第33話 また一つ増えた
翌朝、健司は五時過ぎには畑に出ていた。昨日まで降り続いていた雨はすっかり止み、東の空には薄い雲が残っている。土はまだかなり水を含んでいたが、水たまりになっている場所はない。昨日までに切っておいた排水溝も機能している。
「こっちは大丈夫そうだな」
トマトの葉を一枚持ち上げる。雨のあとだから病気が出やすい。葉の裏まで確認してから隣へ移る。借金が三百万円に戻った翌朝でも、畑の仕事は変わらなかった。むしろ健司としては、その方がありがたい。三百万円のことだけ考えていたところで、金額が勝手に減るわけではない。家の畑をやる。売れる野菜を作る。
空いた時間にダンジョンへ行く。農園の仕事もする。配信も続ける。前と同じように、一つずつ返していけばいい。
「今度は俺が借りたんだしな」
自分で口にすると、少しだけ不思議な感じがした。前回は三百万円という数字を見るたびに、上原たちの顔が頭に浮かんだ。今回は違う。誰かに返せと言われたわけではない。自分で書類を読んで、自分で判を押した。だからなのか、同じ三百万円でも重さが少し違う。軽いわけではない。ただ、腹は立たなかった。
畑の端まで行ったところで、後ろからゴンがゆっくりやってきた。
「おはよう」
十八歳の秋田犬は健司の足元まで来ると、そのまま横に座った。今日は背中にモチはいない。
「一人?」
ゴンが振り返る。健司も同じ方向を見る。縁側の手すりに、白い小さな鳥がいた。
「今日は歩く気ないのか」
「ピィ!」
健司が手を出す。
「おいで」
モチがすぐ飛んできた。昨日より迷いがない。腕へ着地。
「完全に覚えたな」
ポケットからブルーベリーを一粒取り出す。
「ほら」
モチが食べる。
「これ配信でやったら喜ぶかな」
ゴンがこちらを見る。
「ゴンもやる?」
健司が手を出した。
「おいで」
ゴンは動かなかった。
「……まあ知ってるもんな」
十八年間一緒にいる犬に、いまさら《おいで》を教える必要もない。
「おやつ」
ゴンが立った。
「そっちは来るのか」
健司は笑って、犬用の小さなおやつを一つ渡した。鶏小屋も確認する。六つの有精卵は今日も親鶏の下にあった。孵化予定までは、もうそれほど長くない。健司が覗き込んでいると、モチも肩から首を伸ばした。
「まだだぞ」
「ピィ」
「毎日言ってるな、これ」
◇
家へ戻ると、母親が朝食を並べていた。
「今日もダンジョン?」
「うん。今日から工事始まるって」
「三百万の?」
「そう」
「もう借りたんだっけ?」
「昨日借りた」
「そうだったね」
健司は椅子に座った。
「借金三百万」
「また?」
「昨日もその反応だったよ」
「そう?」
「そう」
母親は味噌汁を置いた。
「返せるの?」
「返すよ」
「じゃあいいね」
「簡単に言うなあ」
「借りたんでしょ?」
「借りた」
「じゃあ返すしかないじゃない」
「それはそう」
結局、前回と同じだった。母親に相談すると話が単純になる。健司は焼き魚を食べながらスマートフォンを確認した。昨日の配信収益、直近の広告収入、農作物の売上、農園の契約報酬。ダンジョンで得た魔石や素材の売却代金。前回の借金を返し終えたあとも、健司は全部を使ってはいなかった。生活費。農業資材。
予備費。それらを分けたうえで、余る金がある。
「最初、十万くらい返しとくか」
母親が聞く。
「もう?」
「借りたまま置いといても減らないし」
「昨日借りたばっかりだよ」
「だからって一か月待つ必要ないだろ」
「そういうもの?」
「知らんけど、繰り上げ返済できるって書いてあった」
「じゃあ返したら」
「うん」
母親があまりにも普通に返したので、健司もそれ以上考えなかった。朝食を終える。すぐにスマートフォンから融資口座を開いた。
《借入残高 3,000,000円》
見慣れたくない数字だった。
「十万」
入力する、確認、振込。
《繰り上げ返済額 100,000円》
《借入残高 2,900,000円》
「二百九十万」
母親が台所から言った。
