森羅万象 ささやかな一日
# 番外編――森羅万象の、ささやかな一日
【前日・主人公の屋敷・夜】
呼び出しの理由が「作戦」ではなかったことは、むしろ不吉だった。
応接室に並んでいたのは、魔導、エンジェル、リリムの三人。扇子もバインダーも、今夜は妙に真面目な角度で構えられていた。
「……で、今度は何をやらかした?」
「違いますわ」
魔導が首を振った。珍しく、悪巧みを企む前の顔ではなかった。
「森羅万象様のことです」
主人公の肩から、少しだけ力が抜けた。
「あいつか」
「ええ。あの方は普段から場を整え、皆様の暴走を止め、ご主人様の負担を増やさないように動いていらっしゃいますわ。その結果……ご自身の番を、後回しにし続けているのです」
リリムが腕を組んだ。
「つまり、みんなが好き勝手に動き回っている間、森羅万象はずっと交通整理をしていた、ということね」
エンジェルが淡々と補足する。
「記録上、森羅万象様がご主人様に個人的な要望を伝えた回数は、他の方々より明らかに少ないです。ご自身の希望を後回しにする傾向が強いと考えられます」
主人公は額を押さえた。
「……悪いとは思っていた。でも、あいつが何も言わないからな」
「そうなのですわ。何もおっしゃらないまま、いつも有能に立ち回り、適切な距離を保っていらっしゃる。だからこそ、放っておけば、いつまでも後回しになってしまいます」
魔導は扇子を閉じ、主人公をまっすぐ見つめた。
「ですので、明日は森羅万象様の日ですわ。慈愛と潜入特化にも協力していただきました。ご主人様は一日だけ、あの方と自由に過ごしてくださいませ」
「……俺がエスコートするのか」
「はい。そして、プレゼントもご用意いただきます」
主人公が顔を上げると、三人はすでに教材を配る講師のような顔になっていた。
*
【レクチャー】
「まずは、お店選びですわ」
魔導が指を立てた。
「騒がしい流行店は避けたほうがよろしいでしょう。静かで、席の間隔が広く、紅茶とお菓子の質が安定しているお店。できれば、窓から庭や空が見える場所が理想的ですわ」
リリムが続ける。
「食べ物は薄味で、甘いものなら後味がすっきりしたものがいいわね。森羅万象は、見かけによらず自分の分を減らして周りに譲ってしまうところがあるから、最初から二人分、きちんと注文してあげて」
エンジェルがバインダーを開いた。
「好みの傾向を整理します。紅茶、季節の果物を使ったさっぱりしたお菓子、過度な装飾のない工芸品、実用性のある上品な小物。花を贈るなら、大輪よりも小ぶりのものが適切です。香りが強すぎないことも重要です」
「……これ、メモしていいか?」
「もちろんです。成功率に関わりますので」
魔導が満足そうに微笑んだ。
「プレゼントは、高価であることよりも、選んだ理由が伝わることが大切ですわ。『森羅万象様が使いやすいもの』『あの方が手を休められるもの』が理想的です。例えば、上質な茶葉、書きやすい筆記具、小さな栞。日常に自然となじむものがよろしいでしょう」
リリムが肩をすくめた。
「つまり、派手な告白グッズは却下ね。森羅万象の幸せは、爆発じゃなくて、じんわり温まるようなものなのよ」
エンジェルが最後に釘を刺した。
「そして、最大の注意点です。途中で他の方々が乱入しないよう、慈愛様と潜入特化様が周囲を見守ります。ご主人様は、森羅万象様ご本人に目を向けてください」
主人公は深く息を吸った。
「……わかった。やる。ちゃんとやる」
魔導は満足そうに扇子を開いた。
「さすがですわ。それでは、森羅万象様に『ちゃんと見てもらえた』と思っていただける一日をお過ごしくださいませ」
*
【当日朝・屋敷】
森羅万象が呼び出されたとき、彼女はいつものように、少しだけ気を引き締めていた。
「場の調整でしょうか?」
応対に出た慈愛が、優しく首を振った。
「いいえ。今日は森羅万象さんの番ですよ」
潜入特化が影から淡々と続ける。
「他の方々は、ご主人様を追いかけるあまり、負担を増やしてしまいがちです。あなたは、その負担を減らしてきました。ですから今日は、私たちが周囲を見守ります。あなたは何も整えなくていいのです」
森羅万象の指が、袖の内側でほんの少し縮こまった。
「私は無理をしておりませんわ。当然のことをしているだけです」
「当然のことだからといって、ずっと一人で背負う必要はありません」
慈愛は何かを差し出すでもなく、ただ穏やかに微笑んだ。
「ご主人様がお待ちです。今日はご自分のために、自由に過ごしてきてくださいね」
森羅万象は短い沈黙のあと、小さく頭を下げた。
「……では、お言葉に甘えさせていただきますわ」
その声は、普段より少しだけ軽かった。
*
【午前・静かな茶房】
主人公が選んだのは、大通りから一本入ったところにある静かな茶房だった。
