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主人公捕獲RTA

# 番外編――どこにでも逃げられるドアと、逃げられない午後


*


【主人公の屋敷・応接室】


主人公の顔には、最近の連戦疲れが色濃く浮かんでいた。


ヤンデレ案件、魔界案件、商売案件、王女案件。単体なら笑える。積み重なると人生が終わる。


「……最近、いろいろな騒動に巻き込まれすぎている。少し、一人になれる時間が欲しいんだ」


応接室にいたアスタロト、ベリアル、ドミニオンズ、腰振り、格闘、拷問の男たちは、珍しく真面目な顔をした。


あまりに真面目だったので、逆に怖かった。


アスタロトが頷く。


「無理もない。休息は戦力維持に必要だ」


ベリアルも腕を組む。


「お前が倒れたら周りが荒れる。休んだ方がいい」


ドミニオンズは淡々と提案した。


「外部要因を遮断した環境を用意すべきだ。来客ゼロ、突発事象ゼロ。理想を言えば、世界ゼロだな」


「世界までは消すな」


腰振りが肩を回す。


「要するに、誰にも触られずに寝たいってことだろ」


格闘も同意した。


「俺たちみたいなのが入り浸る場所じゃ休まらねえもんな。わかるぜ」


そこで拷問が、落ち着いた声で爆弾を置いた。


「それなら、魔界に新しい屋敷を造ればいい。多少の騒ぎでは壊れない、頑丈なものをな」


腰振りと格闘の目が、同時に子供のように輝いた。


「それはいい」


「壊れないなら試し打ちできるな」


「試し打ちは不要だ」


主人公の否定は、建設意欲という名の重機に轢かれた。


*


【魔界・建設予定地】


魔界の技術は、人の願いを叶えるときに限ってオーバースペックだった。


拷問は耐衝撃、耐魔力、侵入阻害の機構を重ね、外壁から内装に至るまで「壊す方が失礼」と言いたくなるほどの強度に仕上げた。


完成後、腰振りと格闘は本当に殴り始めた。


普通の建物なら損害賠償案件になるほどの打撃を叩き込んでも、壁は無言だった。


格闘が満足げに頷く。


「これなら、多少暴れても問題ないな」


腰振りも胸を叩く。


「これでご主人様も安心して休める」


拷問が防御機構を確認し、短く締めくくった。


「問題ない。外部からの破壊や乱入は、かなり抑えられるはずだ」


三人は本気で主人公の休息を守ろうとしていた。


ただし、「頑丈」の基準が一般家庭の約五十倍で、本人への説明がゼロなのは、まだ誰の問題意識にも上がっていなかった。


*


【魔界・新しい屋敷】


主人公は新邸へ案内された。


広い。静か。来客の気配もない。素晴らしい。


こんなに人の気配がない場所に自分がいるのは、ここ最近では奇跡に近かった。


「……こういうのでいいんだよ」


彼はソファに倒れ込むと、そのまま眠りに落ちた。


誰にも呼ばれない。誰にも確保されない。高級な睡眠だった。


屋敷の外では、腰振りと格闘が警戒し、拷問が設備を点検していた。アスタロトたちも「休ませろ」という方針を守っている。


男たちの善意は、いったん勝利したかに見えた。


人生で一番危ないのは、いったん勝利したかに見える時間である。


*


【魔界・新しい屋敷・居間】


床が突然、光り始めた。


巨大な魔法陣。回転する紋様。空間の歪み。


主人公は嫌な予感で目を覚ました。


「……ん? 何だ、これ」


光の中から現れたのは、魔導だった。


「チャオ!」


「……魔導。どうしてお前がここにいるんだ?」


「もちろん、ご主人様に会いに来たのですわ♡」


「いや、俺は一人になりたいんだよ」


