第35話 また借金を返すためにダンジョンへ
朝の畑仕事を終えた健司は、納屋の前で鍬を洗いながら今日の予定を考えていた。ダンジョン農園では復旧工事が続いている。崩落した管理通路の補強、新しい魔力水主管の設置、排水設備の確認。昨日聞いた話では、作業は予定どおり進んでいるらしい。だから今日は、農園へ行っても健司がすることはほとんどなかった。
「工事してる横で見ててもしょうがないしな」
紅晶実の水やりも研究員が担当してくれる。正式契約では家の畑が最優先で、ダンジョン農園へ行くのも基本は週二回程度だった。ここ数日は崩落騒ぎで毎日のように顔を出していたが、本来ならこちらの方が普通なのだ。健司は洗った鍬を立てかける。昨日覚えた《土魔法Ⅰ》も、朝の畑で少しだけ使ってみた。
雨水を逃がすための浅い溝を二メートルほど伸ばしたところで、魔力を使うより鍬を持ってきた方が早いと気づき、途中から普通に掘った。
「便利ではあるんだけどな」
手ぶらのときなら役に立つ。だが農家は最初から鍬を持っていることが多い。そこが問題だった。庭ではゴンが朝の日差しの当たる場所を選んで横になっている。その背中にモチが乗り、羽繕いをしていた。
「モチ」
「ピィ」
「おいで」
モチがすぐ飛んできた。健司の腕に着地する。
「もう完全に覚えたな」
ブルーベリーを一粒。モチが食べる。最近は《おいで》だけなら、ブルーベリーを先に見せなくても飛んでくるようになった。問題は《回れ》だった。
「今日はやらなくていいぞ」
「ピィ」
モチが飛んだ。健司の頭の周囲を一周。元の腕へ戻る。
「言ってない」
「ピィ!」
「だから、勝手にやっても出ないって」
モチが健司のポケットを見る。
「ない」
もう一周。
「押し売りやめろ」
縁側から母親の笑い声が聞こえた。
「賢くなったねえ」
「悪知恵の方じゃない?」
「健司より賢いかも」
「最近それ言うよな」
健司がモチをゴンの背中へ戻すと、ゴンは一度だけ目を開けた。
「ゴンは芸やらなくていいぞ」
反応なし。
「おやつ」
目が開いた。
「聞こえてるな」
十八歳でも食べ物には敏感だった。鶏小屋へ向かう。親鶏の下には、今日も六個の有精卵がある。
「もうそろそろなんだよな」
孵化予定日は近い。健司が覗くと、モチまでゴンから降りて寄ってきた。
「まだ触るなよ」
「ピィ」
「生まれても触るなよ」
「ピィ」
「それは分かってないな」
親鶏を刺激しないよう、すぐ離れた。朝食を食べながら、健司はスマートフォンで借入残高を確認する。
《2,900,000円》
昨日は返済していない。一昨日十万円返して、《土魔法Ⅰ》が増えた。本当に《肩代わり》によるものなのか。次に返済したときも何か起きるのか。気にはなる。だが、それを確かめるためだけに十万円払う気にはならなかった。
「今日はダンジョン?」
母親が聞いた。
「普通の方に行こうかな」
「普通の?」
「畑じゃないところ」
「魔物いるところ?」
「ダンジョンだからいるよ」
「危ない?」
「危なかったら帰る」
「そう」
母親はそれで納得した。健司は味噌汁を飲む。
「農園は?」
「工事中。今日は俺いなくても大丈夫」
「じゃあ行かなきゃいいのに」
「借金あるから稼いでくる」
「また?」
「また」
「大変だねえ」
自分で借りた三百万円なのに、他人事のように言われた。
「母さんも昨日、借りたらって言っただろ」
「言ったっけ?」
「言ったよ」
「じゃあ頑張って」
「軽いな」
食事が終わると、母親が二つのおにぎりを包んでいた。
「今日何?」
「食べてからのお楽しみ」
「なんで急に秘密なの?」
「たまにはいいでしょ」
「変なの入れてない?」
「おにぎりだよ」
「答えになってないな」
少し不安になったが、受け取る。
「ありがとう」
「暗くなる前に帰ってきなさい」
「そんな深く行かないよ」
今日はモチも置いていく。農園なら安全区域内なので連れていくこともあるが、普通の探索は別だ。
「モチ、留守番」
「ピィ!」
「ゴンと母さん見てて」
ゴンは縁側で寝ている。どちらがどちらを見ているのか分からなかった。
