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第十話 あかねさすふたり

 翌朝、冷え込みの厳しいチェルノボの空は、今にも雪を降らせそうな重たい鉛色に染まっていた。寒波は昨日よりもさらに厳しさを増しており、吐き出す息はたちまち白く凍りついて風に砕ける。


 私は宿代に加え、あの自称・ベテラン冒険者4人組をここまで運んだ「死体運搬費」という、泣きたくなるような追加出費の支払いをどうにか終えた。ただでさえ厳しい冬の旅路で、想定外の減額は骨に染みる。すっからかんになりかけた財布の軽さを恨めしく噛み締めながら外に出ると、外気は肌を刺すように冷たかった。けれど、隣に立つベルの顔色が昨日よりだいぶマシになっていたことだけが、せめてもの救いだった。


 ベルは宿の軒先で、微動だにせずその暗い空を見上げていた。

 巨大な体躯に染みついた戦乱の残り香と、彼の口元から漏れる白い息が、静かに北風に流されていく。


(……何を考えているのかしらね)


 かつて背中を預け合った親友、ベリアス王子のことだろうか。あるいは、昨日彼が絞り出すように吐露した、血塗られた200年の凄惨な記憶か。

 私たちハーフットのような短い時を生きる人間に、数百年という果てしない時間を積み重ね、多くの死を看取ってきた魔族の心の内は、本当の意味では理解できないのかもしれない。


 けれど、今の私たちにできることは、寒空の下で立ち止まることではないのだ。


「さ、出発しよ! 立ち止まって凍えてても、銀貨一枚も降ってこないんだから!」


 あえて弾んだ声を意識して、私はベルの背中に向かって快活に言った。私の声に、ベルはハッとしたように思考の淵から現実へと戻ってきた。

 そして、私を安心させるように、あるいは己の迷いを振り払うように、一つだけ深く、静かに頷いた。


「……ああ。そうだな、ボス」


 その瞳には、もう迷う余地などなかった。

 過去がどれほど濁っていようと、その身にどれほど恐ろしい血が流れていようと、今の彼の目的は一つだけ。この小さくてお調子者な人間の商人を、何があっても無事に、国境の向こう側まで送り届けること。ただ、それ一択だ。


「よし! 次の街ではちょっとした掘り出し物の仕入れもしたいし、道中はしっかり護衛してよね!」


「ああ、任せてくれ。これでも元兵士だからな」


「あら、それを言うなら元『四天王』様でしょ?」


「……レニー、それはもう、勘弁してくれ」


 困ったように苦笑いするベルの背中を押し、私たちは再び、深く降り積もった雪の街道へと歩み出した。

 一人は全てを捨てて「人間」になろうとする巨躯の元将軍、一人は愛用の天秤をその手に未来を掴もうとする若き女商人。

 凸凹でこぼこな二人の影は、どこまでも続く白銀の世界に長く伸び、希望の待つ北の果てへと続いていく。


◆◆◆


 冬の北国ルートは、私たちの想像を遥かに超えて過酷だった。

 吹きすさぶ地吹雪は視界を白一色に染め上げ、一歩進むごとに鋭い氷の針が肌を刺し、骨の芯まで冷気が染み渡る。足並みは鈍り、このままでは国境へたどり着く前に凍死しかねない――そう判断した私は、断腸の思いで移動用の「長毛キャトル」を一頭、大金を叩いて買い取った。


 牛の仲間であるその巨体は、まるで動く暖炉だった。ふかふかと波打つ長い毛に包まれると、火に当たっているかのようにじんわりと温かい。これで最悪の事態は免れたけれど、代償として、ここまでの命懸けの行程で必死に稼いできた路銀は、見るも無残に底をつきかけていた。


「はぁ……。せっかく貯めた路銀が、足元を見られたとはいえ一瞬で牛一頭に化けちゃうなんて。またどこかで大きく稼がなきゃなぁ……」


 キャトルの背に揺られ、懐の寂しさに溜息を漏らしていると、隣を歩いていたベルが不意に足を止めた。彼の耳がぴくりと動き、その鋭い視線が凍てつく北の地平線へと向けられる。


「……前方から、人々が逃げてくる」


「え?」


 ベルが指差す雪煙の向こうを凝視すると、防寒具に身を包んだ大勢の村人や商隊の人々が、衣服を振り乱し、血相を変えてこちらへ走ってくるのが見えた。狂気的な叫び声を上げながら、私たちが今朝出たばかりの村の方へと、必死に雪を蹴立てて逃げ延びようとしている。