主人公はソファから起き上がり、珍しく本音を包み隠さず口にした。


「最近、いろいろな騒動に巻き込まれすぎている。魔界に屋敷まで用意してもらって、ようやく一人で休めると思ったのに」


魔導は彼を見つめ、優しく言った。


「でも、ご主人様は一人きりだと寂しいかと思いまして♡」


「寂しくない!」


「頼むから、今は一人にしてくれ。誰にも邪魔されずに休みたいんだ」


もはや交渉ではなく、祈願だった。


魔導は少し考え、あっさりと頷いた。


「……わかりましたわ♡」


「本当か?」


「ええ。お気持ちはよくわかりましたもの」


主人公が「理解のある人」認定をしかけた、その一秒後。


魔導は設計図を取り出した。


「実は、こんなものをご用意していたのですわ」


そこに描かれていたのは、ドアだった。


「科学と薬学にも協力していただき、どこにでも移動できるドアを開発しましたの。これがあれば、ご主人様がお好きな場所へ自由に移動できますわ♡」


「……どこにでも?」


「ええ。山奥でも、海辺でも、誰もいない草原でも。お一人で過ごしたい場所へ、いつでも移動できますわ」


主人公は設計図を見つめた。


どうやら本気らしい。


誰かが押しかけてきても、ドアを開ければ別の場所へ移動できる。静かな時間を、自分の手で確保できるのだ。


「……これはすごいな。ありがとう、魔導。助かるよ」


「お役に立てて光栄ですわ♡」


魔導はさらに契約書を取り出した。笑顔のままである。


「所有権の移転に必要ですわ。サインをお願いいたします♡」


「契約書?」


「共同開発ですから、権利関係を明確にしておきませんと」


細かい条項は記載されていた。


だが、主人公は疲れていた。目の前には自由があった。


人は自由と書かれた箱を開けがちである。


「わかった。これでいいんだな?」


彼は名前を書き込んだ。


「はい、受領いたしましたわ♡」


魔導は契約書を大事そうにしまった。


その顔は、慈善事業の完了報告にも見えたし、狩猟免許の更新を終えた人間にも見えた。


「それでは、ごゆっくりお休みくださいませ♡」


「おう。ありがとうな」


魔導が姿を消し、静寂が戻った。


主人公はドアを眺め、満足げに頷いた。


「……これで、ようやく一人になれる」


本人だけが知らなかった。


契約書に記された署名は、追跡魔法と連動していた。


どこへ逃げようとも、所在だけは魔導に伝わる。


自由配送、追跡付き。


*


【同日・午後・作戦会議室】


問題は、そこから文化祭の実行委員会のように広がっていった。


科学と薬学が「同規格のドアなら複数台用意できる」と確認した瞬間、魔導は全員に招集をかけた。


黒板の前で扇子を構え、テンションだけは先に最終形態へと突入している。


「皆様! 重大発表ですわ♡」


空気が一気に前のめりになる。


危険な前のめり方だった。


「本日より、正式に『ご主人様保護および安心確保作戦』を開始します! 別名――『どこにでも逃げられるドア、みんなで使ってみんなで迎える作戦』ですわ!」


嫉妬が両腕を上げた。


「名前が長い! でも好き! 略して『どこ迎作戦』で!」


監視が端末を持ち上げる。


「略称を提案。『ドアスマホ作戦』は却下。『追跡付き自由作戦』で登録します」


「監視特化、その名前は事件性がありますわ」


魔導は止まらない。資料を配る手つきまで爽やかだった。


「ご主人様には自由を差し上げました。ですが、自由は孤独とセットにすると危険です。ですので! 私たちが各担当区画にドアを設置し、もしものときはすぐにお迎えに上がる。これこそ愛ですわ♡」


