9――天界の威信を懸けて 2
*
【王国・主人公の屋敷 二階テラス】
腰振りスペシャリストは、抽出されたエスプレッソを手に、テラスの手すりに肘をかけていた。
足取りは優雅そのもの。
ただし、下半身は相変わらず残像だった。
彼は王国の街並みを眺める。
遠くには市場が見え、人々が朝の支度を始めていた。
穏やかな風が頬を撫でる。
日差しが肌に染みる。
彼はコーヒーを一口すすった。
腰は止まらない。
ガガガガガガガガガガガガガッ!!
「……フッ。やはり、朝はこの一杯に限る」
(豆の香りが腰に染み渡る。この振動があるから、コーヒーがより深く味わえる。腰振りは俺の呼吸だ。止められない。止めたくない)
テラスの床が震えた。
屋敷の窓ガラスがカタカタと音を立てる。
それでも彼は、カップを傾ける角度すら変えなかった。
「……いいローストだ。今日の豆は、特に腰との相性がいい」
そのとき。
王国の空が、突然、黄金色に輝いた。
「邪悪なるヤンデレどもよ! 天界の正義を知れ!」
数百の天使たちが、空を埋め尽くすように降臨した。
先頭に立つのは、能天使パワー。
煌びやかな鎧を身にまとい、大剣を高々と掲げている。
その後方には、天界の武を担う精鋭たちが、気合十分に整然と並んでいた。
「全軍、構え! 今日こそ勝利だ!」
「おおおおっ!!」
兵士たちの士気が最高潮に達する。
パワーは内心で昂ぶっていた。
(見ろ、この隊列を。この団結を。俺が率いる精鋭だ。ヤンデレなど、物量の前にひれ伏すのみ。一番乗りの栄誉は、この俺のものだ)
その光景を目撃したエンジェルは、思わず頭を抱えた。
「だから、正面から来るのはやめましょうって言ったじゃないですか……!」
「黙って見ていろ、エンジェル! これが天界軍の真の力だ! 我こそがヤンデレ打倒の一番乗り! この手柄を誰にも渡さん!」
パワーは自信満々に叫んだ。
そして、屋敷のテラスに立つ男へと大剣を突き付ける。
「我が名は能天使パワー! 天界の武を司る精鋭軍団の長である! 貴様が十人のヤンデレの一角、腰振りスペシャリストだな! 神の鉄槌を受け――」
「おーい!」
腰振りスペシャリストが声を上げた。
カップを持ったまま、腰は爆速で振られ続けている。
「そこ、邪魔だぞォォォ!」
「……何?」
「今から日課の『朝の超・爆速腰振りトレーニング』が始まるんだよォ! 空を塞ぐんじゃねえ! 日差しが遮られると、腰のキレが落ちるんだよ!」
彼はエスプレッソカップをテーブルに置いた。
コトッ。
その動作だけは、どこまでも丁寧だった。
腰は止まらない。
ガガガガガガガガガッ!!
「貴様……我らを何だと思っている!」
「……通行の邪魔だな。あと、俺のコーヒーの時間を邪魔するな」
「天界の精鋭軍団だぞ!?」
「知らねえよ。俺は今、コーヒーを飲んでいる。腰も振っている。朝の日課だ。邪魔する奴は、腰でどかす」
(この腰は、俺の全てだ。ご主人様のためにも、最高の状態を維持しなければならん。邪魔は許さん)
パワーの額に青筋が浮かんだ。
「よかろう! その余裕、後悔させてやる! 全軍、攻撃態勢! 一番乗りは俺だ! 突き進め!!」
天使たちが一斉に武器を構えた。
「おおおおっ! パワー様についていけ!!」
エンジェルは空を見上げた。
「……ああ。アークエンジェル様のときと同じ流れだ」
「エンジェル! 何をぶつぶつ言っている!」
「いえ、せめて皆さんが天界に帰るときの報告書の書式を考えていました!」
「不吉なことを言うな! 我々は勝利する! 俺が一番乗りで倒すんだ!」
パワーは大剣を振り上げた。
「さあ、腰振りスペシャリスト! 貴様の力を見せてみろ!」
「……フッ」
腰振りスペシャリストは、静かにバスローブの襟を整えた。
カップはテーブルに置いたまま、腰だけが異常な速度で回転している。
「そこまで言うなら、見せてやるよ。俺の腰をなめるな」
彼はゆっくりと足を開く。
腰を落とす。
日差しを全身に浴びながら、低く呟いた。
「股関節オープン……今日の腰は、豆の香りで最高潮だ」
ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!!!
