エリゴス ゲイバーフランチャイズ展開計画
【ゲイバー「オアシス」前・大通り】
制圧されたエリゴスの足元に、転送魔法の陣が展開した。
「な、何をするつもりだ!?」
「あなたの処遇を決められる方のもとへお送りするだけです」
アスタロトは淡々と答えた。
「まさか……ルシファーか!?」
「そうです。あなたはルシファー様を排除し、魔界の支配権を奪ったうえで地上侵攻を実行すると宣言しました。その計画について、本人に直接説明していただきましょう」
「ふざけるな! 私は魔界を正しく導くために――」
「その説明も、ぜひルシファー様に」
ベリアルが穏やかに遮った。
転送魔法の光が強まり、エリゴスの姿が消えた。
*
【魔界・魔王城・玉座の間】
転送陣が輝き、床の上にエリゴスが現れた。
書類を確認していたルシファーが顔を上げる。
「……何だ?」
続いてアスタロトとベリアルが姿を現した。
ルシファーは三人を見比べ、露骨に面倒そうな顔をした。
「おい。何を連れてきた?」
「エリゴスです」
アスタロトが簡潔に答えた。
「ルシファー様を排除し、魔界の支配権を奪ったうえで地上侵攻を実行すると宣言していました。三千の軍勢を率いてオアシスを襲撃したため、制圧してお連れしました」
「……ああ、エリゴスか」
ルシファーは名前を聞いて、ようやく納得したように頷いた。
エリゴスはすぐさま立ち上がった。
「ルシファー! お前は魔界の支配者にふさわしくない! 面倒事を避け、地上のヤンデレどもを放置するような腰抜けに、魔界を任せておくわけにはいかん!」
玉座の間が静まり返った。
ルシファーはしばらくエリゴスを眺め、深々とため息をついた。
「……ああ、はいはい。お前はそういうことを言っているのか」
「何だ、その態度は!」
「いや、分かった。分かったから少し黙れ」
ルシファーは額を押さえた。
「俺があいつらを面倒扱いしているのは事実だ。だがな、面倒なのと、相手にできないのは別の話だろうが」
エリゴスが言葉を詰まらせた。
「俺は余計な騒ぎを増やしたくないだけだ。地上の連中に構えば、こっちの仕事が増える。だから距離を取っている。それだけだ」
ルシファーはアスタロトとベリアルを見た。
「それで? こいつをわざわざ俺のところへ連れてきたのか?」
ベリアルが答える。
「エリゴス殿は、ルシファー様を排除して魔界を正しく導くと主張していました。地上侵攻も実行するつもりだそうです。ご本人の意思を確認していただくのが適切かと」
「意思の確認ねえ……」
ルシファーは再びエリゴスを見た。
「つまり、俺を倒して魔界を乗っ取り、地上へ攻め込むつもりだったわけだ」
「そうだ! お前のような腰抜けに代わり、私が魔界を――」
「はいはい。分かった分かった」
ルシファーは片手を振った。
「面倒なのを押しつけるなよ、まったく」
アスタロトが少しだけ首を傾げる。
「処分をお任せしてもよろしいのですか?」
「それ以外に何がある?」
ルシファーは椅子に深く座り直した。
「こいつは俺を排除して魔界を乗っ取ると宣言したんだろう? なら俺の管轄だ。お前たちが後始末まで抱え込む必要はない」
ベリアルは軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃない。俺のところに戻してくれただけだ」
ルシファーはエリゴスを指さした。
「こいつの処分は俺の方でやっておく」
「……処分、だと?」
エリゴスが警戒する。
ルシファーは面倒くさそうに続けた。
「お前は軍を率いる能力もあるし、戦場で成果も上げてきたんだろう。だが、魔界を導くと言いながら、他人の話も聞かず、勝手に戦争を始めようとする。まずは常識から学び直してこい」
「何だと!?」
「聞こえなかったか? 常識を学び直してこいと言ったんだ」
ルシファーは指先で机を叩いた。
「お前の言う秩序とやらが本当に必要なのか、他人と一緒に働いて考えろ。自分の考えが正しいと信じ込んでいる間は、何を任せてもろくなことにならん」
「私に、何をさせるつもりだ!」
ルシファーは、長年の懸案事項を片づけるような顔で告げた。
「ゲイバー『オアシス』で働いてもらう」
「…………は?」
アスタロトとベリアルが、同時に沈黙した。
エリゴスは聞き間違いを疑うように目を見開いた。
「……今、何と言った?」
「オアシスの従業員だ。客の相手をして、店の仕事を手伝って、他人と協力することを覚えてこい。三千の軍を指揮するより、よほど勉強になるかもしれんぞ」