科学が手を上げる。


「技術面から補足。連続移動は三回まで安全。四回目以降は冷却が必要になります。捕捉するなら、そのタイミングが最適です」


薬学も続いた。


「医療面から補足します。転倒や過呼吸は避けたいところです。確保後は、温かいものを優先しましょう」


潜入が影の中から一言。


「先回りは可能です。ただし、同時起動は干渉します。順番を守ってください。守らないと、ドア同士で喧嘩します」


慈愛が穏やかに微笑む。


「怖がらせないこと。声は優しく、手は確実に。捕獲も愛の一部ですから」


「一部にするな」


誰の心の声かはわからないツッコミが、会議室の空気にだけ残った。


そして、王女が前へ出た。


その目は燃えていた。前回の雪辱という燃料によって、かなりよく燃えていた。


「わたくし、前回は途中で止まってしまいました。最終試験であの場まで進んだのに、その先へ進めず、固まってしまいました」


部屋が少し静まる。


「あれは未完ですわ。ですので、今回は雪辱を晴らします。最後まで、きちんとお迎えします!」


嫉妬が拍手した。


「燃えてるわね、王女様♡ 応援してる!」


魔導も扇子で口元を隠して笑う。


「その意気ですわ。では、役割分担を決めましょう。追跡情報の共有は監視、先回りは潜入、冷却タイミングの予測は科学、着地点の安全確認は薬学。場の誘導は……森羅万象様!」


