【第三十九・五話】 第三個体
※本話では、昆虫型生物の一次研究として、外部構造の分離や解剖工程をそれなりに詳しく描写しています。
流血などの強い表現はありませんが、生物の構造や解剖描写が苦手な方には少々厳しい内容かもしれません。
本話を飛ばして第40話へ進んでいただいても、物語の進行には問題ありません。
二体目の一次研究も、一体目と同様に進められていき、マスターは対象の外部構造を確認すると、各部の可動範囲と操作時の反応を順に記録し、解剖槽を展開して内部構造の確認へ移った。
作業台の周囲では、操作に応じて取得された情報が順次追加され、一体目の記録との照合が進められていき、やがて必要な確認がすべて終わると、マスターは最後に残った部位を保存容器へ収めた。
『二体の一次研究データを確認しました。必要な情報は過不足なく収集されました。なお、比較精度の向上を目的として、別個体を用いて外部構造各部の確認、必要部位の分離、背側からの開放、および消化管の確認までの工程を実施してください』
そのアナウンスを聞いたアリアは、表示面に示された二体分の研究結果を確認した。
「え? 情報量としては問題ないのよね?」
『はい。現在取得されている情報のみで、自動化工程へ移行する上で大きな問題はありません』
「じゃあ、やらなくてもいいんじゃないの?」
『比較精度の向上には、異なる人格個体による直接操作データが有効です。現在、一次研究へ参加可能な人格個体が三体確認されているため、三体目の操作データ取得を推奨します』
アリアの動きが止まり、わずかに遅れて顔だけがマスターへ向いた。
「データとして有効なら、やればいい」
その言葉を聞くと、顔の向きはそのままに、視線だけをゆっくりとセバスチャンへ向けた。
「……必要なのであれば、取得しておいた方がよろしいかと存じます」
アリアの無言の問いに、マスターとセバスチャンから続けて答えが返され、しばらく沈黙が続いた。
やがて、少し離れた場所にある未使用の作業台の表示面が起動し、対象となる個体の情報と一次研究の工程が表示された。
『表示された工程に従い、三体目の一次研究を実施してください』
アリアは首だけをそちらへ向け、表示面に一次研究の工程が表示されていることを確認すると、短く息を吐き、そのまま身体の向きを変えて作業台へ歩き始めた。
作業台へ到着したアリアは表示面から作業開始を確定し、ほどなくして対象となる個体が運ばれて作業台での準備が整うと、表示面に示された工程を確認した。
作業台に載せられた個体へ視線を落としたアリアは、手のひらを広げた幅をはるかに超えるその身体へ両手を伸ばし、片手で胴体を保持してもう片方の手で片側の翅をつまむと、破損させないようゆっくりと外側へ広げていく。
そのまま基部の可動範囲を確認するように無理なく動く範囲で数度往復させたあと、胴体を保持していた手を離し、空いた手で翅の後縁側に折り畳まれていた膜状部をつまんで外側へ広げると、折り重なっていた部分が扇状に展開し、広い翼面を形作った。
「小型のものなら翅を使って飛び回る種類もいるけど、この大きさじゃ、滑空できればいいところね」
そう言うと、広げた片側の翅を固定して反対側へ手を移し、同じ手順でもう一枚の翅を広げ、左右の翅を完全に展開した状態を保持しながら、全体の形状と展開範囲を記録した。
『翅の可動範囲および展開形状の確認を完了しました。続いて、翅を基部から分離してください』
アリアは固定具を外すと、基部が見えやすいよう翅の角度を変えて接続部へ鋏を差し込み、翅をわずかに戻すと、少しずつ切り進めていく。
切り進めるたび、膜状の部分では軽く、硬化した部分へ差しかかると一段強い抵抗へと変わり、その変化が鋏を握る指から手のひらへと細かく広がっていく。
やがて最後の接続部が切れると、それまで基部に支えられていた翅の重さが保持していた手へと移り、ほんのわずかに指へ力が入ると、手袋越しに翅脈の起伏と、その間に張られた膜のわずかな硬さの違いが指先へ広がった。
アリアはここまでの工程を止まることなく滑らかに進め、切り離した翅を保存容器へ収めると、表示面へ視線を向けた。
一次研究のために調整された知覚では、意識を向けていない接触からも可能な限り情報が拾い上げられ、その重さや翅脈の起伏、膜のわずかな硬さが、翅から手を離したあとも感覚として残っていた。
「……作業する分には、情報が多い方が楽なんだけど。やっぱりこの設定は好きになれないわね」
『翅の分離を確認しました。続いて、触角および脚部の外部構造と可動範囲を確認した後、それぞれを基部から分離してください』
「とりあえず、次は触角を分離してから脚ね」
アリアはそう言うと、手に向けていた視線を作業台へ戻し、次の工程を進めていく。
翅と同様に触角の可動範囲と形状を確認したあと、手際よく二本とも基部から分離して保存容器へ移し、使用していた器具をいったん収納部へ戻すと、個体の両側へ手を添え、身体を返して腹側を上へ向けた。
胸部の腹面には三対の脚が並び、それぞれ太い基部から複数の節を介して先端へ向かって細く伸び、脛部には複数の棘が列を作り、その先はさらに細かな節へ分かれて末端の爪へと続いていた。
アリアは一本の脚を持ち上げ、各関節を順に動かしながら、可動範囲と先端まで続く形状を確認していく。
その途中、脛部に並ぶ棘が防液具の表面を捉えると、脚はその場へ軽く張り付くように止まった。アリアは脚の基部をしっかりと保持し、折らないよう角度をわずかに戻しながら、引っかかった棘をそっと外した。
