第28話 今日はダンジョンに行かない
今日はダンジョンへ行かない。朝起きた時から、健司はそう決めていた。
ただし、枕元のスマートフォンには研究部から三件も通知が来ている。《紅晶実》は三列すべてで発芽し、三十六株がそろったらしい。問題はその後だった。
普通の水だけで育てていた六株は、葉の色が少しずつ薄くなっている。
◇
一方、昨夜からごく薄い魔力を与えた六株は、葉色の低下が止まり始めていた。
「発芽は普通の水。そのあと少し魔力か」
まだ数時間の結果なので断定はできない。それでも、単純に魔力が多ければ良いわけではなさそうだ。
そこでゴンの鼻が布団の脇へ当たった。
「おはよう」
十八歳になった老犬の頭を撫でる。今日はダンジョンではなく、家の畑と鶏小屋、それから近所にもらった六個の有精卵を見る日だ。孵るまで三週間ほどかかるので、今は親鶏がきちんと抱いているか確認するだけでいい。
モチは鶏小屋の屋根に止まり、いつものように好き勝手している。
有精卵の入った巣箱は、必要以上に触らないようにしている。親鶏が立った時だけ、割れや汚れがないか目で確認する。六個とも今朝は問題なかった。
「一、二、三、四、五、六」
健司が数えると、母親が後ろから覗く。
「毎日数えるの?」
「増えたり減ったりしないか見るだろ」
「勝手には増えないよ」
「減る方だよ」
モチが巣箱の近くへ寄ろうとしたので、健司が指を出す。
「そこは駄目」
「ピィ」
少し離れた止まり木へ移る。
「分かった?」
「ピィ」
「返事だけはいいんだよな」
ゴンは日陰で目を細めたままだった。
そのあと、トマトの古い支柱を一本交換した。根元が少し腐っており、強い風が来れば倒れそうだった。新しい竹を立て、茎を締めつけないよう柔らかい紐で結び直す。
「これでよし」
スマートフォンがまた震える。
見ない。
キュウリの葉を上げる。ナスの実を二本取る。畝の間の草を抜く。
研究部へ行けば、数字を直接見られる。葉色も自分の目で確認できる。それでも今日は行かないと決めた。
「毎日見に行ったら、家の畑二つ持ってるのと同じになるからな」
母親が笑う。
「もう二つ持ってるみたいなもんじゃない?」
「契約は週一回くらいだよ」
「今日は行かない日?」
「そう」
「じゃあちゃんと休みな」
「草取ってるけど」
「それはいつもの仕事でしょ」
母親の中でも、家の畑は休みの計算に入らないらしい。
◇
朝のうちは草取りに時間を使った。畑の奥に残っていた雑草を一本ずつ抜き、支柱を直し、水の具合を見る。ゴンは日陰を見つけて伏せ、モチはその背中へ移った。
スマートフォンは何度か震えたが、健司はすぐには見なかった。今日は研究員が現地に入っている。自分は契約日でもないし、家の仕事を優先すると決めている。
◇
一時間ほどして確認すると、研究部から追加の報告が来ていた。薄い魔力を与えた六株は引き続き安定し、普通水のままの六株は一株だけ基準値を下回ったという。
「やっぱり差が出るな」
母は隣で草を集めながら、「気になるなら行ってくれば?」と言った。
「今日は行かない」
「そう?」
「研究の人いるし。俺が行っても見るだけだよ」
そう答えて、また草取りへ戻る。
最近は、配信のコメントで家の畑やゴン、モチも見たいと言われることが増えていた。せっかく今日は家にいるので、見せられる範囲だけ配信してみることにする。
三脚がないため、倉庫から古い脚立を出し、その上に木箱を置いてスマートフォンを固定した。
【今日はダンジョンに行かない】家の畑仕事
配信を始めると、視聴者は二百人から五百人へ増え、ほどなく千人を超えた。
「今日は本当に畑だけだぞ」
《それが見たい》
《ゴンは?》
《モチ映して》
カメラを少し横へ向けると、日陰で寝ているゴンが映った。コメントが一気に増える。
「十八歳だからな。あんまり騒がせるなよ」
そう言ってから、年齢を配信でちゃんと話したのは初めてかもしれないと思った。
トマト、キュウリ、ナス、ピーマンも順に映す。特別な効果もなければ、光りもしない。ただの野菜だ。
それでも視聴者は減らず、むしろ三千、四千と増えていく。
《普通の畑なのになんか見れる》
《こういうのでいい》
《モチ虫追ってるw》
健司は首を傾げながら草を抜き続けた。
配信では、収穫した野菜を箱へ分けるところまで映した。売る物、家で食べる物、形が悪くて近所へ回す物。見た目だけで捨てる物はほとんどない。
《曲がったキュウリ売らないの?》
「直売所なら出すこともあるけど、今日は家で食う」
《味違う?》
「変わらん」
《じゃあ安く売れば》
「袋詰めする手間もあるからな。何でも売ればいいってもんでもないよ」
母親が横から一本持っていく。
「これ浅漬けにするよ」
「どうぞ」
《母ちゃん即消費》
「家で食べるのが一番早い」
鶏へ青菜を少しやり、水桶を洗う。ゴンの水も新しくする。モチはカメラの前を横切り、視聴者から《主役》と書かれていた。
「俺は?」
《農作業担当》
「配信者なんだけどな」
それでも、ダンジョンで魔物と戦っている時よりコメントが速い気がする。
◇
