ヤンデレたちと魔界コンビのお茶会
# 番外編――オアシスのお茶会と、軍神エリゴスの奇襲
【王国・ゲイバー「オアシス」】
その日のオアシスでは、アスタロトとベリアルがヤンデレたちと茶を飲みながら、各地の情勢について情報交換をしていた。
アスタロトは知性的な三十代半ばの男性。ベリアルも鍛えられた体躯をスーツで包んだ、威厳のある美丈夫だった。
テーブルには、店主のお兄さんが用意した茶菓子が並んでいる。
アスタロトは小さな焼き菓子をひとつ手に取り、紅茶に添えていた。
「この菓子は、甘さが上品でいいですね。紅茶にもよく合います」
「アスタロトは甘いものがお好きなのですね」
科学が尋ねた。
「ええ。頭を使った後には、適度な糖分が必要ですから」
アスタロトはごく自然に答え、もうひとつ焼き菓子を取った。
その隣で、ベリアルは茶菓子にはほとんど手をつけず、店主が出した辛味の強い料理を口にしていた。
「ベリアル様は、そちらがお好みですの?」
魔導が扇子を揺らしながら尋ねた。
「ええ。私は辛いものが好きでしてね。味に輪郭がある方が好みです」
「なるほど。甘党と辛党で、きれいに分かれましたね」
監視特化が二人を見比べた。
「好みまで情報として記録する必要はありませんよ」
ベリアルが言った。
「いえ、会話のきっかけとしては有用です」
アスタロトは真面目な顔で答えた。
「では、アスタロト様は甘いものを、ベリアル様は辛いものを用意すれば、交渉の席でも機嫌よく話していただけるということですわね♡」
リリムが身を乗り出した。
「交渉相手を懐柔する方法としては、否定しませんが……」
ベリアルは少し考えた。
「好物を出されたからといって、こちらの判断まで甘くなるわけではありません」
「まあ。では、ご主人様の好物を用意すれば、主人公様も私たちのお願いを聞いてくださるのではありませんこと?」
魔導が楽しげに言った。
「ご主人様が喜ぶものなら、私は何でも用意しますわ♡ お屋敷をお菓子で埋め尽くすことだってできますのよ」
「屋敷を埋め尽くす必要はありません」
アスタロトが即座に突っ込んだ。
「食べきれませんし、生活空間が失われます」
「では、食べきれる量を毎日お届けしますわ♡」
「量の問題ではないのですが……」
ベリアルは額に手を当てた。
「主人公殿が望んでいるかどうかを、先に確認してください」
「ご主人様が遠慮なさっているだけかもしれませんわ♡」
「本人が望んでいない可能性を、都合よく遠慮と解釈しないでください」
アスタロトの冷静な指摘に、魔導は扇子の陰で微笑んだ。
「ふふふ……お二人は、まだ主人公様の愛の深さをご存じないのですわね♡」
「いえ、今の会話だけで、十分に警戒すべき深さだと理解できました」
ベリアルが答えた。
一同の間に、微妙な沈黙が流れた。
「……さて。そろそろ本題に入りましょう」
アスタロトは資料をテーブルの中央に置いた。
「魔族側では、天使軍の次の侵攻先をどのように予測していますか?」
科学が資料を眺めながら尋ねた。
「軍の配置と補給線から考えれば、候補地は絞れます。ただし、敵がその補給線を本当に使っているとは限りません」
アスタロトは、差し出された資料に目を通した。
監視特化が頷く。
「その通りです。情報が正確であっても、相手が意図的に見せている情報なら、そこから導く結論は誤る可能性があります」
「情報の正確性と、情報を見せる側の意図は別に考える必要があるわけですね」
アスタロトは素直に資料を見直した。
「魔族の諜報網は情報収集に優れていますが、敵の分析を誘導するという観点では、まだ改善の余地がありそうです」
ベリアルも感心したように頷いた。
魔導が扇子を振る。
「天使軍が本気で攻めてくるなら、最初から主人公様の屋敷を狙うはずですわ♡ そこを狙わない時点で、まだ様子見なのでしょうね」
