ケルビムVSエンジェル 最下級天使の逆襲1
## 智天使ケルビム戦――序盤〜エンジェルの逆襲
### 【神羅万象の疑似フィールド・天界模擬戦場】
空が幾重にも重なり、地平線には白銀の神殿がそびえていた。足元に広がるのは、天界の紋様を刻んだ巨大な円形陣。
天使軍の侵攻を想定した、精巧な模擬戦場だった。
神羅万象が空間を構築し、魔導が術式を補強。科学が物理法則を調整し、薬学が生体反応や消耗を再現した。
四人の共同制作による、天使軍の能力を測定するための疑似フィールド。
その中央に、智天使ケルビムが降り立った。
四つの顔と無数の瞳を持つ上位天使は、静かに周囲を見渡す。
「……なるほど。物理法則、魔力の流れ、生体反応、空間座標。実在する世界と遜色ない。下位天使が単独で構築できる規模ではないな」
ケルビムの背後に、無数の光輪が出現した。
それぞれが異なる時間軸を映し出す。数秒後の未来、数分後の未来、敵が行動を起こす前の過去、そして選択されなかった可能性。
すべての情報が、無数の瞳へ流れ込んでいく。
「……解析完了」
彼女は空中に指を走らせた。地形図が光となって浮かび上がる。
「神羅万象による空間構築。魔導による術式補助。科学による法則調整。薬学による生体反応の制御……。科学特化、監視特化、潜入特化。そして最下級天使エンジェル。配置、能力構造、連携手順、精神状態。すべて把握した」
ケルビムは口元をわずかに緩めた。
「だが、ひとつ間違えている。私を測定するための空間を作ったところで、その空間ごと解析されることに変わりはない」
次の瞬間、ケルビムの姿が消えた。
移動の過程が認識から抜け落ち、移動したという結果だけが確定する。
直後、遠方の岩山が爆発した。
内部に隠されていた観測装置が、すべて破壊されていた。
「……っ!」
科学が端末を見下ろす。
「移動速度が測定できない!? いや、移動そのものが記録されていない! 座標の変化だけが発生している……!」
「違うわ!」
監視特化がカメラ映像を切り替えた。
「記録されていないんじゃない! 全カメラの映像が、移動直前のものに書き換えられている!」
彼女は記録媒体を切り離した。
だが、外部媒体の映像まで次々と改ざんされていく。
「そんな……!」
ケルビムの声が、戦場全体から響いた。
「記録という行為が発生した時点で、その情報経路を解析できる。お前が何を見て、何を記録し、何を見落としたか。それらすべてが私の情報となる」
監視特化の背後に白い光が走った。
振り返る間もなく、光の刃がカメラ群を薙ぎ払う。
彼女は転がって直撃を避けたが、肩をかすめた光が装備を消し飛ばした。
「カメラだけじゃない……記録装置のあった場所まで攻撃してきた!?」
「お前が装置を配置する未来を読み、その座標へ攻撃を重ねただけだ」
ケルビムは、すでに目の前に立っていた。
「次に逃げる方向も見えている」
拳が振るわれる。
監視特化は身をひねったものの、衝撃波だけで吹き飛ばされた。地面を何度も跳ね、岩盤を陥没させてようやく停止する。
「監視特化、応答して!」
科学が叫ぶ。
だが、ケルビムの手が動いた瞬間、科学の無効化フィールドが内側から崩れ始めた。
「なっ……!?」
端末上で数式が書き換わり、安定化させた回路が逆方向に電流を流す。
「外部からの干渉じゃない! フィールドの内部構造そのものが変わってる!」
「お前の能力は、対象の法則を解析し、無効化すること。ならば、その成立条件を先に解析すればいい」
「だったら、条件を変えれば――!」
科学が緊急再設定を実行する。
フィールドが変形し、ケルビムの足元に光の輪が広がった。彼女の周囲で魔力の流れが乱れる。
「……入った!」
しかし、四つの顔が一斉に科学を向いた。
「その変更を実行する前に、お前が新しい構造を採用する可能性を計算した」
光の輪が反転する。
無効化フィールドが科学自身の装備へ収束した。
