王女の推し活、西方大国攻略戦1
番外編――王女の推し活、そして西方大国との改定**
*
【王城・玉座の間】
湿布を額に貼った国王の前で、王女は背筋を伸ばして立っていた。
高窓から差し込む朝の光が、赤い絨毯の上に長い影を落としている。
普段なら、この時間は政務の報告や修繕費の申請で終わる。だが、今日の王女は違った。
その表情には、いつもの推し活に浮かれるような明るさはない。代わりに、ひとつの決意を胸に秘めた者だけが持つ、静かな強さがあった。
「お父様。西方大国との関係を、改めたいと思います」
国王が書類をめくる手を止めた。
「……西方大国、だと?」
「はい。長年、わが国が不利な条件を強いられてきた相手です」
王女は一歩前へ出た。
「歳貢に近い物資の供出。一方的に有利な通商条件。わが国から輸出する品には高い関税を課す一方、あちらから入ってくる品には低い関税しか認めない仕組み。有事の際には、こちらが先に兵を出すという協力義務までございます」
王女は、記憶していた条約の内容をひとつずつ挙げた。
「しかも、関税率を変更する権限は相手側に偏っています。わが国が独自に税率を引き上げようとすれば、条約違反だと抗議される。通商上の問題が起きても、こちらが納得するまで交渉を続けることすら難しい。名目こそ友好条約ですが、実態は従属に近いものですわ」
国王は苦々しく口元を歪めた。
「よく覚えているな」
「王族として、知らずに済ませてよいことではありませんから」
「……そうか」
国王は椅子に深く腰掛け直した。
西方大国は、この大陸でも屈指の大国だった。
広大な領土に豊かな農地を持ち、鉄鉱山や魔石鉱床を数多く抱えている。国内には複数の工業都市と大規模な交易港があり、各地を結ぶ街道や水運網も整備されていた。
そして何より、常備軍の規模が違う。
国境を守る守備隊だけで、こちらの国が動員できる兵力に匹敵する。王都には精鋭の騎士団が控え、各地の要塞には訓練された兵士が配置されていた。
魔術兵団、騎兵隊、攻城兵器を運用する専門部隊。さらに、戦況が悪化した場合に投入できる予備兵力まで備えている。
一つの部隊を撃破したところで、別の部隊が現れる。
一つの要塞を落としたところで、次の防衛線が待っている。
仮に戦場で勝利を収めても、国全体の戦争遂行能力には大きな差があった。
「こちらが軍を動かせば、あちらも同じように軍を動かす。だが、その先に待つものは対等な戦いではない」
国王は窓の外を見つめた。
「兵士の数が違う。武器の備蓄量が違う。食料を生産できる土地も、兵器を作る工房も、軍を支える財力も違う。戦争が長引けば、こちらは兵士を補充することさえ難しくなる」
一度の戦闘に勝ったところで、次の軍が押し寄せてくる。
国境の町を封鎖され、商隊を止められ、交易に出た者や留学生、交渉使節を拘束されれば、戦場の勝利など簡単に覆される。
「しかも、あちらは軍を動かさずとも、わが国を追い詰められる」
国王は机上の書類を指で叩いた。
「関税を引き上げ、通商許可を遅らせ、わが国の商人が大国の市場で商売できないようにする。街道の検問を厳しくし、輸入品の検査に時間をかけるだけでも、商売は滞る」
王女は黙って聞いていた。
「わが国の職人が作った製品は、あちらの市場では高い関税を課される。反対に、大国から入ってくる安価な製品は、低い関税で国内へ流れ込む。こちらの商人は利益を削られ、国内の工房は競争に苦しむ」
国王の声が、少しずつ重くなっていく。
「関税収入が減れば、国庫も苦しくなる。鉄や魔石、農具の部品など、生活や産業に必要な物資の輸入が滞れば、民の暮らしにも影響が出る。食料を完全に止められずとも、輸送費や取引価格を引き上げられるだけで、国民は苦しむのだ」
そして、何より恐ろしいのは人質だった。
王族や有力者の身内を拘束されれば、救出するために譲歩せざるを得ない。
「強い兵士が何人いようと、国民全員を守りながら戦うことはできない。軍人が勝てば済む話ではないのだ」
だからこそ、国王は従ってきた。
「……今更、何を言い出す。あそこに逆らえばどうなるか、お前も知っているはずだ」
