第十九話 草むらの捕食者
アリアの呟きの後も、三人はしばらく観測を続けていた。
脱皮を終えた多脚は、時間の経過とともに外皮も本来の硬さを取り戻し、行動もおおむね普段通りのものへ戻っていった。
一方で、その脱皮殻から十分な栄養を得た小型種と「あれ」たちは個体数を大きく増やし、この限られたラボ内の生態系を崩しかねない状態になっていた。
そのため、ラボ全域での間引きに加え、遺伝子操作によって過剰な増殖を抑える調整が必要になった。
その結果、現在の生態系は小型種のイレギュラーを除けば、おおむね問題のない範囲に収まっている。
「……さすがに、もう十分だわ。ラボを安定させるためとはいえ、あれをまとめて相手にするのは限度があるのよ」
アリアは群れが蠢くモニタからふいと目を逸らすと、空中に展開されていた画面を無造作に指で弾き、視界の端へ追いやった。
そのまま片手で軽く顔を覆い、小さく息を吐いた。
「どうしてこんな感覚まで律儀に再現されているのかしら。絶対、私たちの基礎設計をした連中の趣味が悪いのよ」
セバスチャンは、調整のためラボ全体のデータを確認しながら、淡々と応じた。
「確かに見た目は良くありませんが、嫌悪感を覚えるほどではありませんね」
覆った手の奥でアリアの表情がわずかに固まり、指の隙間から覗く視線が、信じられないものを見るようにセバスチャンへ向けられた。
しばしの沈黙ののち、アリアはようやく口を開いた。
「……さすがに、気分転換したいわ」
顔を覆っていた手を下ろし、アリアはマスターへ視線を向けた。
マスターはすぐには答えず、しばらく観測データを流し見ていたが、やがて表示を切り替えた。
「構わない。いい場所がある」
そう言うと、マスターは新たに恒星系全体のデータを展開した。
いくつかの表示へ短く視線を走らせたのち、そのうちの一つで止まった。
「景色の一つもあった方がいい」
そう呟くと、マスターは表示の一つを開き、通常航行の進路をわずかに修正した。
CUTBEは音もなく姿勢を変え、選んだ宙域へ向けて緩やかな移動を開始する。
その静かな変化を確認すると、マスターも隣接するラボへ向けて歩き出した。
「どちらへ向かうのですか」
「着けば分かる」
そのやり取りを聞き、アリアはマスターの進む先へ目を向け、小さく息をついた。
「ここからだと……なるほどね」
そう呟いて、アリアもその後に続いた。
やがて区画扉へたどり着いて短い連絡通路を抜けた先には、平原環境を再現した隣接ラボが広がっていた。
背の低い草木が広がるその区画には、細い枝葉で丸く刈り込まれたような球形の植物が点在していた。
その中に、周囲の色味にまだ馴染み切っていないものが混じっていた。
三人はそこで足を止め、マスターはしばらく隔離壁の向こうを見つめたのち、その脇から操作部を呼び出した。
滑らかな表面の一部が淡く明滅し、パネルが浮かび上がる。
「確か、この区画には肉食の四足獣がいたな」
「ええ、擬態が得意な個体だったはずよ」
操作を進めるマスターの傍らで、アリアの視線はその一つへと向けられていた。
セバスチャンは顎に手を添えたまま、隔離壁の向こうを覗き込んだ。
「そうですね。データでは確認していましたが、こうして直接足を運ぶのは初めてです」
マスターがいくつかの項目を選択すると、平原ラボ内の一角に小さな反応光が灯った。
起動したのは、小型の可食モデルだった。
「折角だ。姿を確認しておこう」
それは草の陰から現れると、小刻みに地表を走り、球形の草木が点在する一帯をかすめるように横切った。
直後、その一角の草葉が、周囲よりわずかに大きく揺れた。
アリアは表示を横目に見て、わずかに口元を緩めた。
「どうせなら、しっかり動いてもらいましょう」
マスターは短く頷き、操作を続ける。
それは向きを変え、その場を離れるように再び動き出した。
そのときだった。
点在する球形の草木の中で、密度の濃いその一つが、揺れを強めた。
その揺れに反応するように、小型の可食モデルが速度を上げ、植物の少ない開けた方向へ向かって駆けた。
直後、球形の植物にしか見えなかったそれもまた、それを上回る勢いで動き出した。
速度が上がるにつれ、球状に見えていたそれは後方へなびき、その内側を走る低い影が見え始める。
胴をしならせ、四肢を大きく伸縮させて地を蹴るその姿は、草むらめいた外見からは想像もつかないほどしなやかだった。
その距離は一瞬で詰まり、小型の可食モデルは逃げ切る間もなく捕らえられ、開けた地表の上でその姿を失った。
なびいていた体毛が再び丸みを取り戻し、先ほどよりも低く沈み込んだそれは、開けた場所で風とは無関係に小さく揺れていた。
しばらくその様子を見ていたアリアが、小さく息を吐いた。
「……やっぱりあれは、どう見ても動く毛玉よね」
捕えた餌を押さえ込み、その場で食みはじめたそれを見ながら、マスターが短く口を開いた。
「少し簡単にしすぎたか。まあ、多少は運動になっただろう」
観測を終えた三人はその場を離れ、再び長く続く隔離壁沿いを歩き出した。
隔離壁の向こうでは、風に揺れる球形の植物の群れがなおも広がり、その合間を別の小型生物が横切っていく。
先ほどの毛玉じみた捕食者も、群生地から少し離れた場所で景色の一部へ戻っていた。
やがて区画扉の前へ辿り着く。
壁面は継ぎ目も目立たない滑らかな面で統一されていたが、区画扉の部分だけは、細い斜線を組み合わせた意匠によって周囲と区別されていた。
その中央には淡い赤色の表示光が縦に走っており、近づくにつれて、それは解除を示す緑へ静かに切り替わる。
短い作動音の後、扉は左右へと滑り、その先の連絡通路が姿を現した。




