第二十四話 大淡紅樹
浴衣に身を包んだ三人は、屋敷を出て町へ戻った。
町は、石灯籠の明かりをわずかに残したまま、来た時よりも暗く沈んで見えた。
見上げれば、町の上にはさらに深い天が広がり、露天で眺めていた氷天体が、先ほどよりも大きく浮かんでいる。
町外れの方角には、環を携えた巨大なガス惑星が、低くそびえるように浮かんでいた。
本来なら、同じ視界の中に、この距離感で並ぶはずのない二つの天体。
その光景は、実際の天ではなかった。
CUTBE内部の町区画に備えられた環境再現機能が、外部観測情報をもとに組み直したものだ。
セバスチャンは足を止め、わずかに視線を上げた。
「……なるほど」
その短い反応に、アリアはわずかに口元を緩めた。
セバスチャンは、しばらく視線を上げたまま答えた。
「先ほどのように露天から直接眺めるのも良いものでしたが、こうして町の上に浮かぶ惑星も、また違って見えますね」
「でしょ」
アリアは短くそう返した。
その声には、わずかに自慢げな響きが混じっていた。
マスターも一度だけ天球へ視線を上げたあと、屋敷を出てすぐの場所に立つ石柱へ目を落とした。
その表面には案内が刻まれ、文字の縁に淡い補助光が滲んでいた。
「しばらく眺めるなら、大淡紅樹の辺りがいい」
マスターがそう言うと、アリアも石柱の示す方角へ視線を向けた。
「そうね。この町なら、あそこが一番ね」
その先には、石灯籠の明かりが点々と続いている。
三人はその明かりを辿るように、石畳を歩き出した。
町は、氷天体の淡く冷たい光を受け、来た時とは違う空気を纏っていた。
淡い花びらがわずかに舞う中、屋根越しに現れる大淡紅樹は、視界に入るたび少しずつ大きくなっていった。
やがて建物の数も減り、開けた視界の先に、丘の上の大淡紅樹が全体を現した。
セバスチャンは足を緩め、丘の上に立つ大淡紅樹へ視線を向けた。
「ここから見える淡紅樹も、見事ですね」
「そうね。ここは、あれを見るための場所ね」
アリアは、近くに置かれたいくつかの床几へ少しだけ視線を向けた。
「でも今は、天球を見るための場所へ行くわよ」
「天球を見るため、ですか」
セバスチャンが丘の方へ視線を向ける。
「行けば分かる」
マスターは短くそう言って、歩みを進めた。
緩やかな坂を上がるにつれ、町の灯りは少しずつ遠ざかっていく。
やがて石畳は途切れ、足元が踏み固められた地面へと変わる頃には、道を示す石柱もなくなっていた。
坂を上がり切ると、開けた丘の先に大淡紅樹が立っていた。
セバスチャンは一度振り返り、町の上に浮かぶ氷天体へ視線を向けた。
「遮るものが少ない分、天球を眺めるには良い場所ですね」
「……思ったより、上手くいったわね」
アリアはそう言いながら、丘の上を軽く見回した。
大淡紅樹の幹から少し離れた場所に並ぶ床几の一つで、視線が止まる。
「とりあえず、一度座りましょうか」
そう促すように、その床几へ向かって歩き出した。
マスターとセバスチャンも、それに続いた。
三人は、露天で湯に浸かっていた時と同じように並び、床几へ腰を下ろした。
視線の高さが落ち着いたところで、セバスチャンは眼下の町へ目を向けた。
「……なるほど」
一呼吸置き、続ける。
「天球にばかり目を向けていましたが、町の灯りまで含めて、一つの眺めになっているのですね」
視線の先には、石灯籠の明かりが点々と続いていた。
近くで見れば、灯っていると分かる程度の淡い光だった。
だが丘の上から見下ろすと、それらは暗い町の中で、星の海のように広がっている。
少し視線を上げれば、氷天体と主惑星を浮かべた天があり、その淡い光の中で大淡紅樹の枝先がわずかに揺れていた。
「悪くない」
マスターが短く呟いた。
アリアはわずかに目を細める。
「もう少し言いようがあるんじゃない?」
「賞賛が必要だったか?」
