝の雑踏に一歩踏み出した瞬間、隣を歩くベルの纏う空気が鋭く一変した。
「……レニー。つけられているな」
「え? つけられてる……? 宿代なら、昨日泣く泣く前払いで払ったわよ……」
「違う。この気配、間合いの詰め方……魔王軍の者だ。それも複数、周囲の路地からこちらを完全に囲い込もうとしている」
ベルの低い囁きに、頭を覆っていた二日酔いの霧が一気に吹き飛んだ。
目の端でそっと周囲を盗み見れば、確かに着ているものは粗末な平民や難民の服だが、その無駄のない立ち姿や殺気立った視線の配り方が、明らかに「訓練された兵士」のそれである連中が、じりじりと、けれど確実に私たちの挟撃ルートを塞ぐように距離を詰めてきている。
「ベル、どうするの!? ここでまともにやり合うの!?」
「いや。この混雑した街中で暴れれば、無関係な難民や住民に被害が大きすぎる。……レニー、少し失礼するぞ」
「え? ちょ、ちょっと何をするつも――!?」
次の瞬間、私の世界が激しく揺れ、視界が上下逆さまになった。
ベルが私の腰をひょいと持ち上げると、まるで麦俵か干し肉の袋でも担ぐような圧倒的な気軽さで、そのまま右肩へとひっかつぎ上げたのだ。そして空いた左腕には、私たちの全財産と商品が詰まった重いリュックをガッシリと抱え込んでいる。
「舌を咬まないよう、しっかり掴まっていろ!」
「ちょっとベル!! 昨日『担ぐのは嫌』って言ったでしょ!? 尊厳が、私の女子としての尊厳がああぁぁぁ!!」
「耐えてくれ!」
私の必死の抗議なんて、一瞬で風の音にかき消された。
ベルは強靭な脚力で石畳の地面をドンッと爆音と共に蹴ると、重力なんてこの世に存在しないかのような圧倒的な跳躍で、頭上の民家の屋根へとひとっ飛びに舞い上がった。
「うわぁああああああッ!?」
パァンッ、と赤瓦が砕ける小気味よい音が響き、視界と風が猛スピードで後ろへと流れていく。
建物から建物へ、まるで一匹の巨大な肉食獣が獲物を追うような、一切の迷いがない足取りで屋根の上を疾走するベル。担がれている私の視線からは、眼下の通りで「追え! 屋根の上だ! 処刑人を逃すな!」「な、なんだあの速さは!?」と叫びながら乱闘騒ぎを起こし、慌てふためく兵士たちの姿がぐんぐん遠ざかっていくのが見えた。
「捕まるわけにはいかないからな。……ボス、大丈夫か?」
「尊厳以外は、なんとか無事よおぉぉぉ!!」
朝日を浴びる白亜の屋根々々を駆け抜ける、大男と担がれた少女。
こうして私たちのデルフィネス脱出劇は、またしても大騒動と共に幕を開けたのだった。
◆◆◆
二日酔いで三半規管が完全にイかれていた私にとって、この縦横無尽の異常な浮遊感は地獄以外の何物でもなかったけれど、私を担ぐベルの足取りは驚くほど安定していた。まさに風。かつて数多の修羅場で「処刑人」と恐れられた男の、一切の無駄がない戦場を駆ける身のこなしだ。
「……よし、撒いたようだな」
数分後。デルフィネスの喧騒が遥か遠くに小さく聞こえる路地裏の物陰に、ベルは音もなく静かに着地した。
「……うぐっ、ゲ、ゲホッ……。ベル……あんた……次は……どんなに高くても……馬を……馬車を雇うからね……うぅ……」
地面に下ろされた私は、尊厳どころか胃の中のワインまで全て失いそうになりながら、生まれたての仔鹿のように膝をガクガクさせ、ふらふらと近くの壁に手をついた。
ベルは申し訳なさそうに「すまない」と私の背中をさすりつつも、その鋭い視線は先ほどまでいた街の方角、そしてこれから向かう先へと素早く走らせていた。
息を整えながら敵の警戒網の隙間を縫うように進み、デルフィネスの喧騒を完全に離れた私たちは、気づけば不気味なほどの奇妙な静寂に包まれていた。
たどり着いたのは、かつて高度な文明が存在したことを物語る、風化した白亜の巨柱が立ち並ぶ古代都市の遺跡群だった。乾いた砂を噛むような寂涼とした風が吹き抜け、人っ子一人いない静けさが漂っている。
「……はめられたか」
立ち止まったベルが、低く絞り出すように呟いた。
「え……? はめられたって、どういうこと……?」