「ふざけるな! 私は軍神だぞ! 魔界でも名の知れた指揮官だ! その私に、酒場の従業員をしろというのか!」
「そうだ」
ルシファーは即答した。
「それに店は人手が足りないらしい。ちょうどいいだろう」
「私の軍事的才能を何だと思っている!」
「客に注文を聞くときに役立つんじゃないか?」
「役立つわけがあるか!」
「じゃあ、まずはそこから学び直せ」
ルシファーは立ち上がった。
「アスタロト、ベリアル。こいつをオアシスに送り返してくれ。店主には俺から話を通しておく」
「……ルシファー様。店主の同意は?」
ベリアルが慎重に尋ねた。
「これから取る」
「順番が逆ではありませんか?」
「細かいことを気にするな」
ルシファーは手を振った。
「こいつを放っておけば、また面倒を起こす。なら働かせて常識を覚えさせる方が手っ取り早い」
「私は納得していないぞ!」
「納得するかどうかは関係ない。働いてこい」
転送魔法が展開した。
エリゴスの抗議を残し、三人の姿が光に包まれた。
*
【王国・ゲイバー「オアシス」】
転送魔法の光が、店内の床に広がった。
アスタロト、ベリアル、そして不本意そうな顔をしたエリゴスが姿を現す。
カウンターでグラスを磨いていたお兄さんは、三人を見て顔を上げた。
「お、戻ってきたな。で、そいつはどうなったんだ?」
アスタロトが淡々と答える。
「ルシファー様の判断により、こちらで働くことになりました」
「……は?」
お兄さんの手が止まった。
「働くって、誰が?」
「エリゴス殿です」
ベリアルが説明を引き継いだ。
「常識を学び直すため、オアシスで働くよう命じられたそうです」
「いやいやいや、待て待て待て!」
お兄さんはカウンターから身を乗り出した。
「何で俺の店に変なのを押しつけるんだよ! 俺は軍神を雇った覚えなんかないぞ!」
「私も、こんな場所で働くつもりはない!」
エリゴスも声を張り上げた。
「私は魔界の軍を率いる将だ! 酒場の従業員など、私の身分にふさわしくない!」
「ほら見ろ! 本人も嫌がってるじゃねえか!」
お兄さんは頭を抱えた。
「ルシファーのやつ、勝手に決めやがって……!」
そのとき、アスタロトの通信魔法が光った。
映し出されたのは、魔王城の玉座でくつろぐルシファーだった。
『聞こえているぞ』
「聞こえてるなら説明しろ! どういうつもりだ!」
『そのままの意味だ。エリゴスには常識を学び直してもらう。お前の店で働かせてくれ』
「だから、何で俺なんだよ!」
『人と接する仕事だからだ。軍隊のように命令するだけでは回らない。客の要望を聞き、同僚と協力し、店の決まりを守る。あいつにはちょうどいい』
「理屈は分かった! でも、俺の都合はどうなるんだ!」
『給料は魔王城から出す。必要な設備の費用も負担しよう』
「……そういう問題じゃねえんだけどなあ!」
お兄さんは額を押さえた。
ルシファーは気にした様子もなく続ける。
『三千の軍を動かせる男だ。体力はあるし、指示を出すのも得意なんだろう。店の仕事を覚えれば、それなりに役に立つはずだ』
「指示を出すのが得意だからって、接客ができるとは限らないだろ!」
『そこも含めて勉強だ』
「おい!」
『じゃあ、頼んだぞ』
「頼んだぞじゃねえええええ!」
通信が切れた。
お兄さんはしばらく天井を見上げていた。
「……あいつ、絶対に後で覚えてろよ」
エリゴスは腕を組んだ。
「断る。私はここで働くつもりはない。軍神である私に、客へ頭を下げろというのか?」
お兄さんはゆっくり彼を見た。
「……あんた、さっき三千の軍を率いて、この店の前で大騒ぎしたんだろ?」
「それがどうした!」
「店の前を塞いで客が入れなくなった。俺の営業を邪魔した。そのうえ、今度は働くのが嫌だって?」
お兄さんはグラスを置いた。
「いいか。ここはあんたの軍隊じゃない。客は兵士じゃないし、俺は部下でもない。働くなら、まず店の決まりを守れ。それができないなら、ルシファーに文句を言いに行け」
エリゴスは反論しかけた。
だが、言葉が出てこなかった。
軍を率いることと、店を回すことは違う。
命令に従う兵士を動かすのと、金を払って楽しみに来る客を相手にするのも違う。
彼はその違いを、真剣に考えたことがなかった。
「……くっ。分かった。働けばいいのだろう」
「そうだ。まずはその偉そうな態度を何とかしろ」
