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第二十話 極低重力と長命種

開いた扉の先へ、三人はそのまま足を踏み入れた。


通路は短く、正面にはすでに次の扉が見えている。

装飾らしいものはなく、両側の壁際には埋め込み式の棚が設けられ、そこに細いリング状の装備が整然と並んでいた。


中へ入ると、背後の扉が静かに閉じ、表示光は再び赤へと戻った。


マスターは壁際の棚へ一度だけ視線を向けたが、手を伸ばすことはなく、そのまま正面の扉へ歩を進めた。

アリアは棚からリングユニットを一つ取り上げ、慣れた手つきで手首へ滑らせる。

セバスチャンもまた一つを取り上げて手首にはめると、わずかに向きを変えながら装着感を確かめた。


「これがリングユニットですか」


アリアはその様子を横目に見やり、正面のマスターへと視線を移した。


「……見た目だけで言えば、まだ私たちのほうが人っぽいわよね」


マスターは足を止めることなく軽く振り返り、「今さらだ」とだけ短く応じた。

アリアは「言ってみただけよ」と小さく肩をすくめた。


その直後、平原ラボの明るさに調節されていた連絡通路の照明が、静かに一段落ちた。

白く均一だった光はわずかに抑えられ、短い空間全体が落ち着いた明度へ切り替わっていく。


続いて、身体を引く重さが静かに薄れ、立っているはずの床の感覚さえ遠のき、接地の感覚だけが辛うじて残っている。

完全に浮き上がることはない。

それでも、少し強く動けば、その力のまま身体が滑っていきそうな軽さがあった。


「……この感覚も久しぶりね」


アリアがわずかに口元を緩める。


「この場所は初めてですが、この感覚は嫌いではありません」


セバスチャンは足取りを乱すこともなく、静かにそう言った。


やがて前方の扉の表示光が赤から緑へ切り替わった。

短い作動音の後、扉は静かに左右へ滑る。


扉の先には一回り広い踊り場が設けられており、その先には、少なくとも目に入る範囲において床も天井も存在しなかった。

透明な隔離壁の向こうには、目視では捉えきれないほど縦に伸びる巨大な水の空間が広がっている。

現在地は光の乏しい深い層にあり、はるか上方にだけ、わずかな明るさが滲んで見えた。


三人が踊り場へ出ると、背後の扉が静かに閉じた。

人工光として残されたのは、ロック状態を示す最小限の表示灯だけだった。

深い層の観測環境を乱さぬよう、明度は限界まで抑えられている。

だが、その暗さも彼らの視界を妨げることはなかった。


そこから見える深海層には、岩場の起伏がうっすらと見て取れた。

その周囲では熱水噴出孔の揺らぎがかすかに立ちのぼり、その縁に沿うように、毛に覆われた巨大な節状生物がいくつも漂っている。

一見すれば水中に沈んだ巨大な毛虫にも見えるそれらは、流れに揺られながら、噴出孔の周辺をゆっくりと移動していた。


マスターはそのまま足場の先へ進み、隔離壁沿いの開けた空間へ軽く踏み出した。

極低重力化されたラボ内では、足場の上を進む動きさえ、歩くというより平行移動に近い。

リングユニットの接地制御によって靴底は足場を捉えていたが、次の足場へ移る際にはその制御が緩み、身体は容易に解放される。


三人は深海層での生命活動が継続していることを確認すると、次の足場へ向けて移動を開始した。

それぞれが次の足場の端へアンカーを射出し、引かれるように身体を浮かせながら上方へ移っていく。


熱水噴出孔の周辺を離れると、生物の姿は目に見えて減り、深海層には広い暗がりと静けさが戻っていた。

その移動を何度か繰り返すうち、はるか上方に見えていた明るさが、ようやくわずかに輪郭を持ち始める。


そのとき、隔離壁の向こう側、遠くの水中を何かがゆっくりとこちらへ泳いでくるのが見えた。


「……さすがに、通常の視覚補正だけじゃ細部までは拾えないわね」


アリアはそう呟き、わずかに目を細めると、親指と人差し指で小さな環を作って目元へ添えた。


その動きを見たセバスチャンが、静かに口を開いた。


「その動作は、すでに不要だったかと」


「ええ、分かってるわ。気分の問題よ」


輪郭が少しずつ引き締まり、魚影の細部が浮かび上がる。

幅のある頭部に、小さく離れた目。わずかに下がって見える口元。

深海魚らしい軟らかな体つきとは妙に噛み合わない、どこか疲れたようなおっさんじみた顔立ちだった。


「……あの個体は、そろそろ千五百年を超えたか」


「そうね。この種も、確認当初は四百年前後が限界だったはずよ」


アリアは近づいてくる魚影を見たまま、小さく続けた。


「……随分伸びたわね」


個体は気の抜けるほどゆっくりと、方向を変えることもなくこちらへ近づいてきた。

潜るでも浮かぶでもなく、ただ同じ深度を保ったまま、隔離壁へ向かって真っ直ぐ進んでくる。

そのまま減速もせず隔離壁際まで泳いできた個体は、次の瞬間、顔の先から透明な壁へゆるく押しつけられた。

幅のある頭部は柔らかく横へ潰れ、目元も口元も間延びしたように広がって、一回りほど大きく見えた。


「長く生きることに振ったぶん、知性の方は置き去りになったのかもしれないわね」


わずかに遅れて形が戻ると、おっさんは何事もなかったように向きを変え、そのまま暗い水中へ去っていった。


マスターとアリアは、去っていくおっさんを見送ると、次の足場へアンカーを伸ばした。

二人はそれに引かれ、ゆっくりと足場を離れていく。

セバスチャンは去っていくおっさんの行方をなお少し見ていたが、やがて二人に続きアンカーを放ち、上方へと登っていった。


そんな観測と移動を幾度か繰り返し、三人はやがて目的の階層、連絡通路前の足場へ辿り着いた。

少し遅れて到着したセバスチャンは、アンカーの回収を待つあいだも、隔離壁の向こうに広がる海へ視線を向けていた。

そんな後ろ姿を見ながら、アリアはこのラボに入ってからずっと引っかかっていた疑問を、ようやく口にする。


「……アンカーもリングユニットも、途中からほとんど飾りだったわよね。特に最後なんて、ほぼ自力で上がってたじゃない。なんでこの状況で姿勢維持できるのよ」


「姿勢を崩さないことも、執事の務めですので」


「そういうことを聞いてるんじゃないんだけど」


アリアは半ば呆れたように息をつき、やがて小さく首を振った。


「……もういいわ。それより、早く目的地に行きましょう」


そう言って、アリアは扉の方へ向かった。


アンカーの回収を終えたセバスチャンも、静かにその後に続いた。

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