自由への逃走 後編
翌朝。
屋敷中に、突然の緊急ベルが鳴り響いた。
「侵入者です! 地下への通路が開かれています!」
誰かが叫ぶ声が聞こえるが、兵士はいない。ここは主人公の屋敷だ。普段からヤンデレたちが自由に出入りしている場所である。緊急ベル自体が、もはや日常のBGMと化していた。
主人公は拘束をわずかに緩めて、隙間から様子を窺った。
「……朝から何だよこのベル。目覚まし代わりか? 普通に起こせよ」
地下室の入り口に立っていたのは、老騎士ガルドだった。
一人きりで、剣を抜いている。朝日が刃を照らす。いかにも「今から助ける英雄」みたいな立ち姿だ。
「何やってんだ、あの爺さん……! 一人で何しに来た!」
嫉妬が後ろから覗き込んで目を細める。両手を胸の前で合わせ、目を輝かせていた。
「青春ね♡ 男同士の絆! 友情! 応援しちゃう!」
「どこがだ!! ここ地下だぞ! 青春の舞台じゃねえ!」
老騎士は大声で叫んだ。声が地下室に響く。
「主人公! 今から助ける!」
「無茶だろ!! 一人で何ができるんだよ、爺さん!」
「安心しろ! 作戦がある!」
「どんな作戦だ! 言ってみろ!」
「気合だ!」
「終わってる!! 気合で何とかしようとするな! 俺の平和がまた死ぬ!」
ヤンデレたちは、普段の軽さが消えて静かになっている。
初めてだった。
彼女たちも、老騎士の覚悟を理解しているように見えた。微笑みは消えていない。ただ、目の奥が少しだけ深い。
主人公だけが頭を抱える。
「どうしてこうなるんだ……。朝からドラマかよ。台本あるのか」
老騎士がさらに叫ぶ。声に力がこもる。
「主人公! 一度でいい! 自由を掴んでみろ!!」
その声が響いた瞬間、主人公の表情から笑みが消えた。
胸の奥が、微かに熱くなる。
---
地下室入り口。
老騎士ガルド——その正体は、潜入特化だった。
彼女は完璧な変装を維持したまま、静かに周囲を見据える。
(……久しぶりね、この顔)
心の中で静かに呟く。
普段の任務ではほとんど使わない、老騎士ガルドという別の顔。
国防の影の指導者として、若い兵士たちを鍛えてきた顔。
そして、ゲイバー「オアシス」で主人公やお兄さんと酒を飲み、愚痴を言い、親友面をしてきた顔だ。
彼女は剣を構えたまま、低く独り言ついた。声は老いた男のものだが、内容はいつもの彼女だった。
「隊列は必要ない。ここは屋敷だ。無駄な動きをするな……とは、自分に言っているのかしら」
潜入特化は内心で薄く笑う。愛おしささえ混じる笑みだ。
(ええ。だからこそ、この顔を使うのよ。主人公様に、一番自然な『希望』を届けるために)
彼女の本当の目的は、主人公を「逃がす」ことではない。
逃がしたように見せて、希望を与え、追わせ、回収する。
マッチポンプ。
いつものことだ。でも、今回は少しだけ、丁寧に。
(主人公様は、自由を掴んだ瞬間に一番弱くなる。だから、一度だけ自由を味わわせてあげる。その後で……ちゃんと、優しく連れ戻すわ。愛を、もっと深く刻むために)
老騎士の顔で、彼女は胸を張った。声は力強い。
「主人公! 後ろの通路を走れ! 鍵は外してある!」
主人公が拘束を押し開ける。
本当に、鍵が外れていた。ガチャリ、と軽い音がする。
「……マジか。本当に外れてる。……罠じゃねえよな? 絶対罠だろ」
それでも走り出す。足が、久しぶりに自由に動く。
老騎士——潜入特化は、背後で静かに息を吐く。
「邪魔をするな。あいつは一度だけ、自由でいろ」
誰もいない。兵士はいない。ただ、屋敷の影が静かに揺れるだけだ。彼女の声は、誰に向けたものでもなかった。自分に向けた、愛の確認だった。
その隙に、主人公は地下通路を駆け抜け、屋敷の裏手へと出ていた。
---
屋敷を出た直後。
主人公が庭の木々の間に出た瞬間、通信が入る。
監視特化の冷静な声だった。画面の向こうで、すでに録画ランプが点灯している。
「位置確認しましたわ。現在、屋敷東側の庭。移動速度は時速十二キロ前後。心拍数はかなり上がっていますわね♡ 自由の味、どうかしら」
潜入特化は、すでに老騎士の変装を解く準備をしながら、通信に答える。声はいつもの静かさに戻りつつある。
「予定通りよ。希望を与えたわ。あとはいつもの回収ルートで。……優しく、ね」
監視の声が少しだけ柔らかくなる。愛おしさが滲む。
「映像は全部記録していますわ。後で見返しましょうね。主人公様の『自由な表情』……貴重ですもの。ガルドとしての友情シーンも、高解像度で残してありますわ♡」
潜入特化は木陰に消える前に、小さく息を吐いた。
(……少し、やりすぎたかしら)
心のどこかで、老騎士ガルドとして過ごした時間が浮かぶ。
ゲイバー「オアシス」で、主人公やお兄さんと酒を酌み交わした夜。
「普通」を求めて愚痴を言い合う、偽りの友情。
兵士たちを指導していた頃の、偽りの日常。
でも、それは全部、回収のための演技だ。
彼女は自分にそう言い聞かせる。声に出さず、丁寧に。