お兄さんは棚からエプロンを取り出し、彼へ放った。
エリゴスは反射的に受け取った。
「……これは何だ?」
「制服だよ」
「制服だと?」
「軍装のまま接客するつもりか? 客が怖がるだろ」
エリゴスはエプロンを手に、しばらく固まっていた。
やがて屈辱に耐えるような顔で、それを身につけた。
軍神エリゴス。
三千の兵を自在に動かし、数々の戦場を制してきた男。
その彼が今、ゲイバー「オアシス」のカウンター前でエプロンを着けていた。
魔導が扇子で口元を隠して笑った。
「まあ♡ 意外とお似合いですわね」
「黙れ!」
「お客様にその口調は駄目だぞ」
お兄さんが即座に注意した。
「……っ!」
エリゴスは歯を食いしばった。
「……失礼しました」
「よし。じゃあ、まずはグラスを運んでくれ」
「グラスを?」
「そう。割らないようにな」
エリゴスは慎重にグラスを持ち上げた。
まるで爆発物を運ぶような顔だった。
科学が小声で呟く。
「軍事指揮と接客業では、要求される能力がかなり違いますね」
アスタロトが頷いた。
「ええ。戦場での合理性が、そのまま店の運営に通用するとは限りません」
ベリアルも微笑む。
「これは、彼にとってよい学習機会になるでしょう」
お兄さんが二人を睨んだ。
「……本当にそう思ってるのか?」
「まあ、ルシファー様の決定ですので」
アスタロトは淡々と答えた。
「他人事みたいに言いやがって……!」
お兄さんの嘆きが店内に響いた。
*
【王国・ゲイバー「オアシス」・勤務初日】
エリゴスの初仕事は、グラス運びだった。
一つ目。成功。
二つ目。成功。
三つ目で、客が声をかけた。
「兄ちゃん、注文いいか?」
エリゴスはグラスを置き、背筋を伸ばした。
「用件を述べよ」
客が固まった。
カウンターの向こうで、お兄さんが顔を上げる。
「エリゴス!」
「……何だ?」
「何だじゃねえ! お客様に『ご注文をお伺いします』だ!」
「……ご注文を、お伺いします」
「よし。最初からそう言え!」
客は笑いをこらえながら注文した。
「じゃあ、酒を一杯」
「銘柄は?」
「えーっと、どれにしようかな」
エリゴスの眉がぴくりと動いた。
「決断しろ。いつまで迷っている!」
「お前は軍の作戦会議をしてるのか!」
お兄さんのツッコミが飛んだ。
「客が迷うのは普通だ! メニューを見せて、好みを聞いてやれ!」
「好み……?」
エリゴスは客を見た。
「辛口か甘口か。度数はどの程度を希望する?」
「お、おう。辛口で、そんなに強くないやつかな」
「承知した。候補を三つ提示する。味、度数、価格の順に説明するので選択せよ」
「選択せよじゃねえ!」
お兄さんが頭を抱えた。
「説明は悪くないんだよ! 最後の言い方を何とかしろ!」
魔導は扇子の陰で肩を震わせた。
「まあ♡ 注文ひとつにも軍議が必要なのですわね」
「笑うな!」
「お客様にその口調は駄目だぞ!」
「……申し訳ありません」
エリゴスはすぐに頭を下げた。
客が吹き出した。
「いや、いいよ。なんか面白いな、この店」
「面白がっている場合ではありません!」
「お客様にその口調は駄目だぞ!」
「……申し訳ありません!」
お兄さんは天を仰いだ。
「先が思いやられる……」
*
【王国・ゲイバー「オアシス」・勤務三日目】
三日目になっても、エリゴスの接客は改善の兆しを見せなかった。
注文の処理は速い。配膳も正確。テーブルの配置と動線も、初日から観察して把握していた。
問題は、客の話を聞くときだった。
「聞いてくれよ。仕事で上司に怒られてさあ……」
客が愚痴をこぼす。
エリゴスは腕を組み、真剣に頷いた。
「つまり、お前の問題は準備不足だ。次回から改善しろ」
「……え?」
「上司の要求を事前に確認し、必要な資料を揃えればよい。再発防止策としては――」
「エリゴス!」
お兄さんの声が店内に響いた。
「客を追い詰めるな!」
「しかし、問題点を分析し、解決策を提示するのは合理的だろう!」
「今は解決策が欲しいんじゃねえ! 話を聞いてほしいんだよ!」
エリゴスは目を瞬かせた。
「……話を聞くだけで、問題は解決しないのでは?」
「だから、そういうところだよ!」
お兄さんは額を押さえた。
客は苦笑しながらグラスを傾けた。
「いや、でも、言ってることは間違ってないんだよなあ……」
「ほら見ろ!」
エリゴスが胸を張る。
「威張るな!」
「……失礼した」
カウンターで見ていたアスタロトが、静かに分析した。