席は広く、隣の話し声が気にならない程度に間隔が空いている。窓の外には小さな庭が広がっていた。
森羅万象はメニューを開くと、まず主人公の好みを確かめるように目を走らせた。
「ご主人様は、温かいものがよろしいでしょう。こちらは少々刺激が強すぎるかもしれませんわ」
「今日は俺の分より、お前の分を先に決めろ」
「……はい?」
「レクチャーされたんだよ。お前、自分の分を後回しにするだろ」
森羅万象は、珍しく言葉を失った。
主人公は彼女の返事を待たずに、温かいお茶と季節の柑橘を使ったお菓子を二人分注文した。彼女が「私は少しで」と言い出す前に、追加の小皿まで頼んでおく。
やがて、お茶とお菓子が運ばれてきた。
それまでの話題は、特別なものではなかった。
最近の騒動の後始末。屋敷の修繕。隣国との間で交わされた文書の改定。
いつもなら、そうした話題は「次はどう整えるか」という仕事の話へとつながっていく。
だが、主人公はあえてそこで話を切り上げた。
「今日は仕事の話はここまでにしよう。お前が好きなお茶の話とか、そういうのでいい」
「好きなお茶、ですか……」
森羅万象はカップを両手で包むように持ち、薄い笑みを浮かべた。
「季節が変わる頃に飲む、少しだけ香りの立つ茶葉が好きですわ。主張が強すぎず、それでも確かにそこにあるもの」
「お前に似てるな」
「……ご主人様」
「褒めてるんだよ。いつも目立たないところで、ちゃんと全体を支えてるだろ」
主人公は湯気の立つカップを見ながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういや、最初の頃の俺の家は、ただの普通の家だったよな」
「ええ、そうでしたわね」
「そこに、お前が来て。次に魔導が来て。気づいたら人がどんどん増えていって……このままじゃ狭い、って家を屋敷にしたのは、お前だったな」
森羅万象は静かに微笑んだ。
「そんなこともありましたわね」
「お前が『この規模では皆様が自由に動けません』って、当たり前みたいに拡張計画を出したよな」
「そのおかげで、今こうして皆様が自由に活動できているのですもの。良いことではありませんか」
主人公は小さく息を吐き、苦笑した。
「……それもそうだな」
「ええ。住環境が整っていなければ、今のような日々は成り立ちませんでしたわ」
「お前が最初に動いてくれたから、今があるってわけか」
「わたくしは、必要なことをしただけです。ですが……そう言っていただけて、嬉しいですわ」
それ以上、気の利いた告白をすることはなかった。
森羅万象も、それを求めているわけではなさそうだった。
ただ、彼女がお茶を口に運ぶ手は、いつもよりゆっくりと動いていた。
*
【午後・店とプレゼント】
次に訪れたのは、工芸品と文具を扱う小さな店だった。
派手な宝飾品は少なく、手触りのよい紙や木製の文具、季節の茶葉などが並んでいる。
森羅万象は棚の前で自然に足を止めた。
品物を見つめる彼女の目は、価値を鑑定する者のそれではなかった。使う人の生活を想像するような、穏やかな目だった。
主人公は、事前に聞いていたとおりの棚へと歩いた。
選んだのは三点。
上質でありながら香りを押しつけない茶葉。軸の装飾を抑えた筆記具。そして、淡い色合いの栞。
渡すときも、膝をつくような大げさな儀式はしなかった。
彼女の手が届くところに、そっと袋を置く。
「これ、お前に。高価だからってわけじゃなくて、使いそうなものを選んだ」
森羅万象は袋の中を確認すると、一瞬だけまばたきを遅くした。
「……選んだ理由が、伝わってきますわ」
「気に入ったか?」
「はい。こういうものが好きですわ」
彼女は茶葉の包みにそっと指を触れ、そのあと筆記具を手に取って感触を確かめた。
誰かに見せびらかすためではない。
自分の机に置き、日常の中で使う未来を思い描いているような仕草だった。
「私は、ご主人様に何かをお願いするのが得意ではありません。他の方々が強く望まれるなら、その希望を通すほうが全体として円滑に進みます。ですから、どうしても後回しになってしまいますわ」
「で、結局、ずっと後ろに回ってたんだろ」
「……ええ」
森羅万象は店の窓から差し込む光を見つめた。
「それでも、今日は私自身を見てもらえています。それだけで十分ですわ」
主人公は少しだけ間を置いてから答えた。
「十分かどうかは、お前が決めればいい。少なくとも今日は、お前を後回しにはしない」
森羅万象の返事は、とても小さかった。
「……ありがとうございます」
森羅万象は、贈られた栞を指先でそっと撫でた。
「……ご主人様」
「ん?」
「もし、これから先も、こうして二人で過ごす時間をいただけるなら……私は、その時間を何よりも大切にしたいと思いますわ」
「ああ。また出かけよう」