「骨盤超振動回転……コーヒーの余韻を乗せて……」
ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!!!
「超・腰振り衝撃波ァァァァァッ!!」
ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!!
次の瞬間、テラスから巨大な衝撃波が放たれた。
それは単なる風圧ではなかった。
超高速の骨盤運動によって生み出された空気の振動が、圧倒的な密度を伴って上空へと突き抜けたのである。
朝の陽光とコーヒーの香りをまとった衝撃波は、天使たちの隊列を真正面から襲った。
「な、何だこの風圧はああああっ!?」
「隊列を維持しろ! 全軍、踏ん張れええええっ!!」
「無理です! 地面がないんですけどおおおおっ!!」
天使たちの悲鳴が響き渡る。
彼らは武器を構える暇すらなかった。
大剣を握ったまま、盾を構えたまま、詠唱を始めたまま、次々と空の彼方へ吹き飛ばされていく。
そして、その中心にいたパワーも例外ではなかった。
「ば、馬鹿な! ただの腰振りで空気が爆発するなど―― 俺が一番乗りなのにえええっ!!」
ドゴォォォォンッ!!
「ぐわあああああああああっ!!」
パワーは精鋭軍団とともに、天界へ向かって猛烈な勢いで逆噴射された。
エンジェルだけは、必死に近くの建物の屋根につかまっていた。
しかし、その努力も長くは続かなかった。
「待ってくださいいいいいっ! 私、まだ報告書を書いてないんですけどおおおおおっ!!」
バサバサバサバサッ!!
エンジェルもまた、天使たちの群れに巻き込まれ、空の彼方へと消えていった。
最後まで彼女の叫びだけが、王国の空にこだましていた。
*
【天界・軍事作戦司令部】
ドゴォォォォンッ!!
司令部の天井を突き破り、能天使パワーが床に激突した。
その直後、数百の天使たちが次々と落下してくる。
「ぐはっ!」
「うわあっ!」
「誰か、私の兜を知りませんか!?」
司令部は一瞬にして大混乱に陥った。
最後に、エンジェルが書類の束を抱えたまま転がり込んできた。
「だから言ったじゃないですかあああああっ!!」
彼女は床に突っ伏した。
「アークエンジェル様は殴り飛ばされ、プリンシパリティ様はゲームの報酬にされ、パワー様は腰振りの風圧で全滅……。もう嫌です! 私は普通に調査報告をしたいだけなんです!」
パワーは床に倒れたまま、震える手で天井を指差した。
「……あの男……ただコーヒーを飲んでいただけではなかったのか……」
「はい。コーヒーを飲みながら腰を振っていただけです」
「そのついでに、我らを全滅させたというのか…… 一番乗りのつもりだったのに……」
「はい」
「……信じられん」
「私も信じたくありません!」
エンジェルは叫んだ。
*
【王国・主人公の屋敷 二階テラス】
一方、その頃。
腰振りスペシャリストは、何事もなかったかのようにバスローブを整えていた。
彼はテーブルの上のエスプレッソカップを手に取る。
残っていたコーヒーを一口飲み、満足そうに頷いた。
腰は、まだ微かに振動を続けている。
ガガガガガガガガガガガッ!!
「……フッ。いい汗をかいたぜ」
(最高の朝だ。豆の出来、腰のキレ、日差しの角度……すべてが噛み合った。邪魔が入っても、腰は止まらなかった。これが俺の流儀だ)
「今日の腰のキレは、過去最高だな。豆のおかげだ」
彼は白い歯をキラーンと光らせた。
「……やはり、朝は挽きたてのコーヒーと、腰振りに限る。ご主人様のためにも、俺はこの調子を崩さん」
キラーン☆
王国は、今日も平和な朝を迎えていた。
天界の精鋭軍団がコーヒータイムのついでに吹き飛ばされたことなど、王国内の誰も気にしていない。
もちろん、本人も気にしていなかった。
彼にとって重要なのは、今日のコーヒーの出来と、腰のキレだけなのだから。
そして天界では、エンジェルが新たな報告書を書き始めていた。
『作戦名:腰振りスペシャリスト制圧作戦』
『結果:失敗』
『敗因:敵がコーヒーを飲みながら腰を振ったため』
エンジェルはペンを止めた。
「……これ、どう書けばいいんですかあああああっ!!」
天界に、彼女の悲痛な叫びが響き渡った。
今日もまた、天界の威信は失われた。
そして王国では、ハードボイルドな男が二杯目のコーヒーを淹れ始めていた。
腰は、すでに次の振動の準備を整えていた。
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