ネコ型ロボット 恋愛偏差値ゼロの会話1
# 番外編――科学と薬学とエンジェルの恋愛トーク、そして恋愛偏差値ゼロの逆襲
*
【王国・ゲイバー「オアシス」】
夕方の「オアシス」。
カウンター席では、科学がグラスを前に深いため息をついていた。
「はあ……最近、主人公様が構ってくれないのよね……」
彼女は頬杖をつき、カウンターの向こうに声をかけた。
「あ、お兄さん。カクテル一つ」
「はいよ。今日は何にする?」
「お任せで」
「ずいぶん元気がないな」
「そうなのよ……」
科学が再びため息をつく。
その隣で、薬学も大きく息を吐いた。
「はあ……私もそうなのよ。主人公様、最近あまり私の話を聞いてくださらなくて……」
「あら、薬学さんも?」
「ええ。私にもカクテルをいただけます? あ、クリームを入れてくださいませ」
「はいよ。クリーム入りだな」
お兄さんは手際よくカクテルを作り始めた。
その向こうでは、エンジェルがいつものようにバインダーを開いていた。
「……私にもカクテルをお願いします」
「エンジェルちゃんもかい?」
「はい。お二人のお話を聞いていたら、私も一杯いただきたくなりました」
「そりゃいいけど、未成年じゃないよな?」
「問題ありません」
「ならいいけどよ」
お兄さんは三人分のカクテルをカウンターに並べた。
少し離れた席では、リリムが果汁のグラスを両手で抱え、三人の会話に耳を傾けていた。最初は傍観するつもりだったが、ため息の頻度があまりに多く、気になって仕方なかった。
科学はグラスを手に取り、しみじみと呟いた。
「……主人公様、私たちのことが嫌いになってしまったのかしら」
「そんなことはないと思いたいですわ……」
薬学もグラスを傾ける。
エンジェルは二人を見比べ、静かに口を開いた。
「科学さんはため息が多いですね」
「そう?」
「はい。そして薬学さんは――」
エンジェルは薬学のグラスを見つめた。
「クリームだけでなく、ため息も入っていますね」
「入っていませんわよ!?」
薬学が思わず声を上げた。
カウンターの向こうで、お兄さんが吹き出した。
「はははっ! そりゃずいぶん苦いカクテルだな!」
「お兄さんまで!?」
薬学の抗議をよそに、エンジェルはバインダーを開いた。
「記録。科学、主人公に構ってもらえないことを嘆く。薬学も同様。両名、カクテルを注文。薬学のカクテルにはクリームとため息が入っているとの指摘あり」
「最後の一行は削除してくださいませ!!」
「事実ですので」
「事実ではありませんわあああああ!!」
「……おいおい、まだ一杯目だぞ?」
お兄さんのツッコミが、夕暮れのオアシスに響き渡った。
リリムは果汁を一口飲み、呆れたように首を振った。
「恋愛相談をしに来たのか、ため息をカクテルに混ぜに来たのか、分かりませんわね……」
「リリムさん、何かおっしゃいましたか?」
エンジェルが顔を上げる。
「いいえ。私の果汁は平和だな、と思っただけですわ」
「そうですか」
エンジェルはあっさり視線を戻した。
「……そこは追及しませんのね」
リリムは拍子抜けした顔になった。
*
「……ねえ、薬学さん」
科学が真剣な顔で口を開いた。
「主人公様、最近ちょっと無気力になっている気がするのよね」
「そうね。以前よりも反応が鈍いというか、何かをするにも面倒そうにしていることが増えたわね」
薬学は顎に手を当てた。
「セロトニン不足の可能性があります」
科学は答えた。
「気分や意欲に関わる神経伝達物質ですからね。もちろん、それだけで原因を特定できるわけではありませんが」
「なるほど……。心身の状態を考慮する必要があるわね」
薬学は頷いた。
「強迫性障害で見られるやつですね」
「……え?」
科学が顔を上げた。
「いや、今の話から強迫性障害と判断するのは早すぎない?」
「そうね。私も断定したわけではないわ。症状の評価には、本人の状態を詳しく確認する必要があるもの」
薬学は落ち着いて答えた。
「ただ、主人公様が無気力になっているのなら、少しでも気分転換できる方法を考えたいわね」
科学はしばらく考え込んだ。
そして、ぽんと手を打った。
「そうだわ!」
「何か思いついたの?」
「可愛いネコ型ロボットでもプレゼントして、喜んでもらいましょう!」
「……ネコ型ロボット?」
薬学は目を瞬かせた。
「ええ。可愛らしい外見に、愛嬌のある動き。主人公様が撫でたり、一緒に遊んだりできるように設計すれば、気分転換になるかもしれないわ」
