ネコ型ロボット 恋愛偏差値ゼロの会話2
【王国・ゲイバー「オアシス」・閉店後】
その日の会話は、ようやく落ち着いた。
科学と薬学は、主人公の気持ちを確認してから行動することを改めて約束した。
エンジェルは、その約束まで律儀に記録していた。
リリムはグラスを片づけるお兄さんを眺めながら、ぽつりと呟いた。
「……恋愛というのは、難しいものですわね」
「おや。リリムちゃんも悩みがあるのかい?」
お兄さんが尋ねた。
「悩みというか……。以前の私は、主人公様を誘惑する方法ばかり考えていましたの。でも、正面から行っても駄目。新聞の押し売りを装っても駄目。美少女フィギュアとして箱に入っても駄目。結局、主人公様本人に会うことすらできませんでしたわ」
「ずいぶんといろいろやったんだな……」
「ええ。今思えば、もっと先に考えることがあったのですわね」
リリムは果汁のグラスを置いた。
「主人公様が何を望んでいるのか。私が近づくことを、本当に望んでいるのか。そこを考えずに、どうやって誘惑するかばかり考えていましたもの」
お兄さんは少しだけ表情を和らげた。
「気づけたなら、これから変えていけばいいさ」
「……そうですわね」
リリムは小さく頷いた。
その隣では、エンジェルがバインダーを閉じていた。
「記録。リリム、過去の作戦を振り返り、主人公の意思を確認する必要性について言及」
「……エンジェルさん」
「はい?」
「今の話くらいは、普通に聞いていてくださいまし。いちいち記録しなくてもいいでしょう?」
エンジェルは少し考えた。
「……分かりました」
リリムは驚いて目を瞬かせた。
「えっ。今、素直にやめましたの?」
「はい」
「……明日は雨かしら」
「天気予報では、降水確率は――」
「そこは調べなくていいですわ!!」
お兄さんが笑い、科学と薬学もつられて笑った。
オアシスには、久しぶりに穏やかな笑い声が響いていた。
*
【翌日・主人公の屋敷】
ネコ型ロボットを受け取った主人公は、しばらくの間、ソファの上でその頭を撫でていた。
「……かわいいな、こいつ」
「ニャーン!」
ロボットが愛らしい声で鳴いた。
主人公は笑みを浮かべ、もう一度その頭を撫でる。
「ははっ、いいな! こういうの!」
その様子を見ていた科学と薬学は、顔を見合わせた。
「……あら?」
「主人公様、いつもよりずいぶん楽しそうですわね」
主人公はロボットを抱き上げると、普段なら考えられないほど明るい声を上げた。
「よし! 今日は何だか元気が出てきたぞ!」
「…………」
科学は目を見開いた。
「まさか……ネコ型ロボットの効果?」
「いえ、あのロボットに気分を変えるような特殊な機能は搭載していないはずですわ」
薬学も困惑していた。
「単純に、気に入ってくださったのでは……?」
「なるほど。つまり、主人公様が喜ぶものを贈ることができた、ということね!」
科学が感動したように拳を握る。
「私たちの計画が、ついに成功したのよ!」
「科学さん、まだそうと決まったわけでは……」
薬学が言いかけた、そのときだった。
主人公が勢いよく立ち上がった。
「よし! 今日はこの勢いで行くぞ!」
「……どちらへ?」
エンジェルが尋ねた。
主人公は満面の笑みを浮かべ、堂々と宣言した。
「夜の生活だ!」
「…………は?」
科学と薬学の顔から、笑みが消えた。
「えっ、ちょっと待ってくださいませ!?」
薬学が慌てて立ち上がる。
「主人公様、いったい何をおっしゃって……!」
「いやあ、何だか今日は妙にやる気が出てきたんだ! よし、行こう!」
主人公は普段の彼からは想像できない勢いで、夜の生活に関する部屋へ向かっていった。
科学は呆然とその背中を見送った。
「……私たち、何かとんでもないものを作ってしまったのかしら」
「ロボット自体には、そのような機能はありませんわよ!?」
薬学は頭を抱えた。
エンジェルは静かにバインダーを開いた。
「記録。ネコ型ロボットの受領後、主人公の気分が明るくなる。普段とは異なる高いテンションで、自ら夜の生活に関する活動を開始」
「エンジェル、今は記録している場合じゃないでしょう!?」
科学が叫んだ。