「あの兵士たちだ。俺の逃走経路を最初から完全に読んでいた。あえて深追いして追い込まず、この障害物の少ない場所へと誘い込まれたのだ」
ベルは逃げるのを完全にやめた。身を隠す遮蔽物の少ない広大な遺跡。まるで、最初からここで「誰か」が自分を待っていることを確信しているかのように、彼は覚悟を決めた足取りで、導かれるままに遺跡の中央へと歩を進めた。
崩れかけた巨柱の回廊を抜けると、そこには古代の円形闘技場を彷彿とさせる、広大な石造りの広場が広がっていた。
そして――私はその光景に息を飲んだ。
擂鉢状の石段を埋め尽くすように整列していたのは、重厚な漆黒の甲冑に身を包み、殺気を放つ魔王軍の精鋭精鋭たち。
そして、広場の中央。本来なら神像が置かれていたであろう、一段高く削り出された台座を玉座に見立て、一人の男が傲然と鎮座していた。
◆◆◆
燃えるような真紅の髪。彫刻のように美しく整っていながら、腹を空かせた猛獣のような恐ろしい鋭さを秘めた美貌。男がただそこに座っているだけで、周囲の大気がジリジリと熱を帯びて歪むような、逃げ場のない圧倒的な覇気。
「……ベリアス様」
ベルの声が、かすかに震えていた。
「ベリアス!? あれが、あの……!」
私の隣で、ベルの体が今まで見たこともないほどカチコチに強張っている。
かつて地下の檻から彼を救い出し、共に凄惨な戦場を駆け抜け、そして「俺の右腕」と誇り高く呼んだ男。
魔王軍第3王子、ベリアス。
ベリアスは閉じていた瞳をゆっくりと開いた。その眩い金色の眼光が、まっすぐにベルを射抜く。
「……遅かったな、ベル。主を三ヶ月もこの退屈な場所で待たせるとは、随分と不義理な『右腕』になったものだ」
ベリアスの声がコロシアムに響いた瞬間、周囲の石段を埋め尽くす千の漆黒の兵たちが、一斉に槍の石突きを地面に打ち鳴らした。ドォンッ、と腹に響く地響きが古代の遺跡を揺らす。
二年の沈黙を破り、伝説の主従が、滅びの遺跡でついに相見えたのだ。
「……俺は、暗黒大陸に眠る四つの古代試練をすべて踏破してきた。この混沌とした世界を再び、正しき理と圧倒的な武の下で制するためにな。俺が第二の魔王として返り咲く。わかるな、ベルゼルガ。これは抗えぬ必然だ」
ベリアスの放つ言葉の一つひとつに、物理的な重圧を伴う膨大な魔力が籠もっていた。魔力に疎い私ですら、胸の奥を大きな手で直接力任せに握りつぶされているような、恐ろしい圧迫感に膝がガクガクと震えた。
「さあ来い、ベル。かつてのように俺の右腕として、俺の隣に立て。世界を平定する真の覇道は、今この瞬間から始まる」
私の隣で、ベルの全身に凄まじい緊張が走るのが痛いほど伝わってきた。彼は目を閉じ、一度だけ深く、長く息を吐き出した。そして目を開けた時――そこにあったのは「処刑人」の顔ではなく、あの日、極寒の雪山の宿で私に見せた「一人の意志ある男」の顔だった。
彼はかつての主を、逃げずにまっすぐに見据えた。
「……いいえ、ベリアス様。私はすでに軍を脱し、牙を折った身。今の貴方が歩もうとする血塗られた道に、お供することはできません。それに……」
ベルの声は静かだったが、どんな鋼よりも硬く、冷たかった。
「……貴方は、魔王の器ではありません。新時代の王になるには、あまりに力不足です」
「……何だと?」
ベリアスの眩い金色の瞳に、周囲の空間ごと焼き尽くすような凍りつく怒りの炎が宿った。周囲を囲む千の兵たちが、主君の恐ろしい逆鱗に触れたことを察して、一斉に息を呑み、ビクビクと身を縮める。
「新時代の魔王は、もはや武力や恐怖だけでは成り立ち得ない。そう……次世代の玉座に座るべきは、イシュタル姫様こそが相応しい。俺は、そう確信しています」
「……今、何と言った?」
ベリアスの全身から漏れ出した怒りのオーラが渦を巻き、古代遺跡の空気がパンッ、パンッと爆ぜるように揺れる。しかし、ベルは一歩も引かなかった。
「先代魔王様による統治は、ただの暴力ではありませんでした。王子たちは、ここ数百年の間に築かれた『力による安寧』に甘えすぎたのです。しかし、その力任せの考え方はもう、とっくに古びて潰えた。だからこそ……我々は圧倒的な戦力を持ちながら、人類に……勇者軍に敗北したのではないですか」