科学はすっかり乗り気になっていた。
「センサーで撫でられたことを検知して、鳴き声を返す機能もつけましょう。学習機能を搭載すれば、主人公様の好みに合わせた反応もできるはずよ」
「それは素敵ね。私も協力するわ。ストレスを与えないように、動作音や素材にも配慮したいわね」
二人の間で、ネコ型ロボットの開発計画が急速に具体化していく。
そのときだった。
「……お二人とも」
隣でバインダーを開いていたエンジェルが、静かに口を挟んだ。
「それはよろしくありません」
科学と薬学が同時に振り返った。
「どうして?」
科学が尋ねる。
エンジェルはバインダーから一枚の資料を取り出した。
「天気予報で例えるなら、七〇%で雨が降る確率です」
「……天気予報?」
「はい。データを見ますか?」
エンジェルは、二人の前に資料を差し出した。
そこには、主人公の最近の生活記録が整理されていた。
睡眠時間の変化。
屋敷内での活動量。
外出頻度。
各種イベントへの参加状況。
そして、主人公が新しい提案を受けた際の反応。
科学は資料を受け取り、目を通した。
「……なるほど。最近、活動量が減っているのは確かね」
薬学も資料を覗き込む。
「でも、これだけでは原因までは分からないわ。本人の話も聞かずに、特定の病気や神経伝達物質の不足だと決めつけることはできないもの」
「はい。その通りです」
エンジェルは頷いた。
「そして、今回のネコ型ロボットのプレゼントについてですが」
彼女は別のページを開いた。
「過去の記録では、主人公様はご本人の意思を確認されないまま、さまざまな計画や贈り物を押しつけられた経験があります」
「…………」
科学の手が止まった。
薬学も、そっと視線を逸らした。
「そのため、今回も喜んでいただけるとは限りません。むしろ、本人の意向を確認せずに新たな計画を実行した場合、負担になる可能性があります」
エンジェルは淡々と続けた。
「降水確率七〇%というのは、あくまで今回の状況を説明するための比喩です。実際に七〇%という数値が算出されたわけではありません」
「そこは正確なのね……」
科学が呟いた。
「記録係ですので」
エンジェルは当然のように答えた。
リリムが果汁のストローを噛みながら口を挟んだ。
「エンジェルさん、正論ですけれど……その正論を言う人が、以前は主人公様に炭を弁当として渡していたんですわよね。『記録用のサンプルです』とか言って」
エンジェルは一瞬も表情を変えず、バインダーの次の行へペンを進めた。
「記録。リリム、過去の事例を指摘。本件とは直接関係なし」
「関係ありますわよ!? あなたの記録帳には、都合の悪いことを別件扱いにする機能でもついているんですの!?」
「そのような機能はありません」
「だったら、その場で反省してくださいまし!」
エンジェルは静かに顔を上げた。
「検討します」
「絶対に検討だけで終わる返事ですわ……!」
薬学は資料を閉じた。
「……そうね。まずは主人公様本人に、何か困っていることがないか聞いてみましょう」
「そうね。ロボットを開発するのは、その後でも遅くないわ」
科学は頷いた。
そして、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「……危うく、主人公様のためと言いながら、また勝手なことをするところだったわね」
「自覚があるだけ、進歩したのではないでしょうか」
エンジェルが答えた。
「エンジェル、それは褒めているの?」
「記録上、過去にも同様の反省が確認されています」
「褒めていないわね!?」
薬学が思わず笑った。
科学は深々とため息をついた。
「……まずは本人に聞く。それが一番ね」
「はい。ご本人の意思を確認することが重要です」
エンジェルはバインダーに記録を追加した。
『記録。科学、主人公の無気力を懸念。薬学とともにネコ型ロボットの贈呈を検討するも、本人の意思確認を優先する方針に変更』
さらに、その下に一行を加えた。
『追記。主人公の状態について、現時点で医学的な診断は行われていない』
「……エンジェル」
科学が呆れたように声をかけた。
「はい?」
「その記録、主人公様に見せるの?」
「必要があれば提示します」
「……そう」
科学は遠い目をした。
薬学は紅茶を飲みながら、ぽつりと呟いた。
