第36話 六個の卵
朝、健司はいつもより早く目が覚めた。時計を見ると、まだ四時半を少し過ぎたところだった。外は薄暗い。普段なら、もう少し布団の中にいてもいい時間だ。それでも目が覚めた理由は分かっている。
「……卵か」
昨日の夕方、有精卵の一つに小さな亀裂が入っていた。内側から殻をつつく音も聞こえた。すぐに孵るとは限らない。親鶏がちゃんと抱いているなら、人間が余計なことをしない方がいい。それくらい健司も知っている。だから夜中に何度も見に行くようなことはしなかった。しなかったのだが。
「一回だけ見とくか」
結局、布団から出た。廊下を静かに歩き、玄関を開ける。外はまだ涼しかった。庭の向こうに鶏小屋が見える。ゴンは縁側で寝ていたが、健司が外へ出ると顔だけ上げた。
「起こした?」
尻尾が一度だけ動く。
「ちょっと見てくるだけ」
鶏小屋へ近づく。親鶏を驚かせないよう、扉の外から覗いた。昨日亀裂が入っていた卵。まだある。
「……広がってるな」
殻の一部が、昨日より少しだけ割れていた。穴と呼べるほどではない。でも線だった亀裂が、はっきり殻の破れになっている。耳を澄ます。何も聞こえない。
「寝てるのか?」
当然、返事はない。健司はそれ以上近づかなかった。
「頑張れよ」
小さく声をかけ、家へ戻る。縁側を通ると、ゴンがまだ顔を上げていた。
「まだだった」
ゴンは鼻を鳴らし、また顎を前足に乗せた。
「お前の方が落ち着いてるな」
もう一度布団へ入った。だが結局、五時にはまた起きた。
◇
朝の畑仕事はいつも通りだった。三百万円を借りても。
《土魔法Ⅰ》と《修繕Ⅰ》が増えても。
卵が孵りかけていても。トマトは待ってくれない。
「今日は晴れそうだな」
雨のあとで一気に気温が上がると、畑の状態も変わる。健司はトマトの葉を見て、ナスを収穫し、キュウリを何本か籠へ入れた。少し曲がったものは家用。形のいいものは出荷用。途中、畑の端に浅く水が溜まっている場所を見つけた。
「ここ、もう少し切るか」
鍬を取りに戻ろうとして、足を止める。
「……そうだ」
右手を向ける。昨日まで何度か試している《土魔法Ⅰ》。
「こっち」
土がざらざらと動いた。細い溝が伸びる。昨日よりずっとまっすぐだった。
「お」
もう少し。水がゆっくり流れ始める。
「これなら使えるな」
まだ鍬の方が早い。でも、わざわざ取りに戻らずに済む。健司にとっては、それだけでも十分だった。
「便利になったな」
振り返ると、母親が畑の入口に立っていた。
「何が?」
「土魔法」
「鍬いらなくなった?」
「それはいる」
「まだいるの?」
「大きく掘るなら鍬の方が早い」
「じゃあ魔法、何に使うの?」
「今みたいなとき」
「ちょっとだけ?」
「ちょっとだけが便利なんだよ」
「ふうん」
母親はあまり興味がなさそうだった。その横をゴンがゆっくり歩いてくる。今日はモチも一緒だった。モチはゴンの背中ではなく、自分で飛んできた。
「珍しいな」
「ピィ!」
「朝から元気だな」
モチが健司の肩へ乗る。そのまま鶏小屋の方を見る。
「卵?」
「ピィ」
「見たいの?」
健司が歩き始めると、モチも肩に乗ったままついてくる。ゴンも後ろから来る。
「全員気になるのか」
鶏小屋の前。親鶏はまだ卵を抱いている。健司は外から覗いた。
「……あ」
昨日の卵。穴が大きくなっている。殻の一部が内側から押され、わずかに浮いていた。
「母さん」
「何?」
「もう出そう」
母親も近づく。
「あら、本当」
「触らない方がいいよな」
「親鶏に任せたら?」
「そうだな」
モチが健司の肩から飛び降りようとした。
「お前はダメ」
両手で止める。
「今日は特に近づくな」
「ピィ」
「何するか分からん」
母親が笑った。
「食べたりしないでしょ」
「分からんよ。モチ、まだ若いし」
「ピィ!」
「怒った?」
ゴンは鶏小屋の前で座った。昔から鶏がいる家で暮らしてきた犬だ。鶏を追いかけることもない。健司はゴンの頭を撫でた。
「ゴンは大丈夫だよな」
ゴンは静かにしていた。
◇
朝食の途中。健司のスマートフォンが震えた。長谷川から。
《復旧工事、主管接続まで完了しました。本日は圧力試験を行います》
続けて、
《農園側の状態は安定しています。本日は森さんの現地作業は不要です》
「今日は行かなくていいって」
