第20話 ダンジョンの畑
家の畑の草取りを終えてからでなければ、ダンジョンの畑には行かない。森健司はそう決めていた。理由は簡単だ。
「自分の畑ほったらかして、ダンジョンの畑見に行くのも変だしな」
しゃがんだまま雑草を抜く。昨夜の雨で土が少し柔らかくなっていて、根元を掴んでゆっくり引けば白い根まできれいに抜けた。すぐ横ではゴンが伏せ、その背中にはいつものようにモチが乗っている。
「お前らも手伝ってくれれば早いんだけどな」
ピィ。
「鳴くだけじゃ草は減らんぞ」
ゴンは顔すら上げなかった。健司は抜いた草を籠へ入れる。借金はゼロ。何度確認してもゼロだった。もう催促状を気にする必要も、金融会社のページを朝昼晩と確認する必要もない。それでも長く染みついた癖は恐ろしい。朝起きて天気予報を見て、畑のことを考え、その流れでスマートフォンを開こうとしてしまう。
「あ、もう見なくていいのか」
毎回思う。三百万円。今はない。だが、あの借金がなければ自分はたぶん再び探索者になっていなかった。配信もしなかった。しずくからドローンを借りることもなかった。モチを拾うこともなかったかもしれない。
《剣術Ⅰ》。
《身体強化Ⅰ》。
《気配察知Ⅰ》。
《火炎魔法Ⅰ》。
四つの能力もなかった。
「いいことだったとは言えんけどな」
保証人にされ、騙され、畑を売ればいいとまで考えられていた。それは今でも腹が立つ。許したわけではない。ただ金の話は終わった。だからこれからどうするかは自分で決められる。
「森さん!」
声は畑の外からだった。近所の女性が軽自動車の横に立ち、箱を抱えている。
「これ、昨日言ってた枝豆!」
「ああ、配信で映せってやつ?」
「そうそう!」
「今日ダンジョン行くよ」
「ええー」
「俺、通販番組じゃないんだから」
女性は少し考えてから言った。
「じゃあ帰ってきてから」
「まだ諦めてないの?」
「売れたら嬉しいもん」
「まあ、それはそうだけど」
健司は差し出された箱を受け取った。
「一袋もらっていい?」
「もちろん」
「じゃあ母さんと食べる」
「配信にも出してよ」
「覚えてたらね」
「絶対忘れるじゃん!」
笑いながら女性は帰っていった。健司が箱を見ると、枝豆の袋には隣の地区の生産者名が入ったラベルが貼られている。
「本当に俺、何配信してるんだろうな」
ピィ。
「お前が人気になったところから変になった気がする」
モチは気にした様子もない。健司は残りの草取りを終えると、畑を一周して支柱、水の具合、虫や病気の兆候を確認した。特に問題はない。家へ戻ると、母が台所にいた。
「草終わったよ」
「あら、早かったね」
「身体強化のおかげ」
最近は母にも少しずつ話している。完全に理解しているかは分からないが。
「便利だねえ」
「便利」
「でも無理しちゃ駄目だよ」
「うん」
「身体が強くなっても腰は四十六歳なんだから」
健司は思わず手を止めた。
「そこだけ普通なの?」
「知らないよ」
「まあいいか」
今日の装備は剣と軽装、それにドローン。健司はギルドでもらった資料をもう一度開いた。依頼は第二階層北側にある農業区画跡の採取調査。閉鎖された試験農業区画には人工培土、魔力水路、魔力灯が残り、かつては魔力野菜や薬草を育てていたらしい。数年前に閉鎖されてから植物系魔物が増えており、危険なら即撤退。調査報酬は三万円で、指定素材は別査定となっている。
「面白そうなんだよな」
母が資料を覗き込んだ。
「野菜あるの?」
「昔は育ててたって」
「今は?」
「分からん」
「食べられる?」
「それも分からん」
「じゃあ食べちゃ駄目だよ」
「食べないよ」
「この前キノコ触ろうとしてなかった?」
「触ってない」
「そう?」
「見ただけ」
母は少し考えるような顔をした。
「ならいいけど」
健司は苦笑して玄関へ向かった。するとモチが飛んでくる。
「今日は駄目」
ピィ。
「植物の魔物いるらしい」
ピィ。
「危ない」
モチは健司の帽子へ飛び乗った。
「乗っても駄目」
ピィ。
「今日は籠にも入れない。留守番」