◇
ギルドへ着くと、しずくが健司の装備を見て首を傾げた。
「今日は農園じゃないんですか?」
「工事中だから」
「様子見なくていいんです?」
「長谷川さんから朝連絡来た。問題ないって」
「それで普通の探索?」
「借金あるからな」
しずくが少し遠い目をした。
「なんか聞いたことありますね、その理由」
「俺もそう思う」
「三百万円」
「言わなくていいよ」
「残り二百九十万円」
「もっと言わなくていい」
配信用ドローンを起動する。最近ようやく操作にも慣れてきた。購入価格は一万九千八百円。まだ当然覚えている。
「今日もそれ使うんですね」
「買ったんだから使うよ」
「元を取らないと」
「そういうこと」
配信タイトルを入力する。
【借金返済】今日は普通にダンジョンへ行きます
配信を開始すると、すぐコメントが流れ始めた。
《原点回帰》
《懐かしいタイトル》
《農家がダンジョンに戻ってきた》
「元々ダンジョン配信だったんだけど」
《最近ずっと畑》
《畑配信者》
《モチは?》
「家」
《ゴンは?》
「家」
《母ちゃんは?》
「家」
《じゃあ誰見るの》
「俺がいるだろ」
《あ》
「『あ』じゃないよ」
《今日は戦うの?》
「必要なら」
《必要じゃなかったら?》
「避ける」
《いつもの》
「怪我したら畑できないからな」
装備を確認し、Eランク探索者が入れる区域へ向かった。昔なら特別なことではなかった。今も別に深層へ挑戦するわけではない。稼ぐため。そして生きて帰るため。健司は通路へ入ると、配信中でも周囲を見ることを忘れなかった。足元、壁、湿気、音。前より《気配察知Ⅰ》がある分、少し楽になっている。
しばらく進んだところで、低い唸り声が聞こえた。
「いるな」
《何?》
「分からん」
角から少しだけ覗く。岩の窪みに、大きな猪のような魔物がいた。灰色の硬そうな皮膚。口元から左右へ突き出した牙。Eランク帯でよく見かける《岩牙猪》だった。健司より一回り大きい。今は水の溜まった窪みに鼻を近づけている。
《猪》
《戦闘きた》
《土魔法試そう》
健司は少し見てから、首を引っ込めた。
「やめとく」
《え》
《なんで》
「水飲んでるだけだから」
《倒せそうじゃない?》
「倒せると思うよ」
《じゃあ倒す?》
「なんで?」
コメントが一瞬止まった。
《出た》
《その理論》
《倒せる=倒すじゃない男》
「向こう行く道、もう一本あるから」
《稼ぎに来たんじゃ》
「怪我する可能性あるだろ」
《魔石》
「別の魔物倒せばいい」
健司は来た道を少し戻り、脇の通路へ入った。岩牙猪はこちらを追ってこない。
「ほら、終わり」
《戦闘ゼロ》
《平和》
「いいことだろ」
少し先で、壁際に薬草を見つけた。細長い葉に青い筋が入っている。
「これ採れるな」
《何?》
「青脈草」
《高い?》
「そんなに」
薬草用の小さなナイフで根元を掘る。五株ほどまとまっていた。健司が採ったのは二株だけ。
《全部取らないの?》
「取らない」
《なんで》
「来週も欲しいだろ」
《農家》
「野生でも同じだよ。根絶やしにしたら次ないから」
根を傷つけないように二株だけ採取し、収納袋へ入れる。その後、ゴブリン三体と遭遇した。こちらは道を塞いでいる。
「これは避けにくいな」
剣を抜く。
《戦闘だ》
《今度こそ土魔法》
「普通に剣でいいだろ」
一体目が突っ込んでくる。健司は半歩ずれ、振り下ろされた棍棒を避けた。横薙ぎ、首元、一撃、二体目、少し距離がある。健司は左手を地面へ向けた。
「ちょっと盛れ」
土が十センチほど盛り上がる。走っていたゴブリンの足が引っかかった。
「お」
体勢が崩れる。そこへ踏み込み、一太刀。倒れる。
《土魔法使った》
《地味w》
「Ⅰだからな」
三体目は一瞬止まった。その隙に健司が距離を詰める。剣を振る。終わった。
「こういう使い方ならいいか」
《足引っかけ》
《農家魔法》
「大きな壁作れないからな」
《目の前に土盛るだけでも使える》
「転ばせられれば十分だな」
ただし一回使っただけで、それなりに魔力を消費した感覚がある。連発するものではない。
