第31話 また三百万円
朝から雨だった。屋根を叩く音で目を覚ました健司は、布団の中でしばらく天井を見ていた。昨日の夜から降り続いている。大雨というほどではないと思っていたが、雨脚は弱くならず、庭の土もすっかり色が濃くなっていた。時計を見る。まだ六時前。
「今日は種の部屋か」
昨日、《旧試験農業区画》の奥で見つかった旧種子保管庫。五年間閉ざされたままだった扉が、ようやく解錠可能になっていた。中に何が残っているかは分からない。《月白芋》や《魔蜜南瓜》の古い記録もある。使える種が残っているなら、今後の農園再生にも役立つだろう。だからといって、まずダンジョンへ向かうわけではない。
健司は作業着に着替え、雨合羽を羽織った。玄関を開けると、湿った風が入ってくる。
「結構降ったな」
家の畑へ出た。雨の日だから仕事がなくなるわけではない。むしろ雨の日に見ておかなければならないところもある。排水、畝の崩れ、水の溜まり。昨日までは何ともなかったところでも、一晩まとまって降れば様子が変わる。健司は長靴で畑の端まで歩いた。一か所、水が少し溜まっている。
「ここか」
鍬を持ってきて、浅い溝を切る。ほんの数センチ。それだけで溜まっていた水がゆっくり流れ始めた。
「よし」
後ろから足音がした。振り返ると、ゴンが縁側から降りようとしている。
「お前は出なくていい」
十八歳の秋田犬は一度止まり、それでもこちらへ来ようとした。
「濡れるぞ」
ゴンは雨を見た。健司を見た。もう一度雨を見る。そして縁側へ戻った。
「賢いな」
そのゴンの横で、白い塊がぴょんと跳ねた。モチだった。
「お前も出るなよ」
「ピィ」
「羽濡れるぞ」
「ピィ」
モチは縁側の端から雨を眺めていたが、さすがに飛び出してはこなかった。健司は畑を一周し、鶏小屋にも寄った。有精卵六個。親鶏は今日もしっかり抱いている。
「もう少しだな」
モチがいつの間にか鶏小屋の入口まで来ていた。
「だから濡れるって」
頭の羽が少しだけ湿っている。健司はタオルで軽く拭いた。
「卵は逃げないぞ」
「ピィ」
「お前、最近毎日見てるな」
卵を見たいのか、親鶏を見たいのか、それとも単に健司についてきているだけなのかは分からない。
◇
家に戻ると、母親が朝食を並べていた。
「濡れた?」
「ちょっと」
「雨降ってるのに外行くから」
「畑あるからな」
「今日はダンジョン?」
「行く。種の保管庫を開ける予定」
「昨日も種って言ってたね」
「覚えてた?」
「それくらい覚えてるよ」
「そうだな」
味噌汁を飲む、焼き鮭、卵焼き、漬物。雨の日でも朝食は変わらない。食べ終わるころ、母親が台所でおにぎりを作り始めた。
「今日も?」
「昼になるでしょ」
「今日は保管庫開けるだけだから、そんなに遅くならないと思うけど」
「昨日もそう言ってなかった?」
「昨日は言ってない」
「じゃあ持っていけばいいでしょ」
二つ。いつもの大きさ。健司は包みを受け取った。
「今日は何入ってる?」
「塩昆布」
「具あるんだ」
「嫌?」
「いや。豪華だな」
母親が健司を見る。
「塩昆布で?」
「いつも塩だから」
「安上がりだねえ」
横でモチが包みを見ていた。
「これはお前のじゃない」
「ピィ」
「ブルーベリーは持ってく」
途端にモチが一歩近づいた。母親が笑った。
「分かるんだね」
「ブルーベリーだけはな」
健司は一粒だけ取り出した。
「おいで」
モチがすぐ手に乗る。
「……これは芸になるのか?」
「ピィ」
「食い物につられてるだけだな」
もう一度、少し離れたところへモチを置く。
「おいで」
ぴょん。今度は腕へ。ブルーベリーを一粒。
「覚えた?」
「ピィ!」
「たぶんブルーベリー覚えただけだな」
母親が言った。
「健司より覚えるの早いんじゃない?」
「俺と比べるなよ」
出発前、新しく買った配信用ドローンも鞄に入れた。一万九千八百円。まだ金額を覚えている。たぶんしばらく忘れない。玄関を出ようとしたところで、スマートフォンが震えた。長谷川からだった。
《森さん、到着前に一度連絡ください》
いつもと少し違う文面だった。
「何だろ」
電話をかける。すぐ出た。
『森さん、今どちらですか』
「家。これから行くところ」
『今日は旧種子保管庫の開封を延期します』
「何かあった?」
数秒、間があった。
『旧試験農業区画へ続く管理通路の一部で、崩落が確認されました』
健司の手が止まった。
「崩落?」
『はい。農園そのものが全部潰れたわけではありません。ただ、魔力水の主管と一部の電源設備が止まっています』