 ただ事ではない。私はキャトルを止め、逃げてきた男の一人を力任せに捕まえて尋ねた。


「ちょっと、どうしたんですか一体!?」


 捕まった男はガチガチと歯を鳴らし、恐怖に目を血走らせながら叫んだ。


「ウェ、ウェンディゴだ! ウェンディゴの群れが大量発生したんだ! 魔王軍の撤退で地域の監視の目がなくなったせいで、奴ら、一気に山から降りてきやがった!」


「ウェンディゴ……!」


 その名を聞いた瞬間、私の背筋にもゾクリと冷たいものが走った。

 冬の猛吹雪と共に現れる、飢餓と狂気の象徴。骨が透けるほど痩せ細った巨体に、引き裂かれた大きな口。人間の魂を喰らう、冬の雪山で最も恐れられる飢えた悪魔たちだ。


 男は狂わんばかりの形相で言葉を続けた。


「俺たちは街へ戻る商隊だ。これから町に着き次第、ギルドへ駆け込んで、全財産をはたいてでも討伐依頼を出す! そうしなきゃ、あの先にある村々は今夜中に全滅しちまうんだ!」


 全財産をはたいて、ギルドへ討伐依頼――。

 恐怖のどん底に落とされた男のその言葉を聞いた瞬間、私の脳内で、商人としての嗅覚が「ピクン」と音を立てて跳ね上がった。


「おじさん、ちょっと待って。……今から街に戻ってギルドを呼ぶなんて、時間がないでしょう? なら、ここにいる私の護衛に、その依頼をダイレクトに任せてみない?」


「お前、何を言ってるんだ! 相手は一頭や二頭じゃない、飢えた群れだぞ! どんな腕利きの猛者だって、一人で突っ込むなんて自殺行為だ!」


「いいから、私を信じて! もし、彼がそのウェンディゴの群れを一人残らず撃退してみせたら……本来ギルドに払うはずだったその報奨金、私たちが代わりにいただいてもかしら?」


 男は一瞬、この緊急事態に金の交渉をしてくるハーフットの私に呆気に取られた。けれど、背後の地平線から迫り来る、地響きのような不気味な咆哮を耳にして、必死に首を縦に振った。


「わ、わかった、約束する! お前たちが何者かは知らんが、もし本当に奴らを退治できるなら、全財産でも何でもくれてやる! 死にたいなら勝手にしろ!」


「毎度あり! 交渉成立ね!」


 私はニヤリと不敵に笑うと、隣に立つ、静かに佇む大男を見上げた。


「ベル! 聞いた? ……あれ、昨日栄養不足で暴走しかけた、あんたの両腕にとって、最高にちょうどいい『栄養ごちそう』だと思わない?」


「!」


 ベルがハッとしたように目を見張り、包帯で厳重に巻かれた自身の両腕をじっと見つめた。

 四天王の力を宿す呪われた腕。魂を削って無理に鎮めるくらいなら、外から害獣の魂を吸い上げて、内側から栄養を補給してやったほうがよっぽど健康的で効率がいい。


「……本当に良いのか、レニー? 今の俺は力の加減ができない。あいつらの魂を、文字通り根こそぎ喰らうことになるぞ」


「OK、ドンと来い! 害獣駆除なんだから、手加減なんて一切不要よ!」


 私は両手で大きな丸(○)を作って、彼に景気のいいボディランゲージを送った。

 私の意図を完全に理解したベルは、これまでの迷いをすべて振り切るように、一度だけ深くこくりと頷いた。


 次の瞬間、ベルの背中から、周囲の雪をも蒸発させるほどの凄まじい威圧感が爆発的に溢れ出した。

 ベルの圧倒的な殺意のオーラは、戦闘に疎い私たちにも感じられた。

 彼は一歩を踏み出すと、強靭な脚力で地を蹴り、爆風のような雪煙を舞い上げながら疾走を始めた。


 逃げ惑う人々が驚愕の声を上げる中、その流れに逆行するように――猛吹雪の向こうから迫り来る、白い悪魔たちの不気味な影の群れへと、彼はただ一人で真っ直ぐに突っ込んでいった。


「さあベル、思う存分やっちゃってよね!ついでに私のお財布事情もね」


 吹きすさぶ白銀の嵐の向こう。

 獲物を前にして、かつて戦場を震撼させた「バロールの魔瞳」が、獰猛な深紅の輝きを放ち始めるのを、私は確信を持って見つめていた。


◆◆◆


 雪原を疾走するベルの背中は、最初こそ、無駄のない洗練された一人の熟練戦士のそれだった。


 襲い来るウェンディゴの、氷柱のように鋭く伸びた鉤爪を紙一重の身のこなしでかわし、手にした雷槍リボルグの鋭い一突きでその喉笛を確実に貫いていく。

 深々と積もった雪を苦にもせず、縦横無尽に跳躍するたびに、一匹、また一匹と、白く巨大な悪魔が血を吐いて雪原に伏していく。だが、異変はすぐに起きた。ウェンディゴが斃れるたび、ベルの周囲の空気が不気味なほど密度を増し、大気がジリジリと震え始めるのが遠目にもわかったのだ。


