第2話 配信って金になるのか
空が白み始める頃には、森健司はもう畑に出ていた。夏の朝は早い。日が高くなってからでは暑すぎるため、収穫や水やりはなるべく涼しいうちに済ませる。
「よし」
熟れたトマトを籠へ入れ、隣の畝へ移る。キュウリ。ナス。ピーマン。形が悪くて出荷できないものは別の籠へ。多少曲がっていようが、家で食べる分には何の問題もない。少し離れた鶏小屋では、すでに鶏たちが騒いでいる。
「分かった、分かった。今行くよ」
健司が声をかけると、さらに鳴き声が大きくなった。餌を入れ、水を確認する。卵を拾って籠へ入れた。七個。
「今日は多いな」
足元を何かが横切る。振り向くと、ゴンだった。年を取って昔ほど走らなくなった秋田犬は、健司の近くまで来ると、その場にゆっくり腰を下ろした。
「昨日は悪かったな」
頭を撫でる。ゴンは目を細めた。ダンジョンへ行くときについて来ようとしたが、さすがに連れて行くわけにはいかなかった。普通の犬を魔物のいる場所へ連れて行くつもりはない。
「今日はどうするかな」
昨日、初めて十万円を返した。残り二百九十万円。まだ先は長い。農業を続けながらダンジョンへ潜れば、少しずつ返せるとは思う。ただ、昨日一日でダンジョンから得た金は二万円少々。毎日潜るわけにもいかない。畑もある。鶏もいる。母もいる。農業を放り出して探索者へ戻るつもりはなかった。
「もうちょっと稼げる方法があればいいんだけどな」
ゴンに言う。もちろん返事はない。代わりに庭の端で、例の亀が歩いていた。
「お前は毎日楽しそうだな」
亀も答えなかった。健司は収穫籠を持ち上げ、家へ向かった。玄関の前まで来たところで、不意に右腕が気になった。昨日、郷田からもらった剣。剣を振った感触を思い出す。最初は妙に扱いにくかった。長く探索者を離れていたのだから当然だ。ところが、最後の方になると少しだけ感覚が戻っていた。
「久しぶりにやったからかな」
身体が思い出したのかもしれない。昔はDランクまで行った。剣も何年か使っていた。十年以上離れていたとはいえ、完全に忘れるものでもないのだろう。そう考えて、健司は気にしなかった。家へ入ると、母が台所に立っていた。
「健司、卵あった?」
「七個」
「じゃあ三つ置いといて」
「残りは?」
「持っていくよ」
近所へ分けるらしい。この辺りでは珍しくない。野菜が余れば隣へ持っていき、別の日には米や漬物が返ってくる。金を介さないやり取りも多い。
「母さん、今日は俺、ギルド寄ってくるから」
「あら、どこ行くんだい?」
「ギルド」
「そうかい」
母は頷いた。少しして、
「健司、今日はどこ行くんだい?」
「ギルドだよ」
「そうだったね」
健司は笑って、採れたてのトマトを一つ水で洗った。そのまま齧る。
「甘いな」
「それ、売り物じゃないのかい?」
「一個くらいいいだろ」
朝飯を済ませてから、健司は軽トラックへ乗った。荷台には出荷予定の野菜が少し。それを農産物の集荷所へ持っていき、その足で町の探索者ギルドへ向かう。探索者ギルドといっても、都会にあるような巨大な施設ではない。二階建ての少し古い建物。駐車場も広くない。入口脇には魔物素材の搬入口があり、裏には査定用の倉庫がある。健司が若い頃から場所もほとんど変わっていなかった。自動ドアが開く。中へ入ると、受付にいた若い女性が顔を上げた。
「あ」
目が合った。
「あれ? 森おじさん?」
「おう」
白花しずく。十八歳。地元の友人の娘だ。小さい頃から知っている。昔は健司の家にも何度か遊びに来たことがある。それが今ではギルドの制服を着て受付に座っている。
「本当に森おじさんじゃん」
「本当にってなんだよ」
「だって、昨日再登録したって聞いたから」
「情報早いな」
「田舎ですよ?」
「それ言われると何も言えんな」
しずくが笑う。この町では、大抵のことが翌日までには誰かに伝わる。場合によっては本人より先に知っている人間もいる。健司が三百万円の借金を背負った件も、そのうち広がるだろう。というより、郷田が知った時点でもう時間の問題だ。
「昨日潜ったんですよね?」
「潜ったよ」
「どうでした?」
「ゴブリンと兎がいた」
「感想それだけですか?」
「昔とそんな変わってなかったからな」