「存じています」
王女は即答した。
「ですが、今なら可能だと考えました」
「可能、か」
国王は鼻から息を吐いた。
「お前が国を動かすようになってから、城の修繕費は増えた。門が壊れ、壁が落ち、応接室が半壊したこともある。報告書に目を通すたび、余は頭が痛くなる」
「……申し訳ありません」
「謝罪を求めているのではない。いや、修繕費については後で説明してもらうがな」
国王は額の湿布を押さえた。
「だが、西方大国との関係だけは変えられなかった。あそこに手を出せば、国全体を危険にさらすことになる。余は王として、それを選ぶわけにはいかなかったのだ」
王女は黙って父を見つめた。
「……お父様は、悔しくなかったのですか?」
国王の目が、わずかに揺れた。
「悔しくなかったはずがあるまい」
それは、王としての威厳を保つための言葉ではなかった。
一人の人間として、長年胸の奥にしまい込んできた感情だった。
「先代から受け継いだ関係だ。余が王位に就いた時には、すでに条約があった。改定を求めれば軍事的な圧力をかけられ、拒めば交易を制限すると脅された。関税の引き上げをちらつかせられれば、商人たちも反対せざるを得ない。国庫の収入が減れば、軍備を整えることも、民の暮らしを支えることも難しくなる」
国王は窓の外に目を向けた。
「王都の民だけを守ればよいのなら、いくらでも強がれたかもしれん。だが、国境の村にも人はいる。畑を耕す者も、家族を養う者もいる。大国との交易で生計を立てている商人も、工房で働く職人もいる。兵士の家族だって同じだ。余の意地のために、あの者たちの暮らしを犠牲にはできなかった」
「……」
「だから飲んだ。納得したからではない。守るために、飲むしかなかったのだ」
王女は、ゆっくりと目を伏せた。
父が何もせずに屈服していたわけではない。
何もできなかったわけでもない。
その先にある犠牲を考え、王としての責任を背負った結果だった。
国王は、そこで一度言葉を切り、机の別の書類へ手を伸ばした。紙の端は擦り切れ、何度も開かれた跡がある。
「もっとも……だからといって、この国が今日まで何もかも危ういままだったわけではない」
王女は顔を上げた。すでに察しのついた目をしていた。
「お父様」
「お前も知っているはずだ。不平等な条約があっても、この国がまだ国として成り立っている理由を」
国王は短く息を吸った。
「森羅万象をはじめとする、あの者たちだ」
玉座の間に、いつもとは違う種類の沈黙が落ちた。
「軍事拠点の再建、防衛線の補強、兵站の穴埋め。普通なら十年かかる補修を、あの者たちは短期間で形にした。食料についても同様だ。不作の年、物流の滞り、備蓄の偏り。本来なら飢餓と暴動が起きてもおかしくない局面を、薬学や科学、慈愛、それに森羅万象の調整が何度も押し返してきた」
国王の声は、感謝と恐れが混ざったような低さだった。
「余は王として、国民の前でそれを大々しくは言えん。だが内実を知る者は知っている。この国の国防と食糧は、制度だけで回っているのではない。超常の個人たちが、穴を塞いでいる」
王女は静かに頷いた。
「はい。存じております」
「知っているのか」
「はい。わたくしも、報告書と現場の両方を見ました。森羅万象様が場を整え、科学様と薬学様が不足を補い、戦える方々が拠点を支える。あの方々がいなければ、条約の重みはもっと早く、民の生活を押し潰していたでしょう」
国王は目を細めた。
「ならば聞く」
その声は、怒りではなかった。王としての本問だった。
「現状維持ができているものを、なぜ今さら打破せねばならん?」
王女の肩が、わずかに揺れた。
「条約は不平等でも、飢えてはいない。拠点は不足しても、致命傷にはなっていない。森羅万象たちがあの場所にいる限り、この国は今日も明日も回る。危険を冒してまで、何を変えたい?」
「……」
「失敗すれば、修好どころか報復を招く。関税をさらに吊り上げられ、街道を固められ、国境の村から順番に苦しむのは民だ。今ある安定を賭けてまで、お前は何を得たい?」