モチは「ピィィ」と明らかな抗議の声を上げたあと、ゴンの背中へ移った。
「ゴン、頼む」
老犬は半分だけ目を開けて健司を見る。
「聞いてる?」
ゴンの尻尾が一度だけ動いた。そこへ母が声をかける。
「私もいるよ」
「母さんも頼む」
「ブルーベリーあげていい?」
「少しなら」
モチがすぐに「ピィ」と鳴いた。
「聞こえてるな、お前」
健司は軽トラックで出発した。途中で直売所の前を通ると、昨日の職員が健司の車に気づいた。
「今日は何持ってきた!」
「何も」
「何しに来た!」
「通っただけ」
「じゃあ止まるな!」
「挨拶しただけなのに」
「ダンジョン?」
「うん」
「野菜映せよ」
「ダンジョンの?」
「あるのか?」
「昔の農業区画見に行く」
職員の顔が変わる。
「ダンジョンで野菜作ってたのか?」
「試験栽培」
「持って帰ってこい」
「勝手に持って帰れないよ」
「食えそうなら」
「まずギルド査定」
「ケチ」
「俺のじゃないから」
ギルドへ着き、自動ドアを抜けると受付に白花しずくがいた。
「森おじさん」
「おう」
しずくの視線が健司の肩へ向かい、それから周囲を探すように動いた。当然、籠もモチもいない。
「モチは?」
「留守番」
「……」
「毎回がっかりするのやめて」
「してません」
「してる」
しずくは咳払い。
「農業区画の調査ですね」
「資料読んだ」
「受けます?」
「受ける」
健司は正式に依頼を受けた。しずくが探索者証の登録を済ませ、Eランク向けの依頼地図を広げる。
「通常の第二階層北通路から入ります。ここまでは一般区画」
しずくが地図の一点を指した。
「この旧管理扉から先が試験農業区画です」
「鍵?」
「探索者証で開きます」
「便利だな」
「閉鎖後は最低限の管理しかしてません。魔力灯も一部消えてます」
「水は?」
「水路は生きている可能性があります」
「何で?」
「地下の魔力水脈から自然供給だったので」
健司は明らかに興味を示した。
「じゃあ閉鎖しても水だけ流れ続けた?」
「その可能性があります」
「植物生えるな」
「はい。それで今の状態になった可能性が高いです」
「人工培土は?」
「残っています」
「肥料は?」
「初期は魔石粉末を混ぜていたそうです」
健司が資料へ目を落としたところで、しずくが声をかけた。
「森おじさん」
「何?」
「目が完全に農家です」
「農業区画なんだから農家になるだろ」
「ダンジョンですよ」
「だから面白い」
確認項目は五つある。水路と魔力灯、旧栽培槽の状態、植物系魔物の種類と数、そして採取できる薬草類だ。直近では《蔓絡み》と《歩根草》が確認されている。
《蔓絡み》。
《蔓絡み》は床や壁に張りつく蔓で、体温や魔力に反応して足へ絡みつく。単体の攻撃力は低いが、拘束や転倒をきっかけに別の魔物へ襲われる事故が起きている。
《歩根草》。
《歩根草》は根を使ってゆっくり移動する植物型の魔物で、危険を感じると葉から刺激性の粉を出す。
「粉?」
「吸わないでください」
「毒?」
「強毒ではないですが、目、鼻、喉にきます」
「嫌だな」
「顔を近づけないでください」
「植物見る時、近づくだろ」
「ダンジョンではやめてください」
「農家泣かせだな」
ギルド推奨の防塵マスクは五百円で貸し出している。
「借りる」
「即決」
「今日しか使わないかもしれない」
ドローンで配信する際は、一部設備に自動でぼかしが入り、未知の植物は絶対に口へ入れないよう念を押された。
「食べないよ」
「絶対?」
「母さんにも言われた」
「お母さんの方が信用できます」
「俺は?」
「キノコ見て『食えるかな』って言ってたでしょう」
「触ってない」
「そこじゃないです」
手続きを終え、健司は配信を始めた。
【借金完済後】ダンジョンの放棄農園を見に行く
視聴者は五百人から千人、そして二千人へと増えていく。
《農園?》
《ダンジョンに畑あるの》
《森おじさん向けすぎる》
《借金完済後って何だw》
「タイトル迷ってるんだよ」
《借金なくなったからな》
《もう借金返済配信じゃない》