改めて脚の動きを確認し終えると再び鋏を取り、基部へ刃を入れ、接続部の厚みと抵抗を手に感じながら少しずつ切り進めていく。残る五本についても同じ手順で確認と分離を進め、やがて脚をすべて分離し終えると、腹部の腹面がそれまでより見えやすくなり、腹板が後端へ向かって節ごとに並んでいた。
そのうち七枚目は前方のものよりやや大きく、後縁を広げるような形でその奥に続く腹板を覆っており、腹端の左右には一対の尾角が伸びている。
「これね、こいつにもしっかりついてる。この星のは大きいから、すぐ分かるわ。後ろから近づいても、空気の動きを拾ってすぐ気づくのよ。ほんと、逃げることに関してはよくできてるわ」
アリアはそれを軽く動かして形状と可動範囲を確認し、周囲の形状から、事前に判別されていた雌雄に誤りがないことを確かめた。
外部構造の確認と分離工程を終えたところで、アリアは一度手を止め、作業台に残る個体を見下ろしながら短く息を吐く。
「この星の虫は、本当に無駄に大きいわよね。外殻を分離するだけで一仕事よ」
「そうおっしゃる割には、ずいぶんと手際よく進めておられますね」
「それは、どこの星へ行ってもこいつらは必ずと言っていいほどいるもの。嫌でも慣れるわ」
アリアは保存容器へ収めた部位と、作業台に残る個体を見比べるように視線を動かし、作業台で視線を止めた。
「……さすがに、ここまで大きいのはそうそういなかったけど」
会話が途切れ、少しすると、表示面に示されていた工程が次へ切り替わった。
『外部構造各部の確認を完了しました。続いて、背側からの開放工程へ移行してください』
アリアは一度両肩を軽く回し、個体の両側へ手を添えてそっと持ち上げ、背側を上にし、頭部側と腹端側に固定具を取り付けて手を離すと、解剖槽が展開された。
器具収納部からメスを取り出すと、身体の側面寄りへ刃を当てて切り進めていく。
膜を押し分ける柔らかな抵抗が柄を通して指先へ伝わり、その厚みと硬さを確かめるように、内部を傷つけない程度まで力を調節しながら刃先を滑らせていく。刃が通ったあとには、厚みのある布地を切り開くように、切れ目が刃先を追って滑らかに開いていった。
片側を切り終えると、反対側も同じ要領で切り進め、左右の切開を終えたところで一度メスを離し、刃先を洗浄して付着物を落とすと、状態を確認して背側の中央へ刃を当て、身体を左右に分ける位置に沿って浅い切断線を入れていく。
外殻は一様な厚みではなく、薄くしなる場所と硬化した場所があり、その表面には刃先だけが拾う微細な起伏があった。刃を進めるたび、場所ごとに異なる硬さに合わせて力を微調整する指先へ、わずかなざらつきが細かく伝わっていく。
中央の切断線を付け終えると、指先へ伝わる微細な違いに合わせて刃に掛ける力をわずかに変えながら、今度はその線を横切る位置にも刃を当て、背側を四つに分けて取り外せるよう切断線を作っていった。
十字に切断線を入れ終えると、アリアはメスを収納部へ戻して鋏へ持ち替え、まず身体の中央を縦に、続いてそれを横切るように先ほど付けた線へ沿って切り進め、背板を四枚に切り分けた。
使い終えた鋏を収納部へ戻して新しいメスを取り出すと、四つに分かれた背板の一枚へ指を掛けてゆっくりと持ち上げ、内側に残った筋組織や膜状の部分がところどころで張るたび、その箇所へ刃先を入れて順に切り離していく。
刃先を入れて筋組織や膜状の部分を切り離していくにつれ、背板を引き留めていた張りは少しずつ弱まり、その変化が背板を保持する指先へ細かく伝わっていく。
そのまま少しずつ背板を持ち上げながら残る部分を切り離し、完全に分離すると保存容器へ収め、残る三枚も同じ手順で取り外して最後の背板まで収めると、開かれた体内には白っぽい脂肪体が広く露出していた。
『背側外殻の分離および脂肪体の露出を確認しました。脂肪体を除去し、消化管を露出させてください』
「さてっ、あとはこの工程だけね」
アリアは使っていたメスを解剖槽脇の保持部へ預けると、白く広がる脂肪体の大きなまとまりへ指を差し入れてわずかに持ち上げ、もう片方の手でその縁へ指先を沿わせていった。
柔らかな組織の抵抗を確かめながら少しずつ位置を変えて探っていき、その途中で周囲とは異なるわずかな張りが指先に触れると、アリアは持ち上げていた脂肪体を一度戻し、保持部からメスを手に取った。
刃先をその箇所へほんの少し入れると、柔らかな抵抗の中で、ごく短く何かを断ち切る感覚が指先へ伝わり、メスを一度保持部へ預け、さらに縁を探っては張りの残る箇所でメスを手に取り、同じように刃先を入れながら数か所の処理を終えた。
脂肪体を指先ですくい上げるように持ち上げて保存容器へ収めていくと、その下に隠れていた器官が少しずつ姿を現し始め、アリアは指二本分ほどの幅の小さなハケを取り出し、他の器官を傷つけないよう、残る脂肪体を脇へ避けていく。
ハケを動かすたびに白い脂肪体は少しずつ周囲へ退けられ、その下に隠れていた消化管がはっきりと姿を現すと、その位置と形状、つながりを順に確認していき、残っていた脂肪体まで避け終えたところで、ハケを解剖槽脇へ置いた。
『消化管の露出および確認を完了しました。第三個体による指定工程の完了、および比較データの取得を確認しました』
「……まさか、雌雄を入れ替えてもう一体、とか言わないわよね?」
『必要な比較データの取得に成功しています。追加の一次研究工程はございません。お疲れ様でした』




