反撃の狼煙
# ――偽りの世界、そして迎撃準備
【疑似世界・主人公の屋敷・地下作戦室】
天使軍が制圧した世界には、静寂が広がっていた。
勝利したはずだった。
地上の兵士たちは倒れ、抵抗していたヤンデレたちは拘束されている。天使軍にとって、あとは主人公を連れ帰るだけのはずだった。
だが、ドミニオンズは足元の兵士を見下ろし、眉をひそめた。
「……おかしいですね」
兵士の身体には傷がある。鎧もへこみ、地面には争った跡が残っている。
それなのに、何かが噛み合わない。
「ケルビム。どう思います?」
「戦闘記録と、目の前の光景に齟齬があります。負傷した兵士の反応も不自然です」
「つまり?」
スローンズが促す。
ケルビムは答える代わりに、兵士の肩へ手を伸ばした。
その瞬間。
兵士の腕が、砂のように崩れた。
「……っ!」
ケルビムが手を引く。
腕から肩へ、肩から胴体へ。兵士の身体は音もなく崩れ、鎧も武器も、地面に落ちる前に消えていった。
そこには何も残らなかった。
「全軍、警戒を!」
ドミニオンズが命じた直後、離れた場所から悲鳴が上がった。
いや、悲鳴ではない。
拘束していたヤンデレたちの姿が、次々と揺らいでいたのだ。
魔導も、科学も、薬学も、格闘特化も、森羅万象も。
彼女たちの輪郭が透け、身体の一部が消えていく。
「ちょっと待ちなさいよ……!」
魔導が叫んだ。
その声さえ、途中で途切れた。
次の瞬間、世界に亀裂が走った。
大地が剥がれ、空が割れる。建物も、地面も、天使たちが立っている場所さえ、足元から崩れていく。
亀裂の向こうにあったのは、別の景色ではなかった。
ただ、果てのない暗闇。
「セラフィム!」
ドミニオンズの声に応え、セラフィムが聖炎を放つ。
炎が空間を焼き、崩壊する亀裂を呑み込んだ。
だが、炎の先にも何もなかった。
焼き尽くすべき敵も、破壊すべき世界も存在しない。
セラフィムは、ゆっくりと腕を下ろした。
「……何も、ない?」
その呟きに、誰も答えられなかった。
ケルビムが周囲を見渡す。先ほどまで戦っていた兵士も、拘束したヤンデレたちも、もうどこにもいない。
「我々が侵攻していた世界は、実在する世界を模倣した疑似世界だったのでしょう」
「では、我々が制圧したという戦場は……」
ドミニオンズの言葉が止まる。
認めたくないのだろう。
自分たちが確かに勝利したと信じていた。その判断に疑いを挟む余地などなかった。
それなのに。
「最初から、我々を観察するために用意された舞台だったということか」
スローンズが低く呟いた。
「戦闘能力だけではありません。判断の速さ、連携、対応の優先順位……すべてを測られていた可能性があります」
ケルビムの言葉に、ドミニオンズは唇を引き結んだ。
セラフィムは暗闇を睨んだ。
「敵の本拠地は別にある。ここでの勝利は、何の決着にもなっていなかったのですね」
誰も否定できなかった。
天使軍は確かに戦い、確かに勝った。
だが、その勝利を見届ける者すら、敵が用意したものだったのかもしれない。
「……撤収します。これ以上、情報のない場所に留まる意味はありません」
ドミニオンズの命令に、天使たちは従った。
彼女たちはまだ知らない。
自分たちが何を見せられ、何を記録されたのか。
そして、相手が次の戦いに向けて、すでに動き始めていることも。
【現実世界・主人公の屋敷・地下作戦室】
「……ふふっ」
薄暗い作戦室に、監視特化の笑い声が響いた。
壁一面のモニターには、崩壊する疑似世界と、戸惑う天使軍の姿が映し出されている。
「いい顔ね。特にドミニオンズ。命令を出すまでの一瞬、完全に判断が止まっていたわ」
監視特化は映像を巻き戻し、問題の場面を再生した。
「ここ。ケルビムが異常を見つけてから、ドミニオンズが全軍に警戒を命じるまで。ほんのわずかな時間だけど、次はここを突けるかもしれない」
「記録します!」
隣から、勢いよく声が飛んだ。
エンジェルがバインダーを抱え、ものすごい速さでペンを走らせている。
「天使軍、疑似世界の崩壊を確認! ドミニオンズ、警戒命令を発令! ケルビム、戦闘記録との齟齬を分析! スローンズ、疑似世界の正体について言及! セラフィム、聖炎による空間攻撃を実行!」
「……あなた、映像を見ながら全部書いているの?」
「もちろんです! ご主人様に関わる出来事ですから!」
「今回は主人公、ほとんど出ていないけど」
「ご主人様が救出対象に指定されている以上、関係大ありです!」
監視特化は一瞬だけ口を開き、結局、何も言わずにモニターへ視線を戻した。
「……熱心なことで」
その向かいでは、科学が映像を止めていた。
「みんな、ちょっとこっちを見て」
画面には、四人の天使が並んでいる。
「今回、分かったことは多いわ。ドミニオンズは能力を発動する条件を制限する。ケルビムは戦況を分析して、対応を最適化する。スローンズは行動を封じ、セラフィムはその隙に圧倒的な火力を叩き込む」
「四人が揃うと、正面から突破するのは厄介ですわね」
魔導が腕を組んだ。