王女は一度、胸の前で手を重ねた。答えは前から用意していた。それでも、父の前で口にするのは重かった。
「お父様の仰る通りです。今の安定は、本物の安定に見えます」
「見えているだけではない。数字にも出ている」
「はい。ですが、それは正しい姿ではありません」
国王の眉が動いた。
「正しい姿、だと?」
「はい」
王女は父をまっすぐに見た。
「ヤンデレの皆様という、超常の存在が国を維持している状態は、正しい国家の形ではない。あの方々が拠点を支え、食料の穴を埋め、危機のたびに帳尻を合わせる。それは救いに見えて、依存ですわ」
「言葉を選べ。あの者たちは、この国を何度も助けた」
「助けていただきました。だからこそ、申し上げます」
王女の声が、少しだけ強くなる。
「あの方々がいなくなった時、この国はどうなりますか?」
玉座の間の空気が、張りつめた。
「森羅万象様が場を整えられなくなった時。科学様と薬学様が備蓄と医療の不足を埋められなくなった時。戦える方々が国境の穴を塞げなくなった時。その時、わが国に残るのは、不平等な条約と、自立しきれていない制度だけです」
国王は何も言えないでいた。
「今は回っています。回っているから、改革は後回しにできます。後回しにしているうちに、国民も官僚も『誰かが何とかしてくれる』と思い始めます。それは平和ではありません。先送りですわ」
王女は一歩進んだ。
「お父様が守ってくださった国を、わたくしは次の世代へ渡したい。その時、森羅万象様がいなければ立たない国ではなく、条約を自分の足で改定し、食料も防衛も制度として回る国を渡したいのです」
「……理想論だ」
「理想です。ですが、理想を言わなければ、この国は『優秀な個人がいる間だけ持つ国』で終わります」
国王は椅子の肘掛けを握った。指の関節が、小さく白くなる。
娘の言葉は痛い。痛いが、的外れではなかった。
事実、近年の国土報告書を読むたびに、国王は同じ不安を見ていた。軍事拠点の常態的不足。備蓄の偏り。国境警備の穴。それを毎回、森羅万象やヤンデレたちが埋める。埋まるから数字は致命傷に見えない。見えないから、議会も商人たちも「まだ大丈夫」と言う。
大丈夫なのではない。大丈夫に見せているだけかもしれない。
「……お前は、あの者たちがいなくなる前提で国を語るのか」
「いなくなってほしくはありません。ですが、国家の土台を、個人の善意と力に置き続けるのは危険です。あの方々は永遠の制度ではない。一人の意思で動き、一人の限界で止まります」
王女はそこで、初めて少しだけ柔らかくなった。
「わたくしは、あの方々に感謝しています。依存したまま、感謝の言葉だけ並べて未来を縛りたくないだけです」
国王は長く目を閉じた。
頭の中で、二つの皿が揺れていた。
片方には国がある。
国民の生活、国境の村、関税、街道、条約、報復の危険。今ある安定を壊せば、誰かが泣く。
もう片方には娘がいる。
命。未来。次の世代へ屈辱を残したくないと言う瞳。父として止めたい気持ちと、王として認めねばならない理屈。
どちらも本物だった。
「戦争は、勝っても傷が残る」
「はい」
「相手の中枢を押さえても、国民感情までは押さえられん」
「はい」
「改定を取っても、次の年に別の圧が来るかもしれん」
「はい。だから、一度の勝利で終わらせず、正式な条約として残します。記録を取り、双方が署名し、後から覆しにくい形にします」
「……そこまで言うか」
「はい」
国王は湿布の端を直した。その仕草は、決断を先延ばしにする癖にも見えたし、最後の確認にも見えた。
「余は、お前を失いたくない」
王女の喉が、小さく鳴った。
「国を思う気持ちもある。だが今、余の胸で一番重いのはそれだ。父としてのそれだ。成功しても傷を負う。失敗すれば戻らん。それでも行くのか」
「行きます」
「なぜだ。今のままでも、お前は生きられる。国も、明日は来る」
「明日が来る国と、十年後も立つ国は違います」
王女の目から、迷いが消えていた。