「……なぜ、天使軍の侵攻先が主人公殿の屋敷になることを前提にしているのですか?」
ベリアルが尋ねた。
「だって、ご主人様のいる場所こそ、最も重要な場所ですもの♡」
魔導は一切迷わず答えた。
「軍事的な重要性と、あなた個人にとっての重要性を混同しないでください」
「ご主人様にとって重要な場所なら、世界にとっても重要ですわ♡」
「その論法で世界の戦略を組み立てるのはやめてください」
アスタロトが淡々と突っ込んだ。
「ですが、敵が主人公様の屋敷を狙う可能性を考慮するのは合理的ですわ」
潜入特化が静かに続けた。
「敵がこちらの中心人物を狙うのは、戦略として十分にあり得ます。重要なのは、その可能性を願望と切り離して評価することです」
「その視点は、こちらにはありませんでした」
アスタロトは真剣に頷いた。
「補給線を断つより、物資そのものをすり替える方が効率的な場合もあります」
科学が薬学を見る。
「成分の変更なら可能ですよね?」
「物資の種類にもよりますが、可能ですわ」
薬学は微笑んだ。
「ご主人様のお食事に、栄養を補う薬を混ぜることもできますわね♡ 健康管理は大切ですもの」
「本人の同意なく食事に薬を混ぜるのは、健康管理ではなく危険行為です」
ベリアルがすぐさま指摘した。
「毒ではありませんわ。ご主人様のためのものですもの♡」
「善意であっても、本人に知らせず摂取させてよい理由にはなりません」
薬学は少し考え、首を傾げた。
「……では、効能を説明してからにしましょうか」
「最初からそうしてください」
アスタロトは深く息を吐いた。
潜入特化も口を開く。
「ただし、すり替えたことを悟らせない方が効果的です。敵に被害を与えるだけでなく、何が起きたのか分からないという疑念を残せますから」
「なるほど。相手の判断そのものを狂わせるわけですね」
アスタロトは感心したように頷いた。
森羅万象が静かに付け加える。
「補給路そのものを別の場所へ移してしまえば、探す必要もなくなりますが」
「……地形や空間そのものを変える話は、いったん別枠で考えましょう」
ベリアルは真顔だった。
「通常の軍事理論では対応できませんから」
「それはそうですね」
科学も同意した。
「ご主人様のお部屋も、別の空間に移してしまえば、誰にも邪魔されず二人きりになれますわね♡」
魔導がうっとりと呟いた。
「今の議論を、どうしてそういう方向へ応用するのですか」
ベリアルが即座に反応した。
「しかも、主人公殿の意思はどこへ行ったのです?」
アスタロトも続ける。
「ご主人様も、きっとお喜びになりますわ♡」
「その『きっと』を根拠に計画を実行しないでください」
「では、事前にお尋ねしますわ。『私と二人きりになりたいですか?』と♡」
「答えを誘導するような聞き方も避けてください」
「お二人とも、主人公様に対しては慎重すぎますわね」
リリムが呆れたように口を挟んだ。
「慎重であるべき相手だからです」
ベリアルとアスタロトの声が、またも重なった。
その後も、魔族側の軍事情報とヤンデレたちの経験が交わされていった。
その傍らでは、リリムが黙って茶を飲んでいた。
以前、自分の作戦のためにベリアルとアスタロトへ土下座したことを思い出す。二人がいかに優秀なのか、今さらながら実感していた。
(……あの二人、嫌々協力していたはずなのに、情報操作は完璧でしたわね)
もっとも、あの作戦が失敗した原因は情報操作ではなく、開封する相手を確認しなかった自分にある。
そこを思い出すと、リリムはそっと視線を茶碗へ落とした。
店内には、王国の人間だけでなく、魔界から訪れた魔物たちの姿もあった。
角を生やした悪魔がカウンターで酒を傾け、鱗に覆われた魔族が料理を頬張る。人間と魔物が同じテーブルで笑い合う光景も、今では珍しくなくなっていた。