「でも、ネコ型ロボット自体は悪くないと思うのよね」
「薬学さん?」
「もちろん、本人が欲しがったら、という話よ」
「……それなら、設計案だけは考えておこうかしら」
科学の目が輝いた。
エンジェルは無言でバインダーを開き直した。
「……記録。科学および薬学、本人の意思確認を行う前に、設計案の検討を再開する可能性あり」
「まだ何もしていないでしょう!?」
リビングには、科学の抗議の声が響いた。
リリムは片手で額を押さえた。
「……本人に聞くと決めた直後に設計案を考え始める。もう、反省する気があるのかないのか、どちらなんですの?」
「設計案を考えること自体は、実行とは異なります」
科学が反論する。
「その理屈で、今まで何件の計画が始まったと思っているんですの!?」
「……記録にある範囲では、相当数です」
エンジェルが淡々と答えた。
「あなたは今、黙っているべきですわ!!」
リリムの声が、店内に響き渡った。
*
「でも、主人公様が最近、私たちに構ってくださらない理由は、ほかにも考えられますわ」
薬学が真剣な顔で口を開いた。
「セロトニンだけではありません。エストロゲン、ノルアドレナリン、アドレナリン、ドーパミンといった脳内物質の働きも関係しているのかもしれません」
「なるほど……。意欲や覚醒、報酬への反応など、さまざまな要因が関係している可能性があるわね」
科学は腕を組んだ。
「つまり、主人公様の脳内環境を改善すれば、私たちに構ってくださるようになる可能性が……?」
「科学さん。今、何か余計なことを考えませんでしたか?」
エンジェルが静かに尋ねた。
「い、いいえ。純粋に医学的な可能性を検討しているだけよ」
「そうですか」
エンジェルはバインダーに視線を落とした。
薬学はさらに考え込む。
「しかし、これだけ多くの物質が関係しているとなると、原因の特定は簡単ではありませんわね……。もしかすると、私たちのことを構ってくださらないのも、何かが不足しているせいなのかもしれません」
「……薬学さん」
エンジェルが顔を上げた。
「はい?」
「あなたが不足しているのでは?」
「…………え?」
薬学の動きが止まった。
科学も思わず薬学を見た。
「エンジェル、それはどういう意味?」
「主人公様に構っていただけない原因を、脳内物質の不足に求めていらっしゃいますよね」
エンジェルは淡々と説明した。
「ですが、先ほどからのお話を聞く限り、薬学さんにはご自身の仮説を裏づける十分な根拠がありません。それにもかかわらず、主人公様の身体に原因を求め、ご自身の希望する行動を取っていただこうとしているように見受けられます」
「そ、それは……!」
「不足しているのは、脳内物質ではなく、主人公様の意思を尊重する姿勢なのではありませんか?」
「…………」
薬学は口を開きかけ、そのまま閉じた。
科学はそっと視線を逸らした。
「……エンジェル。なかなか鋭い指摘ね」
「ありがとうございます」
「褒めている場合じゃありませんわよ、科学さん!」
薬学が慌てて抗議した。
「私は主人公様のことを心配しているだけですわ!」
「ええ。心配すること自体は問題ありません」
エンジェルは頷いた。
「ですが、主人公様が無気力に見えることと、私たちに構ってくださらないことは、同じ問題とは限りません。ご本人の体調を気遣うのであれば、まずはご本人のお話を聞くべきです」
「…………」
薬学は再び黙り込んだ。
リリムは果汁を置き、今度は薬学に向き直った。
「薬学さん、心配するのは分かりますわ。でも、主人公様が構ってくださらない理由を、本人に聞く前から脳内物質のせいにしてしまったら、主人公様の気持ちはどこへ行くんですの?」
「……それは」
「主人公様が『今は一人でいたい』と思っている可能性だってあるでしょう? それを化学式でひっくり返そうとしたら、さすがにお気の毒ですわ」
薬学は返す言葉を失った。
科学も気まずそうにグラスを見つめる。
リリムはそこで、ふっと表情を変えた。
「……まあ、私も以前は誘惑の作戦ばかり考えていましたから、偉そうには言えませんけれど」
「リリムさん……」
「ただ、主人公様が何を考えているのか分からないからといって、分からない部分を勝手に埋めてしまうのは、やっぱり違いますわ」
珍しく真面目な言葉だった。
しかし、次の瞬間にはいつもの調子に戻った。
