第二十五話 町に戻る朝
アリアは、土手の草の上に仰向けになったまま、しばらく天球を眺めていた。
川の音が小さく耳に届き、視界の端で淡紅樹の枝がゆるやかに揺れ、空には白い氷天体が静かに浮かんでいる。
「……これはこれで、悪くないのよね」
誰に聞かせるでもなく、アリアは小さく呟いた。
露天では、起きたことをそのまま見ていた。
ここでは、起きたことと、その先に起こることを、同じ景色として眺められる。
川の音が小さく続く中、しばらくのあいだ、空に大きな変化はなかった。
その静けさの中で、氷天体の一角が白く滲んだ。
亀裂に沿って広がった白い光は、しばらく形を保ったまま伸び、やがて細かな粒子の帯となって天球の中へ広がっていった。
町の空に、淡い輝きが散る。
薄紅の枝越しに見えるそれは、細かな氷の粒が空に漂っているようだった。
散った粒の多くは、薄い霧のように広がり、空の奥へ溶けていく。
だが、その一部は主惑星の方へ引かれるように伸び、細い尾となって流れていた。
「……ここも、悪くないわね」
アリアは、仰向けのままその空を眺めていた。
その頃、丘を下りたセバスチャンは、広い通りから外れ、少し細い道へ入っていく。
建物の間隔が狭まり、石畳を踏む硬い音が、近い壁の間で小さく重なる。
何度か角を曲がるうちに、道の先で建物の並びが途切れているのが見えてくる。
セバスチャンは次の角を曲がらず、その切れ目へ足を向けた。
近づくにつれて、細い道の先に広がる空間がはっきりしてくる。
セバスチャンはそこへ数歩入り、足を止める。
細い道の中では限られていた視界が大きく開け、石畳で整えられた広場の中央に、小さな櫓が立っていた。
セバスチャンはその広さを確かめるように、空を見上げた。
氷天体の表面から伸びていた白い噴出は、すでに勢いを失っていた。
細かな粒は天球の中へ淡く広がり、その多くは輪郭を失いながら薄れていく。
ただ、一部だけは消えきらず、尾を引いていた。
白い筋は氷天体の縁から離れ、低く浮かぶ主惑星へ向かって静かに伸びている。
セバスチャンは顎に手を添えたまま、しばらくその光景を眺めていた。
やがて手を下ろすと、広場の端からわずかに見える大淡紅樹の方へ足を向ける。
歩調は変わらず、時折、天球の変化を見上げる。
その足音は石畳に小さく響きながら、広場から離れていった。
土手では、アリアがなおも空を見ていた。
一度目の噴出から、さほど時間は経っていない。
空には、広がった粒子の名残がまだ薄く残っていた。
その多くはすでに輪郭を失い、一部だけが先ほどの尾に追従するように、主惑星の方へ淡く伸びている。
その残滓が天球の中へ薄れていく中で、氷天体の別の亀裂が、再び白く滲んだ。
今度も小さくはなかった。
白い筋は天球の中でゆっくりと伸び、先ほどの粒子帯とは別の流れを作っていく。
アリアはしばらくそれを見上げていたが、やがて小さく息を吐いた。
川の音が、小さく耳に戻ってくる。
流れる水面には、空に尾を引く粒の光が細く揺れていた。
「……これは、さっきの一回目とは別扱いにしないと駄目よね」
その声は、どこか不満げだった。
「間隔、早すぎないかしら」
そう言いながらも、アリアは草の上に手をつき、ゆっくりと身を起こした。
浴衣の袖についた草を軽く払い、アリアはもう一度だけ天球を見上げた。
天球には新たな粒子の光が薄く広がり、主惑星へ伸びる白い尾は、少しずつ長さと濃さを増している。
アリアはしばらく、その変化を見上げていた。
「……仕方ないわね。約束だし、戻りましょうか」
そう呟くと、アリアは土手を下り、大淡紅樹の丘へ向かって歩き出した。
マスターは一度目の噴出を見終えると、床几から立ち上がり、大淡紅樹の幹元へ向かった。
太い幹に背を預けるように腰を下ろすと、床几に座っていた時よりも低い視界の端へ、淡紅樹の薄紅色がわずかに入り込んだ。