「ここの料理、魔界じゃなかなか食べられない味なんだよな」
「酒もいい。こっちの酒場は気楽でいいな」
「人間も魔族も関係なく飲める。余計な争いを起こさずに済むのが一番だ」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
店主のお兄さんは、グラスを磨きながら満足げに笑った。
「難しい話は俺には分からないけどさ。みんな仲良く飲んでくれるなら何よりだよ」
そのとき、店の扉が開いた。
入ってきたのは、黒い軍装に身を包んだ男だった。冷徹な眼差しの背後には、武装した魔族たちが続いている。
男は店内を見渡し、アスタロトとベリアルを見つけると薄く笑った。
「ようやく見つけたぞ。アスタロト、ベリアル」
ベリアルはカップを置いた。
「……エリゴスですか」
男の名はエリゴス。
魔界でも名の知れた上位悪魔であり、軍勢の指揮にかけては並ぶ者が少ないとされる将だった。
「久しぶりだな、ベリアル。かつて国家の重鎮として軍を率いたお前が、今では酒場で茶会とは。ずいぶん落ちぶれたものだ」
「茶を飲むことが、落ちぶれることになるのですか?」
「口だけは昔と変わらんな」
エリゴスは鼻で笑った。
「私は戦場で勝利を積み重ねてきた。敵の陣形を崩し、補給路を断ち、指揮官を孤立させる。数で勝る敵であろうと、指揮系統を失えば烏合の衆だ」
彼は自信に満ちた表情で続けた。
「敵がこちらの動きを察知した時には、すでに退路を塞いでいる。援軍を呼べば、その道を断つ。守りを固めれば、守る価値のあるものを先に奪う。私の軍に正面から勝てる者はいない」
背後の兵士たちが誇らしげに胸を張った。
アスタロトとベリアルは、特に反論せず話を聞いていた。
「それで、本日は何のご用でしょうか?」
アスタロトが静かに尋ねる。
「決まっている。お前たちを排除しに来た」
エリゴスは二人を見据えた。
「アスタロト、お前の情報網は厄介だ。ベリアル、お前の軍事知識と人脈も邪魔になる。地上で勢力を広げる前に、ここで始末する」
「政治的な判断というわけですか」
ベリアルは穏やかに頷いた。
「しかし、ここは酒場です。話し合いで済ませる気はありませんか?」
「降伏するなら命だけは助けてやろう」
「お断りします」
アスタロトは即答した。
エリゴスは鼻を鳴らし、店内のヤンデレたちへ視線を移した。
「それにしても、ずいぶん奇妙な連中とつるんでいるものだな。主人公とやらに執着し、周囲を巻き込んでは騒ぎを起こす連中だろう」
魔導は扇子を閉じたまま微笑んでいる。科学は資料から顔を上げず、薬学は茶を飲んでいた。森羅万象に至っては、エリゴスの評価など気にも留めていない。
反応がないことを侮蔑と受け取ったのか、エリゴスは口元を歪めた。
「ルシファーでさえ、今ではこいつらを面倒な連中として扱っているそうだな。面倒事を避ける腰抜けが魔界の王とは、笑わせてくれる」
二人は黙って彼を見つめていた。
怒りも反論もない。
ただ、話の行き着く先を見定めているようだった。
エリゴスは、その沈黙さえ自分の言葉に圧倒された証拠だと思い込んだ。
「私は今の魔界を変える。ルシファーを排除し、魔界を本来あるべき姿へ導くのだ。弱腰の支配者に代わり、強者が秩序を取り戻す。地上を征服し、魔界の力を人間にも天使にも思い知らせてやる!」
背後の兵士たちが一斉に叫んだ。
「エリゴス様に栄光あれ!」
「魔界に新たな秩序を!」
エリゴスは満足げに頷いた。
しばらく沈黙が続いた後、ベリアルが不思議そうに首を傾げた。
「……それで、なぜそんなことをしなければならないのですか?」
エリゴスの表情が止まった。
「何?」
「ルシファー様を排除し、魔界の支配権を奪い、地上へ侵攻する。その必要性が、私にはよく分かりません」