「彼は相手の発言を、解決すべき問題として受け取っているのでしょう」
科学が頷く。
「会話の目的を分類できていませんね。情報共有、相談、感情の発散。同じ愚痴でも、相手が求めている応答は異なります」
ベリアルが茶を口に運ぶ。
「戦場では、問題を発見すれば迅速に解決することが求められます。しかし、接客では相手が何を求めているかを見極めるところから始まる」
お兄さんは二人を指さした。
「分析はいいから、誰かこいつに接客を教えてくれ!」
「店主が教えるのが一番では?」
アスタロトが真顔で返した。
「お前らも他人事じゃねえ!」
*
【王国・ゲイバー「オアシス」・勤務一週間後】
一週間が経った。
エリゴスは、ようやく「いらっしゃいませ」と自然に言えるようになった。
ただし、声量は軍の号令と同じだった。
「いらっしゃいませ!」
店内の客が一斉に振り返った。
グラスが揺れ、会話が止まり、入口にいた客が思わず姿勢を正した。
お兄さんはゆっくり顔を覆った。
「……声を半分にしろ」
「聞こえなければ、意味がないだろう」
「ここは戦場じゃないんだよ!」
「だが、客に確実に伝えるには――」
「声量じゃなくて距離を考えろ!」
エリゴスはしばらく考え込んだ。
「……なるほど。伝達の確実性は、音量だけでなく、相手との距離や周囲の騒音にも左右されるのか」
「そうだよ。最初からそう考えてくれ!」
「承知した」
エリゴスは次の客へ向き直った。
「いらっしゃいませ」
今度は、ちょうどよい声量だった。
「……おっ、できたじゃねえか」
お兄さんが頷く。
エリゴスは、ほんの少しだけ誇らしげな顔をした。
「当然だ。私は学習能力が高い」
「そこで威張るな!」
「……失礼した」
店内に笑い声が広がった。
その日の閉店後、エリゴスは一日の業務記録をまとめていた。
注文が集中する時間帯。配膳に時間がかかる場所。厨房とホールの連携が滞る瞬間。
書き出された項目は、まるで軍の作戦報告書だった。
お兄さんはそれを覗き込み、眉を上げた。
「……これ、お前が書いたのか?」
「そうだ。混雑する時間帯に人員を増やせば、待ち時間を短縮できる。厨房とホールの連絡方法も統一した方がよい」
「確かに、そこは困ってたんだよな」
「ならば、改善案を作る。実際の業務に合わせて調整したいので、従業員の意見も聞かせてほしい」
お兄さんは意外そうにエリゴスを見た。
「へえ。自分の考えを押しつけるんじゃなくて、現場の意見も聞くのか」
エリゴスは少しだけ視線を逸らした。
「……命令を出すだけでは、現場の問題は見えないこともある。ここで学んだ」
「おっ。少しは分かってきたじゃねえか」
「当然だ。私は軍神――」
「言うな!」
「……私は、学習中だ」
「よし!」
お兄さんは笑った。
*
【王国・ゲイバー「オアシス」・勤務二週間後】
エリゴスは仕事の合間に、常連客の顔と好みを覚え始めていた。
「いつもの酒でいいか?」
「おっ、覚えてくれたのか!」
「前回、三回連続で同じ銘柄を注文していた。記憶しておくのは合理的だ」
「言い方はともかく、気が利くじゃねえか!」
お兄さんが感心した。
ところが、次の客がメニューを見ながら悩み始めると、エリゴスは反射的に口を開いた。
「決断しろ。いつまで――」
「エリゴス!」
「……ご注文をお決めになるまで、お待ちします」
「よし! 今のは合格!」
「……接客とは、忍耐力を要求される仕事なのだな」
「そうだよ!」
エリゴスは腕を組んだ。
「軍隊では、判断の遅れが全体の危機につながる。しかし、この店では、客が迷う時間もサービスの一部ということか」
「おお。いいところに気づいたじゃねえか」
「ただし、混雑時には別の対応が必要だ。待ち時間が長くなれば、他の客にも影響する。状況に応じて声をかけるべきだろう」
「……それも正しいな」
お兄さんは少し考えた。
「よし。じゃあ、混んできたら『おすすめもありますよ』って声をかけてみろ。急かすんじゃなくて、選びやすくしてやるんだ」
「選択肢を整理し、判断を補助する……。なるほど」
「その言い方はもういい!」
エリゴスは真剣に頷いた。
「承知した。今後は、客が選びやすい環境を整える」
「うん。今のは接客っぽいぞ」
魔導が扇子を広げた。
「まあ♡ 軍神様が、ついにお客様の気持ちを考えるようになりましたのね」
「当然だ。私は――」
「軍神って言うな!」
「……私は、まだ学習中だ」
今度はエリゴスが先に言った。