「そうなんだよな」
《田舎のおじさんの農業ダンジョン配信》
《農業が前に出てきた》
「まだ決めない」
第一階層を歩いていると、《気配察知Ⅰ》が二つの反応を拾った。ゴブリンだと分かったので、健司は別の道を選んで避ける。
《戦わない》
「今日は調査」
《鎧蜥蜴倒した人なのに》
「ゴブリン倒しても調査進まんから」
第二階層へ下り、普段は使わない北側の道へ入る。健司は資料と地図を見比べた。
「こっち」
《迷わない?》
「迷ったら帰る」
《解決になってない》
「戻れるうちに戻ればいい」
道は細く、岩肌の一部に人工的な壁が混じっている。しばらく進むと、途中に古い金属製の標識が残っていた。そこには「旧試験区画」とある。
「ここだな」
管理扉は分厚く、ところどころ錆びていた。端末へ探索者証を当てると、二秒ほどして「ガコン」と重い音が響く。
「まだ開く」
健司は《身体強化Ⅰ》を使って重い扉をゆっくり押し開けた。中から流れてきた空気は外と違い、湿った土と植物の青臭い匂いが混じっている。健司は思わず鼻を動かした。
「本当に畑っぽい」
《洞窟じゃない》
《草すご》
ドローンも後を追って中へ入る。照明はところどころ点いているが光は薄く、奥は暗い。人工的な通路の左右には低い枠で囲まれた栽培槽が並び、人工培土から草や蔓、低木が大量に伸びていた。中には天井近くまで育ったものもある。
「……放置するとこうなるか」
健司は入口で足を止めた。地面には細い蔓が通路を横切るように伸びている。資料を確認すると、《蔓絡み》の特徴と一致した。
《蔓絡み》。
「これか?」
細い緑色の蔓で、一見すると普通の植物にしか見えない。健司が小さな石を投げても反応はなかった。
「体温か魔力だったな」
健司は剣を抜かず、鞘の先だけをそっと近づけた。蔓は動かない。
「魔力通すか」
そこで鞘へほんの少し魔力を通した。次の瞬間、「シュッ」と蔓が跳ね、一気に鞘へ巻きついた。
《うわ》
《動いた》
「早いな」
剣ごと持っていかれそうになり、健司は《身体強化Ⅰ》で引き返した。思ったより力が強い。剣を抜いて根元を斬ると、蔓はようやく動きを止めた。
「これ踏んだら転ぶな」
《森おじさん罠解除》
「雑草みたいに抜けるかな」
《抜くな》
《触るな》
「分かってる」
通信越しに、しずくの声が飛んできた。
『森おじさん、絶対手で抜かないでください』
「聞こえてた?」
『配信見てます』
「仕事は?」
『仕事しながらです!』
《郷田さんと同じ》
「みんな仕事しながら見すぎだろ」
健司は蔓の位置を覚えながら進み、必要なところだけ切っていく。第一栽培槽には文字の薄れた札が残っており、その脇には細長い紫色の葉が生えていた。健司は自分から近づかず、ドローンを寄せて映像を拡大する。
「これ指定薬草?」
しずくが通信越しに答えた。
『少し待ってください』
照合には数秒かかった。
『似ています。ただ断定できません。採取するなら手袋、一本だけ』
「了解」
健司は手袋をつけ、葉を根元から一本だけ切って袋へ入れ、すぐに密閉した。
「一個」
調査と採取を続けるうち、健司は少し楽しくなってきた。普通のダンジョン探索のように、魔物を倒して先へ進むだけではない。土や水、植物、設備を一つずつ見ることが、農家として純粋に面白い。健司は小型スコップで栽培槽の培土を少し掘った。黒い粒状の人工培土は軽く、まだ柔らかさを残している。
「これ、何年放置されてる?」
『閉鎖から五年です』
「五年?」
『はい』
「まだこんなに柔らかい」
《土ソムリエ》
「人工培土だから違うけど」
健司は手袋越しに培土を握り、指で崩してみた。
「水分ある」
そのとき、遠くから「チョロチョロ」と水の流れる音が聞こえた。
「水、生きてるな」
さらに進むと、通路の左側に幅三十センチほどの水路があった。わずかに青みを帯びた透明な水が、今も途切れず流れている。
「これ魔力水?」
しずくが通信越しに指示する。
『簡易検査してください』
健司は検査キットに少量の水を取り、試験紙を浸した。紙はすぐ青へ変わる。