「しまっ――!」
爆発。
端末が砕け、科学の身体が地面に叩きつけられる。眼鏡に亀裂が走った。
それでも彼女は、血のにじむ指で残された端末をつかむ。
「解析速度が想定の三倍以上……。違う、こっちが解析する前から、解析結果を前提に動いてる……!」
「理解が遅いな」
ケルビムは見下ろした。
「私が見ているのは現在だけではない。お前たちが次に選ぶ行動、その思考、選択しなかった場合の分岐まで含めた可能性の集合だ」
指を鳴らすと、科学の周囲に光の槍が出現した。
左へ転がれば、その先に二本目。右へ跳べば三本目。防御フィールドを展開すれば、その位置に四本目。
どの選択肢にも、攻撃が待ち構えていた。
「選択肢が……ない……!」
科学は最後の瞬間に地面を殴り、足元に穴を開けた。
光の槍が頭上を通過する。
辛うじて直撃を免れたが、ケルビムは表情一つ変えなかった。
「地形を利用した回避。成功率は低いが、可能性は残っていた」
手を下ろす。
地面の穴が突然閉じ、科学の身体を挟み込んだ。
「次はない」
そのとき、戦場の影が揺れた。
潜入特化が動いたのだ。
彼女はケルビムの光の経路を複数箇所で封鎖し、空間の裏側に仕込んだ術式を起動させた。
「……配置完了ですわ」
狙いは、未来予測そのものを破ることではない。移動や攻撃に使う経路を限定し、仲間が動ける時間を作ることだった。
「ここですわ!」
潜入特化が影から飛び出す。
封鎖術式が一斉に起動し、光の経路が遮断された。
だが、暗幕の内側からケルビムの声が響く。
「よく考えた。だが、お前は私の移動経路を封鎖したつもりで、私が移動する必要のある経路だけを選んでいた」
暗幕の中で、無数の瞳が開いた。
「私は、移動する必要がない」
潜入特化の足元に光の紋様が浮かぶ。
封鎖したはずの術式が、彼女の位置を示す標識に変わっていた。
「なっ……!?」
空間が折り畳まれ、逃げ道が消えていく。
光の帯が足首に巻きつき、彼女の身体を空中へ引き上げた。
「捕捉完了」
「まだですわ!」
潜入特化は身体を回転させ、隠し持っていた短剣を投げる。
刃はケルビムの頬へ向かった。
だが、届かない。
短剣が到達する未来そのものが別の分岐へ押し流され、軌道を変えて空中を通り過ぎた。
「攻撃の軌道まで……!」
ケルビムが手を握る。
光の帯が収縮し、潜入特化を地面へ叩きつけた。周囲の地面に亀裂が走る。
「潜入特化、応答してください!」
科学の声が通信に割り込んだ。
「……応答可能ですわ……。ですが、仕掛けがすべて逆利用されています……!」
ケルビムは戦場の中央へ戻った。
科学、監視特化、潜入特化。三人とも満身創痍だった。
「勝率は、すでに算出済みだ」
四つの顔が、同時に彼女たちを見下ろす。
「どれほど連携しようと、私の解析は超えられない。残る最下級天使エンジェルも同様だ」
その名を聞き、エンジェルはバインダーを抱きしめた。
「……私も、計算に入っているんですね」
「当然だ」
ケルビムの無数の瞳が、バインダーを見据える。
「記録を取るタイミング、思考の変化、報酬系が発火する条件、主人公への依存度、怒りを覚える記憶。すべて把握している」
彼女は淡々と続けた。
「そのバインダーは、お前の強みであると同時に弱点だ。記録を取るために行動し、完成させるために危険を冒す。そこを突けば、お前の行動は容易に誘導できる」
「……」
エンジェルはバインダーを握りしめた。
「お前の戦闘能力では、私に傷ひとつつけられない。科学の無効化も、監視の記録も、潜入の奇襲も、すべて解析済みだ」
ケルビムの背後に巨大な光輪が展開する。
天を覆う光輪から、無数の光の刃が生まれた。それぞれが異なる未来を狙い、逃げ道を塞いでいく。
「ここで終わりだ」
光の刃が一斉に降り注いだ。
科学は残された無効化フィールドを展開する。
監視特化は、カメラの残骸から最後の記録装置を起動する。