「記録係ですので」
「その返事、便利に使いすぎですわあああああ!!」
*
【その夜・主人公の屋敷・談話室】
その夜の終了後。
女性陣は、いつもの談話室に集まっていた。科学、薬学、慈愛、嫉妬、魔導、監視、潜入、森羅万象、そしてエンジェル。誰もが、満足げな表情を浮かべている。
「……ふふっ。ご主人様が、自分から来てくださったのですわね♡」
魔導が扇子で口元を隠して微笑む。目が優しい。
「ええ。理由は分かりませんけれど……やっと、ご自身の足で来てくださいましたわ」
薬学が胸に手を当てる。声が、いつもより柔らかい。
科学も眼鏡を直し、静かに頷いた。
「データ上、自発的な行動です。誘導や強制の痕跡はありません。……珍しいケースですわ」
慈愛が両手を合わせ、目を細める。
「はい。無理をさせていないかどうか心配でしたけれど、ご本人が『行く』と仰ったのですもの。嬉しかったです」
嫉妬が明るく手を叩く。
「両方よかったですわね♡ 主人公様も頑張ったし、みんなも嬉しそう! 応援しててよかった!」
監視が端末を確認しながら言う。
「映像記録も残してあります。表情の変化、声のトーン……すべて、満足度が高い傾向ですわ」
潜入が静かに付け加える。
「経路の封鎖はしていません。ご自身で部屋まで来られました。先回りは、不要でした」
森羅万象が紅茶を傾ける。
「整えましたわ♡ ご主人様の意思が、いちばん安全な形で届きましたもの。良い夜でしたわね」
エンジェルがバインダーに追記する。
「記録。主人公、自発的に夜の生活へ参加。女性陣、理由不明ながら高い満足を表明。『やっと自分から来てくれた』との発言、複数確認」
科学が小さく息を吐く。
「……なぜ、あんなに積極的だったのかは、まだ不明です。ネコ型ロボットとの因果も、証明できていません」
「証明なんて、いりませんわ」
薬学が微笑む。
「理由が分からなくても、ご自身の足で来てくださった。それだけで、十分ですもの」
魔導が優雅に扇子を閉じる。
「ええ♡ わたくしたちは、ただ愛していただけですもの。ご主人様が来てくださった事実が、何よりの答えですわ。チャオ」
誰もが、静かに頷いた。
なぜ積極的だったのかは、分からない。
それでも、やっと自分から来てくれたことが、何より嬉しかった。
その夜の満足感だけが、部屋の空気を穏やかに満たしていた。
*
【翌朝・主人公の屋敷・寝室】
翌朝。
主人公はベッドの中で、天井を見つめていた。
「…………」
身体が重い。
頭も重い。
昨夜の記憶だけは、妙にはっきりと残っていた。
普段なら自分から動くことなどほとんどないのに、昨夜に限っては妙に気分が高揚し、自分から夜の生活に乗り込んでしまったのだ。
「……何で、あんなに張り切ったんだ、俺は」
主人公は両手で顔を覆った。
「調子に乗りすぎた……。完全に調子に乗りすぎた……!」
枕に顔を埋め、深々と呻く。
「昨日の俺、どうかしてた……」
そのとき、寝室の扉が控えめに開いた。
「主人公様。お目覚めでしょうか?」
エンジェルが顔を覗かせた。
主人公は枕に顔を埋めたまま答えた。
「……今日は、何も聞かないでくれ」
「承知しました」
エンジェルは一度頷き、手元のバインダーを開いた。
「記録。主人公、前日の高揚した行動を振り返り、翌朝に後悔を表明」
「記録するなあああああ!!」
主人公の悲鳴が寝室に響き渡った。
*
【翌日・王国・ゲイバー「オアシス」】
その日の午後。
科学と薬学は、いつものようにお兄さんの店を訪れていた。
「……ということがあったのよ」
科学が昨夜から今朝までの出来事を説明すると、お兄さんはグラスを磨く手を止めた。
「つまり、ネコ型ロボットを渡したら、主人公が急にハイテンションになって、自分から夜の生活に乗り込んでいったってことか?」
「ええ。そして翌朝には、猛烈に後悔していたそうです」
エンジェルが記録を確認しながら答えた。
リリムも隣で聞きながら、小さく息を吐いていた。
お兄さんはしばらく黙っていた。
やがて、深々とため息をついた。
「……お前さんたち、結局、何を解決したんだ?」
「主人公様が元気になったのですから、成功ではありませんか?」