その空をしばらく眺めていると、二度目の噴出で生じた粒子が、白く広がっていく。
薄紅の花びらが枝先からこぼれ、空に散る粒の光と重なりながら、視界を横切っていった。
ほどなく、丘を下りた時とは別の道から、セバスチャンが戻ってくる。
歩調は変わらず、普段通りの姿勢を保ったまま、大淡紅樹の下へ近づいてきた。
「ただいま戻りました」
「随分早かったな」
マスターは幹に背を預けたまま、空を眺めていた。
「二度目がいつになるかは分かりませんでしたので。一度目を確認した時点で、こちらへ戻ることにいたしました」
セバスチャンはマスターの視界を遮らない位置で足を止め、空に広がる粒子の流れをしばらく眺めていた。
「二度目のタイミングは、偶然でございます」
「そうか」
空では、二度目の噴出で生じた白い粒子が、先に伸びていた尾へ重なり、白い筋を太らせていた。
「噴出直後の実測値を基に、以降の変化を補完した表示なのですね」
「息抜きで眺めるには、これくらいでいい」
空では、重なった白い尾が主惑星の方へ伸びていく。
大淡紅樹の下で、二人はしばらくその変化を眺めていた。
やがて、土手の方からアリアが戻ってきた。
坂を上がり切ったところで、アリアは大淡紅樹の下にいる二人を見つける。
マスターは幹に背を預けたまま空を眺め、セバスチャンはその視界を遮らない位置に立っていた。
アリアは二人を交互に見る。
「戻るの、早いわね」
「二度目の噴出のタイミングで戻ってまいりましたので」
「たぶん、そういう意味で言ったんじゃないと思うんだけど」
アリアはマスターへ視線を向けた。
「それで、マスターは?」
「俺はここで見ていた」
マスターは幹に背を預けたまま答える。
「低い視野も、悪くない」
アリアは床几を見て、もう一度マスターを見る。
「……それでいいのね」
アリアは小さく息を吐き、空へ視線を向けた。
「二度目の噴出、ほとんど連続だったけれど、これからどうするの?」
「足りなければ、次を待てばいい」
「マスターがその淡紅樹の一部になるのと、次が来るのと、どちらが早いかしら」
「成長速度を考慮すれば、短期的には問題ないかと」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ」
アリアはそう言って、もう一度空へ視線を向けた。
「……でも、今回はこれくらいでいいわ。十分、堪能したもの」
アリアはそう言って、セバスチャンへ視線を向けた。
「あなたはどうなの?」
「私も、十分堪能いたしました」
セバスチャンが姿勢を崩さずに答えると、マスターは幹から背を離し、立ち上がった。
「それなら、服装を戻して、メインルームへ向かう」
三人は大淡紅樹の下を離れ、来た道を戻って丘を下りていく。
町の灯りを抜けて屋敷へ戻ると、三人は脱衣場で浴衣から元の服装へ戻し、屋敷を後にした。
屋敷を出た三人は、ここへ来た時の道をなぞるように町を戻っていく。
石畳の道を進む間も、天球には氷天体と主惑星が映し出されていた。
光の尾は、今も主惑星へ向かって流れ続けている。
やがて三人は、この区画を出る扉の前まで辿り着いた。
扉が開くと、アリアは後ろを振り返り、天球を見上げる。
少しだけ空を見てから、扉の先へ視線を戻した。
三人は町を後にし、装飾のない通路へ戻っていった。
通路の正面にある扉を抜けると、壁面に沿ってポッドが並ぶ部屋へ入った。
その中からメインルームへ向かう一基に乗り込むと、静かにこの階層を離れていった。
三人が離れた後、町区画は静けさを取り戻していた。
天球はいつもの空へと移り、暗い天は薄れていく。
町並みの上に朝の光が差し込むと、風が石畳の道を通り抜けた。
枝先に残っていた淡紅樹の花が、一斉に散り始める。
薄紅色の花びらは、誰もいない町の中を風に揺られ、踊っていた。