「……はぁ、はぁ……、くっ……!」


 槍を振るうベルの呼吸が、急速に荒くなっていく。しかし、それは決して肉体的な疲労からくるものではなかった。

 倒されたウェンディゴの骸から溢れ出す、おぞましい負のエネルギー。人間の魂を貪ってきた飢えた悪魔の魂そのものが、ベルの両腕に巻かれた包帯を黒く焦がしながら、猛烈な勢いで吸い込まれていくのだ。


 呪われた力を充填されるたび、ベルの肉体が内側から恐ろしい速度で膨れ上がっていく。はち切れんばかりに膨張する筋肉、血管が脈打ち、皮膚が裂けんばかりの質量を持っていく。そして、急激な魔力の飽和に、ついに肉体が限界を迎えた。


 ――パァンッ!!


 金属の弾ける乾いた音が、極寒の静寂に響き渡る。

 かつての部下たちの形見であるあの鎧――その頑丈な繋ぎ目が、内側から溢れ出す強大な魔力と質量に耐えかねて、悲鳴を上げて弾け飛んだ。


「ウォォォォオオオオオオッ!!」


 天を突くような獣の咆哮が地を揺るぎ、辺りに吹き荒れていた猛吹雪さえも一瞬で霧散させる。

 そこに立ち尽くしていたのは、私の知る、少し気弱で不器用な「護衛」ではなかった。


 逆巻く白銀の長毛が全身を覆い、巨躯を包み込む圧倒的な威圧感が世界を支配する。右半身からは大気を焼く灼熱の赤蓮、左半身からは空間を凍てつかせる極寒の蒼藍。相反する二色のオーラを神々しく立ち昇らせるその姿は、まさしく古代の神話や伝説の挿絵に描かれるような、戦禍の権化――「双色の魔虎ワータイガー」そのものだった。


 その眼光に射抜かれたウェンディゴたちが、一斉に動きを止めた。魂を喰らう側だった凶暴な悪魔たちが、今度は自分たちが「絶対的な捕食者に喰らわれる側」になったことを本能で悟り、ガタガタと恐怖に立ちすくむ。


「……そうか。ようやく、すべてが繋がったわ」


 私はキャトルの上で震えながらも、その神々しくもおぞましい姿から目を離すことができなかった。


「どうりで、これだけ圧倒的な強さを持っていながら、人間の世界に彼の名を知る者が誰もいないわけね。四天王ベルゼルガ……あの姿こそが、彼が戦場で見せる本当の姿。そして、敵が生涯で最後に見る絶望の光景だったんだ」


 そこからは、もはや戦闘と呼べる代物ですらなかった。それはただの、圧倒的な「収穫」だった。


 ベルの巨大な爪が空間ごと引き裂くように一閃すれば、ウェンディゴの鋼のように硬い皮膚は紙細工のように容易く切り裂かれる。断末魔を上げる間もなく、散った悪魔たちの魂は、ベルの周囲に渦巻く青と赤の魔力の奔流へと、容赦なく貪り尽くされていく。


 逃げ惑っていた商隊の人々も、彼らを守っていた護衛の兵士たちも、雪原を真っ赤に染め上げるあまりに圧倒的な蹂躙劇に腰を抜かし、ただ神に祈るようにその光景を見つめていた。雪原で繰り広げられる、神の獣が悪魔を駆逐する神話の一節。


 かつて王子ベリアスが最強の「右腕」と信頼を寄せ、イシュタル姫が「魔王軍の至宝」と誇ったその真の力が、今、この極寒の北国の雪原で、完全に覚醒していた。


◆◆◆


 地平を埋め尽くしていたはずのウェンディゴの群れは、跡形もなく消え去っていた。

 静寂を取り戻した極寒の雪原。一騎当千の暴威を振るい、神話の獣として君臨していたワータイガーの姿が、陽炎のように揺らぎ始める。立ち上る赤と青の魔力が雪に溶けるように消えていき、徐々に一人の男の形へと戻っていった。


