第28話 やっと五十
灰色峡谷の最深部には、巨大な湖があった。
地上からは見えない地下湖だ。水面は暗く、中央には黒い岩の島が浮かんでいる。そこへ渡るには、湖底から現れる足場を決められた順番で踏まなければならない。
クロウは一つ目の足場へ乗った。
「次は右。三つ目は飛ばす」
レオンが後ろから続く。
「踏む順番に意味があるのか?」
「ある。間違えると湖の主が出てくる」
「それは、正しい順番なら出てこないという意味か?」
「いや、どちらにしても出てくる。正しい順番なら、戦う場所を選べる」
レオンは一瞬だけ目を閉じた。
「先に言ってくれ」
セリアは《戦場把握》で足場の位置を確認していた。水面下には、巨大な何かがゆっくり動いている。
「水中に気配があります。かなり大きい」
「湖の主だからな」
「この地域で、これほどの魔物が今まで放置されていたのですか?」
「地上から見えないし、ゲームではイベントが始まるまで出ないからな」
「ここは現実です」
「でも、出現条件は同じだ」
三人が黒い岩の島へ到着すると、水面が大きく盛り上がった。
湖の主が現れる。
長い胴体。硬い鱗。頭部には水晶の角が三本あり、口を開くと水の塊が渦を巻いた。地上の魔物とは比べものにならない魔力が、地下湖全体を揺らしている。
「まず、水の塊を吐く。直線攻撃だから横へ避ける」
クロウが言った。
湖の主が口を開く。
「来る!」
三人が左右へ散った。水の塊が岩島を直撃し、足場の一部を砕く。
「足場が壊れたぞ」
「ゲームでは壊れなかった」
「現実だからでしょう」
セリアの指摘に、クロウは少しだけ眉をひそめた。
「じゃあ、次から気をつける」
湖の主が尾を振る。岩島全体が揺れた。レオンが踏ん張り、攻撃を受け流す。クロウは敵の角へ魔力の刃を飛ばした。
「角を一本壊すと、水の防御が下がる」
「それなら狙う」
レオンが水面ぎりぎりまで踏み込み、剣を振る。角に傷が入った。
湖の主が咆哮し、水面から無数の水槍が飛び出す。
「セリア、範囲を見てくれ!」
「右側が薄い。そこなら通れます!」
レオンが右へ走り、クロウも続く。セリアは支援魔法を展開し、二人の足元へ薄い光の道を作った。
水槍が光の道を避けて砕ける。
「その魔法、便利だな」
「あなたが取らせたスキルと杖のおかげです」
「そうだな。いい選択だった」
セリアは苦笑した。
彼女自身も、以前ならこの魔法をここまで正確に使えなかっただろう。レオンもまた、巨体の攻撃を受けながら、足場と敵の動きを同時に見ている。
クロウが弱点を示し、二人がそれを実行する。
一人で倒すより、三人で攻略する方がずっと楽だ。何より、連携が完成していく過程が面白い。
「二本目の角!」
クロウが叫ぶ。
レオンの剣が水晶の角を砕いた。
湖の主の動きが鈍る。セリアの光が胸の奥にある魔力核を照らした。
「今なら、核が見えます!」
「一気に行くぞ!」
三人は同時に踏み込んだ。
クロウが核の位置を狙い、レオンが正面から敵の注意を引き、セリアが二人の攻撃へ魔力を重ねる。湖の主が最後の水流を放ったが、三人の動きは止まらなかった。
黒い核が砕ける。
巨大な身体が水面へ落ち、湖全体が大きく波打った。やがて水は静まり、岩島に残ったのは魔石と、青銀色の素材だけだった。
「これだ」
クロウが青銀の素材を拾う。
「これで五十用装備の素材が揃った」
その言葉を聞きながら、レオンとセリアは周囲を見た。
地下湖を守っていた魔物が消えた。湖へ続く通路には、これまで閉ざされていた採掘跡がある。鉱山とつながる資源。魔物が消えたことで、探索も採取も可能になる。
だがクロウは、素材を一つ拾っただけで満足していた。
セレスへ戻ると、宿の前には人が増えていた。峡谷の見回り役、鉱山の採掘担当、物資を運ぶ商人。レオンへ報告を持ち込む者も、セリアへ帳簿を見せる者もいる。
以前なら、宿の前にいるのは三人だけだった。
「二人とも、仕事順調みたいだな」
クロウは人の流れを見ながら言った。
「……そうですね」
セリアは何とも言えない顔で答えた。
レオンは何も言わなかった。彼の下には、峡谷の護衛を担当する者がいる。鉱山を守る者がいる。新しく集まった人間へ訓練を行う者もいる。
セリアの周囲には、採掘量を記録する者、商人と契約する者、情報を整理する者がいる。
まだ国家でも軍でもない。
しかし、この地域で大きな商売や行動を起こすなら、レオンとセリアを無視することは難しくなっていた。
クロウは、それを二人の仕事が大きくなっただけだと思っている。
「さて、装備を確認するか」
クロウは部屋へ入り、収納袋からレベル五十制限の装備を取り出した。黒銀の胸当て。淡い青の外套。装備素材を使って作られた、ゲーム中盤の品だ。
彼は胸当てを身につけ、留め具を閉じた。
今度も、抵抗なく固定された。
「やっと五十か」
クロウは安心したように息を吐く。
「まだ半分だな」
レオンとセリアは、もう何も言わなかった。
「ここからさらに必要経験値が増えるんだよな。先は長い」
クロウは新しい装備の性能を確認しながら続けた。
「それに、レベル百のスキルを取るまでは安心できない。もし同じくらいのプレイヤーに対人を仕掛けられたら、今のままだと危ない」
セリアは、彼の不安を否定しなかった。
この世界に、クロウへ対人戦を仕掛けられる人間はいない。少なくとも、彼女の知る範囲では存在しない。
だが、クロウが本気で警戒している以上、その考えを笑う必要もなかった。
「次は、何を狙うのですか?」
「五十以降は、普通の狩場だと効率が悪い。地域イベントか、フィールドボスか、大型ダンジョンだな」
クロウは地図を広げた。
その横で、セリアは新しい帳面を開いた。レオンも、明日の見回りの予定を確認している。
「次は、あれかな」
クロウが地図の一点を指した。
その先に何があるのか、二人にはまだ分からない。
ただ、クロウが次の攻略を始めれば、また世界のどこかが変わるのだろう。
レベル五十になっただけ。
クロウにとっては、それだけのことだった。
その日、灰色峡谷の街道を通る荷車は、過去最多の数を記録した。鉱山では採掘が続き、セレスの市場には新しい素材が並んだ。峡谷の安全を守る人間たちは、レオンの指示を待ち、商人たちはセリアの帳簿に従った。
こうして、二人の周囲には一つの地域を支える集団が形づくられていた。
けれども、その中心にいるクロウは、次の狩場を探している。
レベル五十から先の、もっと効率のいい攻略場所を。