昼は母がそうめんを作った。ネギと生姜、細切りのキュウリを添え、暑い日に冷たい麺を食べる。ゴンは水を飲み、モチはブルーベリーをもらった。
庭の端では、いつもの亀がゆっくり歩いている。
「亀も映す?」
《映して》
本当に何を見たいのか分からない。
昼食のあと、健司は本当に三十分ほど何もしなかった。縁側へ座り、濃い茶を飲む。ゴンはその足元で寝ている。モチは庭石の上から亀を見下ろしていた。
「休みってこういうことか」
母親が洗濯物を干しながら言う。
「今さら?」
「普段昼も何かやってるからな」
「今日はもう畑終わったんでしょ」
「夕方もう一回見る」
「それは見るだけ?」
「見るだけ」
母親が何か言いたそうな顔をしたが、笑って家へ戻った。
スマートフォンを開くと、研究部から新しい写真が届いている。薄い魔力を与えた株と普通水の株を並べたものだ。数字を細かく見る前に閉じた。
「夕方でいい」
今日は現地の研究員へ任せる日。それも契約のうちだった。
◇
午後は配信を一度切り、収穫した野菜を直売所へ持っていった。値段はいつも通りだ。トマト一袋二百五十円、キュウリ三本百八十円、ナス三本二百円。ダンジョン産でもなければ特殊効果もない。
それでも、配信を見たという客が何人か来ていたらしい。
「普通の野菜だぞ?」
「森さんが作ってるから買いたいんだって」
職員に言われても、健司にはまだよく分からなかった。
◇
直売所では、配信を見たという若い夫婦がトマトを一袋手に取っていた。健司が裏から空箱を運んでいると、職員に呼ばれる。
「本人いるぞ」
「何で呼ぶんだよ」
夫婦の方が驚いた。
「あ、本当に森さんだ」
「本当にって」
「配信見てます。ゴンちゃん元気ですか?」
「元気。今たぶん寝てる」
「モチは?」
「多分ゴンの上」
「野菜の話は?」
職員が笑う。
夫婦は結局、トマトとナスを買っていった。特別な魔法作物ではない。いつも通り作った野菜だ。
「これ、配信のおかげ?」
「少しはな」
「値段上げる?」
「上げないよ」
「そこは即答か」
今の価格で売れているなら、それでいい。配信を見た人が一度買いに来ても、味が悪ければ次はない。結局は畑の仕事をちゃんとするしかない。
空になった籠を軽トラックへ積み、家へ戻った。
帰りに豆腐と魚、母に頼まれた牛乳、それからモチ用のブルーベリーを買う。
◇
夕方、家へ戻ってもう一度研究部の通知を確認した。薄い魔力を与えた六株は、ほぼ全て葉色の低下が止まっている。普通水の六株は依然として弱り気味だ。
「発芽は少なく、育ってから少し」
だいぶ形が見えてきた。
◇
夕方の畑では、朝交換したトマトの支柱をもう一度確認した。風は強くなかったが、結び目も緩んでいない。浅漬けにすると言って持っていったキュウリは、夕食の小鉢にちゃんと出てきた。
「朝のやつ?」
「そう」
「早いな」
「切って漬けただけだよ」
普通のキュウリ。普通の味噌汁。焼いた魚。ダンジョンの作物を研究していても、家の夕食はいつも通りだった。
◇
食後、母親が有精卵のことを思い出す。
「今日も六個あった?」
「あった」
「いつ生まれる?」
「まだ先」
「明日?」
「三週間くらいって言っただろ」
「ああ、そうだった」
数分後、また「いつ生まれる?」と聞かれ、健司は笑った。
その時、スマートフォンの通知が鳴った。
◇
昼間は見ないと決めていた研究部からの連絡だ。今日はもう家の仕事も終わっている。
「今なら見てもいいか」
画面を開いた。
配信をしない夕方も、ゴンの散歩はいつも通りだった。田んぼの脇をゆっくり歩き、途中の用水路で一度止まる。ゴンが水の匂いを嗅ぐ間、健司は空を見る。
「今日はダンジョン行かなかったな」
不思議と物足りなくはない。畑をやり、鶏を見て、直売所へ野菜を持っていった。それだけで一日は十分埋まる。
モチはゴンの背中から途中で飛び、電柱の低い位置へ止まった。
「置いてくぞ」
「ピィ!」
すぐ戻ってくる。
家へ着くころには日が少し傾いていた。ダンジョンへ行かない日でも、ちゃんと一日が進んでいる。それを確認するような散歩だった。
◇
寝る前、健司は今日の配信収益を確認した。畑だけの配信なのに、投げ銭がいくつか入っている。
「何も倒してないのにな」
母親が言う。
「野菜見てもらったんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあいいじゃない」
理由はよく分からないが、見たい人がいるなら無理のない範囲で続ければいい。そのくらいに考えることにした。
今日はダンジョンへ行かなかったのに、配信も直売所もいつもより少し賑やかだった。健司にはまだ不思議だったが、家の畑を見たい人がいるなら、無理に魔物を探しに行くよりずっと安全だ。
「こういう日もありだな」
そう思ったところで、画面の中の大口陽花が動いた。
◇
その夜、研究部の監視映像に別の変化が映った。
農園の奥にいる《大口陽花》が、以前より少しだけこちらへ近づいている。
一日で大きく動いたわけではない。だが、位置は確実に変わっていた。
健司は画面を見たまま、羊羹を置いた。
「……何でこっち来てるんだ?」