「魔力反応あり」
『記録します』
「ずっと流れてるなら、植物増えるよな」
《森おじさん楽しそう》
「面白いぞ、これ」
《ダンジョン来て一番テンション高くない?》
「畑だからな」
水路には葉や泥、根が詰まり、一部では水があふれて栽培槽へ流れ込んでいた。
「これ、本来の灌水じゃないだろ」
しずくが設備図を確認した。
『設備図だと、水路から細い管で各槽に分配です』
「管、詰まってるんじゃない?」
『可能性あります』
「だから水路から直接あふれて」
周囲を見ると、あふれた水の近くでは植物が異常に繁茂している。
「湿りすぎ」
健司は農家の目で植物の状態を見直した。
「根腐れしてるのもある」
《分かるの?》
「普通の植物ならな」
ただし、相手はダンジョンの植物だ。地上の植物と同じとは限らない。健司がさらに進むと、《気配察知Ⅰ》が何かを捉えたため、すぐに足を止める。
「一つ」
《魔物?》
「多分」
前方の栽培槽で葉が揺れた。風はない。
「歩根草かな」
健司はすぐに防塵マスクをつけた。
《急に怪しいおじさん》
「粉吸いたくない」
葉の奥から、高さ七十センチほどの植物が動いて出てきた。太い茎に大きな葉がつき、その下では何本もの根が足のように動いている。一歩、また一歩と、本当に歩いていた。
《歩いてるw》
「本当に歩くんだな」
健司は近づかず、その場で様子を見る。《歩根草》は今のところこちらへ反応していない。
「何したら粉出す?」
『近づく、触る、攻撃する』
「じゃあ放っとく」
《戦わないの?》
「調査対象」
《倒した方が素材になる?》
しずくが通信越しに答えた。
『歩根草は根が薬素材になります』
健司はすぐに聞いた。
「いくら?」
『状態によりますが一体三千から五千円程度』
健司は一瞬黙った。
「……」
《目が変わった》
「変わってない」
《倒す顔》
「三千円か」
《鑑定一回分》
「そう考えると大きいな」
しずくが慌てた声を上げる。
『無理して倒さなくていいです!』
「粉どうにかできる?」
『マスクがあります』
「目は?」
『ゴーグル必要』
「持ってない」
『じゃあ今日はやめてください』
健司は即答した。
「やめる」
《早い》
「目痛くなるの嫌だろ」
《歩根草》はそのまま見送った。薬素材として三千円以上になるのは惜しいが、目を痛める危険まで冒すつもりはない。さらに奥へ進むと、魔力灯は一つ消え、別の二つは点滅していた。古い設備を写真に残しながら次の区画へ進む。扉は開いたままで、その先はかなり広い。健司は中を見て足を止めた。
「……何だこれ」
そこは部屋というより、一つの農園だった。天井は高く、魔力灯は半分ほどしか点いていない。それでも中央一面が赤い実で埋まっている。背丈一メートルほどの植物が並び、倒れた支柱や伸び放題の蔓の先に、トマトによく似た丸い実がついていた。普通のトマトよりずっと大きく、拳二つ分ほどあり、表面が淡く光っている。
「……トマト?」
《トマトだ》
《でか》
《魔力トマト?》
《森おじさんのためのダンジョン》
健司が資料を確認すると、旧栽培作物の欄に「試験番号・魔力吸収型果菜《紅晶実》」と記されていた。
「名前違う」
しずくがすぐに訂正する。
『紅晶実です』
「食える?」
『森おじさん』
「聞いただけ」
『食用研究されていた作物ですが、現在の個体が安全かは不明です。絶対食べないでください』
「分かってる」
健司は目の前の《紅晶実》を見つめた。
「でも五年?」
『はい』
「五年放置されて残ってるの?」
『自然更新したんだと思います』
「種?」
『おそらく』
健司の興味は一気に強くなった。普通のトマトなら、毎年支柱を立て、芽かきをし、水や肥料を調整し、病気や虫にも気を配る。それでも放置すればまともには実らない。ところがここは五年間、人の手が入っていない。魔力水と魔力灯、人工培土だけで、これだけの実が残っている。
「強い品種だな」
《そこ?》
「農家なら気になるだろ」
《味》
「それも気になる」
しずくの声がすぐ飛んできた。