(主人公様のためよ。自由を与えて、また奪う。それが、一番深く愛を刻める方法だもの。お兄さんとの店で築いた『親友』も、全部そのため。……愛してるから、やるのよ)
通信が続く。
監視「森羅万象さんと魔導さんにはもう連絡済みですわ。空間封鎖は三秒後。慈愛さんは待機。科学さんは追跡装置の反応を確認中。データ上、回収成功率は99.8%ですわ♡」
潜入「了解。私は変装を解いて合流するわ」
監視「……あの、老騎士ガルドとしての顔、もう少し残しておいてもよかったかもしれませんわね。主人公様との『友情』が、とても自然でしたもの。見返していて、胸が熱くなりますわ」
潜入は微かに微笑んだ。変装が、静かに解けていく。
「必要ならまた使うわ。今は、主人公様を追いかけないと。……愛を、届けるために」
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主人公は庭を走り続けていた。
風が顔に当たる。
久しぶりに、誰にも掴まれていない感覚。朝の空気が、普通に美味い。
「……本当に、逃げられたのか? 嘘だろ。こんな簡単に……」
希望が胸に広がる。足が軽い。
オアシスでガルドと話した夜のことが、ふと脳裏をよぎる。
「お前は自分のために生きてもいい」
その言葉が、まだ耳に残っている。胸の奥が、少しだけ熱い。
その瞬間が、最大の罠だということを、彼はまだ知らなかった。
背後で、静かに空間が歪み始める。優雅に、丁寧に。
森羅万象の声が、優雅に響く。
「逃げ道はありませんわ♡ 整えましたわ♡ 安全な空間ですわ」
魔導が続く。手を軽く振り、笑顔だ。
「チャオ♡ ご主人様のためですわ♡ わたくし以外の自由など、許しませんわ」
主人公の足が止まる。
「……は? 待ってくれ。今の『自由を掴め』は何だったんだよ!」
頭上から、監視のカメラが静かに光っていた。レンズが、優しく追尾する。
そして木陰から、変装を解いた潜入特化が、いつもの静かな表情で現れる。
「お疲れ様です、主人公様。自由、味わえましたか?」
彼女の声は、さっきまでの老騎士とは別人のように穏やかだった。愛おしさが、静かに乗っている。
主人公は呆然とする。口が半開きになる。
「……お前、か。爺さんじゃねえのか。老騎士ガルドは……」
潜入特化は小さく頷く。一歩、優しく近づく。
「ええ。ガルドという顔は、別の任務用ですわ。兵士たちを指導するときや、ゲイバーで主人公様やお兄さんと『親友』になるときに使いますの。……全部、主人公様を深く愛するためですもの」
彼女はもう一歩近づく。声は柔らかい。
「でも、安心してください。逃がしたのは本気ですわ。一時的に、ですけれど。オアシスで築いた友情も、全部……主人公様に、一番自然な希望を届けるためです。愛していますから」
主人公の肩が落ちる。
「また、か……。親友まで罠かよ。俺の平和は、どこまで材料にされるんだ」
嫉妬の明るい声が遠くから聞こえてくる。両手を振って走ってくる気配だ。
「主人公様ー! 見つかっちゃったね♡ でも頑張ったわ! 両方応援してたのよ♡ 自由を掴むところも、捕まるとこも、全部素敵!」
慈愛が優しく微笑む。すでに回復の光を手元に溜めている。
「お疲れさまでした。すぐ回復しますからね。痛くないように、丁寧に。また始めましょう? 愛を込めて」
科学がタブレットを見つめる。数字を確認しながら、微笑む。
「心拍数、最高値を更新していますわ。データとして非常に有意義です。自由の瞬間の数値……後で詳細分析しますわね♡」
森羅万象が空間を完全に封じる。周囲の木々さえ、優しく整う。
「整えましたわ♡ もう、どこにも行けませんわ」
主人公は立ち尽くすしかなかった。
老騎士ガルドの言葉が、まだ耳に残っている。
「一度でいい。自由を掴んでみろ」
掴んだ。
そして、すぐに奪われた。
いつものことだ。
でも、今回は少しだけ、胸の奥が痛かった。
ゲイバーで築いた『親友』さえも、罠だったという現実が、静かに沈んでいく。
「……俺の『普通』は、どこまで材料なんだよ」
潜入特化は、その表情を見逃さなかった。目が、微かに細くなる。
(……いい顔。記録しておいて正解ね。この痛みも、愛の一部だもの)
彼女は心の中でそう呟き、監視に通信を送る。声は穏やかだ。
「映像、確認できていますか?」
監視「はい。完璧ですわ。今夜の見返し用に、高解像度で保存しておきますね♡ ガルドとしての友情シーンも、編集して残しておきましょうか。主人公様の表情の変化が……とても美しいですもの」
潜入「……そうして。愛を、忘れないように」
夜が、また近づいてくる。
主人公は空を見上げた。
「……次は、普通に寝かせてくれよ。頼む」
誰も、普通には答えなかった。
ただ、優しい微笑みだけが、静かに彼を囲んでいく。
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