「前も見たね、その数字」
「俺も今思った」
「じゃあ前と一緒だね」
「今回は違うんだけどな」
「数字は一緒でしょ」
「そうだけど」
健司はスマートフォンを閉じ、少し待ってみた。胸の奥にも腕にも頭にも、特に変化はない。
「やっぱり今回は普通か」
「何が?」
「《肩代わり》」
「ああ」
母親はそれだけ言って、朝食の皿を片づけ始めた。以前なら返済するたびに何かが起きた。剣が扱いやすくなったり、体が軽くなったり、妙に遠くの気配が分かるようになったり。今回は自分で作った借金だ。何も起きない方が自然だった。
「行ってくる」
「おにぎり持った?」
「まだもらってない」
「作ったよ」
母親が冷蔵庫の横に置いていた包みを渡す。
「今日は?」
「おかか」
「おお」
「何?」
「また具入り」
「最近ずっと具入れてるでしょ」
「そうだった」
「塩に戻す?」
「いや、おかかでいい」
「じゃあ持ってきなさい」
「ありがとう」
玄関へ向かう。モチもついてくる。
「今日は連れていこうかな」
「ピィ!」
「工事区域には入れないけど、農園は安全確認済んでるし」
ゴンも立ち上がった。
「ゴンは留守番」
ゴンが健司を見る。
「ダンジョンだからな」
健司は頭を撫でる。
「モチは飛べるし、小さいから危なかったら鞄入れる」
ゴンは玄関までついてきたが、外には出なかった。
「母さん頼む」
「はいはい」
◇
そのころ、《黒崎ダンジョン開発》では朝の打ち合わせが行われていた。社長の黒崎剛造は、現場へ向かう準備をしていた。今日はAランクダンジョンの内部で、岩盤補強工事の事前調査がある。会社経営だけでなく、今でも黒崎自身が現場へ出ることは珍しくない。それが営業上の強みにもなっている。Aランク探索者が直接確認する。
そう説明すれば、発注側も安心する。
「昨日の農業区画、どうなった?」
黒崎が社員に聞く。
「施設側が緊急復旧費を確保したようです」
「もう?」
「はい」
「早いな」
「契約事業者向けの緊急融資を使ったという話です」
「誰が借りた?」
「農園の管理協力者だそうです」
黒崎が眉を上げる。
「個人?」
「はい。農家兼探索者です。配信もしているようです」
「へえ」
黒崎は興味なさそうに装備の留め具を確認した。
「他人の施設直すために三百万借りたのか?」
「金額の詳細までは分かりません」
「物好きもいるもんだ」
黒崎は笑った。
「まあ、そういう奴がいるから商売になるんだけどな」
「復旧工事の見積もりは?」
「営業が確認中です。ただ、施設側は複数社から相見積もりを取るようです」
「面倒だな」
黒崎は顔をしかめた。
「うちなら昔の図面持ってるんだから、最初からこっちに頼めば早いだろ」
「その点は営業から伝えています」
「少しくらい高くても、緊急なら通る」
「はい」
「資材費も上がってる。搬入費も乗せろよ」
「分かりました」
黒崎はそれ以上気にしなかった。社員とともに会社を出る。向かったのは、農業区画とは別のダンジョンだった。現場へ入る。黒崎は分厚い岩壁の前で手袋を外した。
「ここか」
「はい。奥側に空洞反応があります」
「見れば分かる」
黒崎が片手を壁へ向ける。長年使い続けてきた土魔法。岩盤や土砂を扱うには欠かせない。本人の探索にも、会社の工事にも使ってきた能力だった。
「《土壁》」
魔力が流れる。岩壁の一部が盛り上がり、補強用の土壁が形成される。しかし。
「……ん?」
いつもより薄い。黒崎が眉を寄せる。
「社長?」
「いや」
もう一度。今度は魔力を多めに流す。土が動く、壁が厚くなる、問題なく使える。ただ、少しだけ感覚が違った。
「魔力の流れが悪いな」
「休みますか?」
「必要ない」
黒崎は手を握る。疲れているわけでもない。昨日も十分寝た。体調も悪くない。
「もう一回測るか」
簡易鑑定端末を取り出す。自分の探索者証を読み込ませた。技能一覧。
《身体強化Ⅲ》
《地形把握Ⅲ》
《修繕Ⅲ》
《魔力操作Ⅲ》
《採掘Ⅱ》
そして。
