第30話 畑を任せたい
《大口陽花》の調査から十日あまりが過ぎたころ、旧試験農業区画への立ち入り制限が解除された。
漏れていた魔力水の配管は専門班が修理し、大口陽花は農園から離れた空き区画へ誘導されている。そこには専用の給水場所が設けられ、今のところ戻ってくる様子はない。
健司が農園へ入ると、最初に《紅晶実》の三十六株を見た。
普通水で発芽させ、途中から薄い魔力を与えた株が一番安定している。葉の色も戻り、茎もしっかりしてきた。最初から濃い魔力水を与えた株は成長が遅いが、それでも枯れてはいない。
「順番が大事だったのかもな」
発芽時には魔力を抑え、根が張ってから少しずつ与える。この方法なら、昔より魔力水の使用量を大幅に減らせる可能性がある。
研究部にとっても大きな結果だった。
研究部がまとめた途中経過も見せてもらった。発芽時に普通水を使い、根が張ってから低濃度の魔力水へ切り替える方法なら、五年前の標準方式より魔力水と魔石の消費をかなり減らせる見込みだという。
試算では、現在の三十六株規模なら旧方式のおよそ四割強まで下がる可能性がある。ただし初期修繕費や人件費は別で、まだ採算が取れると決まったわけではない。
「四割なら安くなるな」
「はい。ただ、収穫量と品質を確認しないと結論は出せません」
「そこは実ができてからだな」
健司は数字だけで喜ばなかった。農業でも、肥料を半分にして収量まで半分になれば意味がない。今は「育て方の候補が見つかった」くらいで十分だった。
《最適解発見?》
「まだ」
《森おじさん慎重》
「収穫して食べるまで分からんよ」
長谷川も笑った。
その日の作業が終わるころ、長谷川から別室へ呼ばれた。
「森さんに、正式に農園の管理をお願いできないかという話が出ています」
「管理?」
契約書は前の一か月より少し厚かった。健司は椅子へ座り、一項目ずつ読む。
基本は週二回。ただし田植えや収穫など家の農繁期は相談して減らせる。農園側で急な異常が起きても、健司が必ず駆けつける契約ではない。まず研究部とギルドが確認し、必要なら相談する。
栽培方針は研究部と協議して決める。健司が一人で薬剤や魔力水の濃度を変えることはしない。逆に、現場で農業上の危険があると判断した場合は作業を止めて報告できる。
危険な魔物が出た時は探索者として無理に処理せず、ギルドの討伐班へ回す。配信は研究上の非公開部分を除いて継続可能。収穫や試験成功時には別途成果報酬が検討される。
「これならいい」
「どこが一番大事でした?」
長谷川が聞く。
「家の畑優先と、緊急でも必ず来なくていいところ」
「月六万円ではなく?」
「六万も大事」
「安心しました」
最後に、健司は備考欄へ自分で書き足した。
《栽培管理協力の件、受けます。ただし家の畑優先で》
長谷川が読む。
「契約書にも書いてありますよ」
「念のため」
「分かりました」
三か月。長いようで、作物を育てるには短い。そこで続けるかどうか、また考えればいい。
署名のあと、健司はその場で来月までの予定表を開いた。家の収穫日、直売所へ出す日、雨なら動かしにくい作業。先に自分の畑の予定を入れ、その空いているところへ農園の二日を置く。
「火曜と金曜なら動きやすいかな」
「固定にしますか?」
「いや。雨とか収穫で変える」
長谷川もその方が良いと頷いた。
「では前週に一度確認しましょう」
「それなら助かる」
契約を受けたからといって、毎週同じ日に必ず来る必要はない。作物も天気も予定表どおりには動かない。
健司にとっては、仕事が増えたというより、無理なく続けられる形が一つ決まった感覚だった。
しずくと一緒に売店の見本を比べた。高い機種なら暗所性能も良く、予備バッテリーも多い。だが健司が選んだのは、今まで借りていた物とほぼ同じ自動追尾型だった。
「上位機種、三万九千八百円です」
「いらない」
「即答」
「今ので困ってないから」
「でも、今後ランクが上がって深いところへ行くなら」
「その時困ったら買い替える」
結局、一万九千八百円の機種にした。落下防止の保険だけ一年つける。
箱を開け、しずくに初期設定をしてもらう。追尾対象。音声。コメント表示。緊急停止。
「これで自分のです」
「壊したら自分で払うんだよな」
「レンタルでも弁償でしたよ」
「そうだった」
試しに起動すると、黒い球体が健司の肩の高さへ浮いた。右へ一歩。ついてくる。左へ一歩。またついてくる。
「本当に同じだな」
「それを買ったんですから」
「なら安心」
借金返済中なら、二万円近い機械を「便利だから」で買うことはしなかっただろう。今は農園の契約があり、配信も続いている。遊びではなく、仕事道具として必要だと思って払った。
誰かに押しつけられた支出ではない。それだけでも気分はずいぶん違った。
購入手続きを終えると、これまで借りていたレンタル機もその場で返却した。羽根の傷やバッテリーの状態を職員が確認し、追加の弁償はなし。
「よかった」
「そこ一番安心するところですか?」
「壊して借金増えたら嫌だろ」
しずくが笑いながら返却票へ確認印を押した。
これで次からは借りる手続きも返す手続きもいらない。充電だけ忘れなければ、自分の都合で持ち出せる。