科学が首を傾げた。
「いや、そういう問題じゃねえだろ!」
お兄さんのツッコミが店内に響き渡った。
「本人が喜んでくれたのはいいことだ。だが、翌朝に後悔するほど張り切ったんなら、そこまで含めて成功と言い切っていいのかよ!」
「……確かに」
科学はしゅんと肩を落とした。
薬学も苦笑した。
「気分が上向いたことと、本人が無理をしなかったことは別ですものね……」
「そういうことだよ」
お兄さんはグラスを置いた。
「結局、本人の調子を見ながら、本人の意思を聞いてやる。それが一番なんじゃねえのか?」
エンジェルは静かに記録を追加した。
「記録。ネコ型ロボットの贈呈後、主人公の気分は大きく変化。夜の生活に自ら参加したものの、翌朝には後悔。贈り物の効果と、行動の結果に対する本人の満足度は区別して評価する必要がある」
「……今回は、まともな記録ね」
科学が呟いた。
「はい。重要な教訓ですので」
エンジェルはバインダーを閉じた。
お兄さんは苦笑した。
「まあ、次からは主人公の様子を見て、無理させないようにしてやれよ」
「ええ。今度こそ、本人の意思を尊重するわ」
科学が頷いた。
薬学も同意する。
「私も気をつけますわ」
リリムが、そっと付け加えた。
「女性陣の皆さんは、とても満足していましたわよ。理由は分からないけれど、主人公様が自分から来てくださったことが嬉しかった、って。朝の後悔とは別の話ですけれど……エンジェルさん、その満足もちゃんと記録してくださいまし。炭弁当の人でも、良い記録は残せるはずですわ」
エンジェルは短く頷き、追記した。
「追記。女性陣、自発参加に高い満足。理由不明を前提に『来てくれた事実』を重視。リリム、記録係個人への言及あり。評価対象外」
「また対象外……! まあ、いいですわ。一応、書いてくださっただけマシですもの」
お兄さんはカウンターに肘をつき、三人を見比べた。
「それで、今日は何をしに来たんだ? 反省会だけなら、もう十分だと思うけどな」
「……実は、恋愛についてもう少し考えてみようと思って」
科学が答えた。
「主人公様の気持ちを、どうすれば正しく理解できるのか。もう少し別の視点も必要かもしれませんわ」
薬学も真剣な顔で頷く。
「別の視点ねえ……」
お兄さんが返事をしかけた、そのときだった。
店内に設置されたテレビから、明るい女性の声が聞こえてきた。
『続いては、今日の恋愛運です!』
科学が何気なくテレビに目を向けた。
画面には、占い師らしき女性が映っていた。
『気になる相手が自分をどう思っているのか、気になりますよね?』
「……気になるわね」
科学がぽつりと呟いた。
薬学もグラスを置く。
「ええ。とても気になりますわ……」
二人は食い入るようにテレビを見つめた。
『そんなあなたに、今日は簡単な恋愛チェックをご紹介します! 相手の目を見つめて、十秒間、相手が視線を逸らさなかったら、それは少なくとも嫌われていない証拠かもしれません!』
「…………」
科学と薬学の動きが止まった。
そして。
「――それだ!」
「――それですわ!」
二人は同時に立ち上がった。
カウンターのグラスが揺れ、お兄さんが慌てて押さえる。
「おい! 急に立つな! 酒がこぼれるだろ!」
科学は興奮した様子で薬学の肩をつかんだ。
「相手の目を十秒間見つめる! それなら、主人公様が私たちを嫌っているかどうか確認できるわ!」
「素晴らしいですわ! 脳内物質の分析よりも簡単ですし、特別な装置も必要ありません!」
「そうよ! 今までどうして気づかなかったのかしら!」
二人は互いに顔を見合わせ、深く頷いた。
その様子を見ていたエンジェルが、ゆっくりとバインダーを閉じた。
「……アホですか」
「「なんですって!?」」
科学と薬学が同時に振り返った。
エンジェルは呆れた目で二人を見た。
「テレビの占いで紹介された方法を、そのまま主人公様に試すつもりですか?」
「だって、十秒間目を逸らさなければ、嫌われていない証拠なのでしょう?」
科学が反論する。
「少なくとも、嫌われているわけではないと分かるかもしれませんわ!」
薬学も力説した。