「紅晶実は?」
『現時点では生きています』
「今から行く」
『ただ、危険区域には入れません』
「分かってる。外から見るだけでもいい」
電話を切る。
◇
母親が台所から顔を出した。
「どうしたの?」
「ダンジョンの畑の近く、崩れたって」
「あら」
「ちょっと行ってくる」
「危ないところ行かないでよ」
「行かない」
「前もそう言ってた?」
「前は危ないところ避けて帰っただろ」
「そうだったっけ」
「そうだよ」
健司は靴を履いた。
「今日は遅くなるかもしれない」
「じゃあおにぎり持っていって正解だね」
「そうだな」
外へ出る。雨はまだ降っていた。軽トラックを走らせ、ギルドへ向かう。道路にも水が溜まっている場所があった。川の水位も普段より高い。ギルドの駐車場へ着くと、入口の前にしずくが立っていた。
「森おじさん」
「聞いた」
「今、研究部と施設管理が入ってます」
「農園は?」
「直接の崩落はしてません。ただ、通路の一部が落ちて、配管と魔力灯の系統が切れました」
「水止まってる?」
「止まってます」
「どれくらい持つ?」
「紅晶実はすぐ枯れるわけじゃないですけど……」
「行こう」
「配信は?」
健司は少し考えた。
「危険なところ映さなければいい?」
「現場責任者に確認します」
「じゃあ最初は切っとく」
しずくと一緒に管理区域へ向かった。途中から普段とは空気が違った。黄色い規制テープ。作業員。警告灯。大型の魔力測定器。農園へ向かう通路の手前で立ち入りが止められていた。長谷川がヘルメット姿でやってくる。
「森さん」
「どこ?」
「こちらです」
規制線の手前からでも分かった。通路の奥。壁の一部が崩れている。床も割れ、そこから土砂と石が流れ込んでいた。完全に通れないわけではない。しかし普段使っていた管理通路の半分近くが塞がれている。
「結構いったな」
「はい」
長谷川が図面を広げた。
「崩落したのは農園本体の少し手前です。ここを魔力水の主管が通っていました」
「切れた?」
「破断しています」
「電気は?」
「魔力灯の幹線も一部損傷」
「排水?」
「こちらも確認中です」
健司は通路の天井を見る。
「昨日まで何ともなかったよな?」
「外から見える範囲では」
「雨?」
「地上の降雨による地下水圧の上昇と、ダンジョン内部の微細な地盤変動が重なった可能性が高いそうです」
「古いしな」
「五年以上ほぼ使われていなかった区域ですから」
健司は黙って崩落箇所を見た。腹が立つというより、まず考える。
「農園まで行く別ルートは?」
「保守用の細い通路があります。ただし人が通れるだけで、大きな資材は運べません」
「水運べる?」
「小型タンクなら」
「じゃあ今日だけでも入れよう」
長谷川が頷いた。
「研究員も同じ判断です。応急的に手運びで給水します」
「俺も運ぶ」
「森さんは契約上――」
「重いの運ぶくらいならできる」
「危険区域には入らないでください」
「入らないよ」
その返事を聞いて、しずくが横から言った。
「森おじさん、今のは信用できます」
「何だよ」
「戦えって言っても帰る人ですから」
「危ないなら帰るだろ」
「普通の探索者はそこでもうちょっと悩むんですよ」
「悩んで怪我する方が嫌だろ」
現場責任者から許可が出たあと、健司は配信を始めた。タイトルを少し迷う。
【ダンジョン農園】種子保管庫を開ける予定でした
開始直後からコメントが流れた。
《予定でした?》
《過去形》
《何があった》
《今日種の部屋じゃないの?》
「開けられなくなった」
ドローンを規制線より手前で止め、崩落箇所を遠くから映す。
《うわ》
《崩れてる》
《でかくない?》
《農園大丈夫?》
「畑そのものは今のところ大丈夫。通路がやられた」
《紅晶実は?》
「生きてる」
《よかった》
《これ昨日まで普通に通ってたところ?》
「そう」
《こわ》
「だからダンジョンなんだろうな」
《森おじさん冷静》
「今騒いでも直らんから」
《出た》
《いつもの》
「でも水止まってるから、それは困る」
保守通路から、小型の水タンクが運び込まれることになった。一個二十リットル。健司は左右に一つずつ持った。しずくが見ている。
「森おじさん」
「何?」
「普通に二つ持つんですね」
「二十キロだろ?」
「二つで四十キロです」
「肥料袋と同じくらい」
《農家基準》
《また40kg》
《懐かしい》
「懐かしいって何だよ」
《第1話から変わってない》