「もっとも、エンジェルさんがそれを言うのは、なかなかの大問題ですけれど!」
「……はい?」
「炭弁当の件はどうなりましたの? チョコレートの件は? あれも、主人公様の意思を確認してから渡したのですか?」
エンジェルはバインダーの端を揃えた。
「過去の個別事例は、本件の論理構造とは別件です。ご指摘は別紙に保管します」
「また別紙! あなたの別紙、もう本編より分厚いんじゃありませんの!?」
お兄さんがカウンターの向こうで肩を震わせた。
「ははっ……! リリムちゃん、よく言った!」
「笑っている場合ではありませんわ、お兄さん!」
エンジェルは静かにペンを走らせた。
「記録。リリム、主人公の意思を推測だけで補完しないよう指摘。併せて記録係の過去事例を再提示」
「そこは記録するんですのね!?」
「重要な指摘ですので」
「でしたら、反省したことも記録してくださいまし!」
「反省については、今後の行動を確認してから判断します」
「……この人、記録係というより監査役ですわね」
リリムは深々とため息をついた。
*
「……あっ、待ってください」
エンジェルがバインダーから顔を上げた。
「フェニルエチルアミンが抜けています」
「しまった!」
薬学が勢いよく立ち上がった。
「恋愛初期の高揚感に関連するとされる物質ですわ! これを忘れるなんて、薬学者として不覚……!」
「薬学さん、特定の脳内物質だけで恋愛感情を説明することはできないわよ」
科学が冷静に指摘した。
「そ、そうですわね! では、フェニルエチルアミンも含めて、総合的に検討する必要がありますわ!」
「……あの」
エンジェルがおずおずと手を挙げた。
「はい?」
「これ、恋愛トークではないですよね?」
「…………」
科学と薬学の動きが止まった。
「……確かに」
科学はタブレットを伏せた。
「最初は主人公様が最近無気力になっている、という話だったはずなのに、いつの間にか脳内物質の一覧を作っているわね」
「しかも、主人公様が私たちに構ってくださらない理由を、ひたすら医学的に分析していましたわ……」
薬学も頭を抱えた。
エンジェルはバインダーに目を落とした。
『記録。科学および薬学、主人公の無気力を心配して会話を開始。その後、主人公が自分たちに構わない理由の分析へ移行。恋愛トークから医学的検討へ議題が逸脱』
「記録しなくていいから!」
二人の声が重なった。
エンジェルは、そんな二人を見て小首を傾げた。
「……なるほど。では、極めつけが抜けていますね」
「極めつけ?」
科学が聞き返した。
エンジェルはバインダーの後ろから、一冊の本を取り出した。
「『夜の生活指導本』です」
「…………」
科学と薬学は、その表紙を凝視した。
数秒後。
「――それだ!」
二人の声が、見事に重なった。
「そうよ! 脳内物質の分析ばかりしていて、肝心なことを忘れていたわ!」
科学が勢いよくタブレットを開く。
「主人公様との親密な時間を増やせば、気分転換になる可能性もある……!」
「ええ! 私たちが主人公様との接し方を見直すためにも、知識を整理しておく価値はありますわ!」
薬学も本を手に取ろうとした。
ところが、エンジェルはすっと本を引っ込めた。
「お待ちください」
「……何かしら?」
「お二人とも、先ほど主人公様の意思を確認してから行動すると決めたばかりです」
「…………」
「それに、こちらの本を読むことと、主人公様が私たちに構ってくださらない問題が解決することは、別の話です」
科学と薬学の動きが、ぴたりと止まった。
エンジェルは本を抱え直し、真面目な顔で続けた。
「まずは主人公様ご本人に、最近の体調や気持ちについて尋ねるべきではないでしょうか。そのうえで、必要なら一緒に過ごす時間を相談すればよいと思います」
「……正論ね」
科学が小さく呟いた。
「ぐうの音も出ませんわ……」
薬学も肩を落とした。
エンジェルは満足そうに頷いた。
「はい。では、こちらの本は私が保管しておきます」
「……エンジェル」
科学がじっと彼女を見つめた。
「何でしょう?」
「その本、どうして持っているの?」
エンジェルは一瞬も表情を変えずに答えた。
「魔導様が定期的に講習を行ってくださるからです」
「…………は?」
科学と薬学の動きが止まった。
「講習?」
「はい。動画などを用いた解説もあり、講習のたびに宿題も出されます」
「…………」
今度は二人とも、言葉を失った。