「……あのですね」
エンジェルは額に手を当てた。
「相手が目を逸らさない理由なんて、いくらでも考えられます。話を聞いているからかもしれませんし、何か言いたいことがあるのかと待っているだけかもしれません。そもそも、十秒間目を合わせたことだけで、相手の気持ちを判断できるわけがありません」
「うっ……」
「それに、主人公様が目を逸らさなかったとしても、それはお二人を嫌っていないという証明にはなりません。ましてや、恋愛感情の有無など分かりません」
「そ、そんな……!」
科学が愕然とした。
薬学も肩を落とす。
「では、どうすれば主人公様のお気持ちが分かるのですか……?」
エンジェルは即答した。
「本人に聞いてください」
「…………」
二人は固まった。
カウンターの向こうで、お兄さんが深々とため息をついた。
「……さっきも同じ話をしてなかったか?」
「していましたわね……」
薬学が小さく答える。
リリムは今度こそ呆れ果てたように、グラスを置いた。
「ちょっと待ってくださいまし。昨日は脳内物質を調べようとして、今日はテレビの占いですの? 主人公様の気持ちを知るために、本人以外のあらゆるものを頼りにするつもりですか?」
科学は口を開きかけたが、何も言えなかった。
薬学も気まずそうに視線を落とす。
リリムはさらに続けた。
「十秒間見つめたら嫌われていない、ですって? それなら主人公様がこちらを見てくださった瞬間に、恋愛偏差値が上がったとでも言うつもりですの?」
「い、いえ……そこまでは……」
科学が言葉を濁す。
「では、どういうつもりですの?」
「……確認の方法として、参考になるかと」
「参考にするのは自由ですわ。でも、それだけで気持ちが分かったことにしたら、ただの思い込みですわよ」
リリムは腕を組んだ。
「私も主人公様を誘惑しようとしていた頃は、相手の反応を都合よく解釈していましたわ。笑顔を見せてくださったら脈あり、話を聞いてくださったら興味あり。そんなふうに考えていたら、失敗したときに理由が分からなくなりますもの」
科学と薬学は、黙って聞いていた。
「……だから、今回の占いも、あくまで占いとして楽しむくらいにしておいた方がいいと思いますわ」
リリムはそこでエンジェルを見た。
「もちろん、エンジェルさんの言うことも正しいですわ。でも、正論を言うだけで自分の過去を棚に上げるのは、そろそろやめてくださいましね」
エンジェルは静かに頷いた。
「……ご指摘は受け止めます」
リリムは目を見開いた。
「えっ。今度は別紙と言わないんですの?」
「はい。今回は、私自身の過去の行動についてのご指摘ですので」
「…………」
リリムはしばらくエンジェルを見つめた。
「……本当に、明日は雨かもしれませんわね」
お兄さんが吹き出した。
「はははっ! リリムちゃん、天気予報を気に入ったのか?」
「気に入ったのではありませんわ! エンジェルさんが素直に認めるなんて、珍しいこともあるものだと思っただけです!」
エンジェルはバインダーを開いた。
「記録。リリム、恋愛占いの解釈について注意を促す。併せて、記録係自身も過去の行動を振り返る必要があると指摘」
「……あっ、やっぱり記録するんですのね」
リリムは額に手を当てた。
「素直になったと思ったら、結局そこは変わりませんのね……」
エンジェルはペンを置いた。
「記録はしますが、今回は別紙扱いにはしません」
「……まあ、それなら一歩前進ですわ」
科学はしばらくテレビを見つめていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……分かったわ。十秒間見つめるだけでは、主人公様の気持ちは分からないのね」
「そうです」
エンジェルが答える。
「私も、占いを根拠に何かを決めるのはやめますわ」
薬学も頷いた。
「主人公様の体調が気になるなら、まず本人に尋ねる。私たちに構ってくださらない理由が気になるなら、それも本人に聞く。そういうことですわね」
「ええ。最初からそう言っているのですが」
「そこは分かっていますわよ!」
薬学が少しだけ声を上げた。
「分かっているのに、実行できないから困っているのですわ!」