お兄さんは吹き出した。
「自分で分かってるじゃねえか!」
*
【王国・ゲイバー「オアシス」・勤務一か月後】
一か月が経つ頃には、エリゴスの仕事ぶりも変わっていた。
注文の処理は相変わらず速く、配膳の動線も効率化されている。混雑する時間帯には、従業員の配置を調整し、厨房との連絡も滞らないよう工夫していた。
そして何より、以前のように客へ命令することが減った。
ある夜、酔った客がカウンターで愚痴をこぼしていた。
「……もう、何もかも嫌になっちまったよ」
エリゴスは、いつものように解決策を提示しかけた。
「つまり、お前の問題は――」
そこで口を止めた。
客は、ただ黙ってグラスを見つめていた。
エリゴスは一度息を吐き、隣の椅子を引いた。
「……そうか。大変だったのだな」
客が顔を上げた。
「え?」
「今は、解決策を聞きたいわけではないのだろう?」
「……まあ、そうだな。ちょっと話を聞いてほしかっただけだ」
「分かった。続けてくれ」
客は、ぽつぽつと話し始めた。
エリゴスは口を挟まず、最後まで聞いた。
話が終わると、客は少しだけ表情を和らげた。
「ありがとな。なんか、すっきりしたよ」
「そうか。それならよかった」
客が帰った後、お兄さんが近づいてきた。
「……今の、よかったぞ」
エリゴスは眉を上げた。
「何がだ?」
「余計な説教をしなかったことだよ」
「……私は、相手が何を求めているかを確認しただけだ」
「それができるようになったのが進歩なんだよ」
エリゴスは少し黙った。
「……戦場では、命令を正しく伝え、敵の動きを予測し、最善の手を打つことが重要だった。だが、ここでは相手が何を求めているのかを知らなければ、正しい対応すらできない」
「そういうことだ」
「……私は、これまで自分が正しいと思う方法を、誰にでも当てはめていたのかもしれない」
お兄さんは肩をすくめた。
「まあ、気づいただけでも上出来だ。明日からも頼むぞ」
「承知した」
「声がでかい!」
「……はい」
カウンターの向こうで、魔導が笑った。
「まあ♡ 軍神様の成長記録が、また一つ増えましたわね」
エンジェルがいつものバインダーを開いた。
「記録。エリゴス、客の話を最後まで聞くことに成功」
「成功って何だ! 当たり前のことだろう!」
「当たり前のことができるようになるまで、一か月かかりましたので」
「ぐっ……!」
アスタロトは茶を口に運んだ。
「記録としては、妥当な評価ですね」
ベリアルも頷く。
「ええ。戦場での能力とは別に、学ぶべきことがあったということでしょう」
エリゴスは二人を睨んだ。
「お前たち、まだ見ていたのか!」
「ええ。お茶を飲みながら」
「……帰れ!」
「お客様にその口調は駄目だぞ!」
「……失礼しました!」
店内に笑い声が広がった。
*
【王国・王都・ゲイバー「オアシス」本店・営業会議】
ある日の営業終了後、エリゴスは従業員たちを集めていた。
テーブルには、売上、仕入れ、混雑時間帯、客からの要望をまとめた資料が並んでいる。
「本日の報告を始める。……いや」
エリゴスは自分の言葉を止めた。
「まず、みんなの意見を聞きたい。最近、仕事で困っていることはあるか?」
従業員たちは顔を見合わせた。
「厨房からホールへの連絡が、混雑時に遅れることがあります」
「酒の補充が間に合わないときもありますね」
「魔界からの団体客が増えて、予約管理も少し大変です」
エリゴスは一つずつ記録した。
「分かった。では、厨房とホールの連絡方法を見直そう。補充用の在庫も、動線を考えて配置する。予約管理は担当者を決め、団体客の情報を事前に共有する」
「それなら助かります」
従業員の一人が頷いた。
お兄さんは腕を組み、満足そうに見ていた。
「……前のお前なら、全部自分で決めて命令してたんじゃないか?」
「そうしていたかもしれない」
エリゴスは素直に答えた。
「だが、実際に働いている者にしか分からない問題もある。現場の情報を集めずに計画を立てても、実行できるとは限らない」
「ようやく分かってきたな」
「当然だ。私は――」
エリゴスは口を閉じた。
お兄さんが目を細める。
「……何だ?」
「……私は、学習中だ」
「よし!」
お兄さんは笑った。
その会議で決まった改善策は、翌週から実行された。
混雑時の配膳は速くなり、注文の取り違えも減った。従業員たちが自分で判断できる範囲も広がり、店主一人に負担が集中することも少なくなった。
