第二十三話 氷天体に染まる露天
湯気は、隔離壁の向こうに広がる暗い宇宙へ溶けていくように見えた。
露天区画そのものは、完全な暗闇ではない。
足元の石や湯船の縁を見失わない程度に、岩陰や床際には淡い照明が仕込まれている。
だが、その光はあくまで控えめなものだった。
いま、この場所の印象を決めているのは、人工の灯りではない。
隔離壁の向こうに浮かぶ、白い氷天体からの反射光だった。
青白い光が湯気に混じり、濡れた岩肌へ薄く乗っている。
湯船の水面には、隔離壁の向こうの氷天体が淡く映り込んでいた。
湯気と僅かに揺れる水面に輪郭を崩され、暗い宇宙を写し取った水面の奥へ沈んでいるようにも見えた。
同じ露天区画であっても、向き合う天体が変われば、その空気も変わる。
赤い惑星が近ければ、岩肌や湯気は淡く赤みを帯びる。
巨大なガス惑星を望むときには、その雲層の濃淡が湯船の水面に揺れ、視界の奥でゆっくりとした流れを作る。
そして今は、氷の天体が近い。
そのため、露天全体が、冷たい光を湯気で包んだような静けさを帯びていた。
「……なるほど」
セバスチャンは湯船へ視線を向けたまま、静かに呟いた。
「観測対象に合わせて、この空間そのものが染まるのですね」
「そういうこと」
アリアは短く答え、岩風呂の隅へ向かった。
岩風呂の隅には、木製の桶が三つあった。
どれも湯船とは反対側へ底を向け、岩に斜めに立てかけられている。
アリアは桶の傍まで進むと、岩の前で膝を折った。
立てかけられていた桶を一つ取り、湯を汲む。
隣では、マスターも同じように桶を手にしていた。
彼は湯船へ流れ込まない位置で、足元から順に湯を身体へ流していく。
「湯に入る前は、先に身体を流す……だったわよね?」
アリアはそう言って、マスターの動作を横目で確かめた。
「古代の記録では、そうしていた」
マスターは短く答える。
アリアは小さく頷き、マスターと同じように湯を身体へ流した。
その様子を見ていたセバスチャンも、同じように桶の前で膝を折った。
立てかけられていた桶を取り、湯を汲む。
「なるほど。必要性よりも、形式としての所作ということですね」
セバスチャンはそう言って、湯浴み着の上から静かに湯を流し始めた。
「必要だけで考えれば、私たちにはほとんど意味はないわね」
アリアがそう返すと、桶を戻していたマスターが短く口を開いた。
「だが、古代ではそういう所作も含めて入浴だった」
マスターは岩風呂へ視線を向ける。
「不要だからと所作を省いていけば、最後には場所だけが残る。何をする場所だったのかも分からなくなる」
セバスチャンは残りの湯を静かに流し終えると、桶を元の位置へ戻した。
桶を戻したマスターは、先に岩風呂の縁へ向かった。
湯船へ入る一角には、岩を削ったような浅い段が設けられていた。
そこへ足を下ろすと、湯は膝下のあたりまで達した。
段の先はさらに低くなっており、そこから進めば、腰を下ろしたときに肩近くまで湯に浸かる深さになっていた。
マスターは段の先へ進み、湯船の奥側にある岩の縁へ背を預けた。
アリアも続いて湯へ入る。
浅い段で一度足を止め、湯面に映る氷天体を眺めてから、深いところへ進んだ。
そのまま湯船の縁に沿って少し位置をずらし、マスターから間を空けた場所で、岩肌に背を預けた。
最後にセバスチャンも湯へ入り、浅い段で一度湯の深さを確かめると、湯の中を静かに進んだ。
マスターの反対側へ回り、控えるような距離で岩肌に背を預けた。
三人がそれぞれ湯に落ち着くと、その正面には青白い氷天体が浮かんでいた。
湯面には、その白い輪郭が淡く揺れている。
湯気がその間をゆっくりと流れ、景色はわずかに滲んでは、また形を取り戻していた。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
人であれば、湯の温かさを意識しなくなり始める頃だろう。
その静けさの中で、氷天体の表面にわずかな変化が現れた。
セバスチャンは、その様子を見上げたまま、すぐには何も言わなかった。
「……メインルームで見るものとは、違いますね」
その声はいつもより静かで、普段とは少し違っていた。
「そういう場所なのよ、ここは」
アリアは氷天体から視線を外さずに言った。
「起きたことを、そのまま見る場所」
マスターは湯に浸かったまま、白い筋を見上げていた。
「見やすくはない。だが、それでいい」
しばらく、誰も言葉を返さなかった。
白い筋は音もなく伸び、やがて薄い粒子の帯となって、暗い宇宙へ広がっていく。
「……そういうことよ」
アリアは小さく言って、湯気の向こうの氷天体を見つめ直した。
セバスチャンもまた、静かに頷いた。
しばらく、三人はそのまま湯に浸かっていた。
氷天体の表面には、無数の亀裂が走っている。
遠目には滑らかな球体に見えていた白い天体も、近づいた今では、氷殻の割れ目や淡い影を複雑に浮かび上がらせていた。
それを眺めている間にも、亀裂の一部が白く滲み、そこから細かな粒子が霧のように広がっていった。
勢いよく噴き上がるほどではない。
それはしばらく亀裂の周囲を白くかすませていたが、やがて輪郭を失い、暗い宇宙へ薄く散っていった。