潜入特化は、拘束された身体をひねり、光の帯に仕込んだ術式を逆流させようとした。
だが、抵抗はほぼ同時に潰された。
科学のフィールドは展開直後に崩壊。監視特化の装置は記録を保存する前に貫かれ、潜入特化の術式はケルビムの制御下へ取り込まれた。
三人の身体が、戦場の各所へ叩きつけられる。
それでも、エンジェルだけは立っていた。
バインダーを盾のように掲げ、光の刃を受け止める。
一撃、二撃、三撃。
甲高い音が響き、衝撃が腕から肩へ突き抜けた。
「……っ、ぐ……!」
膝が折れかける。
それでも、エンジェルはバインダーを手放さなかった。
「……覚えてますか、ケルビム」
掠れた声が戦場に響く。
「私が最初に地上へ降りたとき。新聞の押し売り扱いされたこと。扉を何度も閉められたこと。信者候補だの妹分だのと、勝手に枠に嵌められたこと」
ケルビムは無表情で答えた。
「下位の記録は、すべて把握済みだ」
「そうですか……。じゃあ、これも覚えていますね」
エンジェルの目に怒りが宿る。
「アークエンジェルが星にされた件。プリンシパリティがゲームの売却不可ボスにされた件。パワー軍団が朝の腰振りで全滅した件。ヴァーチュズが清楚なメイド服で帰還した件。そして、ドミニオンズが指揮系統を乱された件も」
「当然だ。すべて把握している」
「……なのに、止めてくれなかったんですか?」
エンジェルの声が震えた。
「上位の方々が勝手に降下して、勝手に弄ばれて、後始末は全部私! ミカエル様が止めてくれたのに、あなたが煽って、また動かした……!」
肩を光の刃がかすめ、血が飛び散る。
それでもエンジェルは倒れなかった。
「失敗の記録も、被害の記録も、上位の方々の失態まで、ずっと私が報告書にまとめてきたんです……!」
バインダーを抱きしめる。
改造された表紙が、淡く光った。
「あなたは、私の記録をすべて把握していると言いましたね」
「そうだ」
「なら、どうして分からないんですか?」
エンジェルは顔を上げた。
「記録することと、記録に従うことは違うんです!」
彼女はバインダーを開いた。
「あなたは、私が何を記録し、何を思い出し、何に怒るかまで計算した。でも――」
エンジェルの声が強くなる。
「私が、その記録をどう使うかまでは、まだ決めていません!」
その瞬間、戦場の各所で小さな光が灯った。
科学が倒れたまま、砕けた端末を握りしめる。
「……データリンク、最終接続……。エンジェル、今よ……!」
監視特化も、カメラの残骸から指を動かした。
「記録経路……一本だけ残しましたわ……。公式記録用の回線に接続……!」
潜入特化は拘束されたまま、口元を歪める。
「封鎖術式……一箇所だけ残っていますわ。そこを閉じます……!」
ケルビムの足元で、わずかに光が揺らいだ。
「……なるほど。最初から、この連携を準備していたのか」
「いいえ」
エンジェルは首を横に振った。
「準備したのは神羅万象たち。私は、それを記録していただけです」
バインダーのページが、ひとりでにめくれていく。
「科学が作った無効化フィールドの残存データ。監視が保存した戦闘記録。潜入が封鎖した光の経路。そして、神羅万象がこの疑似フィールドに仕込んだ世界の維持機構」
彼女はページを指さした。
「全部、ここに記録されています」
ケルビムの無数の瞳が、初めてバインダーを凝視した。
「……その記録を、どうするつもりだ」
エンジェルは、ページの中央に記された一文に指を置いた。
そこには、主人公がかつて呟いた言葉があった。
『普通に飯を食って、普通に寝たいだけなのに……』
「ご主人様の意思を、執行します」
エンジェルは宣言した。
「これは私の勝手な願いではありません。ご主人様が望んだ、当たり前の生活です」
バインダーが強烈な光を放った。
魔導が仕込んだ具現化の術式が起動する。