アスタロトも淡々と続けた。
「魔界の威信を取り戻すためだ! 弱腰の支配者を退け、魔族が強者であることを示す!」
「威信を取り戻すために、地上へ侵攻するのですか?」
「そうだ!」
「地上を征服すれば、魔界の問題は解決するのでしょうか?」
「当然だ! 資源も領土も手に入る!」
アスタロトは質問を重ねた。
「そのために必要な兵力、補給、占領地の統治、反乱への対処については、どのようにお考えですか?」
「そんなものは、勝利した後に考えればいい!」
ベリアルは小さく息を吐いた。
「……なるほど」
「何がなるほどだ!」
「魔界を正しく導くとおっしゃるので、具体的な統治構想をお持ちなのかと思ったのです。ですが、お話を伺う限り、ルシファー様を排除することと地上を征服することが目的になっているようですね」
「貴様……!」
エリゴスの顔が赤くなった。
アスタロトは資料を閉じた。
「魔界を変えるのであれば、現状を分析し、改善策を示し、実現するための手段を整えるべきです。支配者を排除して地上へ攻め込むことが、なぜ魔界の利益になるのか。その説明がありません」
「黙れ! 情報を集めるだけのお前に、何が分かる!」
「情報を集めるだけ、ですか」
アスタロトは表情を変えなかった。
「それなら、あなたの計画には情報に基づいた判断が欠けていると言わざるを得ませんね」
ベリアルは静かにカップを置いた。
「エリゴス殿。あなたの軍事的能力は認めています。しかし、戦争に勝つことと、戦争を起こすべきか判断することは別です」
「私の判断に口を出すな!」
「あなたが魔界全体を巻き込むとおっしゃるからです」
ベリアルの声から、穏やかさが消えた。
「あなたの野心に、魔界の民を付き合わせる理由はありません」
エリゴスは剣の柄に手をかけた。
「もういい! 私がルシファーを倒し、魔界の新たな支配者となる。その後で地上侵攻を実行すれば、すべて証明される!」
アスタロトは小さく首を振った。
「話し合いでは、これ以上進展しそうにありませんね」
「ええ」
ベリアルが立ち上がる。
「あなたの計画に賛同するつもりはありません。ここは酒場です。店主に迷惑をかける前に、場所を変えましょう」
エリゴスは二人を睨みつけた。
「いいだろう。外で思い知らせてやる。私の軍事力を前にすれば、その余裕も消える!」
お兄さんがカウンターから声を張った。
「おいおい、俺の店で物騒な話をするなよ!」
ベリアルは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけします。少々、外で話をつけてまいります」
「話をつけるって、お前……」
アスタロトも席を立つ。
「店内を荒らすつもりはありません。すぐに戻ります」
二人は落ち着いた足取りで店の外へ向かった。
ヤンデレたちも後に続く。
ベリアルはヤンデレたちに静かに告げた。
「これは魔界の問題です。後始末も我々の責任ですから、今回は私とアスタロトだけで対処します。皆さんは手を出さずにお待ちください」
リリムは黙って茶を置いた。
(……相手が悪すぎますわね)
*
【ゲイバー「オアシス」前・大通り】
オアシスの前には、エリゴスの率いる魔族軍が展開していた。
その数、三千。
弓兵が後方を固め、重装兵が中央に陣取る。左右には機動力に優れた部隊が配置され、退路を断つための包囲網まで敷かれていた。
エリゴスは戦場を見渡し、迷いなく命令を下した。
「第一隊、前進。敵の退路を塞げ。第二隊は左右から包囲。弓兵は射線を確保しろ。第三隊は後方で待機。敵が突破を試みた瞬間に叩け!」
命令が伝わると、兵士たちは寸分の狂いもなく動いた。
前衛が敵の注意を引く間に側面部隊が回り込み、弓兵は味方を巻き込まない位置へ移動する。重装兵は突破を防ぐ壁となり、予備兵力は戦況の変化に備えて待機した。
