第25話 芽が出た
翌朝、健司が畑へ出る前に監視記録を確認すると、《紅晶実》の芽は夜の間にも増えていた。
最初は二本だった芽が、二十三時には四本、午前二時には七本、午前四時には九本まで増えていた。旧記録では発芽まで四日から七日かかるはずなので、明らかに早い。
しかも、すべて普通の水を与えた区画だ。
「なんでこっちなんだろうな」
考えても答えは出ないので、まず家の畑へ向かった。赤くなったトマトを三個、ナスを二本、ピーマンを五個収穫する。今日はキュウリも真っすぐ育っていた。
売る分と家で食べる分を分け、畝の状態を確認する。昨日見つけた小さな穴も増えていない。
少し前まで、農作業をしながら頭のどこかで三百万円、二百八十万円、二百七十万円と借金の残高を考えていた。今は代わりに、三十六粒のうち何本芽が出たかを数えている。
我ながら変わったものだと思い、健司は一人で笑った。
◇
朝食を終えると、母が今日も塩むすびを二個包んでくれた。健司は軽装鎧を着け、剣や回復薬、防塵マスク、ゴーグルなど必要な道具を鞄へ入れた。
ギルドへ寄ると、昨日捕まえた二匹の《土潜り鼠》は研究部が安全に回収済みだと聞かされた。体重や歯の形を調べたあと、農業区画から離れた管理された場所へ移す予定らしい。
「殺さないんだ?」
「今のところ、その必要はありません」
「ならいい」
しずくが端末を見ながら言う。
「それより、発芽の数字が研究部でちょっと騒ぎになってます」
「普通の水が早いやつ?」
「はい。昨日までの記録と合わないので」
「一日二日で決めない方がいいよ」
「森おじさんが一番冷静」
「畑だと、昨日元気だったのが今日しおれるとか普通にあるからな」
◇
農園へ入る前、今日は条件を増やさないことを長谷川とも確認した。温度、光、土、水の量は今まで通り。魔力水の濃度だけが違う状態を保つ。
「芽が出ない列だけ暖めるとかは?」
《火炎魔法使おう》
「やらないよ。何が効いたか分からなくなる」
《珍しく研究者》
「農家でも試す時は一個ずつだよ」
◇
農園へ着くころには、配信の視聴者が三千人近くまで増えていた。
種まき区画を確認すると、普通水の列では十一本が地上へ出ている。一本一本は細く赤く、まだ頼りない。薄めた魔力水の列ではようやく土が割れ始め、通常濃度の魔力水を使った列には変化がない。
「逆だな」
旧記録では《紅晶実》は魔力を吸収して育つ作物とされている。ならば魔力水の方が早いと思うのが普通だが、現状はまるで逆だった。
最初に発芽した十二本へは、まだ追加の魔力を与えない。双葉は開き始めているが、茎は細い。健司は一本ずつ葉を触らずに見る。
「これ、赤いの葉じゃなくて茎なんだな」
「成長すると葉にも赤みが出る記録があります」
「じゃあ今は普通に小さい苗か」
《光ってない》
「光るの期待しすぎだろ」
土の表面には昨夜の水分が残っている。指を差し込んで確認しても、追加の水は必要なさそうだった。
「水も今日はなし」
《魔力水組かわいそう》
「同じ量やってるから」
薄い魔力水の列では、土が持ち上がっている場所がさらに三つある。芽になる直前だ。通常濃度の列は静かなまま。
研究員が数値を記録する横で、健司は札が倒れていないか、捕獲器が栽培槽へ当たっていないかを確認する。派手な作業はない。
《今日は見るだけ?》
「見るのも仕事だぞ」
《時給発生》
「契約だからな」
《急に大事》
「金は大事」
それでも、以前のように借金残高を毎日口にする必要はなくなっている。コメントにも《完済したもんな》と流れた。
「そう。だから今日は焦らない」
自分で言ってから、借金があった頃も危ない仕事は急がなかったなと思い直す。
「……借金あっても焦ってなかったか」
《知ってる》
コメントがまた笑いで埋まった。
今日は金網の補強も行う。昨日の大型《土潜り鼠》が掘った跡が残っていたため、研究部が新しい資材を持ち込んでくれた。古い金網の外側にもう一枚重ね、少し深くまで埋める。
作業中、小型の《土潜り鼠》が近くまで出てきたが、人を見るとすぐ地中へ逃げた。追う必要はない。
大型用の捕獲器も一基追加した。餌は昨日と同じ《歩根草》の根だ。
昼休み、長谷川は弁当を食べ、健司は塩むすびを二個食べた。
◇
食後に芽を確認すると、普通水の列は十二本すべて発芽していた。薄めた魔力水の列は二本、通常濃度の列はまだゼロだ。
農家としては、芽が出ないなら水や土を変えたくなる。温度や光も触りたくなる。だが今回は育てるだけの仕事ではなく、条件による違いを見る試験でもある。
「今日は触らない」
そう決めて待つことにした。
午後には小型の《土潜り鼠》が一匹、大型用とは別の罠にかかった。研究部へ渡せば五千円。現地確認の追加報酬も一万円つく。
◇
午後の記録では、普通水の十二本に目立ったしおれはなかった。薄い魔力水の二本も、芽の大きさ自体はほぼ同じだ。通常濃度だけが遅れている。
「魔力が多いと眠るとか?」
《酔ってる》
「植物に聞いてくれ」