「剣の方が安い」
《魔力にもコスト意識》
「疲れるからな」
さらに探索を続ける。無理に深くは行かない。午前中で、ゴブリン七体。小型の洞窟蜥蜴二体。青脈草二株。途中、《鎧鼠》の群れらしき音を《気配察知Ⅰ》で感じて、通路そのものを変えた。
《また避けた》
「数多そうだったから」
《何体なら戦う?》
「状況による」
《5?》
「狭いところで五体は嫌だな」
《3?》
「武器次第」
《2?》
「それならまあ」
《基準細かい》
「生きて帰る基準だからな」
◇
昼前。安全な休憩場所を見つけて腰を下ろす。
「飯にする」
《待ってました》
《本編》
「ダンジョン探索が本編だよ」
《今日の具》
「知らん」
《!?》
《母ちゃんガチャ》
「朝、教えてくれなかった」
包みを開く。二つのおにぎり。外見では分からない。
「どっちから行く?」
《右》
《左》
《両方》
「両方一緒には食わないよ」
右を選ぶ。一口。健司の動きが止まった。
《何》
《どうした》
「……酸っぱい」
《梅》
「梅じゃない」
もう一口。黒いものが見えた。
「昆布?」
噛む。そして少し眉を寄せる。
「酢昆布だ」
コメント欄が一気に流れた。
《wwwww》
《酢昆布!?》
《おにぎりに!?》
《母ちゃん自由》
《SR酢昆布》
「またレアリティつけるな」
《酢昆布はSR》
《梅より上》
《食べたことない》
「俺もおにぎりでは初めてだよ」
もう一口食べると、酸味のあとに昆布の旨味が広がり、ご飯にもよく合った。思っていたほど悪くない。
「……意外とうまいな」
《認めた》
《商品化》
「しない」
《道の駅で》
「母さんの仕事増やすな」
二個目を割る。
「こっちは塩」
《N》
「安心するな」
《酢昆布SR→塩N》
「俺は塩も好きだからな」
汗をかいたあとには、むしろ塩だけの方が合う。麦茶を飲みながら食べ終える。
「ごちそうさま」
《モチいたら酢昆布食う?》
「やらない」
《ゴンは》
「やらない」
《森おじさんは》
「もう食ったよ」
◇
午後は少しだけ場所を変えた。深く潜るつもりはない。それでも今日は稼ぐために来ているので、無理のない範囲で探索時間をいつもより一時間ほど長くした。
◇
帰路で《岩殻蜥蜴》一体と遭遇した。こちらは通路の中央にいて、迂回路がない。
「これはやるか」
硬い背中を正面から斬っても効きにくい。健司は距離を取り、相手が突進してくるのを待つ。地面。足元。昨日から練習している感覚。
「ここ」
《土魔法Ⅰ》。
ほんの少しだけ地面を掘り下げる。穴と呼ぶには浅い。五センチ程度。だが、突進してきた岩殻蜥蜴の前足がそこへ入った。体勢が傾く。
「今だな」
横へ回る。腹側へ剣を入れる。一撃では倒れない。もう一度。魔物が暴れる前に距離を取り、最後は首元へ剣を突き込んだ。動かなくなる。
「よし」
《土魔法便利》
《めっちゃ地味だけど便利》
「それでいいよ」
《派手な技欲しくない?》
「いらない」
《即答》
「派手な技使わないと倒せない相手とは、なるべく戦わない」
《森おじさん哲学》
「俺は明日も畑あるからな」
魔石を回収する。岩殻蜥蜴の素材も一部価値がある。解体できる場所まで運ぶため、収納袋へ入れた。予定していた時刻より少し前に探索を終えた。
◇
「帰る」
《まだ行けそう》
「そう思ってるときに帰るんだよ」
《名言》
「普通だろ」
《探索者は欲張る》
「俺は欲張らない」
◇
ギルドに戻って査定。今日の魔石と素材。青脈草。合計。
《76,800円》
「七万六千八百」
思ったより多い。さらに配信中の投げ銭。
《28,430円》
合計すると十万円を少し超える。しずくが数字を見た。
「ちょうど返せますね」
「そうだな」
「……返すんですか?」
「返すよ」
「今日の稼ぎほぼ全部ですよ」
「農園の基本報酬と家の農業収入は別にあるし」
「生活費は?」
「残してる」
「予備費は?」
「ある」
「農業資材代は?」
「別」
しずくがじっと健司を見る。
「前よりちゃんとしてる」
「前もちゃんとしてたよ」
「借金慣れしてきてません?」
「嫌な言い方するな」