エリゴスの軍事的な知識は、ようやく別の形で生かされ始めていた。
彼は人を命令で動かすだけではなく、各人が動きやすい仕組みを整えることを覚えつつあった。
*
【魔界・魔王城・玉座の間】
地上の様子を映し出す魔法の画面には、オアシスの賑わいが映っていた。
ルシファーは報告書を読みながら、画面へ目を向けた。
「……エリゴスはどうしている?」
側近が答える。
「接客にはまだ課題がありますが、店舗運営の改善には貢献しているようです。混雑時の人員配置や仕入れの管理など、軍を指揮していた経験が生かされています」
「ほう」
「ただし、客の話をすぐに分析して解決策を提示する癖は、まだ抜けていないようです」
画面の向こうから怒鳴り声が響いた。
『エリゴス! 客の話を最後まで聞けって言っただろ!』
『聞いている! 私はただ、話の要点を――』
『要点をまとめるな! 今は愚痴を聞いてるんだよ!』
ルシファーは静かにカップを置いた。
「……まだそこか」
側近は苦笑した。
「接客の勉強は、しばらく続きそうですね」
「まあ、戦争を起こされるよりはずっといい」
ルシファーは再び画面に目を向けた。
「それに、あいつの能力を無駄にする必要もない。店がうまく回るなら、本人にも店主にも悪い話ではないだろう」
「おっしゃる通りです」
「……もっとも、店主には少し悪いことをしたと思っている」
側近が意外そうに顔を上げた。
「反省されているのですか?」
「俺だって順番が逆だったことくらい分かっている」
ルシファーは顔をしかめた。
「ただ、あの店主なら、あいつを簡単に甘やかさないと思ったんだ」
「確かに、厳しく指導されているようですね」
「厳しいというより、遠慮がないんだろうな」
ルシファーは画面の向こうで怒鳴っているお兄さんを見た。
「……あれはあれで、魔界の将軍たちに見習わせたいくらいだ」
*
【王国・王都・ゲイバー「オアシス」本店・閉店後】
エリゴスは営業記録を整理していた。
その横には、お兄さんが置いた新しい帳簿がある。
「これも見ておけ」
「何だ?」
「今月の売上と仕入れの記録だ。どこに無駄があるか、分析してみろ」
エリゴスは帳簿を受け取った。
数分後、彼は顔を上げた。
「仕入れの時期が偏っている。まとめて購入できるものは、発注を統合した方が効率的だ。保存が利く食材は、在庫の余裕を見て購入量を調整できる」
「おお。やっぱり、そういう分析は得意なんだな」
「当然だ。補給計画は軍の運営において――」
「軍の話はいいから、店の改善案を出してくれ」
「……分かった」
エリゴスは帳簿を開き、具体的な改善案を書き始めた。
お兄さんはその様子を見ながら、ふっと笑った。
「最初はどうなることかと思ったけどな」
「私も、ここまで店の運営に関わることになるとは思わなかった」
「で、どうだ? 軍を率いるのと、店を回すのは」
エリゴスはペンを止めた。
「……違うな」
「どんなふうに?」
「軍では、命令に従わせることで組織を動かしていた。だが、店では、命令するだけでは人は動かない。相手の事情を知り、必要なものを整え、協力してもらえるようにしなければならない」
「うん」
「そして、客は兵士ではない。こちらの都合に合わせてくれるとは限らない。だからこそ、相手の立場を考える必要がある」
お兄さんは満足そうに頷いた。
「ようやく、いいことを言うようになったじゃねえか」
エリゴスは少しだけ誇らしげに胸を張った。
「当然だ。私は――」
「軍神って言うなよ!」
「……私は、まだ学習中だ」
「よし!」
二人は顔を見合わせ、笑った。
*
【王国・王都・ゲイバー「オアシス」二号店・開店準備】
本店の運営が安定すると、オアシスの評判はさらに広がった。
王都の別の区域からも出店の要望が届き、魔界から訪れる客の中にも、もっと気軽に立ち寄れる場所が欲しいという声が増えていた。
お兄さんは、二号店の計画書を前に腕を組んだ。
「まさか、二号店を出す話まで来るとはな……」
エリゴスが資料を広げる。
「本店の売上と来客数を確認した。混雑する時間帯は明確だ。二号店を開けば、客を分散させられる可能性がある」
「でも、店を増やせば管理も大変になるぞ」
「だからこそ、本店と同じやり方をそのまま持ち込むのではなく、責任者を育てる必要がある」
エリゴスは従業員たちを見た。
「現場の判断をすべて本店に集めれば、連絡が遅れる。各店舗で対応できる範囲を決め、必要な情報だけを共有する仕組みにしよう」
