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第二十二話 宇宙を望む露天

障子戸が開ききると、それまで障子紙を淡く照らしていた白い反射光の正体が、ようやく姿を現した。


透明な隔離壁の向こう、暗い宇宙を背にして、白い天体が浮かんでいる。


CUTBEは今もなおその天体へ向かって進んでおり、白い輪郭は、視界の中でゆっくりと、しかし確かに大きさを増していた。


青白い氷原の表面には細い亀裂が走り、場所によっては、光を拒むような淡い影が複雑に入り込んでいる。


滑らかな球体に見えたそれは、近づくにつれ、氷殻を持つ天体としての表情を少しずつ見せ始めていた。


アリアはしばらくそれを見つめていたが、やがて顔だけをマスターへ向けた。


「……随分、景色が変わったわね。今、どのあたりまで来てるの?」


「さっきの惑星から見れば、いくつか外側にあるガス惑星の公転軌道付近だ」


マスターは隔離壁の向こうから目を離さず、淡々と答える。


アリアはもう一度、目の前の星へ向き直った。


「それで、あれが目的地でいいの?」


「ああ。この宙域にあるガス惑星の衛星の一つだ」


セバスチャンはその星を見つめ、わずかに目を細めた。


「氷天体ですか。地表へ降りての直接観測でしょうか」


「いいや」


マスターの返答は短かった。


「それでは、この場所を使う意味がない」


アリアは白い天体をもう一度見やり、わずかに口元を緩めた。


「ここへ来たってことは、もちろん準備はできてるのよね?」


「使用可能な状態にはしてある」


「でしょうね」


セバスチャンは二人の会話を聞き、静かに前を向いた。


「なるほど。この屋敷には、少し変わった入浴施設がございましたね」


マスターは短く頷く。


「そこへ向かう」


「セバスチャンは初めてだったわね」


アリアはそう言うと、広間の出口へ向かって歩き出した。


「なら、ちょうどいいわ。行くわよ」


マスターもそれに続き、セバスチャンは最後にもう一度だけ、障子戸の向こうへ視線を向けた。


暗い宇宙を背にした白い天体は、なおもゆっくりと大きさを増している。


青白い表面に走る亀裂が、広間の奥で静かに浮かび上がっていた。


セバスチャンはその光景を短く確認すると、二人の後を追って広間を出た。


三人が広間を後にすると、開かれていた障子戸は音もなく、ゆっくりと閉じ始めた。


白い天体からの反射光にぼんやりと照らされていた広間は、障子戸が重なるにつれて少しずつ明るさを失っていく。


戸が閉じきる頃には、宇宙の気配は遠ざかり、広間には屋敷本来の静かな灯りだけが残っていた。


部屋を後にした三人は、アリアを先頭に先ほど上ってきた階段を下り、その脇にある通路へと入った。


通路の造りは、ここまで歩いてきた屋敷のものと変わらない。


木の床が奥へ伸び、壁には控えめな灯りが並び、柱や梁も静かな影を落としている。


アリアは迷う様子もなく、その奥へ歩いていった。


マスターも続き、セバスチャンは一歩後ろから二人の後を追う。


しばらく進んだところで、セバスチャンはふと足を止め、背後を振り返った。


見える範囲では、通路は相変わらず屋敷の廊下のままだった。


木の床も、壁の灯りも、天井を渡る梁も、少しも姿を変えていない。


ただ、振り返った時だけ、そこまで歩いてきた道が、普通の建物ではありえない向きへ静かに捩じれていることが分かった。


セバスチャンはしばらくその廊下を見つめ、やがて小さく頷いた。


「……なるほど」


アリアは一度だけ足を止め、肩越しに振り返った。


「気が付いた? 早かったわね」


「ええ。面白い造りになっていますね」


「でしょ」


アリアはそれだけ言うと、再び奥へ歩き出した。


進む先にある景色は、なおも変わらない。


木の床は奥へ続き、壁の灯りは等間隔に並んでいる。

天井を渡る梁も、柱の影も、屋敷の廊下としての形を保ったままだ。


だが、曲がり角を一つ抜けるたび、背後に残る廊下の向きは少しずつずれ、入口のある方角は遠ざかっていく。


歩いている三人にとって、その変化はほとんど感じ取れない。

それでも、この通路がただ屋敷の奥へ伸びているだけではないことは、もう明らかだった。


やがて、通路は静かに行き止まりを迎えた。


その突き当たりに、短い暖簾が掛けられている。


大きな扉も、目を引く装飾もない。

ただ、濃い色の布が一枚、屋敷の奥に控えめに下がっているだけだった。


アリアはそこで足を止めた。


「ここよ」


そう言って、彼女は暖簾をくぐった。


暖簾の向こうは、通路とはわずかに光の質が違っていた。

照明は一段柔らかく抑えられ、木の床も柱の影も、浴場へ続く場所らしい静けさの中に沈んでいる。


そこには、屋敷内で履いていた履物を脱ぐための小さな上がり口があった。

床板の端には浅い段差が設けられ、その奥には遮蔽用の木戸が閉じられている。