母親が味噌汁を飲みながら聞いた。
「ダンジョン?」
「うん」
「じゃあ卵見られるね」
「ずっと見てても早く出てこないぞ」
「でも見るんでしょ?」
健司は少し黙った。
「……まあ」
「ほら」
「畑もあるからな」
「畑はもうやったでしょ」
「午後も見るよ」
「そう」
母親は納得した。健司はスマートフォンを置く。今日はダンジョンへ行かない。借金は残り二百八十万円。昨日の探索で十万円返したばかりだ。毎日無理に潜る必要はない。何より農園の工事も順調。なら今日は家にいる。
「配信するかな」
母親が顔を上げる。
「何を?」
「卵」
「卵?」
「孵るかもしれないし」
「ずっと卵映すの?」
「それは俺もどうかと思う」
母親が笑った。
「ゴン映しとけば?」
「俺の配信なのに?」
「人気なんでしょ?」
「そうなんだけど」
最近、それを否定できなくなってきた。
◇
朝九時。健司は庭で配信用ドローンを起動した。今日はダンジョンではない。自宅配信。タイトルを入力する。
【今日は家】ヒヨコが生まれるかもしれません
配信開始。視聴者数が増え始める。
《家回だ》
《ゴン!》
《モチ!》
《ヒヨコ!?》
《卵どうなった》
「昨日一個割れ始めた」
《孵化配信》
「ずっと映してても仕方ないから、普通に畑やるよ」
《主役ヒヨコじゃないの》
「まだ生まれてない」
《ゴン映して》
健司がドローンを少し動かす。縁側。ゴンが寝ている。
《いたあああ》
《ゴン》
《今日もかわいい》
《寝てるだけ》
《それがいい》
「俺もいるぞ」
《知ってる》
「反応薄いな」
ゴンの背中に、モチが飛び乗った。
《セット完成》
《ゴン号》
《モチ専用車》
「ゴンを乗り物扱いするな」
モチがゴンの背中から健司を見る。
「モチ」
「ピィ!」
「おいで」
すぐに飛んでくる。健司の腕へ着地。
《おお》
《芸》
《覚えてる》
「もうこれは大丈夫だな」
ブルーベリーを一粒。
《回れ》
《回れやって》
「朝から?」
《お願いします》
「一回だけな」
モチを縁側の手すりへ乗せる。健司が指で円を描く。
「回れ」
モチが飛ぶ。健司の頭の周囲を一周。手すりへ戻る。
《かわいい》
《完全習得》
《賢い》
「はい」
ブルーベリーを一粒。モチが食べる。その直後、自分からもう一周。
「言ってない」
《www》
《追加報酬》
「出ない」
もう一周。
「出ないって」
《出来高制》
《モチ「働いた」》
「勝手に働くな」
健司がブルーベリーの容器を閉じる。モチは容器を見る。
「終わり」
「ピィ」
「鳴いても終わり」
ゴンの方へ戻っていった。
《交渉失敗》
「配信より商売向いてるかもしれんな」
《飼い主に似た》
「俺は勝手に仕事増やさないよ」
《300万借りた人が?》
健司はコメントを見る。
「それ言われると弱いな」
◇
鶏小屋へ移動する。ドローンは遠め。親鶏を刺激しない位置に止める。
「近づけすぎないからな」
《了解》
《見える》
《割れてる》
卵の一つ。朝よりさらに殻が割れていた。小さな穴から、中の黄色っぽい毛が少し見える。
《うわ》
《いる》
《ヒヨコ》
《頑張れ》
「まだ出ないと思う」
《手伝わないの?》
「やらない」
《殻取ってあげたら?》
「自分で出るの待つ」
《なんで?》
「途中で手出す方が怖いから」
健司も詳しい専門家ではない。それでも、昔から何度も鶏の孵化は見てきた。時間がかかる。途中で止まっているように見える。だからといって、すぐ人間が殻を剥がせばいいわけではない。
「親鶏に任せるよ」
《森おじさん何でも待つな》
「待たないと育たんもの多いからな」
《農家》
「農家だよ」
鶏小屋を離れる。
「ずっと見てると俺も触りたくなるから」
《分かる》
《見守り難しい》
「畑行くぞ」
◇
家の畑の配信。初期のころなら、健司自身も誰が見るのか分からなかった。今では普通に数千人が見ている。トマトを収穫する。曲がったキュウリを家用の籠へ。ナスの枝を整える。
《今日ダンジョンないの?》
「ない」
《戦闘なし?》
「なし」
《土魔法は?》
「使う?」
《見たい》
健司は畑の端へ移動した。昨日作った浅い排水溝。
「ここ伸ばす」
右手を向ける。土がゆっくり左右へ動く。一メートル。二メートル。
「昨日よりまっすぐだな」
《上手くなってる》