『食べない!』
「まだ言ってない」
健司は赤い実から少し距離を取って観察した。葉の一部に穴が空いている。虫に食われたようにも見えた。
「何かいる」
《気配察知Ⅰ》を意識すると、小さな反応が複数あった。葉の裏には、指先ほどの黒い甲虫が何匹も潜んでいる。
「虫」
《害虫?》
「分からん」
一匹が葉を齧る。紅晶実は弱っていない。
「五年残るなら、病害虫にも強いのかな」
《魔物より植物見てる時の方が喋る》
《今日めっちゃ説明するじゃん》
《普段戦闘中ほぼ無言なのに》
「戦ってる時喋ったら危ないだろ」
《正論》
次は《紅晶実》を一個、指定サンプルとして採取することになった。
『紅晶実はサンプル一個お願いします』
「どれ?」
『外見正常で、傷のないもの』
「任せろ」
健司は色や形だけでなく、表面の傷や実の付き方、葉と茎の状態まで確かめてから一つを選んだ。
「これ」
しずくがすぐに反応した。
『早いですね』
「毎日やってるからな」
健司は鋏で実を切り取った。手に乗せると思った以上に重い。
「結構ある」
採取した実を袋へ入れる。
「食べたら腹いっぱいになりそう」
『食べないでください』
「しつこいな」
続けて土と水のサンプルを取り、設備の写真も記録した。
「ここ、復活させないの?」
何気なく聞くと、しずくが答えた。
『今のところ予定はありません』
「なんで?」
『採算です』
しずくによれば、理由は採算だった。研究費に設備の運営費、人件費、安全管理費まで加わるため、地上の農業よりどうしても高くつく。それが閉鎖の大きな理由らしい。
「なるほど」
珍しいものが作れるだけでは農業は続かない。売れること、利益が出ること、そして働く人がいること。その全部が必要になる。
「もったいないな」
健司はぽつりと呟いた。
《森おじさんやりたそう》
「やらないよ」
《即否定》
「家の畑あるから」
やるつもりはない。それでも少し面白くて、自分ならどう直すかを考えてしまう。詰まった水路、半分しか点かない魔力灯、残った人工培土、伸び放題の雑草と魔物、そして《紅晶実》。頭の中で勝手に作業の順番が並び始めた。
「まず水直して」
《始まった》
「灯り全部点くか確認して」
《やる気じゃん》
「蔓全部取って」
《完全にやる気》
「栽培槽整理すれば」
健司はそこで我に返った。
「……いや、俺の仕事じゃないな」
《遅い》
《農家の血が》
「調査だけ」
さらに区画の奥へ進んだところで、《気配察知Ⅰ》が大きな反応を一つ拾った。健司はすぐに足を止める。
「何かいる」
健司は剣を抜き、奥へ視線を向けた。大量の《紅晶実》の葉の向こうから、ガサリと重い音が聞こえる。
《何?》
「知らん」
葉を押し分けて現れたのは、《歩根草》とはまるで違う植物だった。人間一人ほどの高さがある太い茎の上に、黄色い巨大な花が咲いている。黒い中心部、足のような根、腕のように伸びる二本の蔓。一見すれば大きなひまわりにも見えた。
「……花?」
少し遅れて、通信からしずくの声が飛んできた。
『森おじさん、下がって!』
健司は理由を聞かず、すぐに五メートル、さらに十メートルと後退した。巨大植物がこちらを向き、花の黒い中心が開く。中にあったのは口と歯だった。
「花じゃないな」
《怖》
《食虫植物?》
《でかい》
しずくが通信越しに続けた。
『登録記録にない可能性があります!』
「知らないやつ?」
『少なくとも資料にはありません』
健司はさらに距離を取った。
「じゃあ帰る」
《戦わないの!?》
「知らん相手だぞ」
巨大植物は根を使って床をゆっくり進んでくる。健司は距離を保ちながら退路を確認した。逃げ道は十分ある。
「調査目的も達成したし」
《未知魔物だぞ》
「だからギルドに報告」
健司の判断は変わらない。ドローンで映像を撮り、ズームを使って安全な距離から記録する。巨大植物は速くないが、一本の蔓が突然「シュッ」と伸びた。予想以上に長い。健司は横へ避け、蔓が床を叩くのを見た。
「これは長いな」
《危な》
《逃げろ》
「逃げる」