アリアは慣れた様子で履物を脱ぎ、そのまま木戸へ手をかけた。


マスターもそれに続く。


セバスチャンは最後に一度だけ背後の廊下へ視線を向けた。


来た道は、すでに通常の屋敷ではありえない向きへ捩じれながら、静かな灯りの奥へ沈んでいる。


セバスチャンは小さく頷き、脱いだ履物の向きまで整えてから、二人の後へ続いた。


遮蔽用の木戸は、軽い力で静かに滑った。


その先には、屋敷の内側と同じ木造りの空間が広がっていた。

壁際には脱衣籠が整然と並び、奥には浴場へ続く格子戸がある。

照明は柔らかく抑えられ、木目と籠の影だけが淡く浮かび上がっていた。


アリアは慣れた足取りで中へ入り、脱衣籠の前で足を止めた。


「来るたびに思うけど、生体だった頃の施設を再現するなら、脱衣場は分けるべきよね」


マスターは、軽く振り返った。


「必要か?」


「……言ってみただけよ」


アリアは軽く肩をすくめた。


彼らの身体にある性別は、外形上の形式にすぎない。

生物としての性を成立させる構造は、そこには存在していなかった。


だから、脱衣場を分ける理由もない。

少なくとも、今の彼らにとっては。


アリアは籠の中へ目を落とした。

そこには、浴場で使うための湯浴み着が畳まれている。


「それなのに、こっちは毎回ちゃんと置いてあるのよね」


セバスチャンもそれを確認し、静かに口を開いた。


「必要であれば、こちらを着用する想定のようですね」


「置いてあるのは分かるけど、私たちに必要かしら、それ」


「不要だな」


マスターは迷いなく答えた。


「そう言うと思ったわ」


アリアはマスターの姿へ視線を流し、小さく息を吐いた。


だが、セバスチャンだけは籠の中から湯浴み着を静かに取り上げた。


アリアはそれを横目に見た。


「……着るの?」


「せっかくですので、用意があるのでしたら使ってみるのも悪くないかと」


「そう」


アリアはそれ以上は何も言わず、自分の衣服を脱衣籠へ入れた。


セバスチャンは湯浴み着を身に纏い、静かに身支度を整える。


アリアは湯浴み着には触れず、長い髪を背中からすくい上げ、後頭部でまとめ始めた。


その動作を見て、セバスチャンが静かに口を開いた。


「それも、形式の一つですか」


「そうよ。湯に髪を浸けないようにするの」


アリアは慣れた手つきで髪をまとめながら答えた。


「マスターの受け売りだけど、古代ではそういう作法だったらしいわ」


「なるほど。湯を共有する場における作法、ということですね」


「そういうこと」


「この先にも、まだ似たようなのがあるわよ」


「似たようなもの、ですか」


「行けば分かるわ」


髪を留め終えたアリアは、そう言って奥の格子戸へ向かった。


マスターはすでにその前に立っている。


「行くぞ」


短く告げると、マスターは戸へ手をかけた。


格子戸は静かに滑った。


その先に見えるのは、湯気に滲む石敷きと、濡れた岩肌だけだった。

ただ、その奥から差し込む光だけが、脱衣場の柔らかな灯りとは違っている。


白く、どこか青みを帯びた反射光が、格子の縁を淡く照らしていた。


マスターは迷いなく、その石敷きへ足を進めた。

アリアとセバスチャンも、それに続く。


足元を薄い湯気が流れ、左右の岩肌は淡い水気を帯び、青白い光を静かに受けている。


数歩先で、岩肌が途切れる。


その瞬間、視界が開けた。


湯気の向こうには、広い空間があった。


濡れた岩に囲まれた湯船は、三人で使うには贅沢すぎるほどに広かった。

静かな水面は奥へ奥へと広がり、湯船というより、小さな池に近い。


だが、それ以上に目を奪うものがあった。


視界を遮るものは、ほとんどなかった。

柱も、壁も、天井もない。

あるのは湯気を立てる岩風呂と、その向こうに広がる暗い宇宙だけだった。


もちろん、そこが宇宙空間に剥き出しになっているわけではない。

透明な隔離壁が外部との境界を保ち、その向こうにある宇宙を直接見渡せるようになっている。


そして、その暗い空間を背に、先ほど広間で見た白い氷天体が浮かんでいた。


広間から見た時よりも、はるかに近い。

青白い氷原に刻まれた亀裂は、ここからでも複雑な筋となって見え、淡い影が表面をゆっくりと流れているようだった。


構造を知らない者が足を踏み入れれば、そこがCUTBE内部の施設であることを忘れ、宇宙空間へそのまま放り出されたかのように錯覚してもおかしくない。


しばらく、誰も口を開かなかった。


湯気の向こうで、白い氷天体だけが静かに見えていた。


やがてセバスチャンが、わずかに目を細めた。


「……なるほど。このような観測方法も、なかなかよろしいですね」


その言葉に、アリアは小さく口元を緩めた。


「でしょ」


湯気の向こうで、白い氷天体はなおも淡く輝いていた。


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