単なる数の暴力ではない。
敵の選択肢を一つずつ奪い、最後には敗北以外の道を残さない。エリゴスの戦術は、数多くの戦場を経験した指揮官ならではのものだった。
「見事な陣形ですね」
アスタロトは敵陣を眺めながら、静かに呟いた。
「各部隊の役割が明確で、指揮系統も整理されています。三千という兵力を、よくここまで統率したものです」
「感心している場合ですか!」
エリゴスが声を張り上げた。
「貴様らはこの軍勢を前にして、まだ余裕でいられるのか!」
ベリアルは穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ。あなたの指揮能力は認めていますよ。ですが、兵を三千集め、整然と動かすことと、その三千を勝利へ導くことは別の話です」
「何だと?」
「あなたは自分の軍がどれほど優秀かを説明しました。しかし、私たちがどれほどの相手なのかは、まだ理解していないようですね」
エリゴスの顔が険しくなった。
「ならば、その身をもって知るがいい! 全軍、攻撃開始!」
三千の魔族軍が一斉に動いた。
「射撃開始!」
弓兵の放った矢が、空を覆うほどの勢いで二人へと降り注ぐ。
しかし、アスタロトは避けようともしなかった。
「まずは、射線を封じましょうか」
彼が指先を軽く動かす。
その瞬間、飛来していた矢が次々と空中で停止した。
一本や二本ではない。
数百本に及ぶ矢が、二人の頭上で静止していた。
「な……!?」
弓兵たちが動揺する。
アスタロトは止まった矢を一瞥した。
「射撃の精度は悪くありません。しかし、標的に届かなければ意味がありませんね」
指先がわずかに動いた。
矢は一斉に反転し、弓兵たちの足元へと突き刺さった。
誰一人として傷つけることなく、射撃部隊の前進だけを封じる。
「弓兵、後退! 魔法障壁を展開しろ!」
エリゴスの命令が飛ぶ。
だが、その命令が伝わるより早く、ベリアルが動いていた。
彼は敵軍の中央へ向かって歩き出した。
「さて。次は、こちらから参りましょう」
「たった一人で中央へ突っ込むつもりか!?」
エリゴスが叫ぶ。
「重装兵、迎撃しろ! 左右の部隊は包囲を維持! 決して中央を空けるな!」
重装兵が盾を構え、壁のように立ちはだかった。
その後方では槍兵が一斉に構えを取り、ベリアルの進路を塞ぐ。
通常の戦士なら、突破するだけでも容易ではない陣形だった。
ベリアルは足を止めた。
「正面から受け止める。悪くない選択です」
そして、微笑んだ。
「ですが、正面から受け止められる相手かどうかを考えるべきでしたね」
次の瞬間、ベリアルの姿が消えた。
「どこへ――」
重装兵の一人が声を上げた瞬間、盾が宙を舞った。
ベリアルは盾と盾のわずかな隙間を縫うように進み、兵士たちの武器だけを正確に弾き飛ばしていた。
一人の手首を打ち、別の兵士の膝裏を蹴り、さらに後方の槍を受け流して、その持ち主を前方へ転ばせる。
一撃ごとに、敵の戦力が削られていく。
力任せに叩き潰しているのではない。
敵の重心、武器の長さ、踏み込みの癖。そのすべてを見極め、最小限の動きで最大限の結果を引き出していた。
重装兵の壁が、内側から崩れていく。
「馬鹿な! 隊列を維持しろ! 密集陣形を崩すな!」
エリゴスの命令が響く。
だが、密集すればするほど、倒れた兵士が味方の動きを妨げる。ベリアルはその混乱を見逃さなかった。
彼は最後の盾を弾き飛ばすと、中央部隊の背後へ抜けた。
「これで中央は通れますね」
その声に、エリゴスが歯を食いしばった。
「左右の部隊、挟撃しろ! 中央を突破した敵を包囲しろ!」
命令に応じ、左右の部隊が一斉に動き出す。
だが、アスタロトはすでに次の手を打っていた。
「やはり、そう動きますか」
彼は戦場全体を見渡していた。