科学が苦笑した。
「……耳が痛いわね」
お兄さんはグラスを磨きながら、穏やかに言った。
「まあ、すぐに完璧にはできないだろうさ。でも、相手の気持ちを知りたいと思うなら、相手の話を聞くところから始めるしかないんじゃないか?」
「……そうね」
科学が頷いた。
「そうですわね」
薬学も同意する。
エンジェルは静かにバインダーを閉じた。
「では、今回の方針を確認します。主人公様の気持ちを占いや観察だけで判断せず、ご本人に直接尋ねる。体調を心配する場合も、本人の話を聞いてから対応する」
「はい」
科学と薬学が揃って答えた。
リリムは満足そうに頷いた。
「ようやく話がまとまりましたわね」
「ええ。では、主人公様にお会いしたら、まずはお話を聞いてみることにしましょう」
科学がそう言った直後、薬学が小さく付け加えた。
「……ところで、十秒間見つめるという方法、会話のきっかけとして使うくらいなら……」
「薬学さん?」
エンジェルが即座に顔を上げた。
「い、いえ! 今のは独り言ですわ!」
「記録します」
「記録しないでくださいませ!!」
リリムは両手で顔を覆った。
「……もう! 恋愛偏差値の問題以前に、皆さん、まず一日くらい普通に会話をしてくださいまし!」
お兄さんが笑いながら、カウンターに新しいグラスを置いた。
「まあまあ。次の一杯は、ため息抜きにしておくよ」
「お兄さん、それは最初から普通のカクテルですわ!」
薬学の抗議に、店内の笑い声が広がった。
エンジェルは最後に一行を記録した。
『記録。科学および薬学、恋愛占いを参考に主人公の気持ちを推測する計画を立案。リリムの指摘もあり、本人への直接確認を優先する方針を再確認。ただし、十秒間の視線については未練が残っている模様』
「エンジェルぅぅぅ!!」
科学と薬学の悲鳴が、オアシスに響き渡った。
リリムはグラスを持ち上げ、静かに呟いた。
「……やっぱり、普通になるまでには、まだ時間がかかりそうですわね」
*
【翌日・主人公の屋敷・リビング】
主人公はソファに座り、ネコ型ロボットを膝に乗せていた。
「……お前はいいよな。余計なことを考えずに、好きなときに鳴いて、好きなときに寝ていられるんだから」
「ニャーン!」
ロボットが返事をするように鳴いた。
主人公はその頭を撫で、苦笑した。
「……俺も、もう少し気楽に生きたいもんだ」
そのとき、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「主人公様。少し、お話ししてもよろしいでしょうか?」
科学の声だった。
続いて薬学も声をかける。
「体調のことも含めて、最近何か困っていらっしゃることがあれば、聞かせていただきたいのですわ」
主人公はしばらく黙っていた。
以前なら、また何か新しい計画を押しつけられるのではないかと警戒しただろう。
しかし、二人の声には、いつもより慎重な響きがあった。
「……いいけど。今度は何をするつもりなんだ?」
扉の向こうで、科学が慌てて答えた。
「何もしないわ! まずは、お話を聞きたいだけなの!」
「……本当か?」
「本当ですわ! 勝手に薬を飲ませたり、妙な装置を使ったりはしません!」
薬学が勢いよく言い切った。
少し間が空いた。
「……それ、今までならやる可能性があったってことか?」
「…………」
「…………」
扉の向こうが静かになった。
主人公は深々とため息をついた。
「……まあいい。入ってくれ」
扉が開き、科学と薬学がゆっくりと入ってきた。
二人は主人公の向かいに座った。
科学はタブレットを手にしていたが、すぐに画面を消してテーブルに置いた。
薬学も、用意していた資料を鞄にしまった。
「……最近、元気がないように見えて、心配していたの」
科学が口を開いた。
「でも、私たちが勝手に原因を決めつけるのは違うと思って。まずは、主人公様ご自身がどう感じているのか、聞きたかったのよ」
薬学も頷いた。
「体調のことでも、私たちとの関係のことでも、話したいことがあれば聞かせてくださいませ。もちろん、今は話したくないということなら、無理に聞くつもりはありませんわ」