「……やっぱり、いいわ」
アリアは軽く息を吐いた。
そのまま、しばらく言葉は途切れた。
三人の視線は、再び天球へ戻っていく。
やがて、氷天体の一角で、わずかな変化が起きた。
表面の裂け目から、白い筋が細く立ち上がる。
それは露天で見た時よりも小さな噴出だったが、その変化は町の上にも確かに現れていた。
噴出の輪郭だけが、天球の中で淡く縁取られている。
白い筋は細かな光の粒へとほどけ、ゆっくりと広がっていく。
しばらく淡く輝いた後、その粒は夜の町へ降ることもなく、天の奥へ溶けるように消えていった。
光が消えきったころ、セバスチャンがマスターへ視線を向けた。
「マスター。よろしければ、少し町を見て回ってもよろしいでしょうか」
アリアはセバスチャンへ視線を向けた。
「ここまで来たのに?」
「ええ。ここからの眺めも見事ですが、実際に歩けば、また別の見え方もあるかと」
アリアは、丘の下へ視線を向けた。
「……それもそうね」
そう言って、アリアも床几から立ち上がった。
「なら、私も少し歩いてこようかしら」
マスターは天球を見たまま、短く答えた。
「大きめの噴出が二度確認されたら、ここへ戻る。それまでは自由に見て回っていい」
「承知しました」
セバスチャンは一礼し、姿勢を正すと、丘を下る道へ向かった。
アリアは、それとは反対側へ歩き出す。
マスターはその場に残り、天球の変化へ視線を戻した。
丘の上からでも、町のすべてが見渡せるわけではなかった。
それでも、屋根の並びや石灯籠の淡い点、通りの曲がり方から、町の大まかな形は分かる。
少し離れた場所には、町の間を抜ける川筋が、夜の中に黒く細い線を引いていた。
アリアは、行き先を決めていたわけではない。
ただ、丘の上から目に入ったその暗い線へ、なんとなく足を向けた。
丘を降りきると、緩やかに曲がる道をゆっくりと進んでいく。
町は、氷天体の淡く冷たい光を薄く受けている。
石灯籠の明かりは控えめで、氷天体の冷たい光が、建物の輪郭を静かに浮かび上がらせていた。
丘の上から見えていた川筋へ向かうように、道には石柱が置かれている。
アリアはその案内に従い、急ぐでもなく歩いていった。
道は何度か緩やかに曲がり、やがて町並みが途切れる。
視界の先に、土手が現れた。
その傍には、淡紅樹の並木が続いている。
端を見通そうとしても、夜の奥へ溶けるように連なり、どこまで続いているのかは分からなかった。
町側の斜面には、石段が設けられていた。
アリアはその段を上がり、土手の上へ出る。
川は、静かに流れていた。
川面には天球の光が細く揺れ、氷天体の淡い色が流れにほどけながら映っている。
水面の穏やかな場所では、川沿いに並ぶ淡紅樹の色がかすかに揺れていた。
土手に沿って続く淡紅樹は、丘の上の大樹ほど大きくはない。
それでも、並んだ枝は空へ向かって広がり、薄紅の花をわずかに揺らしていた。
アリアは土手を少し歩き、やがて足を止め、川の流れをしばらく眺めていた。
それから土手沿いに視線を巡らせ、草の上へ腰を下ろすと、そのまま仰向けに寝転がった。
浴衣の袖が少し広がり、草の先がかすかに揺れた。
仰向けに寝転がると、視線は自然と天球へ向き、その中心に氷天体が収まっていた。
町の上に広がるそれは、露天で見た宙域そのものではない。
それでも、こうして見上げていると、遠い宙域にあるはずの氷天体を、すぐ近くで眺めているようにも感じられた。
わずかに視線をずらせば、土手沿いに続く淡紅樹の枝が入る。
薄紅の花は、天球の淡い光の中で静かに揺れていた。
角度を選べば、氷天体と淡紅樹を同じ視野に収めることもできる。
川の音は小さい。
天球にも、変化はなかった。
アリアは何も言わず、そのまま天球を見上げた。
氷天体は、淡紅樹の枝の向こうで、ただ静かに浮かんでいた。