《土魔法Ⅲ》
黒崎の指が止まった。
「……は?」
もう一度見る。
《土魔法Ⅲ》
「どうしました?」
社員が聞く。
「これ、壊れてるぞ」
「端末ですか?」
「土魔法がⅢになってる」
「以前は?」
「Ⅳだよ」
社員も画面を見る。
「再測定しますか?」
「当たり前だ」
別の端末を持ってこさせる。測定。
《土魔法Ⅲ》
三台目。同じ。黒崎の顔から笑みが消えた。
「おかしいだろ」
「技能ランクが自然低下する例は、ないわけではありませんが……」
「俺は昨日までⅣだった」
「直近の正式鑑定記録を確認します」
「先月やった」
「ではギルド側にも問い合わせを」
「さっさとしろ」
黒崎は自分の手を見る。確かに土魔法は使える。Aランク探索者として戦えないほど弱くなったわけでもない。ⅣがⅢになった。ただそれだけ。だが、黒崎にとっては「ただそれだけ」で済む話ではなかった。何十年もかけて積み上げた能力だった。
「……なんなんだよ」
原因は分からない。当然、今朝どこかの農家が十万円を返済したことなど、知るはずもなかった。
◇
「おはよう」
健司がギルドへ入ると、しずくが受付から顔を上げた。
「おはようございます、森おじさん」
「今日から工事?」
「はい。業者さんがもう入ってます」
「早いな」
「緊急案件ですから」
「借りた甲斐あった?」
「まだ初日です」
「そうだった」
しずくが端末を見ていた手を止めた。
「というか森おじさん」
「何?」
「もう十万円返したんですか?」
「返した」
「昨日借りたんですよ?」
「知ってる」
「一日ですよ?」
「金あったから」
「なら最初から二百九十万円借りればよかったんじゃないですか?」
健司が止まった。
「……それもそうだな」
「考えてなかったんですか!?」
「上限で申請した方が工事止まらないと思って」
「まあ、それ自体は間違ってませんけど」
「余ったら返せばいいだろ」
「そういうところだけ豪快なんですよね」
「三百万は豪快じゃないよ」
「もう慣れてません?」
「慣れたくない」
肩に乗っていたモチが鳴いた。
「ピィ」
しずくが一瞬で表情を変える。
「モチ!」
「俺との会話より反応いいな」
「モチ、おはよう」
「ピィ!」
「森おじさん、ちょっと貸してください」
「物みたいに言うなよ」
モチが自分からしずくの手へ飛んだ。
「行った」
「モチー」
「ブルーベリー持ってる?」
「あります」
「なんで受付に?」
「常備です」
「誰用だよ」
「モチ用ですよ」
「俺より準備いいな」
しずくがブルーベリーを見せる。
「モチ、おいで」
「それ覚えたよ」
「え?」
「昨日から」
「本当ですか?」
「やってみ」
しずくが少し離れて手を出す。
「モチ、おいで!」
モチが飛んだ。しずくの手へ。
「きゃー!」
「大げさだな」
「芸覚えたじゃないですか!」
「おいでくらい犬でもできるだろ」
「鳥ですよ!」
「鳥もできるだろ」
「配信しました?」
「まだ」
「今日やってください!」
「農園見に来たんだけど」
「休憩中でいいです!」
しずくの勢いに押されながら、健司は農業区画へ向かった。管理通路の入口では、すでに工事が始まっている。昨日まで散乱していた大きな土砂の一部が撤去され、仮設の支柱が入っていた。作業員たちは壁の状態を調べながら、古い配管を外している。
「早いな」
長谷川が近づいてきた。
「おはようございます」
「おはよう。これ何日くらい?」
「現時点では五日程度を予定しています」
「予定より早い?」
「大きな追加崩落がなければ」
「じゃあ邪魔しない方がいいな」
「農園側は入れます」
「そっちだけ見る」
配信を始める。
【ダンジョン農園】今日から復旧工事です
《きた》
《300万》
「朝一番それやめろ」
《返済した?》
「十万返した」
《は?》
《昨日借りたよね?》
《もう?》
「返せるとき返す」
《借金RTA再開》
「RTAじゃない」
《残り290万》
「数字出すな」
《前に見た》
「俺も朝言った」