同じような小さな変化は、その後も何度か見られた。
離れた亀裂が白くなり、少し遅れて粒子が広がる。
ひとつが薄れるころには、別の場所でまた白い滲みが生じていた。
セバスチャンは、その一つが薄れていくのを見送ってから言った。
「こうして眺めるのは初めてですが、小規模な活動でも、見応えはありますね」
「そうでしょ」
アリアは少しだけ満足げに言った。
「でも、そうそう都合よく大きいのは来ないわね」
「小規模でも、複数回見られただけで十分だろう」
マスターは氷天体から視線を外さずに答えた。
「ここに来た甲斐はある」
「それはそうなんだけどね」
アリアは白い天体を見つめたまま、わずかに目を細める。
「せっかくなら、大きな噴出から主惑星の環へ供給されるところまで見ていきたいじゃない」
その言葉のあとも、三人はしばらく湯船を離れなかった。
湯気と水面に揺れる視界の中で、亀裂の周囲に残った淡いかすみが、時折小さく広がっては薄れていく。
やがて、そんな小さな変化も少しずつ間を空けていった。
視界に残っていた淡い揺らぎも薄れ、白い天体は、再び静かな姿へ戻っていた。
アリアは氷天体から視線を外し、湯の中で軽く肩を回した。
「……一度出ましょうか」
そう言って、アリアは湯船の縁へ手をかけ、立ち上がる。
マスターはまだ、氷天体を見ていた。
白い天体の表面には、先ほどまでの変化が嘘のように静けさだけが残っている。
数秒遅れて、マスターもゆっくりと湯から立ち上がった。
それを確認して、セバスチャンも続く。
脱衣場へ戻るために歩き出したところで、入ってきた時には目に入らなかった露天区画の隅が見えた。
岩陰に寄せるように、小さめの湯船と重厚な木扉が設けられている。
重厚な木扉には、細かな傷や擦れた跡が残っており、この空間の他の設備とは少し違って見えた。
セバスチャンは、そちらへ視線を向けた。
「先ほどは気が付きませんでしたが、あちらはどういった施設なのでしょうか。少なくとも、今は使用されていないように見えますが」
先を歩いていたアリアの足が、その場で止まる。
マスターは、その重厚な木扉に視線を向け、答えた。
「あれは、温冷交代浴のための設備だ。設備としては、サウナと呼ぶらしい」
「なるほど」
セバスチャンは、湯気で湿った髭を整えるように、顎へ手を添えた。
「今回は露天を十分楽しめましたし、次の機会には、ぜひ試してみたいものです」
その言葉を区切りに、三人は脱衣場へ向かった。
格子戸を抜けて脱衣場へ戻ると、隔離壁越しに広がっていた宇宙と氷天体の淡い光は遠のき、視界は室内の落ち着いた明るさへと戻った。
セバスチャンが籠の前へ戻る一方で、アリアとマスターは部屋の反対側へ足を向けた。
その一角には、小型の給仕システムが設けられていた。
アリアが操作すると、取り出し口へ透明な瓶が一本送られてきた。
中には、しっかりと冷えた白い乳飲料が満たされていた。
それを受け取ったアリアは、傍に置かれた、丸く身体を包み込むような籐椅子へ腰を下ろした。
片脚を軽く組み、飲み口の封を外すと、瓶へ軽く口を付けた。
セバスチャンは、その一連の動作を見届けてから問いかけた。
「そちらは?」
その横で、マスターも同じように瓶を受け取ると、封を外し、腰に手を当てて中身を一気に飲み干した。
アリアはマスターを横目に、瓶を少し揺らしながら答えた。
「これも湯上がりの作法……みたいなものよ」
そう言って、アリアはもう一度、瓶へ軽く口を付けた。
セバスチャンは二人の様子を見比べると、籠の前を離れ、給仕システムの前へ向かった。
同じ瓶を一本受け取り、封を外す。
マスターの所作をなぞるように片手を腰に当て、中身を飲み干した。
「なるほど、湯上がりには、こうやって冷えた飲み物を合わせるのですね」
アリアは籐椅子に腰を下ろしたまま、瓶を片手にセバスチャンを見た。
「慣れてしまうと、これがないと締まらないのよ」
そう言って、アリアは瓶をゆっくりと傾けた。
マスターとセバスチャンは、空になった瓶を給仕システムへ返却し、それぞれ自分の籠の前へ向かった。
少し遅れて、アリアも瓶の中身を飲み切ると、それを返却し、自分の籠の前に戻った。
籠のそばには、先ほどの湯浴み着とは別に、薄手の衣類が畳まれていた。
セバスチャンは、その衣類へ視線を向けた。
「こちらは、どういったものなのでしょうか」
「浴衣ね。風呂上がりに着るものよ」
「では、こちらも使わせていただきます」
「そうね。せっかくだし、私も使おうかしら」
アリアは畳まれていた浴衣を手に取り、袖を通し、軽く襟元を整え始める。
それを見て、マスターは自分の籠のそばに畳まれていた浴衣へ視線を落とした。
「それを使うなら、もうしばらくこの町に滞在しても構わない」
アリアの襟元を整えていた手が止まった。
「……いいの?」
「急ぐ理由がない」
「……ふーん。いいんだ」
アリアの口元が、少しだけ緩む。
「それなら、町の天球を観測用に切り替えてもいいかしら。露天では見えなかった続きも、ここなら追えるでしょうし」
マスターの答えは短かった。
「表示方法は任せる」
その言葉を受け、アリアは小さく頷いた。
町の夜空は、まもなく観測のための空へと切り替わる。