森羅万象は紅茶を置き、静かに立ち上がった。


「承知しましたわ。逃げ道を塞ぐのではありません。逃げた先が、自然と一つの場所へつながるように整えます」


「それ、塞いでます」


またしても、心の声のようなツッコミが流れた。


「最後の確保役は?」


魔導の問いに、王女が即座に手を上げる。


「わたくしがやります。前回の続きですわ!」


「採用です♡」


こうして、表向きは保護、中身は全員参加の捕獲網が、妙に高いテンションのまま完成した。


危険なのは悪意よりも、スケジュールどおりに進められる善意である。


*


【決死の逃走劇】


異変に気づいたのは、主人公が新邸でようやく二度目の眠りに落ちかけたときだった。


契約書の署名欄が淡く光る。


直後、壁際のドアからノックの音がした。


「ご主人様ー♡ お迎えに上がりましたわ!」


「来るなあああ!」


主人公は飛び起き、ドアを開けた。


向こう側は、緑豊かな山間の避暑地だった。


涼しい風。木々の匂い。人の気配はない。


主人公は素早く飛び出し、ドアを閉めた。


「……勝った」


その瞬間、背後の茂みが揺れた。


「ご主人様、発見しました♡」


監視が端末を掲げていた。


「なんでいるんだよ!」


「契約書の署名と追跡魔法が連動しています。位置情報は正確ですよ」


「自由を返せ!」


主人公は即座にドアへ戻り、次の場所へ逃げ込んだ。


今度は海辺の岩場だった。


波の音が響き、潮風が吹き抜ける。見渡す限り、人影はない。


「よし、今度こそ――」


「一人でいると転びやすい場所ですよ」


岩陰から慈愛が顔を出した。


「なんで岩陰にいるんだよ!」


「安全確認です」


「その安全確認、俺の行き先まで網羅する必要ある!?」


主人公は再びドアへ飛び込んだ。


三つ目の目的地は、広々とした草原だった。


今度こそ誰もいない。


そう思ったのも束の間、足元に魔法陣が浮かび上がった。


『安全な経路を案内します』


森羅万象の声が響く。


「右方向は風が強く、左方向は足場が不安定ですわ」


「じゃあ、どっちへ行っても駄目じゃねえか!」


「ドアの位置はこちらです」


「案内のふりをした誘導だろ!」


主人公は四の五の言わずに逃げた。


廃寺では薬学にお茶を差し出され、湖畔では嫉妬に先回りされ、森の小屋では潜入に出口を押さえられた。


移動するたびに、着地点での滞在時間が短くなっていく。


ドアを開ける。周囲を確認する。誰かがいる。すぐに次へ逃げる。


その繰り返しだった。


しかも、追手は走って追いかけてくるわけではない。


監視は居場所を特定し、潜入は先回りし、森羅万象は逃走経路を誘導する。科学はドアの稼働状況を把握し、薬学は安全確保を名目に待ち構えていた。


一人ひとりの行動は妙に合理的だった。


全員が協力すると、主人公の自由だけが合理的に消えていった。


「なんなんだよ、この組織的な善意は!」


そのとき、ドアの縁が赤く点滅した。


『連続移動回数:九回』


『冷却まで残り一回』


主人公の顔から血の気が引いた。


「……もうそんなに使ったのか!?」


背後から、魔導の声が聞こえた。


「ご主人様、そろそろ休みましょう♡」


「お前たちから逃げるために休めなくなってるんだよ!」


主人公は薄暗い廃工場の通路を駆け抜けた。


突き当たりに、最後のドアが見える。


もう選んでいる余裕はない。


「頼む……今度こそ誰もいない場所に繋がってくれ!」


取っ手を回し、飛び込む。


光が弾けた。


*


【最終区画・展望台】


目を開けた先は、見晴らしのよい展望台だった。


花の鉢。低い手すり。遠くに見える王都。


そして、正面には王女が立っていた。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


「……お前かよ!」


王女は胸を張った。


「はい。わたくしの担当区画ですわ。前回の続き、始めます」


「待て! なんでここが担当区画なんだ!」


「ご主人様が最後にたどり着く場所として、森羅万象様が整えてくださいました」


主人公が振り返る。


今くぐってきたドアが、ゆっくりと閉じていく。


慌てて取っ手を握ったが、景色が歪んだだけで、ドアは開かなかった。


森羅万象が少し離れた場所に立ち、片手をかざしていた。


「接続先を固定しましたわ。戻ろうとしても、同じ場所へ再接続されます」


「やっぱりお前も敵か!」


「敵ではありません。着地を手伝っているだけですわ」


「着地って言うな、捕獲だろ!」


左右の柱の陰には監視と潜入。階段側には嫉妬と慈愛。科学と薬学は、主人公が転倒しても怪我をしないよう床の安全を確認していた。


そして魔導は、扇子を広げて満足げに微笑んでいる。


「皆様、配置につきましたわね♡」


「いつの間にそんな大規模作戦になったんだよ!」