コメントが一気に増える。健司は工事区域を遠くから映した。
「危ないところには行かないからな」
《知ってる》
《森おじさんは戦えるのに帰る男》
「帰れるなら帰るよ」
《工事手伝わないの?》
「専門家の邪魔する方が危ない」
《まとも》
「何だと思ってるんだ」
《鍬でダンジョン行こうとした人》
「昔の話だろ」
《そんな昔じゃない》
◇
農園へ入る。三十六株の紅晶実は今日も生きている。応急給水。仮設照明。まだ不便ではあるが、昨日より環境は安定している。
「これなら工事終わるまで持ちそうだな」
長谷川も頷く。
「今のところは」
「よかった」
健司は一株ずつ確認する。葉、茎、土を順に確認した。その途中で、少し離れた場所の土が盛り上がっていることに気づいた。
「ここ昨日こうだった?」
「どこですか?」
「この端」
健司が指差す。作物を植えていない場所。ほんの少しだけ土が盛り上がっている。
「工事の振動ですかね」
「かもしれない」
健司は靴の先で軽く均した。特に気にしない。そのあとも通常通り作業を続けた。午前の仕事が一段落したところで、しずくからメッセージが来る。
《モチの芸お願いします》
「仕事中だぞ」
《休憩で》
「覚えてたのか」
◇
昼。健司は農園から離れた休憩場所へ移動した。
「飯にする」
《おにぎり》
《今日何》
「おかか」
《R》
「梅と同じ?」
《おかかR+》
「細かくするな」
包みを開ける。一口。
「うまい」
《知ってた》
《今日も食レポ終了》
「おかかだからな」
モチが健司のおにぎりを見ている。
「これはやらんぞ」
「ピィ」
「お前はこっち」
ブルーベリーを一粒取り出した。コメント欄が反応する。
《来た》
《モチタイム》
《主役交代》
「交代してない」
健司はモチを少し離れた柵へ乗せる。
「モチ」
「ピィ」
「おいで」
飛んでくる。健司の腕へ。
《!?》
《できた》
《賢い》
《もう一回》
「一回でいいだろ」
《もう一回》
《ブルーベリー代投げる》
「そういう問題じゃない」
健司はもう一度柵へ戻した。
「おいで」
飛ぶ。
《天才》
《かわいい》
《ゴンにも教えよう》
「ゴンは十八年前からできるよ」
《大先輩》
《ゴン師匠》
「でも、おやつないと来ないときある」
《師匠w》
健司は昨日母親に言われたことを思い出した。
「あと昨日、回れもやったんだけど」
《できるの?》
「一回だけ飛んで俺の周り回った」
《見たい》
《やれ》
「偶然だと思うぞ」
モチを腕へ乗せる。指で円を描く。
「回れ」
モチは動かない。
《草》
「やっぱりな」
《ブルーベリー見せろ》
「先に見せたらそれしか見なくなるだろ」
健司が一粒取り出す。モチの目がそこへ向いた。
「ほら」
《完全に見てる》
《報酬制》
「回れ」
モチはブルーベリーを見る。健司を見る。もう一度ブルーベリー。そして飛んだ。健司の頭の周りを一周。腕へ戻る。コメント欄が爆発した。
《wwwww》
《できた》
《天才》
《芸鳥》
《もう覚えてるじゃん》
「本当に回ったな」
「ピィ!」
「はいはい」
ブルーベリーを渡す。
《モチの方が森おじさんより配信上手》
「俺の配信だぞ」
《モチチャンネル》
《登録します》
「作らないって」
休憩時間は、復旧工事よりモチの芸の方が盛り上がった。健司としては少し複雑だったが、視聴者が楽しんでいるなら別にいい。
◇
午後。工事の進捗を確認し、紅晶実の記録を取る。今日は危険な場所へ入る必要もない。作業を終え、帰ろうとしたところで、健司はまた足元に目を向けた。
「ん?」
さっき靴で均した場所。また少しだけ盛り上がっている。
「誰か踏んだ?」
周囲には誰もいない。健司がしゃがむ。手を近づける。その瞬間。土が、ほんの少しだけ動いた。
「……え?」
健司の指が止まった。もう一度。土を見ながら、なんとなく「こっち」と思う。ざら、数センチ、土が横へずれた。
「長谷川さん」
「はい?」
「ちょっと来て」
長谷川が近づく。