研究員が笑いながら温度計と魔力濃度計を確認する。培土の温度差はほとんどなく、灯りの強さも許容範囲。少なくとも、普通水の列だけ暖かいという単純な理由ではなさそうだった。
「明日はどうする?」
長谷川に聞かれ、健司は少し考える。
「俺なら、まだ変えない」
「理由は?」
「芽が出るまで待つ。遅いだけかもしれないから」
「分かりました」
「俺が決めていいの?」
「農業側の意見を聞きたいので」
「じゃあ意見としてな」
栽培は研究でもある。健司が現場で感じたことを言い、最終的な試験条件は研究部と一緒に決める。その距離感がちょうどよかった。
◇
帰り際、普通水の列の一番端の苗が、わずかに葉を開き始めていた。まだ小さい。光ってもいない。ただ、土の上へ出たばかりの苗が、少しずつ植物らしい形になっている。
「こういうの見ると、触りたくなるんだよな」
《触れ》
「触らない」
《即答》
「折ったら戻らん」
手は出さず、写真だけ撮った。
帰る前に数えると、発芽は十四本になっていた。普通水十二本、薄めた魔力水二本、通常濃度はまだゼロだ。
◇
夕方、家の畑へ戻る。今度は普通のトマトの葉に一枚だけ虫食いを見つけた。裏を見れば小さな虫がいる。二匹ほど捕って処理し、農薬は使わなかった。
「これくらいならいいか」
モチが近くで虫を追いかけているので、野菜までつつかないよう一応声をかける。
散歩ではゴンがいつもの道を歩き、モチはその背中に乗っていた。田んぼを抜ける風が少しだけ変わり、まだ暑いのに、夕方の日はわずかに短くなった気がした。
◇
夜、監視映像に大型《土潜り鼠》が映った。金網沿いを歩き、大型用捕獲器の前で止まる。昨日のように外から餌を取ろうとせず、慎重に鼻を入れ、前脚を入れ、半身まで入った。
カチャン。
扉が閉まり、捕獲器が激しく揺れた。今回は大型用なので壊れない。
「入ったか」
もう一つ、気になる変化があった。
通常濃度の魔力水を使った列から、ようやく一本目の芽が出ていた。薄めた魔力水は五本、普通水は十二本すべて発芽済み。
差がはっきりしてきた。
魔力水も魔力灯も人工培土も、維持には金がかかる。それなのに普通の水の方が発芽しやすいのだとしたら、五年前の農園が採算を取れなかった理由そのものが変わるかもしれない。
健司は過去の資料を開いた。当時の試験では、ほとんどの区画で魔力水を使っている。普通の水との比較は少ない。
「多すぎたのか?」
水も肥料も、やればやるほど良いわけではない。魔力だって同じなのかもしれない。
その日の記録を長谷川へ送る時、健司は最後に一行だけ付け足した。
《現時点では条件変更せず、発芽状況を継続観察したい》
研究部からすぐ返事が来る。
《了解しました。明朝まで同条件を維持します》
「これでいい」
何か変化があるたびに水や魔力をいじれば、原因が分からなくなる。育てたい気持ちと、試したい気持ちは別に考えなければならない。
母親が画面を覗く。
「明日も見に行く?」
「契約日じゃないから行かない」
「気になるのに?」
「気になるけど、映像あるし」
「我慢できる?」
「多分」
「じゃあ明日はうちの畑いっぱいやってね」
「いつもやってるよ」
ゴンは縁側で寝ている。モチは庭の小さな虫を追いかけている。ダンジョンの苗がどう育つかは気になるが、明日の朝も最初に見るのは家のトマトとナスだ。
「そっちはそっち、こっちはこっちだな」
どちらも大事にするなら、毎日全部自分で抱えないことも必要だった。
◇
翌朝のため、健司は監視通知の設定だけ変えた。土潜り鼠が捕獲器へ入った時と、栽培槽の大きな変化があった時だけ音を鳴らす。芽が一本増えるたびに通知されたら、夜中に何度も起こされる。
「これで寝られる」
母親が言う。
「そんなに気になるの?」
「気になるけど、寝る方が大事」
「明日の畑あるもんね」
「そう」
研究対象が増えても、一日の時間が増えるわけではない。
◇
夜は寝る。朝になったら家の畑。そのあと必要ならダンジョンを見る。
順番を決めておけば、気になるものが増えても振り回されずに済む。健司は通知を閉じ、羊羹をもう一切れだけ切った。
◇
その夜は、通知が鳴らないまま十時を過ぎた。大きな異常がないということだ。
「鳴らない方がいいな」
健司はスマートフォンを伏せた。作物は、見ていない時間にも育つ。
画面の中の苗は小さい。まだ実どころか、本葉さえ出ていない。それでも昨日まで土しかなかった場所に緑があるだけで、次を見る理由には十分だった。
母が羊羹を食べながら笑ったので、健司もつられて笑った。
三百万円の借金を返すため、十年以上離れていたダンジョンへ戻った。久しぶりに剣を握り、しずくに勧められて配信まで始めた。そこでモチを拾い、《肩代わり》によっていくつもの能力を得た。あれほど遠く感じていた借金も、今ではすべて返し終えている。
そして今、健司が気にしているのは金ではなかった。
目の前の画面では、ダンジョンの土から小さな赤い芽が一本、また一本と顔を出している。
「まあ、急がなくていいか」
家の畑と同じだ。育つものには、育つ時間がある。