《畝も作ろう》
「それは鍬の方が早い」
《まだ言う》
「本当に早いんだよ」
健司は鍬を持ってきた。
「ほら」
ざく、土を寄せる、ざく。
「こっちの方が力入る」
《魔法敗北》
「使い分けだよ」
《土魔法の意味》
「鍬持ってないとき」
《限定的》
「十分だろ」
作業しながら、コメントを拾う。
《次返済したらまたスキル増える?》
「分からん」
《明日返して》
「お前ら軽く言うな」
《何引くか見たい》
「ガチャじゃないって」
《今まで土魔法と修繕》
「そう」
《次は何欲しい》
健司は少し考えた。
「特にないな」
《え》
《欲ない》
「今のでも便利だし」
《空間収納》
「魔法袋ある」
《飛行》
「飛ばなくていい」
《瞬間移動》
「怖い」
《強い攻撃魔法》
「火炎魔法ある」
《使ってない》
「必要ないからな」
コメントが笑いで流れる。
《この人強くなる気ない》
「怪我しなくなればそれでいいよ」
《Dランク戻る気は》
「いつか戻れればいいんじゃない?」
《昔Dだもんな》
「うん」
《Aランク目指さない?》
「目指さない」
即答だった。
「Aランクになったら深いところ行けって言われそうだろ」
《そこ》
《普通は行きたいんだよ》
「俺は畑あるから」
健司は収穫籠を持ち上げた。
「これ出荷しないと」
◇
昼。母親が縁側へ昼食を持ってきた。
「今日は家だから、おにぎりじゃないよ」
「分かってる」
そうめんだった。大きな器。薬味にネギとミョウガ。それに家で採れたキュウリの浅漬け。
《母ちゃん飯》
《そうめん》
《夏》
「今日は暑いからな」
健司が麺をつゆへ入れる。食べる。
「うまい」
《また短い》
「そうめんだから」
《食レポ成長しない》
「必要ある?」
母親が横から言った。
「伸びちゃうよ」
「食べる」
《母ちゃん強い》
《コメントよりそうめん》
「当たり前だろ」
健司はさっさと食べる。半分ほど食べたところで、鶏小屋から小さな鳴き声が聞こえた気がした。箸が止まる。
「今聞こえた?」
母親も顔を上げる。
「聞こえたね」
《何》
《ヒヨコ?》
《行け》
健司はそうめんを見た。鶏小屋を見た。
「伸びるな」
《www》
《そうめん優先》
《急げ》
「急いで食う」
残りをいつもより少し早く食べる。母親が呆れた顔をした。
「行って見てきたらいいのに」
「そうめん伸びるだろ」
「私食べるよ」
「自分のあるじゃん」
「そうだけど」
結局、全部食べた。
「ごちそうさま」
立ち上がる。
《律儀》
《食べてから行く男》
「食べ物残すの嫌だろ」
◇
鶏小屋の前。健司が静かに覗く。
「……出てる」
親鶏の羽の下。小さな黄色い頭が見えた。濡れたように細かった産毛が、少しずつ乾き始めている。まだ足元も頼りない。一羽。最初のヒヨコ。
《生まれた!》
《かわいい》
《ちっさ》
《おめでとう》
「一羽目だな」
健司の声も自然と小さくなる。
「ちゃんと出たな」
親鶏がヒヨコを羽の下へ入れる。すぐ見えなくなった。
《隠れた》
「今はそれでいいよ」
モチがどこからともなく飛んできた。
「待て」
健司が腕を出す。モチが止まる。
「今日はここより前に行くな」
「ピィ」
《モチ興味津々》
《お兄ちゃん?》
「性別分からん」
《お姉ちゃん?》
「だから分からんって」
《モチ先輩》
「それならいいか」
モチを自分の肩へ乗せたままにする。ゴンもやってきた。健司の横に座る。
《ゴンも来た》
《見守り隊》
「ゴンは昔もヒヨコ見てるからな」
《ベテラン》
「十八歳だぞ」
親鶏の下から、もう一度ヒヨコの顔が出る。小さな目。小さなくちばし。ピヨ、と鳴いた。コメント欄が一気に流れた。
《かわいいいい》
《無理》
《今日来てよかった》
《ダンジョンより視聴者いる?》
健司が人数を見る。
「……昨日のダンジョンより多いな」
《草》
《答え出た》
《戦闘不要》
「俺、魔石拾いに行かなくてもいい?」
《ヒヨコ育てろ》
「借金返せないだろ」
《配信で返せ》
「そんなに簡単じゃないよ」
とはいえ投げ銭もかなり増えていた。ヒヨコ誕生祝い。ゴン。モチは母親へのものまであり、誰に対するものなのか分からないものまである。
《ヒヨコの餌代》
「まだ親鶏いるから大丈夫」
《ゴンのおやつ代》
「それはありがたい」
《モチのブルーベリー代》