敵軍の配置。伝令の走る経路。各部隊が命令を受け取るまでの時間。そして、指揮官が戦況を把握するために必要な間隔。
それらを短時間で読み取り、戦場の構造を把握していた。
「エリゴス殿。あなたの軍は、よく訓練されています。ですが、命令を正確に実行することに重点を置きすぎていますね」
「何を言っている!」
「中央からの指示がなければ、左右の部隊は独自に判断できない。後方の予備兵力も、前方の状況を確認してからでなければ動けない。つまり、あなたが戦況を把握し、命令を下すまでの時間が、そのまま軍全体の遅れになるのです」
アスタロトが手を掲げた。
戦場の空気が変わった。
敵軍の頭上に、淡い光が幾筋も走る。
それは攻撃のための魔法ではなかった。
伝令の経路、魔力による通信、指揮官同士の連絡。その流れだけを正確に捉え、妨害するための術式だった。
「通信が……途絶えただと!?」
各部隊から困惑の声が上がる。
伝令が走り出そうとするが、彼らが頼りにしていた経路には、すでにアスタロトの術式が展開されていた。
道を塞いだわけではない。
伝令そのものを傷つけたわけでもない。
ただ、情報が必要な場所へ、必要なタイミングで届かなくなったのだ。
「右翼、状況を報告しろ!」
エリゴスが叫ぶ。
返答はない。
「左翼はどうなっている! 中央の指示に従え!」
左翼の兵士たちは命令を受け取ったものの、中央で何が起きているのか分からず、前進すべきか後退すべきか判断できずにいた。
一方、右翼は中央からの指示を待ち続けている。
三千の兵士は、依然として高い戦闘能力を保っていた。
だが、戦場全体を一つの仕組みとして動かすための連携が、失われ始めていた。
「これは……!」
エリゴスの表情が変わった。
「通信を妨害したのか!」
「ええ。あなたの軍の強みを、少しだけ使いにくくさせていただきました」
アスタロトは淡々と答えた。
「ご安心ください。兵士たちの能力を奪ったわけではありません。指揮官としてのあなたが、彼らをどう動かすのか。それを見せていただいているだけです」
「ふざけるな!」
エリゴスは剣を抜いた。
「ならば、私自身が貴様を倒す!」
彼はアスタロトへ向かって駆け出した。
だが、その前にベリアルが立ちはだかった。
「おや。こちらをお忘れですか?」
エリゴスの剣が唸る。
一撃目は鋭い横薙ぎ。
二撃目は、相手の回避先を狙った突き。
三撃目は、体勢を崩した敵を仕留めるための斬り下ろし。
どの動きにも無駄がない。
軍神と呼ばれるだけの剣技だった。
しかし、ベリアルはそのすべてを見切っていた。
剣の軌道を半歩ずらしてかわし、突きを手元へ誘導して受け流す。斬り下ろしに合わせて懐へ入り、手首を押さえて剣の向きを逸らした。
「くっ!」
エリゴスは即座に体勢を立て直し、蹴りを放つ。
ベリアルはそれを腕で受け止め、相手の重心が移動した瞬間に足を払った。
エリゴスの身体が傾く。
「まだだ!」
彼は空中で体勢を整え、着地と同時に剣を振るった。
だが、ベリアルはすでに間合いの外へ退いていた。
「見事な剣技です。基礎も応用も、よく鍛えられている」
ベリアルは静かに言った。
「戦場で多くの敵将を討ち取ってきたのでしょう。ですが――」
彼の目から、笑みが消えた。
「私もまた、幾度となく戦場を渡り歩いてきた身です」
次の瞬間、ベリアルが踏み込んだ。
エリゴスは剣を構えた。
しかし、その剣が振り下ろされるよりも早く、ベリアルの手が柄を押さえていた。
刃の向きを逸らし、肘を制し、足元を崩す。
エリゴスは抵抗したが、動きのすべてを封じられていた。
「なっ……!」
ベリアルはそのまま腕を取り、地面へ投げ落とした。
轟音が響く。
エリゴスはすぐさま立ち上がろうとしたが、喉元にはすでにベリアルの剣が突きつけられていた。
「これ以上は、おやめなさい」
「……っ!」