「定期的に? 動画まで? しかも宿題?」
薬学がようやく声を絞り出した。
「はい。講習内容を確認し、指定された課題を提出することになっています」
「待ってくださいませ。なぜ魔導が、エンジェルにまでそんな講習を……?」
「魔導様は、主人公様との関係をより良いものにするためには、正しい知識を身につける必要があるとお考えのようです」
「その教育方針、どこまで広がっているのよ……」
科学は額を押さえた。
エンジェルは淡々と続けた。
「講習の際には、教材の確認に加えて、課題への取り組みも求められます。内容によっては、動画を視聴したうえで所定の項目を整理し、提出する必要があります」
「完全に授業じゃない!」
科学が叫んだ。
「しかも宿題まであるなんて……。エンジェル、あなたも大変なのね」
薬学が同情するように言った。
「いえ。講習内容を記録し、必要な事項を整理すること自体は可能です」
「問題はそこじゃありませんわ!」
薬学が頭を抱えた。
「魔導は、主人公様への執着を周囲にまで広げているのですか!?」
「その点については、私から評価する立場にはありません」
「真面目に答えないでくださいませ!」
エンジェルは再びバインダーを開いた。
「記録。魔導、定期的に夜の生活に関する講習を実施。動画教材を使用し、受講者に宿題を課す」
「ちょっと待って!」
科学が慌てて手を伸ばした。
「そこまで記録しなくていいわ!」
「いえ、重要な経緯ですので」
「重要な経緯にしないでくださいませ!!」
薬学の悲鳴が響き渡った。
リリムは両手で顔を覆った。
「……地上の講習制度、ずいぶん充実していますのね。まさか恋愛のために動画教材と宿題まで用意されるとは思いませんでしたわ」
「効率的な学習方法だと思います」
エンジェルが答える。
「効率の問題ではありませんわ! 主人公様への愛情が、いつの間にか通信教育になっているんですのよ!」
お兄さんが思わず吹き出した。
「はははっ! そりゃ確かに、ずいぶん熱心な先生だな!」
「お兄さんまで面白がらないでくださいまし!」
リリムはエンジェルを指さした。
「それに、あなたも講習を真面目に受けている場合ではありませんわ! まずは炭弁当の反省文を提出してはいかがですの?」
エンジェルは少し考えた。
「反省文の提出先は、どなたになりますか?」
「私に聞かないでくださいまし!!」
科学と薬学は、とうとう声を上げて笑った。
エンジェルだけが、真剣な顔でバインダーに新しい項目を追加していた。
*
「ちなみに、もう一つ確認したいことがあります」
エンジェルは『夜の生活指導本』を片づけながら、科学と薬学を交互に見た。
「……何かしら?」
科学が警戒する。
エンジェルは真顔で告げた。
「あなたたち、ヤンデレですが、恋愛偏差値ゼロですよね」
「「なんですって!?」」
二人の声がリビングに響き渡った。
「ちょっと待って、エンジェル! その結論はどこから出てきたの!?」
科学が身を乗り出す。
「記録に基づく総合評価です」
エンジェルはバインダーを開いた。
「科学さんは、主人公様が最近構ってくださらないことを心配し、セロトニンをはじめとする脳内物質の分析を開始。その後、ネコ型ロボットの開発を提案しました」
「それは主人公様を元気づけるためよ!」
「薬学さんは、さらに複数の脳内物質を挙げ、主人公様が自分たちに構ってくださらない理由を医学的に分析しようとしました」
「私は主人公様の健康を心配していただけですわ!」
「その後、お二人は『夜の生活指導本』の存在を思い出し、そちらで問題を解決できる可能性を検討しました」
「そ、それは……!」
「しかし、最初から最後まで、主人公様ご本人に何を望んでいるのか尋ねていません」
「「…………」」
エンジェルは淡々と結論を述べた。
「以上の記録から判断する限り、お二人は主人公様への執着こそ強いものの、恋愛において最も基本的な意思疎通が不足しています」
一拍置いて、追い打ちをかけた。
「**恋愛偏差値ゼロと評価するのが妥当です**」
「そんな馬鹿な……!」
科学が頭を抱えた。
「私は研究者よ!? 分析能力には自信があるのに!」
「私だって薬学の専門家ですわ! 心身の状態を考える知識はありますもの!」
「はい。専門知識については疑っていません」
エンジェルは即答した。
「問題は、その知識を主人公様に構っていただく方法の検討に集中して使用していることです」