健司はスマートフォンを開く。
《借入残高 2,900,000円》
返済額。十万円。
「返すぞ」
「はい」
手続き。
《繰り上げ返済 100,000円》
《借入残高 2,800,000円》
「二百八十万」
《また減った》
まだ配信を切っていなかったため、コメントが流れる。
《RTA》
「違う」
《2日で20万》
「毎日やるわけじゃないぞ」
《今日何引く?》
「引く前提やめろ」
《土魔法の次》
《ガチャ》
「返済だって」
健司は少し待った。前回のようなはっきりした感覚はない。
「何もない?」
しずくも健司を見る。
「どうです?」
「分からん」
《ハズレ》
「ハズレとか言うな。借金十万減っただろ」
《正論》
「今日はそれで十分」
配信を終了する。ドローンを手に取ったところで、健司は指を止めた。
「ん?」
「どうしました?」
「ここ、少しぐらついてる」
ローターを囲む小さな保護枠。昨日までは気にならなかった。ごくわずかに角度がずれている。
「ぶつけました?」
「ぶつけてないと思うけど」
「モチに追われたとき?」
「あれは家で試しただけだぞ」
健司は枠を指で軽く押した。違和感。
「これ、ネジじゃないな」
「分かるんですか?」
「なんとなく」
接合部分をよく見る。
「ここの留め具が少し浮いてる」
「私には分かりませんけど」
健司は爪で小さなカバーを外した。中にある金具。ほんの少しずれている。
「これ戻せばいい」
「森おじさん、それ自分で開けて大丈夫です?」
「駄目?」
「壊したら保証対象外になる可能性ありますよ」
健司の手が止まった。
「……やめる」
「そこは慎重なんですね」
「一万九千八百円だからな」
「まだ言う」
「修理受付ある?」
「あります」
「じゃあ出す」
カバーを戻す。ところが、戻すときに健司は妙な感覚を覚えた。金具がどう噛み合っているのか。どこに力がかかっているのか。何をすれば元へ戻るのか。見ただけで、なんとなく分かる。
「しずく」
「はい?」
「ちょっと鑑定していい?」
しずくの顔が変わった。
「まさか」
「いや、分からんけど」
昨日の《土魔法Ⅰ》。今日、十万円返済。そして突然、機械の壊れ方が妙に分かる。
「やりましょう」
簡易鑑定。結果が表示される。
《剣術Ⅰ》
《身体強化Ⅰ》
《気配察知Ⅰ》
《火炎魔法Ⅰ》
《土魔法Ⅰ》
そして。
《修繕Ⅰ》
二人とも黙った。
「……増えてるな」
「増えてますね」
「修繕」
「はい」
「今日?」
「昨日の鑑定にはありません」
「じゃあ返済か」
「二回連続ですから、その可能性は高いですね」
健司は鑑定画面を見た。
「誰から?」
「分かりません」
「そうだよな」
しずくが少し気味悪そうな顔をする。
「森おじさん、本当に心当たりないんですよね?」
「ないよ」
「今回の三百万円、誰かに借りろって言われたわけでもない」
「自分で決めた」
「誰かの保証人でもない」
「違う」
「なのに返すたび増える」
「そうみたいだな」
「怖くないです?」
健司は少し考えた。
「ちょっと怖い」
「ちょっとなんですか」
「でも借金は返さないといけないし」
「それはそうですけど」
「誰かのスキルが減ってるなら、その人には悪いな」
「……前と同じなら、そういうことになりますね」
「誰なんだろうな」
答えは出ない。健司はそれ以上考えるのをやめた。
「分からんものは分からん」
「調べないんです?」
「何を?」
「今回の借金に関係ありそうな人とか」
「誰がいるかも分からないのに?」
「それは……」
「工事会社も何社もあるし、保険会社も研究部もギルドも関わってるだろ」
「そうですね」
「全員調べるの?」
「無理ですね」
「じゃあ返すだけ返すよ」
健司は《修繕Ⅰ》の文字を見た。
「これ、鶏小屋直すのに使えるかな」
「もう用途が生活なんですよね」
「便利そうだろ」
「探索者のスキルなんですけど」
「農家も物壊れるからな」
◇
同じころ。黒崎剛造は、取引先のダンジョン施設にいた。
「制御盤、丸ごと交換した方がいいな」
壁に埋め込まれた魔力灯の制御盤を見ながら言う。施設担当者が眉を寄せた。