 ドサリ、と雪原に両膝をつき、肩を大きく上下させて荒い息を吐きながら、ベルは包帯の隙間から覗く自分の両腕をじっと見つめた。

 あれほど内側から肉体を引き裂かんばかりに疼き、暴走しかけていた四天王の魔力は、数多の悪魔の魂を貪り食ったことで、今はまるで凪いだ海のように静まり返っている。


(……やはり、俺の腕は、他者の命を奪うことでしか鎮まらない。狩り続け、喰らい続ける……。魔王軍を去ろうとも、この呪われた破壊の宿命からは、一生逃れられないのか)


 ベルが自らの「化け物」としての本性に、暗い絶望の影を瞳に宿した、その時だった。


「……うおおおおおおおッ!!」

「助かった、本当に助かったんだ……!」


 地を揺らすような、割れんばかりの歓声が巻き起こった。

 恐怖に身を縮めていた商隊の男たちも、涙を流して抱き合う村人も、命を諦めかけていた護衛の兵士たちも、皆が雪まみれになりながらベルの元へと駆け寄ってくる。


「あんた、一体何者なんだ!? 凄すぎる、まるで伝説の英雄だ!」

「ありがとう……! あんたがいてくれなきゃ、うちの村は全滅するところだった!」

「この御恩は一生忘れません!」


 口々に投げかけられる熱い感謝の言葉と、惜しみない称賛の拍手。かつて戦場で「処刑人ベルゼルガ」の名を囁かれ、敵からも味方からも恐れられ、遠巻きにされてきたベルにとって、それは生まれて初めて浴びる「温かい視線」だった。


 呆然と立ち尽くすベルの大きな肩に、ふわりと温かい感触が落ちた。


「はい、お疲れ様。せっかく格好良く勝ったんだから、風邪引く前にこれ着てなさい」


 いつの間にかキャトルから降りて側まで来ていたレニーが、彼のために持ってきた厚手の毛布をそっとかけ、いつも通りの悪戯っぽい、けれど心の底から優しい笑みを浮かべていた。


「……レニー。俺はまた、あのように不ぞろいで、おぞましい力を使って命を奪った。それでも……俺は、生きていていいのだろうか」


 声を震わせるバディを見て、レニーは呆れたように小さく溜息をついた。そして、彼の大きな背中をパチンと叩いてみせる。


「何言ってるのよ、この大馬鹿。あんたがさっき戦わなきゃ、今頃ここにいる人たちはみんなウェンディゴのお腹の中よ。……いい? 誰かの命を奪うだけの『兵器』と、誰かを守るために力を振るう『剣』は、全く違うの。討伐することで、感謝されることもある。救われる命が、こんなにたくさんある。これがね、私の世界での『冒険者』っていう仕事よ」


 レニーはベルを取り囲み、涙を拭いながら笑顔を見せる避難民たちを指差して、誇らしげに胸を張った。


「なんだ、あんたにこれ以上ないくらいぴったりの職業じゃない」


「俺が……命を狩ることで、誰かに感謝され、救いになるというのか……?」


「そうよ! 冒険者の数ある仕事の中でも、依頼を受けて怪物を倒す討伐クエストは一番の花形なんだから。今まではあんたの力が強すぎて、世間にバレないように抑えることばかり考えて避けてきたけど、これからは私の考えを変えるわ。どんどん稼げる討伐依頼、受けていきましょう! あんたの腕の栄養補給のため、そして――何より、今日みたいに困っている人たちのためにね」


「人々の、ために……」


 ベルは、肩にかけられた温かい毛布をギュッと握りしめた。そして、自分を怪物ではなく、一人の「救世主ヒーロー」として称えてくれる人々の顔を、一人一人、刻み込むように見渡した。


 これまでは、力を振るえば恐怖を買い、疎まれてきた。けれど今、目の前にあるのは、自分の存在を祝福してくれる世界だ。


 ベルは毛布の下で、その大きな拳をグッと力強く握りしめた。

 二百年の長い戦乱の時を経て、呪われた生体兵器は初めて、自分が自分として生きていい、本当の「居場所」を見つけたのだ。


「……ありがとう、レニー。君の言葉は、いつも俺の凍りついた心を溶かしてくれる」


「ふふん、当然よ! 私、これでもあんたの『ボス』なんだからね。あ、それと商隊のおじさーん! 約束通り、ギルドへ払うはずだった報奨金、きっちり私に払って頂戴ねー!まぁ、全財産は取らないから!」


 感動的な空気の中でも、しっかりと財布の紐を握り直すレニーのちゃっかり具合に、ベルは思わず「ふっ」と吹き出し、それから声を上げて笑った。


「ああ。行こう、相棒。君の進むその道を、これからは俺の、この力でどこまでも切り拓いてみせる」


 凸凹コンビの絆が真の信頼へと変わり、二人の旅路に、白銀の雪を黄金色に照らす新しい朝日が差し込んだ瞬間だった。

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