第36話 イベントが始まらない
レベル六十になった翌朝、クロウは宿の食堂で地図を広げていた。
いつもの狩場。大型ダンジョン。特殊な魔物の出現場所。地図上に書き込まれた印を、指で順番にたどっていく。
だが、どこを見ても効率が悪い。
「この辺から、通常の狩りだけだと重いんだよな」
クロウは焼いた肉を切りながら言った。
「レベル五十から六十までは、イベントと迷宮で一気に上げられた。六十以降は、赤月祭を回す予定だったんだけど」
「赤月祭?」
レオンが首をかしげた。
「地域イベントだ。特殊な魔物が大量に出る。経験値がかなりうまい」
セリアは帳面を開いた。
「それは、この周辺で発生するものですか?」
「そろそろ発生時期のはずなんだけどな」
クロウは窓の外を見た。
空は晴れている。赤い月どころか、雲一つない。町の人々も普段通りに働いている。魔物の大量発生を警戒している様子はなく、避難準備をしている者もいない。
「この辺で、赤い月がどうとか、魔物が大量に出るとか聞いてない?」
「聞いていませんね」
セリアは即答した。
「おかしいな」
「魔物が大量発生しないことは、良いことではないのか?」
レオンが言う。
「良いことだけど、経験値が稼げないだろ」
「……そうか」
納得したような、していないような返事だった。
クロウは朝食を終えると、町の掲示板とギルドへ向かった。赤月祭の前兆がないか確認するためだ。ゲームでは、イベントの数日前から専用の依頼が出る。赤い月の噂。夜に出る特殊な獣。行方不明になる商人。
どれも見当たらなかった。
「本当に何もないな」
クロウは掲示板の前で腕を組んだ。
「イベントが始まらないのは、初めてか?」
レオンが尋ねた。
「いや、ゲームではメンテナンスで延期されたことがあったけど」
「この世界にも、めんてなんすというものがあるのですか?」
「ないと思う」
セリアは額へ手を当てた。
「では、原因を考えましょう。赤月祭には、何か発生条件があるのですか?」
「ある。イベントの前に、二つの地域勢力が争っている必要がある」
「地域勢力が?」
「片方が祭具を奪って、もう片方が取り返そうとする。その争いで赤月祭が始まる」
セリアは町の古い記録を探した。街道の管理者に尋ね、商人へ話を聞き、周辺地域の関係を確認する。
やがて、答えが分かった。
「この二つの地域は、争っていません」
「本当に?」
「はい。むしろ、現在は交易関係にあります。祭具を奪ったとされる側が、数年前に穀物を融通した記録もあります」
クロウは黙った。
ゲームでは、その二つの勢力は敵対していた。片方がもう片方を嫌い、祭具を奪い、争いが激化する。それが赤月祭の発生条件だった。
しかし現実では、両者は争っていない。
「……歴史が、ゲームと違う」
クロウは、初めてその事実をはっきりと言葉にした。
「第七幕の最後に言っていた違和感ですね」
セリアが静かに言う。
「そう。ゲームなら起きているはずのことが起きていない」
「当たり前ではないか?」
レオンが首をかしげた。
「人間が本物なら、ゲームと違う行動を取ることもあるだろ」
「まあ、それはそうだな」
クロウは合理的に受け入れた。
この世界の人間は、決められた台詞を繰り返すNPCではない。家族があり、生活があり、損得を考えて行動する。ゲームのイベントは、開発者が決めた条件の上で起きていた。現実の人間が同じように動く保証など、最初からなかったのだ。
そこまで考えて、クロウは地図を見た。
「困ったな」
「歴史が違うことが、ですか?」
「赤月祭が使えないことが」
セリアは一瞬、言葉を失った。
「そちらですか」
「経験値効率がかなりよかったんだぞ。特殊装備も出るし」
「町が戦争にならないことよりも?」
「それは良いことだろ。でも、レベルが上がらない」
レオンは、もう何も言わなかった。
クロウは地図に新しい印をつけた。イベントが発生しないなら、別のコンテンツを探せばいい。未来の出来事としてのゲーム史は、もう完全には信用できない。だが、魔物の能力やダンジョンの仕組みまで変わったわけではないはずだ。
「期間イベントが駄目なら、常設のやつへ行くか」
「切り替えが早いですね」
「考えても、始まらないものは始まらないからな」
クロウは地図の北側へ視線を移した。
「この近くに、沈黙の地下神殿がある。あそこなら、歴史がどうなっていても存在する」
セリアは、神殿の位置を確認した。
「そこも、危険区域ですか?」
「レベル六十台向けの高難度ダンジョン」
「つまり、危険なのですね」
「でも、ダンジョンはゲームと同じなら攻略できる」
クロウは席を立った。
「明日、出発する」
赤月祭は始まらなかった。
その事実は、クロウの中でゲーム史への信頼を少しだけ下げた。
ただし、次の攻略を探す速度まで下げることはなかった。