「お父様が守った『今』を、わたくしは否定しません。その上で、わたくしは『次』を引き受けます。ヤンデレの皆様が支えてくださっている今のうちに、支えられ続けなくてもよい土台へ戻す。それが、わたくしの役目です」
長い沈黙が流れた。
国王は、天秤の針がどこで止まるかを測るように、娘の顔を見ていた。推し活の話をする時の浮ついた顔ではない。門を壊した夜の顔でもない。国の話をしている顔だった。
やがて国王は、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった」
その一言は、許可というより降伏に近かった。父としての降伏であり、王としての前進でもあった。
「止めん。ただし、条件がある」
「何なりと」
「一つ。死者を出すな。民と兵士、可能なかぎり生かせ」
「はい」
「二つ。占領するな。領土を取るな。求めるのは対等な条約だけだと、最初から示せ」
「はい」
「三つ。帰ってきたらすぐ報告しろ。相手の王が何を約束したか、どこまで確約を取れたか。余も外交の準備を進める」
「はい」
国王は机の上の条約写しを、音を立てて閉じた。
「現状維持は、楽だ。余も楽を選んできた。だが、お前の言う通りかも知れん。あの者たちがいなくなった後に何が残るかまでは、余も踏み込みきれていなかった」
王女は深く頭を下げた。
「お父様……」
「感謝はしている。森羅万象にも、他の者たちにもな。だからこそ、いつまでも穴埋めをさせ続けてはならんのかもしれん」
国王は立ち上がり、娘の肩に手を置いた。力は強くない。だが、離すまいとする温度があった。
「行け。そして生きて戻れ。国のためでもいい。次の世代のためでもいい。だが最後は、自分の命を安売りするな」
「必ず、結果を出してまいります。お父様にも、ご主人様にも、胸を張って戻りますわ」
「最後の一言が余計だ」
「えへへ……」
「笑ってごまかすな。今回は本当に笑えん」
それでも国王の口元は、わずかに緩んでいた。止められなかった父の顔と、信じると決めた王の顔が、同じ場所にあった。
王女が退出しようとすると、国王が呼び止めた。
「王女」
「はい?」
「帰ってきたら、まず報告をしろ。相手の王が何を約束したか、どこまで確約を取れたか。余も外交の準備を進める。正式な交渉に備えて、通商の実態と関税の記録もまとめておこう」
「承知しましたわ」
「それと、城の修繕費についても報告書を提出しろ」
「……それは、帰ってからでよろしいでしょうか?」
「駄目だ!」
王女は苦笑しながら、玉座の間を後にした。
その背中を見送りながら、国王は小さく呟いた。
「……どうか、無事で帰ってこい」
それは王としての命令ではなく、父としての祈りだった。
机の上には、古くなった条約の写しと、森羅万象たちが埋めてきた国防と食糧の報告書が並んでいる。現状維持の功績と、現状維持の限界が、同じ光の中で並んで見えた。
国王は湿布を押さえ直すと、次の書類へ手を伸ばした。
娘を送り出す覚悟と、国を立て直す準備を、同時に始めなければならなかった。
――不平等な安定を守り続けるか、超常の支えに頼らない国へ踏み出すか。
その選択の最初の一歩は、王女の決意と、国王の重い承諾によって、静かに踏み出された。
*
【主人公の屋敷・居間】
「……は? 遠方の大国を攻める?」
主人公は、耳を疑った。
目の前の王女は真顔だった。
その後ろには、魔導、森羅万象、格闘特化、腰振り、監視特化、潜入特化、科学、薬学、慈愛、嫉妬までが勢ぞろいしている。
まるで、国際問題を解決するための専門家集団だった。
ただし、一般的な外交使節とは決定的に違う。
この面々が本気で動けば、外交の席どころか会場そのものがなくなりかねない。
「ええ。わたくしの国が、長年にわたって不利な条件を強いられてきた相手です。今のわたくしたちなら、少数でも相手の中枢を制圧できると判断しました」
「少数で大国を制圧とか、普通に戦争だろ! なんでそこで俺の家に相談しに来るんだ!」
「ご主人様の家が、今のわたくしにとって最も信頼できる場所だからですわ」
「そういう問題じゃない!」
主人公は頭を抱えた。