「ご主人様の安全を守るためですわ」


「安全を守るために逃走経路を全部潰すな!」


主人公は右へ走ろうとした。


嫉妬が、にこやかに一歩前へ出る。


「そちらは行き止まりよ♡」


左へ向きを変える。


慈愛が両手を広げた。


「こちらからなら、転ばずに戻れますよ」


階段へ向かう。


潜入が影から現れ、静かに首を振った。


「先ほど、通路を閉じました」


「仕事が早すぎるだろ!」


主人公は足を止めた。


前には王女。左右にはヤンデレたち。後ろには接続先を固定されたドア。


逃げ道がない。


いや、正確には逃げ道そのものはある。


ただし、すべての道が同じ場所へ戻ってくる。


「……これ、最初から全部仕組まれてたのか?」


魔導が扇子を閉じた。


「ええ♡」


「即答するな!」


王女は一歩近づき、深く頭を下げた。


「ご主人様が一人で休みたいというお気持ちは、承知しております。ですので、休める場所までお連れします。今度は途中で止まりません」


「その根性を別の資格試験に使え!」


王女は迷いなく距離を詰めた。


主人公が身をひねって逃れようとする。しかし、連続移動で疲れ切った身体は、もう思うように動かなかった。


王女は彼の肩を支え、背後への逃げ道を封じるように抱き止めた。


痛みを与えるほどではない。


だが、これで終わりだった。


「確保しました。ご主人様、今日はもう走らなくて大丈夫ですわ」


「大丈夫なわけないだろ……」


魔導が扇子を閉じた。


「連携、完璧でしたわね♡ 森羅万象様の着地補助も、さすがですわ」


森羅万象は軽く一礼した。


「場が整っただけですわ」


嫉妬が手を叩く。


「全員合格♡ 表彰式をやりたい!」


「やるな」


主人公は支えられたまま、空を見上げた。


「……一人になりたいって言っただけなのに」


誰も否定しなかった。


誰も解放しなかった。


ただ、周囲の空気だけが「よく頑張りました」とでも言うように温かかった。



*


【夜の生活へのお持ち帰り】


確保後の移動先も、やはりおかしかった。


王女が開いた次のドアの先は、王城でも元の屋敷でもなく、拷問が造った魔界の新邸だった。


頑丈な壁。静かな廊下。外の騒音を遮断する設計。


つまり、「休むために造った家」が、最短ルートで「お持ち帰り先」へと転職していた。


「ここなら、ご主人様も安全ですわ」


「安全と隔離を混ぜるな」


体力の底と圧倒的な人数差を前に、主人公の抵抗は長く続かなかった。


深いソファへと通され、表向きは休息、実質的には夜の生活を前提とした保護隔離が始まる。


政策名が長いほど、中身が怖い。


窓の外では、建設に携わった男たちが集まっていた。


拷問が首を傾げる。


「……おかしいな。休ませるために造ったはずだが」


格闘が腕を組む。


「いつの間にか、お持ち帰り先になってるぞ」


腰振りが遠い目をする。


「頑丈さは証明された。用途が当初の想定と違うだけだ」


アスタロトが小さく息を吐く。


「善意で造ったものが、現場の解釈で別物になる典型だな」


ベリアルは肩をすくめ、ドミニオンズは淡々とメモを取った。


「結論。目的と結果が乖離している」


「分かってる。なんでこうなったんだ……」


拷問の呟きは、魔界の夜に優しく流されていった。


優しく流されるところが、また残酷だった。


*


【別れ、そして王女の好奇心】


玄関前には、王女だけが残っていた。


今夜の主担当は、魔導側の保護体制へと移る。


王女はそれを理解していた。


自分の役目は、主人公を最後まで確保することだった。


その役目は果たした。


けれど、この先は違う。


魔導たちが主人公のもとへ向かうのを見て、王女はそっと視線を落とした。


「……わたくしは、ここまでですわね」


声には、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。


「今夜は、わたくしがご一緒するわけにはいきませんもの」


王女は扉の前で一礼した。


「ご主人様。今日はここまでですわ。おやすみなさいませ」


そして、帰ろうとした。


その背中に、魔導の声が飛んだ。


「お待ちくださいませ、王女様♡」


「……何でしょうか?」


魔導は扇子を広げ、いかにも何でもないことのように言った。


「別に、今夜の生活に加わらなくてもよろしいのではありませんか?」


「えっ?」


王女が振り返る。


魔導は微笑んでいた。


「見ていくだけなら、いいんじゃないんですか?」


「み、見る……?」


王女の顔が、みるみる赤くなった。


「そ、それは……その……夜の生活というものを、ですか?」


「ええ♡ ご興味がおありなのでは?」


「き、興味というか……! わたくしは、そのようなことを、まだ詳しく存じ上げませんし……!」