主人公が何気なく答えると、森羅万象は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。では、次は私が場所を選んでもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ」
「よかったですわ」
彼女は栞を大事そうに袋へ戻した。
「静かで、落ち着けて、余計な邪魔が入らない場所を知っていますの。ご主人様にも、きっと気に入っていただけますわ」
「へえ、どんなところだ?」
「それは、当日のお楽しみですわ」
森羅万象は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
ただ、その脳裏では、すでにいくつもの候補地が選別されていた。
他の者たちが立ち入れない場所。急な呼び出しが届かない場所。主人公が仕事を思い出す必要もなく、自分だけを見ていられる場所。
もちろん、主人公の意思を無視するつもりはない。
彼が望むなら、どこへでも連れていく。
ただし、その行き先を自分が整えておけば、二人で過ごす時間はもっと増えるはずだった。
「……森羅万象?」
「はい?」
「なんだか、すごく嬉しそうだな」
「ええ。次の楽しみができましたもの」
彼女は主人公の隣で、静かに目を細めた。
――世界を整えるのは得意ですわ。
――ですから、いつかご主人様の一日の中に、私の居場所もきちんと整えてみせます。
その微笑みは、どこまでも穏やかだった。
*
【夕方・帰路】
騒ぎは起きなかった。
途中で何かの気配が動きかけた場面はあったものの、遠くから聞こえた慈愛の穏やかな声と、潜入特化の短い合図がそれを抑え、二人のところまでは届かなかった。
平和は、誰かの努力によって維持されていた。
二人は並んで歩いた。
急ぐ必要はなかった。
森羅万象はプレゼントの入った袋を胸元に寄せ、ときおり、その重みを確かめるように腕を内側へ引いた。
「ご主人様」
「ん?」
「私は、大きな独占を望むタイプではないのかもしれません。ただ、こうして一日の時間を共有できると……世界の輪郭が、少しだけ素直になる気がしますわ」
「詩的だな」
「事実を申し上げているだけですわ」
主人公は笑い、彼女の歩幅に合わせた。
「なら、たまには本音を俺にも伝えてくれ。我慢してるときは、我慢してるってな」
森羅万象は前を向いたまま、薄く微笑んだ。
「今日は、その練習ということですわね」
*
【夜・屋敷の手前】
一日は、穏やかに終わろうとしていた。
森羅万象は玄関前で袋を抱え直し、丁寧に礼をした。
「無茶も、大乱闘も、契約もありませんでした。とても良い一日でしたわ」
「それが最大の褒め言葉なのか?」
「はい。私にとっては、何よりの褒め言葉ですわ」
彼女は少しだけ間を置き、本音を付け加えた。
「他の方々がご主人様を追いかけるのは、自然なことです。私も、本当はもっと見ていただきたいと思っています。その気持ちがないわけではありません。ただ、優先順位を誤れば、全体の調和が崩れてしまいます。ですから、ずっと耐えてきましたわ」
「それで、今日はどうだった?」
「今日は、耐えずに済みました」
それだけ言うと、森羅万象は静かに息を吐いた。
肩の力が、普段よりほんの少し抜けていた。
「ささやかですが、幸せな一日でした。ご主人様、また……仕事以外のことでも、お声がけくださいませ」
「ああ。次はお前から誘ってもいいぞ」
「努力しますわ」
彼女は本当に努力するつもりらしく、真剣な顔でそう答えた。
*
【同刻・別室】
周囲を見守っていた慈愛と潜入特化は、遠くから二人の姿を眺め、同時に安堵した。
「うまくいきましたね」
慈愛が微笑む。
「はい。乱入はゼロ。表情の硬さも、午後から和らいでいます」
潜入特化が淡々と報告した。
一方、前日にレクチャーを担当した三人は、報告書ではなくお茶を楽しんでいた。
魔導が小さく笑う。
「ご主人様、なかなか良いものを選ばれましたわね」
リリムが満足そうに頷いた。
「そうね。森羅万象には、ああいう贈り物がよく似合うわ」
エンジェルが最後に記録する。
「結果。森羅万象様の満足度は上昇。ご主人様の負担も増加せず。平穏な一日として成功と判断します」
*
【締め】
その夜、森羅万象は自室で新しい茶葉を淹れ、贈られた筆記具を机の上に置いた。
大きな騒ぎの勝利宣言も、独占を示す旗印もない。
そこにあるのは、誰かにきちんと見てもらえた一日の温もりだけだった。
彼女は立ち上る湯気の向こうで、静かに目を細めた。
「……これくらいの幸せが、私にはちょうどいいですわ」
そして、いつもより少しだけ長く、その夜の余韻を一人で味わった。
――他のヤンデレたちが主人公を追いかける世界で、後ろを整え続けてきた者にも、自分のための番は必要だった。
今日という平和は、そのための、ささやかで正しい配分だった。