必要なら剣で蔓を切れるよう構えたまま、健司は戦わず通路を戻った。巨大植物は区画の入口まで来たところで、大きな身体が栽培槽につかえて追えなくなる。蔓も届かなくなったのを確認して、健司はようやく足を止めた。
「ここまで」
息はほとんど乱れていない。通信からしずくの声がした。
『そのまま帰還してください』
「了解」
『位置は記録しました』
「新種?」
『確認しないと分かりません』
「名前つける?」
『勝手につけないでください』
《森ヒマワリ》
「俺の名前つけるな」
《オジサンフラワー》
「嫌だ」
《借金草》
「もう借金ないだろ」
帰りは、遠くにいる《歩根草》を避け、《蔓絡み》も位置を把握している場所だけ慎重に通過した。管理扉を閉め、「ガコン」と施錠音が響いたところで、健司はようやく一息つく。
「面白かったな」
《未知魔物いたのに感想それ》
「農園が」
《やっぱそっち》
第二階層の通常区画へ戻ったところで昼にした。今日の塩むすびは三個ある。
《本編》
「今日は農園の方が本編だろ」
《塩むすび》
「三個」
《増えた》
「母さんが最近三個作る」
塩むすびを三個平らげ、麦茶を飲んだ。いつも通りの味だが、それで十分うまかった。
《借金なくなったのに昼飯変わらない》
「借金なくなったら何食うんだ?」
《豪華弁当》
「塩むすびうまいぞ」
《そこは変わらんか》
「変える必要ないだろ」
その言葉は、自分で口にして少し気に入った。借金はなくなり、手元の金は少し増え、配信を見る人も増えた。探索者ランクはEで、スキルも四つになった。それでも昼は母の塩むすびで、家には畑とゴンとモチがいる。そこまで変える必要はない。昼食を終え、健司はギルドへ戻った。
「森おじさん!」
「ただいま」
「怪我は?」
「ない」
「巨大植物は?」
「置いてきた」
「当たり前です」
小会議室では、ギルドマスターとしずくがドローン映像を確認した。巨大植物の蔓が伸び、床を叩く場面で、ギルドマスターが画面へ顔を寄せる。
「見たことねえな」
「新しい?」
「専門に回す」
「強い?」
「映像だけじゃ何とも」
「じゃあ戦わなくてよかった」
「そこは正解」
その後は、水路や魔力灯、栽培槽の状態を説明し、《紅晶実》と薬草についても順に報告した。ギルドマスターは資料を読みながら首を傾げた。
「お前、調査報告だけ妙に詳しいな」
「農業区画だから」
「土の水分まで書いてある」
「大事だろ」
「探索者の調査でそこまで書く奴いねえ」
「でも農業の調査なら必要」
ギルドマスターが笑った。
「依頼出す相手、正解だったな」
基本報酬の三万円に、薬草サンプルと《紅晶実》、水の追加査定が加わり、合計は47,600円になった。
「悪くない」
しずくが金額を見ながら言った。
「戦闘なしでこれです」
「こういう依頼もっとない?」
ギルドマスターが口を挟んだ。
「気に入ったか」
「採取調査は好き」
「植物だからだろ」
「それも」
ギルドマスターは少し考えてから続けた。
「農業区画、今回の結果次第で追加調査出るかもな」
「巨大植物?」
「それも。設備も」
「設備?」
「水路生きてる。培土も残ってる。紅晶実が五年自生」
「うん」
「研究部が食いつく可能性ある」
健司は少し身を乗り出した。
「じゃあ再開?」
「そこまでは分からん」
「もったいないぞ」
「お前が言うと説得力あるな」
しずくが笑いながら言った。
「森おじさん、管理人にされるかもしれませんよ」
「嫌だよ」
「さっき配信で水路直して灯り点けてって」
「思っただけ」
「完全にやる気でした」
「家の畑あるから無理」
ギルドマスターが短く言った。
「週一」
健司は顔を上げた。
「ん?」
「週一で状態見るだけなら?」
健司は少しだけ考えた。
「報酬次第」
しずくが吹き出した。
「結局そこ!」
「仕事だからな」
まだ何も決まってはいない。今日はあくまで調査だけだった。配信の最大同時視聴者は7,108人で、過去最高を更新している。健司は数字を見て目を丸くした。
「七千?」
「鎧蜥蜴より?」