「そもそも、相手は遠方の大国なんだろ? お前たちが強いのは分かってる。でも、国と国の戦いは、敵兵を倒せば終わりって話じゃないぞ」
「はい。お父様からも、同じことを言われました」
王女は真剣な顔で頷いた。
「相手には、広大な領土も、巨大な常備軍も、豊富な物資もあります。国境の要塞を守る部隊だけでなく、王都には精鋭騎士団が控え、各地には予備兵力もございます。わたくしたちが勝っても、相手の国そのものがなくなるわけではありません」
「だったら、なおさらだ。敵の王を倒したところで、別の奴が指揮を執るかもしれない。報復として交易を止められたり、関税を引き上げられたりする可能性だってある」
「承知しております」
王女は、主人公をまっすぐ見つめた。
「相手は、軍を動かさずともわが国を苦しめられます。わが国の輸出品に高い関税を課し、必要な物資の輸入を遅らせ、商人たちの取引を妨げることもできます。だからこそ、単に軍事的な勝利を得るだけでは足りません」
「分かってるじゃないか」
「はい。だから、長期戦にはしません。占領もしません。必要以上に相手の国を傷つけるつもりもありません。ただ、今までの関係が永遠に続くわけではないと、示したいのです」
主人公は王女の顔を見つめた。
そこにあったのは、いつもの暴走した推し活の表情ではなかった。
主人公に褒められたいという気持ちは、もちろんあるのだろう。
しかし、それだけではない。
父が守ってきた国を、自分の代で少しでも前へ進めたい。
その思いが、王女の目に表れていた。
「……本気なんだな」
「はい」
王女は迷いなく答えた。
「ご主人様が反対なさるなら、やめます」
居間の空気が静かになった。
「ですが、可能だと思うのです。お父様の代では黙って従うしかなかった相手に、今なら対等を突きつけられる。わたくしは、そう信じたいのです」
王女は両手を胸の前で握った。
「力ずくで国を奪いたいのではありません。ただ、もう跪かないと伝えたいのです」
主人公は長く息を吐いた。
その横で、魔導が扇子を開いた。
「面白いではありませんか。ご主人様の平穏を守るためにも、外患は少ない方がよろしいですもの♡」
「お前は何でも俺の平穏に結びつけるな!」
森羅万象が紅茶を傾けながら、静かに口を開いた。
「ですが、戦略としては理解できますわ。相手の国力そのものを削る必要はありません。軍の指揮系統と意思決定の中枢を短時間で押さえ、交渉を成立させる。目的を限定することが重要です」
「ただし、相手の軍事力を甘く見てはいけません」
科学が眼鏡を直した。
「相手は大陸有数の軍事大国です。国境守備隊、要塞守備隊、王都の近衛、各地の予備兵力がそれぞれ独立して行動できる体制を整えています。一つの指揮所を押さえたからといって、全軍が停止するわけではありません」
「そうだ。こっちが強くても、相手には数がある。正面から殴り合いを始めたら、終わりが見えなくなるぞ」
主人公の言葉に、科学が頷いた。
「その通りです。ですから、敵軍全体を撃破するのではなく、交渉に必要な時間と状況を確保することに集中すべきです。複数の防衛線を突破し、王城に到達するまでの間に、相手が大規模な増援を集結させないようにする必要があります」
格闘特化が腕を組んだ。
「正面からぶつかるなら、俺が先頭をやる。敵の数なんか気にしねえ」
「その気にしないという姿勢が、一番心配なんだよ!」
腰振りも肩を回した。
「門と防衛設備なら任せな。全部ぶっ壊すんじゃなく、必要なところだけ崩せばいいんだろ?」
「その必要なところだけ、という部分を特に頼むぞ」
「分かってるって」
監視特化は端末を操作していた。
「相手側の警戒網と巡回経路は、すでに調査を始めていますわ。国境の監視塔、通信中継所、第一防衛区画、王城下の第二防衛線。それぞれの配置を把握すれば、不要な衝突を減らせます」
「……いつの間に調べたんだよ」
「ご主人様が話を聞いてくださるまでの間ですわ」
「準備がよすぎるだろ!」
潜入特化が影の中から顔を出す。
「本営までの経路も確認できます。指揮官の居場所と移動経路が分かれば、無関係な兵士と戦う必要もなくなります」