「一人ずつなら対処できる場面もあります。でも、こちらが一つの能力に対応した瞬間、残りの三人が穴を埋めてくる。あれが一番面倒ですわ」
「つまり、連携を崩す必要がある」
科学が頷いた。
「ただ強い攻撃をぶつけても、ケルビムに読まれて、ドミニオンズに条件を潰されて、スローンズに動きを止められる。最後にセラフィムの炎が飛んでくる。順番に対処していたら間に合わない」
「うわ。改めて聞くと、性格の悪い連中だな」
格闘特化が顔をしかめた。
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
魔導が微笑む。
「褒めてねえよ」
「でも、弱点がないわけじゃない」
薬学が資料を机に置いた。
「戦闘が長引けば、こちらにも観察と分析の時間が生まれます。今回の戦闘記録から、消耗の傾向も見えてきました。少なくとも、何も分からないまま戦うよりはずっといい」
「疑似世界の構築にも改善の余地があるわね」
森羅万象は、画面に映る崩壊の瞬間を見つめていた。
「今回は、彼女たちに勝ったと思わせるところまではできました。でも、世界が崩れ始めてからは、こちらが仕込んだ現象を見せただけ。天使軍が何を信じ、どこで疑い、どんな選択をするのか……そこまでは、まだ利用しきれていません」
「次も同じことをするのか?」
格闘特化が尋ねた。
「同じでは意味がありません。次は、彼女たちが自分の判断で正しいと思った行動を取るほど、こちらに有利になる舞台を作ります」
「……お前、敵に回したくねえな」
「敵ではありませんから」
森羅万象は、いつもの穏やかな顔で答えた。
「少なくとも、今は」
「その言い方、ちょっと怖いんだけど」
科学がぼそりと呟いた。
小さな笑いが起きた。
ほんの一瞬だけ、作戦室の空気が緩む。
だが、モニターに映る暗闇を見れば、誰も気を抜いてはいられなかった。
今回の戦いは、あくまで前哨戦だ。
そして、天使軍が再び攻めてくることも分かっている。
「……相手の出方は分かった」
それまで黙っていた主人公が、椅子から立ち上がった。
全員が彼を見る。
主人公はモニターに映る天使たちを見つめていた。
「向こうは、俺を救出するつもりで攻めてきている。俺が自分の意思でここにいることも、こっちが何を望んでいるのかも、聞く気はないんだろうな」
「ご主人様……」
魔導の表情から、さっきまでの笑みが消えた。
主人公は肩をすくめる。
「まあ、向こうにも向こうの正義があるんだろうさ。でも、だからって、勝手に人の人生を決められるのはごめんだ」
誰も口を挟まなかった。
主人公は、モニターから視線を外さずに続けた。
主人公は、椅子から立ち上がった。
「……で、次はどうするんだ?」
科学が顔を上げる。
「天使軍の動きを分析して、迎撃の準備を進める。向こうも、そう簡単には諦めないでしょうね」
「だよなあ……」
主人公はモニターに映る天使たちを眺め、ため息をついた。
「俺を助けに来たって言うけど、本人の意思は聞かないんだな」
「ご主人様……」
「いや、助けるって言うなら、まず話くらい聞いてくれてもいいだろ。こっちは別に、困って助けを待ってるわけじゃないんだし」
主人公は頭をかいた。
「それに、せっかくこっちで落ち着いて暮らしてるのに、勝手に攻め込まれて、仲間まで巻き込まれるのは困る」
魔導が、嬉しそうに身を乗り出す。
「つまり、ご主人様はわたくしたちとの生活を守るために――」
「いや、そこまで大げさな話じゃない」
主人公は即座に否定した。
「ただ、向こうがまた来るなら、こっちも対策しないといけないだろ。逃げ回るのも面倒だし、毎回好き勝手されるのも困る」
「……それだけですか?」
魔導が少しだけ不満そうに尋ねる。
「それだけだよ」
主人公は肩をすくめた。
「俺は普通に飯を食って、寝て、ここで暮らしていたいんだ。天使だろうが何だろうが、それを邪魔するなら止める。それでいいだろ」
一瞬、作戦室が静かになった。
やがて科学が小さく頷く。
「分かった。じゃあ、次はこっちから迎撃の条件を整える。敵の戦場に付き合う必要はないわ」
「頼む」
主人公は再びモニターを見た。
「向こうの言い分が何だろうと、こっちの話を聞く気がないなら、まずは止めるしかないからな」
「はい、ご主人様♡ わたくしたちも全力でお手伝いしますわ!」
「おう。……だから、準備を頼むな」
主人公がそう言うと、魔導は満面の笑みを浮かべた。
「お任せくださいませ♡」
「その笑顔、ちょっと不安なんだけど……」
「ひどいですわ、ご主人様♡」
作戦室に小さな笑いが広がった。
科学はさっそく作業を割り振り、森羅万象は戦場の構築に取りかかる。薬学は消耗への対策を整理し、格闘特化は訓練の準備を始めた。
主人公も椅子に座り直し、モニターを見ながら言った。
「さて。次はどうやって追い返してやるかな」
その声には、気負った決意も、大げさな覚悟もなかった。
ただ、自分たちの暮らしに土足で踏み込んでくる相手を、今度こそ放っておくつもりがない。それだけだった。