「何かありました?」
「これ」
「土?」
「見てて」
健司は手をかざした。さっきと同じ感覚を探す。
「こっち」
土が少し盛り上がる。長谷川が固まった。
「森さん」
「うん」
「今、土魔法使いました?」
「俺もそう見えた」
「《火炎魔法Ⅰ》ですよね?」
「それは持ってる」
「土魔法は?」
「持ってない……はず」
健司は自分の腕を見る。妙な感覚だった。火炎魔法を使うときとは違う。土の位置。重さ。どこを動かしたいか。なんとなく分かる。
「鑑定しに行くか」
「すぐ行きましょう」
配信はすでに切っていた。ギルドへ戻り、簡易鑑定を受ける。しずくも横から覗き込んでいた。
「森おじさん、また何したんですか?」
「何もしてないよ」
「普通の人は何もしてないのにスキル増えません」
「俺もそう思う」
鑑定結果が表示される。既存の技能。
《剣術Ⅰ》
《身体強化Ⅰ》
《気配察知Ⅰ》
《火炎魔法Ⅰ》
そして、その下。
《土魔法Ⅰ》
しずくが黙った。健司も黙った。長谷川も画面を見る。
「……増えてるな」
健司が言った。しずくが振り向く。
「今日、何しました?」
「畑」
「それは毎日です」
「十万円返した」
「……え?」
「朝、借金」
しずくの表情が変わる。
「まさか」
「俺も今思った」
「《肩代わり》?」
「かもしれない」
「でも今回、自分で借りたんですよね?」
「自分で借りた」
「誰かに押しつけられてませんよね?」
「ない」
「保証人でもない」
「違う」
「じゃあ、誰の肩代わりなんですか?」
健司は首を傾げた。
「知らん」
「知らんって……」
「俺が聞きたいよ」
しずくは鑑定結果をもう一度見る。間違いなく《土魔法Ⅰ》。
「昨日、借りたときは何も起きませんでしたよね?」
「何もなかった」
「今日十万円返した」
「うん」
「それで土魔法が増えた」
「たぶん」
「前と同じじゃないですか」
「でも今回は相手いないぞ」
「そこなんですよ」
二人とも黙った。第1巻の三百万円。あのときは、返済するたびに上原たちが負担すべきものを健司が肩代わりしていた。だから《肩代わり》が動いた。今回は違う。少なくとも健司が知る限り。
「鑑定の誤差?」
健司が聞く。
「スキル一個増える誤差はありません」
「じゃあ自然に覚えた?」
「今日突然?」
「畑ずっとやってるから」
「農家全員土魔法使えますよ、それなら!」
「便利なんだけどな」
「そういう話じゃありません」
健司は鑑定画面を見る。
《土魔法Ⅰ》
「誰のだろうな」
しずくが小さく言う。
「……それが一番怖いですよ」
「まあ、分からないもの考えても仕方ない」
「森おじさん!」
「使えるか試していい?」
「先にそっちなんですか?」
「危なくないところで」
訓練スペースへ移動する。土が入った練習区画。健司が手を向けた。
「ちょっと盛れ」
土が盛り上がる。高さ五センチほど。
「おお」
もう少し。十センチ。そこで魔力の消費を感じる。
「これくらいか」
しずくが見ている。
「土魔法Ⅰですね」
「畝作れるかな」
「最初にそれなんですか?」
「土動かせるんだろ?」
「戦闘とか壁とかありますよ」
「Ⅰだぞ」
健司はもう一度土を盛る。細長く、畝のような形、途中で崩れる。
「あ」
「崩れましたね」
「均一にするの難しいな」
「魔法なんですから練習してください」
健司は少し考えたあと、言った。
「……鍬の方が早いな」
しずくが吹き出した。
「結局それですか!」
「今のところは」
「せっかく土魔法覚えたのに!」
「鍬なら一発だぞ」
「比較対象がおかしいんですよ!」
健司自身も笑った。だが、胸の奥には小さな疑問が残った。なぜ《土魔法Ⅰ》が増えたのか。誰の負担を、自分は肩代わりしたのか。答えは分からない。そして同じころ。遠く離れたダンジョンで黒崎剛造は、三台目の鑑定端末に表示された《土魔法Ⅲ》という文字を睨み続けていた。健司はそのことを知らない。
黒崎もまた、自分の失った一段階が、どこへ行ったのか知らなかった。