「相手は遠方の大国です。軍事施設も複数の区画に分かれているはずですわ」
森羅万象が地図を広げた。
「一か所を制圧しても、別の指揮所から命令が出される可能性があります。だからこそ、地形と防衛設備を利用して敵の動きを分散させ、こちらが対処できる範囲に限定する必要があります」
「つまり、敵の全軍を倒すのではなく、こちらが戦う場所と時間を選ぶわけだな」
主人公が確認すると、科学が頷いた。
「その通りです」
薬学が救急用の鞄を持ち上げた。
「負傷者の管理は、わたくしが担いますわ。こちら側だけでなく、相手側も含めてです。死者を出さないという条件なら、負傷者の状態を継続的に確認する必要があります」
慈愛は穏やかに微笑んだ。
「必要以上に傷つけず、終わらせましょう。恐怖で跪かせても、また同じことが起きますから」
嫉妬は王女の肩に手を置いた。
「王女様の決断、応援するわ♡ みんなで行けば怖くない! ご主人様も、きっと後で認めてくれるはずよ!」
「……お前たち、行く気満々じゃないか」
主人公は全員を見回した。
誰も否定しなかった。
むしろ、それぞれがすでに自分の役割を考えている様子だった。
主人公は頭を掻いた。
「分かってるんだろ。相手が大国なのは、強い武人が多いからじゃない。人数と物資、そして国そのものの厚みだ。個人が何人か勝っても、別の街を押さえられたら終わりだ。人質を取られても終わり。交易を止められても終わりだ」
「はい」
王女は頷いた。
「だからこそ、相手にその手段を使わせる前に、交渉の場を作ります。目的は、あくまで条約の改定です」
主人公はしばらく黙っていた。
そして、ようやく口を開いた。
「……条件を出す」
全員の視線が集まった。
「死者は出すな。それだけは守れ。子供と民間人には手を出すな。兵士も、戦う意思を失った奴を追撃するな。必要以上に建物を壊すな。終わったらすぐに帰れ。占領統治みたいなことはするな」
魔導が扇子を口元に当てた。
「あらあら。ご主人様はお優しいですわね♡」
「当たり前だろ! 国を守るための戦いで、無関係な人間を犠牲にしてどうする!」
「ふふ、冗談ですわ。承知しております」
主人公は王女へ視線を戻した。
「それと、王を倒して終わりじゃない。条約の改定を記録に残せ。口約束だけで帰るな。供出だけじゃなく、駐兵義務と関税の仕組みも見直せ。相手が一方的に関税を上げられる状態のままだったら、軍事的に勝っても意味がないぞ」
王女は力強く頷いた。
「はい。供出、駐兵義務、関税、通商条件。すべてを正式な交渉の対象にいたしますわ」
「帰った後の交渉も考えておけ。相手の国を滅ぼすわけじゃないんだからな」
「承知しております」
主人公は王女を見つめた。
「……それでも行くんだな」
「はい」
王女は迷いなく答えた。
「わたくしの国の未来を変えるために」
主人公は深いため息をついた。
そして、立ち上がる。
「……俺も行く」
「えっ!?」
王女の声が裏返った。
「ご、ご主人様もご一緒に!?」
魔導の扇子も止まった。
「あら……ご主人様自らご出陣とは。これは貴重ですわね♡」
「勘違いするな。監督役だ。お前たちだけだと、どこかで火力が過剰になる。死者を出さないために、俺が現場で確認する」
格闘特化が面白そうに歯を見せた。
「いいじゃねえか。俺が先頭をやるが、後ろにあんたがいるなら安心だ」
「安心するな。お前も暴れすぎるなよ」
「努力はする」
「そこは断言しろ!」
王女は胸の前で両手を握りしめていた。
「ご主人様と一緒に……西方大国へ……!」
「おい。何か別の目的が混ざってないか?」
「そ、そんなことはありませんわ! わたくしは国のために!」
「顔が真っ赤だぞ」
「気のせいですわ!」
魔導が楽しそうに笑った。
「さて。では、王女殿下の外交活動を成功させるため、皆様、準備を整えましょうか♡」
主人公は、もう一度だけ念を押した。
「いいな。死者は出すなよ」
全員が頷いた。
その瞬間、王女は小さく拳を握った。
彼女の推し活は、今夜、かつてない規模へと突入する。