主人公は二人を見つめた。
そして、少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうだな。最近、いろいろと疲れているのは確かだ。何かをするたびに、誰かが先回りして、俺のためだと言っていろいろ決めてしまうだろう?」
科学と薬学は、黙って頷いた。
「心配してくれているのは分かる。でも、俺が何をしたいのか、どうしたいのかを聞かれることは少ない。だから、何を言っても結局は同じなんじゃないかって、考えるようになっていた」
科学は目を伏せた。
薬学も、申し訳なさそうに唇を結んだ。
「……ごめんなさい」
科学が小さく言った。
「私たちは主人公様を喜ばせたいと思っていたけれど、その方法ばかり考えて、主人公様が何を望んでいるのかを聞いていなかったのね」
「私もですわ。健康を心配しているつもりで、いつの間にか、自分の考えた対策を実行することばかり考えていました」
主人公は少し驚いたように二人を見た。
「……今日は、ずいぶん素直だな」
「ええ。少し反省したの」
科学は苦笑した。
「もちろん、これですべてが解決するわけではないと思う。でも、これからは、何かをする前に主人公様の希望を聞くようにするわ」
「私も、体調のことが心配なときは、まずご本人のお話を伺いますわ。勝手に原因を決めつけたり、対策を押しつけたりしないようにします」
主人公はしばらく黙っていた。
やがて、膝の上のネコ型ロボットを撫でながら、少しだけ笑った。
「……それなら、助かるよ」
科学と薬学の表情が、ぱっと明るくなった。
しかし、二人はすぐに気を引き締めた。
科学はタブレットに手を伸ばしかけ、思い直して引っ込めた。
薬学も、鞄の中の資料を取り出さずにいた。
その様子を見て、主人公は小さく笑った。
「……本当に、今日は何もしないんだな」
「はい。今日は、お話を聞くだけですわ」
薬学が答えた。
「それで、十分なのよ」
科学も頷いた。
そのとき、リビングの入口からエンジェルが顔を覗かせた。
いつものバインダーを手にしている。
「……記録してもよろしいでしょうか?」
「「「今日はやめて!!」」」
三人の声が重なった。
エンジェルはぴたりと動きを止めた。
「……承知しました」
彼女はバインダーを閉じ、静かに一礼した。
主人公は、思わず笑ってしまった。
「……なんだよ。やればできるじゃないか」
「はい。記録を控えることも、必要な対応の一つと判断しました」
「そういう言い方をするところは、相変わらずだな……」
科学と薬学も笑った。
ネコ型ロボットが、タイミングよく鳴き声を上げる。
「ニャーン!」
主人公はその頭を撫でながら、穏やかに呟いた。
「……まあ、こいつがいてくれるのは、素直に嬉しいよ」
科学と薬学は顔を見合わせた。
今回は、その言葉を都合よく解釈して新しい計画を立てたりはしなかった。
ただ、主人公が喜んでいることを、そのまま喜ぶことにした。
エンジェルも、バインダーを開かなかった。
その日だけは、主人公の屋敷に、ほんの少しだけ平穏な時間が流れていた。
*
【後日・エンジェルの記録帳】
『記録。科学および薬学、主人公の体調と気持ちについて、本人への聞き取りを実施。主人公、自身の意思を確認されないまま計画を進められることに疲労を感じていたと説明』
『科学および薬学、本人の話を聞いたうえで、今後は事前に意思を確認する方針を表明』
『エンジェル、記録の許可を求めるも、主人公、科学、薬学の三名より同時に拒否される』
その下には、少し間を置いて、別の一文が書き加えられていた。
『追記。記録しないことも、状況によっては適切な判断である』
さらに、その隅に小さな文字があった。
『リリムの指摘についても、今後の行動で検証する』
エンジェルはその一文を見つめ、静かにペンを置いた。
「……次は、行動で示す必要がありますね」
その言葉を聞いていた者は、誰もいなかった。
ただ、屋敷のリビングからは、主人公がネコ型ロボットと遊ぶ穏やかな声が聞こえていた。
そして今日も、エンジェルの記録帳には、新たな一ページが加わろうとしていた。