エリゴスは歯を食いしばった。
だが、まだ敗北を認めるつもりはなかった。
「私を倒したところで、軍は残っている! 三千の兵を相手に、二人だけで何ができる!」
その言葉に、ベリアルは静かに視線を上げた。
戦場では、アスタロトが次々と指示を出していた。
「中央部隊は武器を置きなさい。抵抗を続ける必要はありません」
彼の声が、魔法によって戦場全体へと響き渡る。
「あなた方の指揮系統はすでに機能していません。これ以上戦闘を続けても、部隊同士の連携は回復しないでしょう」
兵士たちは互いの顔を見合わせた。
指揮官からの命令は届かない。
部隊間の連絡も取れない。
その一方で、敵は自分たちの動きを正確に把握し、必要な場所へ必要な手を打ってくる。
しかも、敵の数はたった二人。
中央ではベリアルが重装兵の壁を突破し、エリゴス本人を制圧している。
兵士たちの間に、動揺が広がった。
「武器を捨てろ! これ以上は無意味だ!」
一人の部隊長が叫んだ。
その声をきっかけに、兵士たちは次々と武器を下ろし始めた。
抵抗を続けていた部隊も、周囲が戦闘を停止したことで動きを止める。
やがて、三千の魔族軍は完全に戦闘能力を失った。
アスタロトは術式を解除した。
「通信妨害を終了します。これで各部隊への連絡も回復するでしょう」
彼はベリアルのもとへ歩み寄った。
「お疲れさまでした、ベリアル」
「いえ。あなたが指揮系統を崩してくれたおかげです。あの軍勢を正面から相手にするより、ずっと楽でしたよ」
「役割分担が適切だっただけです」
アスタロトは、地面に押さえつけられたエリゴスを見下ろした。
「さて。三千の兵を率いる指揮官として、あなたは非常に優秀でした」
「……何だと?」
「部隊の配置、役割分担、命令の伝達。どれもよく練られていました。通常の軍隊を相手にするなら、あなたの戦術は大きな成果を上げたでしょう」
アスタロトは一度言葉を切った。
「しかし、あなたは自分の戦術が通用しない相手を想定していなかった」
ベリアルが続けた。
「そして、三千の兵がいれば二人に勝てると考えた。兵の数と、戦場を支配する能力を混同したのです」
エリゴスは唇を噛んだ。
「私は……軍神だぞ」
「ええ。軍を率いる能力は確かにあります」
ベリアルは剣を収めた。
「ですが、優れた指揮官であることと、あらゆる相手に勝てることは同じではありません」
エリゴスは周囲を見渡した。
三千の兵は武器を捨て、戦闘を停止している。
自分が誇った軍は、兵士一人ひとりの力を失ったわけではない。
ただ、二人の敵によって、軍として機能するための仕組みを崩されたのだ。
そして自分自身も、剣技でベリアルに及ばなかった。
「……馬鹿な。私の軍が……この私が……」
アスタロトは淡々と告げた。
「戦闘は終了しました。これ以上の抵抗は無意味です。まずは武器を捨てた兵士たちの安全を確保し、その後、あなたには今回の侵攻について説明していただきます」
「私に命令するな……!」
「命令ではありません。現状の説明です」
「ぐっ……!」
ベリアルはため息をついた。
「あなたが最初からこちらの力量を正しく見積もっていれば、三千の兵を危険にさらす必要もなかったのですがね」
エリゴスは答えられなかった。
三千の軍を率いてオアシスを制圧する。
その作戦は、始まる前から破綻していたわけではない。
軍の編成も、戦術も、指揮能力も、決して低くはなかった。
ただ、相手が悪かった。
戦場を読むアスタロトと、戦場を渡り歩いてきたベリアル。
この二人を相手にするには、エリゴスの軍はあまりにも常識的な軍隊だった。
大通りには、戦闘の終わりを告げる静寂が戻っていた。
三千の兵は降伏し、軍神エリゴスは捕らえられた。
そして、オアシスの前に残ったのは、傷一つ負わずに勝利を収めた二人の悪魔だった。