健司は新品の箱と返却票をまとめて受け取り、仕事道具が一つ増えたことをようやく実感した。
契約後、健司は新しいドローンで初めて短い配信をした。
【農園の契約、三か月だけ続けます】
《就職?》
「就職じゃないよ」
《月6万》
「基本はな」
《週2で6万いいな》
「ダンジョンの中だぞ。危ない時は入れないし」
《家の畑は》
「そっちが先」
コメント欄に《知ってた》が並ぶ。
試しにドローンへ「少し上」と声をかける。新しい機体は音声操作にも対応しているが、健司は結局スマートフォンで高度を調整した。
「声でやる方が難しい」
《現代に追いついてない》
「飛んでるだけで十分現代だろ」
農園を上から映すと、三十六株の並びが以前よりはっきり見えた。葉色が戻った株、まだ小さい株。成長には差がある。
「契約したからって全部育つわけじゃない。枯れるのもあると思う」
《成功させろ》
「成功させたいけど、無理なものまで無理に生かすのは違うよ」
農業は結果が出るまで時間がかかる。三か月後、何株残っているか。その時にまた契約を考えればいい。
◇
農園では、次の試験栽培候補も決まり始めている。資料には《月白芋》と《魔蜜南瓜》という名前があった。どちらも五年前の試験で使われていた作物だという。
「種あるの?」
「旧種子保管庫に残っている可能性があります」
その保管庫は、農業区画が閉鎖された時から一度も開けられていない。管理システムの一部が壊れており、これまで解錠できなかったらしい。
ちょうどその時、研究部の端末に通知が出た。
《旧種子保管庫 認証系統復旧》
続いて表示が変わる。
《解錠可能》
長谷川と健司は顔を見合わせた。
「開けます?」
健司は少し考えたあと、首を横に振った。
「今日は帰る」
「えっ」
「家の畑、夕方の水やりあるから」
配信のコメントが一気に流れた。
《そこで帰るのかよw》
《次回!?》
《中身見せろ》
「明日でも逃げないだろ」
◇
帰宅すると、母親は買ってきたドローンの箱を先に見つけた。
「何買ったの?」
「カメラ」
「二万円?」
「一万九千八百」
「細かいねえ」
「二百円違うだろ」
「何撮るの?」
「ダンジョンと畑」
「うちの畑も?」
「配信する時は」
母親は箱より、その隣に置いた契約書へ目を向けた。
「三か月?」
「うん。週二回くらい」
「うちの畑は?」
「先にやる」
「ならいいよ」
健司は笑った。契約書に何行書いてあっても、母親が確認することは結局そこだった。
◇
夕方の水やりを終え、日が落ちてから新品のドローンを庭で一度だけ飛ばしてみる。ゴンは興味を示さない。モチは追いかけそうになったので止めた。
「これは捕まえるなよ」
「ピィ」
「高いから」
「ピィ!」
返事だけは立派だった。
五年間閉じていた扉だ。一日くらい待たせても問題ない。
◇
ギルドを出る前、健司は来週の農園予定だけカレンダーへ入れた。火曜と金曜。どちらも午前中に家の畑を終えてから入る。雨が強ければ変更する。
「予定表使うようになったんですね」
しずくが覗く。
「契約二つあるみたいになると忘れる」
「二つ?」
「家の畑とダンジョンの畑」
「家の畑は契約じゃないですよ」
「一番厳しい契約だよ」
「誰と?」
「母さんと先祖」
しずくが笑った。
健司も冗談半分だったが、家の畑を後回しにするつもりがないのは本当だった。
新しいドローンの箱、農園の契約書、今日の作業記録。軽トラックの助手席が珍しく書類と機械で埋まっている。
「農家の車じゃなくなってきたな」
荷台には泥のついた長靴と空の収穫籠がある。それを見て、やっぱり農家の車だと思い直した。
走り出す前、新しいドローンの購入レシートを財布から出して契約書の封筒へ入れた。仕事用に買った物なら、あとで経費の整理も必要になる。
「面倒増えたな」
借金返済中は、入った金と返した金ばかり見ていた。今度は収入だけでなく、仕事に使った金も記録する。
二万円弱のドローン。一か月六万円の基本報酬。追加作業は別。数字だけ並べれば簡単だが、実際にはガソリンも使うし、装備も消耗する。
「三か月やったら一回計算しよう」
続けるかどうかは、その時決めればいい。面白いだけで赤字を抱えるつもりはないし、儲かるからと家の畑を捨てるつもりもない。
健司は封筒を助手席へ置き、ようやくエンジンをかけた。
信号待ちで助手席を見る。契約書とドローン。少し前まで、そこには借金の催促状を入れた封筒があった。
「だいぶ変わったな」
ただ、帰る先は同じだ。母親とゴンとモチ、鶏、そして家の畑が待っている。
三か月後に契約を続けるかは、まだ決めていない。紅晶実がうまく育つかも分からないし、家の農繁期と重なれば無理かもしれない。
「その時考えればいいか」
今は、次の一回をちゃんとやる。それで十分だった。
新しい仕事が増えても、無理なく続けられなければ意味がない。その基準だけは、これからも変えるつもりはなかった。
帰りの軽トラックの荷台には、自分で買ったばかりの配信用ドローンがある。ダンジョンには、まだ見たことのない種が残っているかもしれない。
それでも健司が先に考えていたのは、家の畑の水やりだった。
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