「あいつは食いすぎるからほどほどな」
モチが鳴いた。
「聞こえた?」
◇
一羽目が生まれてから、一時間ほど。二個目の卵にもはっきりした亀裂ができた。
「こっちも始まったな」
《今日二羽いける?》
「分からん」
《全部今日?》
「それも分からん」
《六羽全部生まれる?》
「全部孵るとは限らないよ」
健司はそこをはっきり言った。
「有精卵だからって必ず六羽生まれるわけじゃない」
《そうなんだ》
「最後まで出ない卵もある」
《ちょっと寂しい》
「そういうもんだよ」
必要以上に期待しない。だからといって、生まれた一羽が嬉しくないわけでもない。農業も同じだ。種を十粒播いて十粒全部育つとは限らない。卵も同じ。
「生き物だからな」
健司はドローンを少し遠ざけた。
「しばらく休ませよう」
配信画面を庭へ戻す。
《ずっと見たい》
「親鶏も落ち着かないだろ」
《了解》
《ゴンでつないで》
「テレビじゃないんだぞ」
ゴンを見る。縁側へ戻り、また寝ている。
「……本当に寝てるだけだけど」
《それがいい》
《最高》
「分からんなあ」
◇
午後三時。二羽目が生まれた。今度は配信中ではなかった。健司が畑から戻って覗いたときには、すでに親鶏の下で動いていた。
「二羽」
母親も隣にいる。
「黄色いね」
「一羽目より少し濃いかな」
「同じに見えるけど」
「俺もよく分からん」
モチがまたやってくる。
「ダメ」
健司が先に言う。モチが止まる。
「見るだけ」
「ピィ」
「近づかない」
「ピィ」
最近、少しずつ言葉を理解しているようにも見える。実際どこまで分かっているのかは不明だが。健司が手を出す。
「おいで」
モチが腕へ乗る。そのまま鶏小屋を見せる。
「ほら。二羽」
「ピィ」
「お前より小さいな」
モチが首を傾げる。健司は少し笑った。
◇
夕方。しずくからメッセージが来た。
《今日の配信すごいですよ》
「何が?」
電話すると、しずくがすぐ答えた。
『最大同時視聴、二万超えてます』
「……ヒヨコで?」
『ヒヨコとゴンとモチです』
「俺は?」
『森おじさんもいます』
「付け足したな」
『そんなことないです』
「昨日ダンジョンで魔物倒してたぞ」
『今日はヒヨコが生まれましたから』
「勝てないか」
『何と戦ってるんですか』
「分からん」
しずくが笑う。
『切り抜きももう上がってます』
「早いな」
『「そうめんを食べ終わるまでヒヨコを見に行かない農家」』
「そこ?」
『かなり伸びてます』
「普通だろ。伸びるから食べただけだぞ」
『その説明が余計面白いんですよ』
「よく分からん」
『あと、モチの《回れ》も』
「今日は勝手に回ってた」
『見ました』
「見てたの?」
『休憩中に』
「仕事しろよ」
『休憩です!』
健司は笑った。
「農園の工事は?」
『主管の圧力試験、問題なしです』
「お」
『明日、排水設備と魔力灯の本接続。順調なら明後日には通常運用へ戻せそうです』
「早いな」
『三百万円ですからね』
「二百九十八万」
『そこ細かい』
「二万大事だぞ」
『分かりました』
電話を切る。
◇
工事は順調。農園も生きている。借金は二百八十万円。今日は返済していない。スキルも増えていない。それでいい。
◇
夕飯前。健司はもう一度鶏小屋を見に行った。一羽目。二羽目。どちらも親鶏の下にいる。残り四個。そのうち一個には、また小さな亀裂が見え始めていた。
「三羽目も来るかな」
ゴンが健司の横に伏せる。モチは少し離れた柵の上。
「今日はここで見る?」
「ピィ」
「偉いな」
ブルーベリーを一粒やる。モチが食べる。
「回らなくてもやるよ」
「ピィ!」
その言葉を理解したのかは分からない。だが今日は勝手に回らなかった。健司は少し感心した。
「本当に覚えてるのか?」
縁側から母親が呼ぶ。
「健司、ご飯」
「今行く」
「ずっと見てても出てこないよ」
「朝も言ってたな、それ」
「言った?」
「言った」
健司は立ち上がった。鶏小屋をもう一度見る。
「明日かな」
◇
その夜。二羽のヒヨコが生まれた。残り四個。借金は二百八十万円。ダンジョン農園の復旧も、もう少し。そして健司の配信では、その日もっとも盛り上がったのは土魔法でも借金でもダンジョンでもなく、一羽のヒヨコが親鶏の羽の下から顔を出した、ほんの数秒だった。