「俺は毎日畑やってるからな」
細い保守通路は、普段の管理通路よりずっと狭かった。人がすれ違うのも難しい。作業員の後ろについて進む。数分後、農園へ出た。三十六株の紅晶実。健司は真っ先にそちらへ向かった。
「……大丈夫そうだな」
葉はしおれていない。土もまだ湿っている。長谷川が計測器を確認する。
「今朝の給水前に主管が止まっています。昨日分の水分が残っています」
「今日の分入れれば持つ?」
「はい。ただしこの状態が何日も続けば厳しいです」
「一日二日なら手で運べる」
「量が増えたら無理です」
「まだ三十六だ」
《36でよかった》
《三倍に広げてなくて助かったな》
健司がコメントを見る。
「それは本当にそう」
もし昨日の時点で予定通り農園を三倍まで広げ、大量に植えていたら。運ぶ水も三倍。管理する株も三倍。
「広げなくて正解だったな」
長谷川が苦笑した。
「結果論ですが」
「結果が良ければいいよ」
《森おじさん強い》
《空いてるからって埋めるな理論》
「作れる場所と作れる量は別だからな」
持ち込んだ水を使い、必要な株だけに給水する。魔力水ではない。とりあえず普通の水。
「今日はこれでいい?」
「問題ありません」
「じゃあ明日までに直る?」
長谷川の表情が少し曇った。
「それが……難しいと思います」
「何日?」
「まだ正式な見積もり前ですが、主管だけではありません。通路補強、排水、魔力灯、安全確認まで必要です」
「結構かかる?」
「はい」
健司はもう一度崩落した方向を見た。
「旧種子保管庫は?」
「崩落箇所のさらに奥です」
「じゃあ開けられないな」
「復旧するまでは」
《五年待ったのに延長》
《種、さらに待機》
「五年待ってるなら、あとちょっと待てるだろ」
《種に言うな》
応急給水が終わると、一度農園の外へ出た。
◇
昼になっていた。
「やっぱり遅くなったな」
健司は母親から持たされた包みを開く。
《昼飯》
《今日は何》
《塩?》
「今日は具入り」
《!?》
《事件》
「そんなに珍しい?」
おにぎりを一つ持ち、割る。中に黒い塩昆布。
「塩昆布」
《豪華》
《森おじさん基準でも豪華》
「朝、俺も言った」
《親子》
《同じ感想なの草》
健司が一口食べる。
「うまい」
《感想が短い》
「塩昆布だからな」
《食レポ向いてない》
「農家だから」
その横で長谷川もコンビニのおにぎりを食べていた。コメントが反応する。
《長谷川さんの方が現代人》
《森おじさん母製》
《勝者は母ちゃん》
「勝負してないだろ」
モチは今日は家に置いてきた。崩落があると聞いた時点で連れてこなかった。
《モチいない?》
「今日は危ないかもしれなかったから家」
《正解》
《ゴンと留守番か》
「多分ゴンの背中に乗ってる」
《見たい》
《そっち配信して》
「俺の配信なんだけど」
《知ってる》
《ゴンチャンネルまだ?》
「作らない」
昼食が終わるころ、施設管理側から最初の説明が入った。健司も契約協力者として同席する。会議室ではなく、現場近くの簡易スペースだった。机の上に図面が広がる。担当者が指で示す。
「現時点の応急復旧だけなら、数十万円で済む可能性があります」
「応急だけなら?」
健司が聞く。
「はい。ただ、農園を今後三か月以上運用する前提なら、応急処置だけでは安全基準を満たせません」
「つまり?」
「管理通路の補強、主管交換、排水系統の一部交換、魔力灯幹線の再敷設が必要です」
しずくが質問する。
「保険は?」
「申請します」
「じゃあ保険で直せる?」
担当者が難しい顔をした。
「すぐには無理です」
「なんで?」
「今回の原因が、地上の大雨による地下水流入なのか、ダンジョン固有の地盤変動なのか、あるいは老朽化なのかを確定する必要があります」
「それで?」
「ダンジョン内部の地盤変動や魔力災害に該当すると、契約上の扱いが変わります。保険会社の調査が入ります」
「何日?」
「早くても数週間」
「苗は待てないだろ」
健司が言う。
「はい」
長谷川が答えた。
「今の三十六株だけなら、人力給水でしばらく維持できます。ただ、照明設備も一部不安定です」
「持って一週間?」
「条件次第です」
「二週間?」
「保証できません」
健司は腕を組んだ。
「研究部の金で先に直せないの?」
今度は長谷川が困った顔をした。
「少額なら可能です。ただ、この規模になると追加予算の承認が必要です」
「どれくらい?」
「それも数週間」
「保険も予算も数週間」
「はい」
「作物は待ってくれない」