お兄さんは目を丸くした。
「……お前、店を増やす気満々じゃねえか」
「計画を立てる以上、実行できるかを考えるのは当然だ」
「その『当然』を最初から接客にも使ってくれりゃよかったんだけどな」
「……それについては、反省している」
「おっ。素直になったな」
二号店の開設にあたって、エリゴスは本店の従業員たちから意見を聞いた。
人員の配置、仕入れ先、厨房の広さ、混雑時の動線。自分の考えだけで決めることはせず、現場の事情を確認しながら計画を修正していった。
開店当日、店の前には長い列ができていた。
「ここが二号店か!」
「本店はいつも混んでるからな。こっちも楽しみだ」
「魔界の魔物も来るらしいぞ!」
店内では注文が次々に入ったが、従業員たちは慌てなかった。事前に役割分担を確認していたため、配膳も会計も滞りなく進んでいる。
エリゴスは店内を見渡した。
「問題は?」
「今のところありません。厨房からの連絡も順調です」
「よし。何か起きたら、現場の状況を確認してから対応してくれ。判断に迷う場合は本店と情報を共有しよう」
「分かりました」
お兄さんは、その様子を見て笑った。
「……本当に変わったもんだな」
「何か言ったか?」
「いや。なんでもねえよ」
エリゴスは胸を張った。
「当然だ。私は――」
「軍神って言うな!」
「……私は学習中だ」
「もうそれ、便利な逃げ道にしてないか?」
「……否定はしない」
お兄さんは吹き出した。
*
【王国・王都・ゲイバー「オアシス」三号店・開店準備】
二号店の運営が安定すると、さらに出店の要望が届いた。
お兄さんは三号店の計画書を前に、深々とため息をついた。
「……俺、いつから飲食店チェーンの経営者になったんだ?」
エリゴスが資料を広げる。
「二号店の運営実績を確認した。仕入れの効率は改善している。人員配置にも余裕がある。三号店を開設しても、適切に責任者を配置すれば運営できる見込みだ」
「もう三号店まで考えてたのか」
「二号店を出した時点で、次の段階を検討する必要があると考えていた」
「……本当に商売のことを考えるようになったんだな」
「私は学んでいるのだ」
「そこはもう分かったよ」
三号店の開設にあたって、エリゴスは本店と二号店の責任者たちを集めた。
「各店舗の状況を報告してほしい。問題があれば改善案も出してくれ」
「本店は夕方から夜にかけて混雑が続いています。厨房の人員を増やせば対応できると思います」
「二号店は魔界からの団体客が増えています。予約の管理を改善した方がよさそうです」
「分かった。それぞれの案を検討しよう。三号店の開店準備と並行して、既存店舗の負担が増えないよう調整する」
以前のエリゴスなら、自分の計画を示して全員に従わせていただろう。
今は現場の意見を聞き、それぞれの事情を踏まえて計画を修正していた。
お兄さんは満足そうに頷いた。
「……変わったもんだな」
「何か言ったか?」
「いや。なんでもねえよ」
三号店も、ルシファーからの資金援助を受けて開店することになった。
開店当日、店の前には長い列ができていた。
新しい店舗は広く、厨房の設備も整っている。従業員たちは事前に訓練を重ねており、注文や料理の提供も滞りなく進んでいた。
エリゴスは三号店の責任者に声をかけた。
「何か問題はあるか?」
「今のところありません。注文の流れも予定どおりです」
「よし。問題が発生したら、現場の状況を確認してから対応してくれ。判断に迷う場合は、本店と二号店にも情報を共有しよう」
「分かりました」
エリゴスは店内を見渡した。
人間と魔物が同じテーブルで食事を楽しみ、酒を飲み、笑い合っている。
かつて彼が目指していたのは、魔界の力を地上に示し、武力によって支配することだった。
しかし、今目の前にある光景は、誰かを従わせることとは違っていた。
互いに立場や種族が違っていても、同じ場所で食事をし、会話を交わすことができる。
そのためには、命令や威圧ではなく、相手を理解し、環境を整えることが必要だった。
「……なるほど」
エリゴスは小さく呟いた。
「秩序とは、ただ従わせることではないのかもしれんな」
その言葉を聞いたお兄さんは、意外そうに彼を見た。
「おっ。今のはちょっといいこと言ったんじゃねえか?」
「当然だ。私は――」
「軍神って言うなよ!」
エリゴスは口を閉じた。
「……私は、少しずつ学んでいるところだ」