「ぐっ……!」
「そして、お二人とも主人公様が自分たちに構ってくださらないことを問題視していますが、主人公様が何を望んでいるのかは確認していません」
「ううっ……!」
科学と薬学が同時に胸を押さえた。
リリムは二人を見て、少しだけ気の毒そうな顔をした。
「……お二人とも、そこまで落ち込まなくてもいいと思いますわ。主人公様を心配していること自体は、本当なのでしょう?」
「リリムさん……」
薬学が顔を上げる。
「ただし!」
リリムはすかさず指を立てた。
「心配と、自分の思いどおりに動いてほしいという気持ちは、別物ですわ。そこを一緒にしてしまうと、主人公様だって困りますもの」
科学と薬学は、再び黙り込んだ。
リリムは満足そうに頷きかけ――ふと、エンジェルの方を向いた。
「……ところで、エンジェルさん」
「はい?」
「あなたも、恋愛偏差値を採点する側に立てるほど立派な成績ではないと思いますわよ?」
「……といいますと?」
「主人公様に炭を弁当として渡した件。チョコレートで妙なことをした件。覚えていらっしゃいますわよね?」
エンジェルは静かに答えた。
「はい。記録に残っています」
「なら、なぜ自分の評価だけしないんですの!?」
「今回の評価対象は科学さんと薬学さんですので」
「対象を限定することで、あなた自身の成績が上がるわけではありませんわ!!」
リリムの叫びに、お兄さんがカウンターの向こうで腹を抱えた。
「はははっ! リリムちゃん、今日は冴えてるな!」
「笑い事ではありませんわ、お兄さん! この方、何でも別件にして逃げるんですもの!」
エンジェルはページをめくった。
「ご指摘は別紙に保管します」
「ほら、またですわ!!」
エンジェルはさらにページをめくった。
「ちなみに、主人公様の意思を確認する前に対策を考案した回数は、今回だけではありません」
「過去の記録まで持ち出さないで!」
「記録係ですので」
「その職務、こんなときだけ完璧なのね!?」
薬学が叫んだ。
科学はしばらく考え込んでいたが、やがて真剣な顔で口を開いた。
「……待って。恋愛偏差値を上げる方法はないの?」
「あります」
エンジェルは即答した。
二人の目が輝いた。
「本当!?」
「まず、主人公様の話を聞くこと。次に、ご本人の意思を尊重すること。そして、自分たちの望みを押しつけず、相手がどう感じるかを考えることです」
「…………」
「それができれば、少なくとも現在の評価は改善するでしょう」
科学はゆっくりと頷いた。
「なるほど……。つまり、主人公様の反応を観察する前に、主人公様の意見を聞く必要があるわけね」
「そうです」
「健康管理についても、本人の希望を確認してから提案するべきですわね……」
薬学も納得したように呟いた。
エンジェルは満足げにバインダーを閉じた。
「ご理解いただけたようで何よりです」
その直後、科学が顔を上げた。
「……じゃあ、主人公様に恋愛偏差値を上げるための相談をしてみようかしら」
「私もご一緒しますわ!」
二人は勢いよく立ち上がった。
エンジェルは、ゆっくりと額に手を当てた。
「……あの」
「何?」
「主人公様に相談する前に、まずお二人だけで考えてみてはいかがですか?」
「…………」
再び沈黙が落ちた。
エンジェルはバインダーを開き、最後の一行を書き加えた。
『追記。恋愛偏差値ゼロとの評価を受け、改善方法を主人公に相談しようとする。自力での改善に向けた検討は未実施』
「エンジェルぅぅぅ!!」
リビングに、科学と薬学の悲鳴が響き渡った。
リリムは呆れたように肩をすくめた。
「……もう、主人公様に相談する前に、自分たちで一度くらい考えてくださいまし。相談相手に丸投げしたら、偏差値を上げるどころか、別の問題が増えますわよ」
「……それもそうね」
科学が気まずそうに頷いた。
「私も、少し落ち着いて考えますわ」
薬学も反省したように答えた。
エンジェルはバインダーを閉じた。
「記録。科学および薬学、当面は自分たちで改善方法を検討する方針を確認」
「今度こそ、その記録どおりにしてくださいませね!」
リリムは二人を見て念を押した。
「ええ。まずは主人公様に、何を望んでいるのか聞くところから始めるわ」
科学は決意を込めて頷いた。
その表情を見て、リリムはようやく安心したように果汁を飲んだ。
――少なくとも、この場では。