「はい」
今朝、自分が畑で言ったことと同じだった。雨だから休む。予算が通るまで待つ。保険会社が調べるまで待つ。人間側には理由がある。でも植物には関係ない。
「全部直すと、いくら?」
担当者が答える前に、一度書類を確認した。
「まだ概算ですが……」
担当者は費目を書き込み、紙を健司の前へ向けた。通路補強、配管、排水、照明、資材搬入、安全確認、緊急施工割増と項目が並び、その最後に概算額が記されている。
《概算緊急復旧費 2,850,000~3,200,000円》
健司はそこだけしばらく見た。
「……三百万」
しずくも紙を見る。
「森おじさん」
「うん」
「偶然ですよ」
「分かってる」
コメント欄にも数字が映ったらしい。
《300万》
《え》
《また?》
《また三百万w》
《笑えない》
《前の借金と同じじゃん》
健司は苦笑した。
「俺も今それ思った」
《呪われてない?》
「金額に?」
《300万円に好かれる男》
「嫌だよ」
《三百万おじさん》
「もっと嫌だ」
担当者が少し申し訳なさそうに言った。
「森さんが負担する金額ではありません」
「分かってる」
「正式には施設側の復旧費です」
「うん」
「保険と予算の両方で対応を検討します」
「それも分かってる」
健司は紙から目を離し、遠くにある農園の方を見た。三十六株。ようやく全部発芽した。普通の水で芽が出ることも分かった。薄い魔力水なら育つことも分かった。まだ実も取っていない。旧種子保管庫も開けていない。ここで終われば、それまでだ。とはいえ、三百万円。健司の金ではない。自分が壊したわけでもない。
自分の所有する施設でもない。
「俺の設備じゃないんだよな」
健司がそう言うと、長谷川が頷いた。
「はい」
「俺が払う話ではない」
「もちろんです」
しずくも強く頷く。
「絶対そうです」
「じゃあ今日は苗の水だけやって帰るか」
「それがいいです」
健司は立ち上がった。すぐに何かを決める必要はない。決める材料もない。まずは今日できることをする。
◇
午後も水を運んだ。必要な分だけ。無理はしない。危険区域にも入らない。配信では、視聴者がずっと三百万円の話をしていた。
《また借金編?》
「借りてない」
《今のところ》
「借りないよ」
《フラグ》
「勝手に立てるな」
《農園どうするの》
「保険と予算待ち」
《間に合う?》
「分からん」
《苗は?》
「明日も水運べばすぐ死ぬことはない」
《じゃあ毎日来る?》
「必要なら」
《週2契約》
「今日は非常事態」
《もう週2守る気ないだろ》
「家の畑は先にやってる」
《そこだけは絶対》
「そこは変えないよ」
◇
夕方、健司は配信を終えた。
◇
帰宅すると、雨は少し弱くなっていた。門を開ける。ゴンがゆっくり立ち上がる。
「ただいま」
ゴンの背中には、予想通りモチがいた。
「本当に乗ってたのか」
「ピィ」
「今日は留守番ありがとな」
モチが飛んでくる。
「おいで」
健司が腕を出すと、すぐ乗った。
「覚えた?」
「ピィ!」
「じゃあブルーベリー」
一粒。ゴンもこちらを見る。
「ゴンも?」
ゴンが立ち上がった。
「お前は何もしてないぞ」
それでも一粒やる。
「十八歳だから特別な」
家へ入る。母親が夕飯の準備をしていた。
「畑、どうだった?」
「崩れてた」
「あら」
「うちの畑じゃないよ。ダンジョン」
「分かってるよ」
「そう?」
「それくらい分かる」
鍋から煮物の匂いがする。
「直るの?」
「直るとは思う」
「ならよかったね」
「金かかるけど」
「いくら?」
健司は少し間を置いた。
「三百万くらい」
母親の手が止まった。
「また?」
「俺もそう思った」
「借りるの?」
「まだ借りないよ」
「そう」
母親はまた鍋を混ぜ始めた。健司は手を洗い、食卓に座った。スマートフォンには長谷川から追加の資料が届いていた。
《応急維持可能期間》
《照明代替案》
《保険申請手続き》
《復旧工事概算》
最後の数字。三百万円前後。見覚えのある数字だった。前の三百万円は、突然届いた封筒の中にあった。自分が知らないところで押しつけられていた。今回の三百万円は違う。まだ自分の借金ではない。ただの復旧費。それでも、妙に目につく。
「健司、ご飯よ」
「うん」
スマートフォンを伏せる。今日は考えないことにした。明日の朝も、まず自分の畑を見る。それから必要なら、ダンジョンへ水を運ぶ。三百万円のことは、そのあとでいい。健司は味噌汁を一口飲み、「……また三百万か」と呟いた。