言葉がどんどん小さくなっていく。


王女は両手を胸の前で握りしめた。


「ですが……ご主人様のことですから、きちんと理解しておく必要があるのでは、とも思いますし……」


「そうですわね♡ 何事も勉強ですもの」


「べ、勉強……!」


魔導の言葉に、王女は真剣な顔で頷きかけた。


だが、すぐに我に返る。


「いえ、でも! 見学というのは、その……!」


「無理にとは申しませんわ。帰りたいのでしたら、お見送りします」


魔導は一歩も引き止めなかった。


ただ、扇子の向こうで楽しそうに目を細めている。


王女は玄関と廊下を交互に見た。


帰れば、今夜は何も知らないままだ。


残れば、これまで知らなかった世界を目の当たりにすることになる。


「…………」


沈黙が続いた。


やがて王女は、真っ赤な顔のまま、小さく手を挙げた。


「……少しだけ、ですわよ?」


魔導の扇子が、ぱちんと閉じた。


「もちろんですわ♡」


「ほ、本当に少しだけですからね!」


「ええ。王女様のご希望どおりに」


その返事が、どこまで信用できるのか。


王女にはまだ判断できなかった。


*


【魔界・新邸・廊下】


王女は魔導の後ろを、緊張した面持ちで歩いていた。


一歩進むたびに、帰ろうかという考えが頭をよぎる。


けれど、そのたびに好奇心が背中を押した。


「……あの、魔導様」


「はい、何でしょう?」


「夜の生活というものは、皆様、いつもあのように……?」


「それは、実際にご覧になればわかりますわ♡」


「そ、そうですわね……!」


王女はまた赤くなった。


廊下の奥から、主人公の声が聞こえた。


「待て! せめて一人ずつにしてくれ!」


続いて、魔導の明るい声。


「ご主人様、そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですわ♡」


「緊張させてるのはお前たちだろ!」


王女は足を止めた。


「……ご主人様、ずいぶんと大変そうですわね」


「ええ。いつものことですわ♡」


「いつものこと……」


王女の頭の中で、夜の生活という言葉に対する想像が、急速に現実味を帯びていった。


魔導は扉の前で立ち止まった。


「では、こちらから静かにご覧くださいませ。くれぐれも、驚いて声を上げないように」


「は、はい……!」


王女は背筋を伸ばし、真剣に頷いた。


扉がわずかに開く。


その隙間から見えたのは、主人公を中心に、すっかり夜の生活の準備を整えた魔導たちの姿だった。


主人公は状況を察知し、扉の方を向いた。


「……ん?」


視線が合った。


王女は固まった。


主人公も固まった。


「……王女?」


「…………」


「お前、帰ったんじゃなかったのか?」


王女の顔が、耳まで真っ赤になった。


「そ、その……魔導様が、見ていくだけならよいと……!」


「魔導おおおおおお!」


主人公の絶叫が、頑丈な新邸に響き渡った。


魔導は涼しい顔で微笑んだ。


「王女様は、勉強熱心なのですわ♡」


「何の勉強だ!」


王女は両手で顔を覆った。


それでも、指の隙間から目だけは、しっかりと部屋の中を見ていた。


そして、その夜。


王女は、生まれて初めて「夜の生活」というものを目撃した。


具体的に何を見たのか。


それを王女が翌日、誰かに説明できたかどうか。


それは、また別のお話である。


*


――こうして、一人になりたい午後は、全員参加の保護作戦として幕を閉じた。


念願の自由は手に入った。


ただし、逃げ切る自由までは付属していなかった。


そして、休むために造られた屋敷は、「夜の生活のお持ち帰り先」として、初日から満室営業を開始してしまったのだった。


王女は、他のヤンデレたちとの圧倒的な実践経験の差を目の当たりにし、言葉を失った。


自分も主人公に近づくため、これまで数々の試練を乗り越えてきた。だが、彼女たちの振る舞いは、その努力すら霞ませるほどの熟練ぶりだった。


「……わたくし、まだまだ修行が足りませんわね……!」


ショックに打ちひしがれながらも、王女の瞳には新たな決意が宿っていた。


いつか必ず、彼女たちに追いつき、追い越してみせる。


こうして王女は、ヤンデレとしてのさらなる高みを目指すことを決意したのだった。


翌朝、主人公と顔を合わせた王女が、どんな顔をするのか。


それを想像して、魔導だけが楽しそうに笑っていた。


「ふふっ……次回も、勉強の機会をご用意した方がよろしいかしら♡」


「二度と用意するなあああああ!」


魔界の新邸には、今日も頑丈な壁が立っていた。


外からの攻撃には、びくともしない。


ただし、内側で繰り広げられる騒動までは、防げないのだった。

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