「…………ふん」
ベリアスは激昂して襲いかかるかと思いきや、鼻で冷たく笑い、恐ろしいほどの静寂を保ったままベルの言葉を待った。かつての右腕が、自らの命を賭して何を語ろうとしているのかを見極めるかのように。
「新時代の王になるには、破壊の力だけではあまりに足りない。イシュタル様が生まれ持った、あの全てを包み込むような輝く慈愛の魔力……。あれこそが、この血塗られた戦乱を収め、魔族を導くために、今の私たちに必要な唯一の光なのだと俺は信じています」
ベルの言葉が、風化しかけたコロシアムの石柱に染み渡るように静かに響き渡る。
かつて共に赤子の頬を優しく撫で、「この小さき温もりを守ろう」と誓い合ったあの日。ベルは今、その譲れない誓いを、ベリアス自身に正面から突きつけたのだ。
一陣の乾いた風が砂を巻き上げて吹き抜け、場を支配したのは、息もできないほどの重苦しい静寂だった。
◆◆◆
ベリアスは、脇に控えていた側近の手から巨大な真紅の長剣――「魔剣レーヴァテイン」を無造作に奪い取った。そのまま、石造りの台座からゆっくりと腰を上げ、審判を下す死神のような、重々しくも確かな足取りで一段ずつこちらへと歩み寄ってくる。
「……貴様の言いたいことは痛いほど理解した。だがベル、理屈や理想だけで世界が動くほど、現実は甘くない。それはお前自身が、誰よりもその身に刻んできたはずだ」
ベリアスの全身から、制御不能なほどの膨大な魔力が暴風となって溢れ出した。
燃えるような赤髪は逆立ち、周囲の大気がバチバチと音を立てて焦げ始める。擂鉢状の石段を埋め尽くしていた精鋭兵たちでさえ、主君が放つあまりに苛烈で絶対的な威圧感に耐えきれず、悲鳴を上げてガタガタと震え、その場に膝を折る者が続出した。
「狂い咲け、レーヴァテイン。我が覇道に立ち塞がる不義理な右腕を、その魂ごと焼き尽くせ」
猛烈な咆哮とともに、ベリアスの巨大な肉体がさらに膨張し、恐ろしい変貌を遂げていく。
立ち昇る真紅の業火を全身に纏った、神話の巨獣――圧倒的な威圧感を誇る「炎のワーライオン」。その前足には炎そのものと化した魔剣が握られ、その威容はまさしく絶望の象徴であり、次期魔王として君臨する覇者の姿そのものだった。
「……ベル……っ」
私はベリアスが放つ圧倒的な熱波と、空気を押し潰す重圧に耐えかね、立っていることすらできずにその場に両膝をついた。極度の緊張で喉がカラカラに干からび、声が狂ったように震える。行かないで、と叫びたかった。けれどそれ以上に、目の前でベルが跡形もなく壊されてしまうのが、たまらなく怖かった。
ベルは、恐怖に身を竦ませて跪く私の肩を、そっと大きな手で叩いた。そして、迷いのない足取りで私を背にかばい、一歩前へ出た。
「……行ってくる、レニー。俺たちみたいな戦場でしか生きられなかった男っていうのはな……結局、どれだけ言葉を尽くすより、拳で全力でやり合う方が分かり合えるのさ」
その絶望的とも言える極限の状況で、ベルの口角がわずかに上がり、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべたのを私は見逃さなかった。
「……何よ、それ。こんな命懸けの時に、格好つけて青春物語みたいなこと言っちゃってさ……っ」
「はは……青春、か。そうだな。二百年もの間、ただ殺すためだけに生きてきて……これが俺の、初めての青春かもしれない」
ベルの全身からも、静かに、しかし恐ろしいほどの力強さで蒼と赤のオーラが立ち昇り始める。
筋肉が脈打ち、白銀の美しくも猛々しい長毛がその巨躯を包み込んでいく。かつて全戦場を絶望で支配した「双色のワータイガー」が、今、因縁の炎の獅子へと対峙するために、その獰猛な牙を剥いた。
「お待たせしました、ベリアス様。……いや、俺の最初で最後の、ライバルよ!」
凄まじい衝撃波とともに地を揺らす二つの咆哮が、静寂に包まれていた古代のコロシアムで、激しく激突した。