「昨日までは接触不良程度と聞いていましたが」
「中まで傷んでる」
「修理では無理ですか?」
「直してもまた壊れるよ」
黒崎はカバーを開ける。本当は、交換が必要なほど壊れてはいなかった。接続端子を二つ交換し、魔力導線を一本取り替えれば済む。部品代もそれほど高くない。だが制御盤を丸ごと交換すれば、請求額は十倍近くになる。
「安全を考えたら交換だ」
「いくらくらいになります?」
「八十万前後だな」
「そんなに?」
「ダンジョン内設備だぞ。地上の制御盤と一緒にするな」
黒崎は自信ありげに言う。
「俺が見れば分かる」
Aランク探索者。現場経験も長い。その肩書きを出せば、大抵の相手は黙る。ところが。
「……ん?」
黒崎の指が止まった。内部配線を見ても、昨日までのように状態がすぐ頭へ入ってこない。どこを直せばいい。どこが劣化している。どう繋げば最短で復旧する。長年持っていた感覚が、少しぼやけている。
「社長?」
「黙ってろ」
試しに端子へ触れる。工具を当てる。ほんのわずかに角度がずれた。
「ちっ」
黒崎は工具を置いた。
「今日は交換前提で見積もり出す」
「修理確認は?」
「必要ない」
施設担当者が納得しきれない顔をした。
「他社にも見てもらいます」
「好きにしろ」
黒崎は苛立ちながら現場を離れた。車に戻ったところで、鑑定端末を取り出す。昨日から嫌な予感がしていた。読み込み。
《身体強化Ⅲ》
《地形把握Ⅲ》
《魔力操作Ⅲ》
《採掘Ⅱ》
《土魔法Ⅲ》
そして。
《修繕Ⅱ》
黒崎の顔が固まった。
「……ふざけるな」
昨日まで、
《修繕Ⅲ》
だった。今朝も使えていた。それが一段落ちている。
「またかよ」
土魔法。今度は修繕。二日続けて、自分の技能が一段ずつ消えた。病気ではない。呪いでもない。鑑定士にも原因不明と言われた。黒崎は端末を強く握った。
「誰だ……?」
誰かに何かをされている。そう考える方が自然に思えてきた。だが、誰が。何のために。どうやって。答えは一つもない。まして、少し離れた町の四十六歳の農家が十万円を返済したことなど、黒崎が知るはずもなかった。
◇
夕方、健司が家へ戻ると、母親が鶏小屋の前にいた。
「健司」
「何?」
「これ、ちょっと変」
鶏小屋の扉。下側の蝶番が少し傾いている。
「昨日までは大丈夫だったよな」
「たぶん」
「見てみる」
健司がしゃがむ。以前なら、ネジが緩んでいるか、木が歪んでいるか、一つずつ確認していただろう。今日は見た瞬間、なんとなく分かった。
「木の方だな」
「分かるの?」
「たぶん」
湿気で木が少し膨らみ、蝶番の片側に負荷がかかっている。ネジを締め直すだけでは、またずれる。
「少し削って位置戻せばいい」
工具を持ってくる。作業そのものは魔法ではない。だが、どこを削ればいいかが妙によく分かる。十数分、扉を開く、閉める、引っかからない。
「よし」
母親が扉を二度動かす。
「上手になった?」
「《修繕Ⅰ》っていうの増えた」
「また?」
「また」
「便利だね」
「そうだな」
「次は何増えるの?」
「知らないよ」
母親は鶏小屋の中を覗いた。
「あ」
「何?」
「卵」
健司も覗く。六個のうち、一つ。殻の表面に、昨日までなかった小さな線が入っていた。
「割れてる?」
「割ったんじゃないよ」
健司は近づきすぎないようにする。小さな亀裂。内側からつついたような跡。その横で、親鶏がじっと卵を抱いている。
「……始まったかな」
モチが飛んできた。
「お前は近づくな」
「ピィ!」
ゴンもゆっくり鶏小屋の前まで来る。健司はしゃがんだまま、小さな亀裂を眺めた。今日、借金は十万円減った。代わりに、なぜか《修繕Ⅰ》が増えた。それも気になる。誰から来たのかも分からない。だが今は、それよりも。
「明日かな」
小さな卵の中から、かすかな音がした。こつ。健司と母親が同時に顔を近づけた。
「今、鳴った?」
「鳴ったね」
モチまで首を伸ばす。
「だからお前は待て」
もう一度。こつ。十八歳のゴンは、その場にゆっくり伏せた。今夜は、鶏小屋が少し気になりそうだった。