科学の解析データが構造を補強し、監視の記録がケルビムの行動を確定する。潜入の封鎖術式が光の経路を一点だけ閉ざし、神羅万象の維持機構がすべてをひとつの現象として成立させた。
「――公式記録、確定!」
エンジェルがバインダーを掲げる。
「この戦場において、ご主人様の意思に反する行動を、私は認めません!」
世界が鳴動した。
ケルビムの光輪が軌道を乱し、降り注いでいた光の刃が空中で停止する。
「……何?」
ケルビムは即座に解析を開始した。
フィールドの構造。術式の干渉経路。科学の残存データ。監視の記録。潜入の封鎖術式。
すべて把握できるはずだった。
それなのに。
「なぜ、成立している……?」
その声に、初めて明確な困惑が混じった。
「新しい能力じゃありません。私たちが持っているものを、繋いだだけです」
エンジェルは答えた。
「あなたは、ひとつひとつの能力を解析した。私たちの行動も連携も予測した。でも、私たちが敗北したあとに残すものまで、無価値だと判断したんです」
彼女は血のにじむ手で、バインダーを握り直す。
「記録は、負けたあとにも残るんです!」
光が反転した。
ケルビムの光輪の一部が、バインダーのページへ吸い込まれていく。未来の分岐を映していた瞳のいくつかが、一瞬だけ閉じた。
「私の解析が……遮断されている?」
「完全に止めたわけじゃない!」
科学が地面に倒れたまま叫ぶ。
「あなたの解析能力を無効化する出力はない! でも、複数の情報経路を同時に処理させることはできる……!」
監視特化も苦痛に顔を歪めながら笑った。
「あなたが記録を改ざんするなら、改ざんされた事実まで記録する。どの映像を消しても、別の経路に残るようにしてありますわ!」
潜入特化が続ける。
「そして、情報が流れる経路を一瞬だけ固定する。あなたがどの未来を選んでも、そこを通らざるを得ないように!」
ケルビムは、ようやく理解した。
「……私の行動を予測したのではない。私が予測し続けること自体を、利用したのか」
「はい!」
エンジェルは、涙と血で汚れた顔のまま笑った。
「あなたが、私たちを完全に解析できると信じていること。その自信まで、記録させてもらいました!」
光輪の回転が鈍る。
ほんの一瞬。
智天使ケルビムの絶対的な情報優位が崩れた。
科学が最後のデータを送信する。
監視特化が記録経路を固定する。
潜入特化が最後の封鎖術式を起動する。
そしてエンジェルは、バインダーの最後のページに一文を書き込んだ。
『智天使ケルビム、初めて解析に遅延を発生させる』
書き終えた瞬間、ページが白く輝いた。
ケルビムの足元で光の紋様が砕け散る。
「……っ!」
彼女は初めて、一歩後退した。
頬を細い光の欠片がかすめる。
傷と呼ぶには、あまりにも小さい。
だが、それは確かに――ケルビムへ届いた攻撃の痕跡だった。
エンジェルは息を切らしながら、バインダーを抱きしめた。
「記録しましたよ、ケルビム」
震える声で告げる。
「あなたに、一矢報いた瞬間を」
ケルビムは頬に触れ、指先についた光の欠片を見つめた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
四つの顔から表情が消えた。
「……面白い」
空が再び白く染まる。
先ほどとは比較にならない数の光輪が、ケルビムの背後に展開した。
「下位の連携が、私の解析に遅延を生じさせた。記録を利用し、予測そのものを攪乱した……」
無数の瞳が一斉に開く。
「ならば、次は連携が成立する前に、すべてを破壊する」
光輪が戦場全体を覆い尽くした。
エンジェルは膝をつきながらも、バインダーを閉じなかった。
科学も、監視特化も、潜入特化も、満身創痍の身体を起こそうとしている。
彼女たちは、まだ勝っていない。
ケルビムの圧倒的な力も、ほとんど損なわれていない。
それでも、天界の叡智に初めて疑念を刻み込んだ。
それだけは、確かな事実だった。