「はい」
「戦ってないぞ」
「ダンジョン農園、珍しいですから」
「俺、畑ばっかだな」
「農家ですから」
「そうだった」
帰りに郷田の店へ寄り、剣を見てもらった。
「今日は何斬った」
「蔓」
「魔物?」
「植物」
「刃見せろ」
郷田は剣を受け取り、刃を確認した。
「問題ねえ」
「鎧蜥蜴より優しい?」
「当たり前だ」
健司が巨大植物の映像を見せると、郷田は眉を寄せた。
「何だこれ」
「知らない?」
「知らん」
「戦わなかった」
「正解」
「最近そればっか言われるな」
「知らんもんに突っ込まねえのは正しい」
郷田は映像を止め、伸びた蔓の長さを確認した。
「間合い長いな」
「十メートル近かった」
「近接だけだと面倒」
健司は片手を小さく上げた。
「火ある」
郷田が思い出したように言う。
「そういや火魔法増えたんだったな」
「Ⅰ」
「植物なら相性いいんじゃねえか」
健司はそこで動きを止めた。
「……燃える?」
「普通ならな」
「農園ごと燃えない?」
郷田も同時に黙った。二人の間に短い沈黙が落ちる。
「使うな」
「俺もそう思う」
「絶対使うな」
「水路あるけど」
「そういう問題じゃねえ!」
「分かったよ」
夕方、健司が帰宅すると、門の近くまでゴンがゆっくり出てきた。モチはその背中に乗っていたが、健司を見るなり飛び立って肩へ移る。
「ただいま」
ピィ。
「今日は置いていったから怒ってる?」
ピィ。
「ブルーベリー買ってきたぞ」
ピィィ。
「許されたな」
母が家の中から声をかけた。
「おかえり」
「ただいま」
「畑あった?」
「すごかった」
「野菜?」
「トマトみたいなのがいっぱい」
「持って帰ってきた?」
「サンプルはギルド」
「食べられないの?」
「安全確認してから」
「そうだね」
以前なら先に味見をしたがりそうだった母の返事に、健司は少し笑った。
「あと、でかい花の魔物いた」
「花?」
「俺くらいある」
「きれい?」
「口あった」
母は露骨に嫌そうな顔をした。
「じゃあいらないね」
「うん」
夕飯には、朝に近所からもらった枝豆を茹でた。塩を振り、健司は一つ口へ入れる。
「うまい」
母が思い出したように聞いた。
「配信した?」
健司は手を止めた。
「あ」
「忘れたの?」
「忘れた」
母は楽しそうに笑った。
「怒られるね」
「明日言っとく」
ゴンには別のものを少しだけやり、モチにはブルーベリー。いつもの家で、いつものように食後の羊羹と茶まで済ませる。健司は今日の依頼資料を机へ置いた。借金はなく、返済も終わった。本来なら、農家を続けながらたまにダンジョンへ行く暮らしへ戻ってもよかった。だが、そのときスマートフォンにギルドから通知が入った。
《旧試験農業区画に関する追加調査候補として登録されました》
健司は画面を見て呟いた。
「早いな」
続いて、しずくからメッセージが届いた。
《研究部が紅晶実にかなり食いついてます。明日、詳しい話が来るかもしれません》
さらにもう一件。
《巨大植物は既存登録種と一致しませんでした。仮登録で《大口陽花》になりそうです。危険度調査予定です》
健司は表示された名前を読み上げた。
「大口陽花」
母が振り向いた。
「何?」
「今日の花」
「大きい口?」
「そのまんまだな」
そしてもう一つ。
《森おじさん、研究部から「農業経験者として区画再生に協力できないか」と聞かれてます》
健司はそこで手を止めた。「農業経験者」「区画再生」「協力」という言葉が並んでいる。報酬については、まだ何も書かれていない。
「……報酬次第だな」
母が尋ねた。
「何が?」
「ダンジョンの畑、直すかもしれない」
母の手が止まった。健司は何となく嫌な予感がした。
「うちの畑、先にやってね」
健司は笑った。
「はい」
ダンジョンでどれだけ強くなっても、配信を見る人が増えても、借金がなくなっても、森健司の一番目の仕事だけは、これからもたぶん変わらなかった。
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