お兄さんは満足そうに笑った。
「よし。今のは合格だ」
*
【王国・ゲイバー「オアシス」本店】
その日の夕方。
アスタロトとベリアルは、改装された店内で再びヤンデレたちと茶を飲んでいた。
店内は賑わっている。カウンターでは王国の人間が酒を飲み、テーブルでは魔界から来た魔物たちが料理を囲んでいた。
お兄さんは忙しそうに働きながらも、どこか満足げだった。
「……まさか、三店舗まで増えるとはな」
アスタロトが頷く。
「エリゴス殿の指揮能力が、店舗運営にも活用されたようですね」
「ええ。従業員の配置や仕入れの管理など、彼の得意分野が生かされています」
ベリアルも同意した。
「もちろん、現場の意見を聞くことも覚えたようです。以前なら、すべて自分の命令で動かそうとしていたでしょう」
お兄さんはカウンターの向こうで、エリゴスを指さした。
「エリゴス! お前の教育はまだまだ続くからな!」
「私はもう十分に学んでいる!」
「お客様の前で言い返すな!」
「……失礼した」
魔導が扇子を広げて笑った。
「まあ♡ 軍神様も、ずいぶんと丸くなられましたわね」
科学が資料を閉じる。
「軍事指揮と接客業では、求められる能力が違います。エリゴスは、ようやくその違いを理解し始めたところでしょう」
「そうですね」
アスタロトが頷いた。
「優れた能力を持っていても、それをどこで、どのように使うべきかを理解しなければ、周囲に迷惑をかけることもある。今回の件は、その好例かもしれません」
ベリアルは茶を口に運んだ。
「戦場で勝つことと、社会の中で信頼を得ることは違います。エリゴス殿には、これからも学んでいただきましょう」
その傍らで、リリムは黙って茶を飲んでいた。
軍神と呼ばれた上位悪魔が敗北し、魔王の命令でゲイバーの従業員になった。
しかも、彼の指揮能力が店の運営に生かされ、オアシスは本店だけでなく二号店、三号店まで展開することになった。
あまりにも予想外の結末だった。
(……魔界の軍神が、まさか接客業をすることになるなんて……)
リリムは静かに茶をすすった。
以前、自分の作戦のためにアスタロトとベリアルへ土下座して頼み込んだことも、今となっては遠い出来事のように思える。
余計なことを口にすれば、過去の失敗まで話題にされるかもしれない。
リリムは、黙っていることにした。
そのとき、エリゴスが新しい客のもとへ向かった。
「いらっしゃいませ。ご注文をお伺いします」
客は彼の顔を見て、驚いたように声を上げた。
「本当に軍神エリゴスなのか!?」
エリゴスは一瞬だけ顔をしかめた。
だが、すぐに姿勢を正す。
「はい。現在はこちらで働いております。ご注文はいかがなさいますか?」
客は呆気に取られた後、笑い出した。
「ははは! まさか軍神に注文を聞いてもらえるとはな!」
「……ご注文をお決めになってから、お呼びください」
「おい、エリゴス! また軍隊みたいな言い方になってるぞ!」
お兄さんの声が飛んだ。
「……失礼しました!」
エリゴスは慌てて頭を下げた。
店内に笑い声が広がった。
アスタロトとベリアルも、思わず笑みを浮かべる。
「……なかなか興味深い結末になりましたね」
アスタロトが言った。
「ええ。軍神が常識を学び直すためにゲイバーで働き、その結果、店が三店舗にまで増えて繁盛するとは」
ベリアルはカップを置いた。
「戦場では得られない経験を、ここで積んでいるのでしょう」
お兄さんは忙しく動き回りながら、声を張った。
「ほら、みんな! まだまだ客が来るぞ! 今日は大忙しだ!」
エリゴスはカウンターから顔を上げた。
「承知した!」
「声がでかい!」
「……はい」
また笑い声が起きた。
店内では、王国の人間も魔界の魔物も、同じように酒を飲み、料理を楽しみ、笑い合っていた。
かつて魔界を武力で支配し、地上侵攻を実行しようとした軍神は、今では人々が安心して集まれる場所を支える側になっていた。
その変化を支えたのは、戦場での勝利でも、誰かを従わせる命令でもなかった。
他人の話を聞くこと。
周囲と協力すること。
自分の能力を、誰かのために正しく使うこと。
エリゴスは今日もエプロンを身につけ、客の注文を聞いていた。
魔界を変えると豪語した軍神は、まず一軒の店で、他人と協力して働くことから学び直すことになった。
そして、その結果、オアシスは王国と魔界をつなぐ溜まり場となり、本店、二号店、三号店へと広がっていったのだった。