しずくは端末を操作した。
「森おじさん、昔Dランクだったんですよね」
「そうらしいな」
「自分のことでしょ」
「もう十年以上前だからなあ」
「記録残ってますよ。Dランクまで上がって、更新なしで失効。それで今回Fから再登録」
「そうそう」
「もったいない」
「農業の方が忙しかったんだよ」
健司は受付前の椅子へ座った。今日はダンジョンへ入る前に、少し聞いておきたいことがあった。
「しずく」
「はい?」
「ダンジョンって今、何が一番金になる?」
しずくが健司を見る。
「急ですね」
「金がいるんだ」
「いくらです?」
「二百九十万」
「……二百九十万?」
「昨日十万返したから」
「何の話ですか?」
「借金」
しずくの動きが止まった。
「森おじさん、借金あるんですか?」
「できた」
「何したんですか?」
「保証人」
「あー……」
なぜか一言で納得された。
「その反応なんだよ」
「森おじさんならやりそうだなって」
「俺、そんなに信用ない?」
「逆です。人を信用しすぎる方」
郷田にも同じようなことを言われた。
「上原さんですか?」
健司が目を向ける。
「なんで分かった」
「だって最近、上原さんのパーティーが攻略用の大型ローン組んだって話、探索者の間でちょっと出てましたから」
「有名なの?」
「A級ですからね」
「そうなのか」
健司はあまり探索者関係の情報を追っていない。上原がA級で有名なのは知っている。だが、どこのダンジョンへ潜ったとか、どんな装備を使っているとか、そういうことには興味がなかった。
「三百万が森おじさんに来たんですか?」
「来た」
「上原さんには?」
「電話したけど出ない」
しずくの表情が少し曇った。
「それ……」
「まあ、なんとかなるさ」
「軽いですね」
「重く考えても減らんからな」
しずくは何か言いたそうだったが、結局ため息をついた。
「それで、稼ぐ方法ですね」
「うん」
「普通に素材集めるなら、今の森おじさんだとFランク区域で魔石集めですね。でも二百九十万となると、かなり時間かかります」
「だよな」
「ランク上げて深いところへ行けば収入は増えますけど」
「すぐには無理だろ」
「そうですね。再登録したばかりですし」
しずくが少し考える。やがて、
「あ」
と声を出した。
「配信すればいいじゃないですか」
健司は首を傾げた。
「何を?」
「ダンジョン配信です」
「俺が?」
「森おじさんが」
「誰が見るんだよ」
「それはやってみないと分からないですけど」
「俺がゴブリン倒すの見て面白い?」
「今、探索配信って結構人気ですよ」
健司も存在くらいは知っている。若い探索者がダンジョンへ潜りながら映像を配信し、視聴者から金をもらう。テレビで紹介されているのを見たことがあった。ただ、自分がやるものだとは思ったことがない。
「俺、撮影しながら戦えないぞ」
「今はドローンですよ」
「ドローン?」
「探索用の自動追尾カメラです。ギルドでレンタルできます」
「そんなものまで貸してるのか」
「時代止まってますね、森おじさん」
「畑にドローンはいらんからな」
「今は農業用もありますよ」
「うちは俺が歩いた方が早い」
「そういうところですよ」
しずくが受付の下からパンフレットを取り出した。探索者向け配信支援サービス。登録方法。配信プラットフォーム。広告収益。投げ銭。素材販売ページへの連携。いろいろ書いてある。健司はしばらく読んだ。
「これ、本当に金入るの?」
「人気出れば」
「人気出なかったら?」
「ほぼゼロです」
「駄目じゃん」
「最初から何万人も見ると思ってたんですか?」
「いや、誰も見ないと思ってる」
「じゃあいいじゃないですか」
よく分からない理屈だった。しずくが続ける。
「森おじさんの場合、元Dランクで今Fランクっていうのも珍しいですし」
「そう?」
「四十六歳で再スタートっていうのも」
「おじさんだから?」
「おじさんだから」
「そこははっきり言うんだな」
「それに農家ですよね」
「農家だよ」
「普通の探索者とちょっと違うから、見てくれる人いるかもしれません」
健司はパンフレットを見る。金になる可能性がある。それだけで十分だった。
「やってみるか」
「軽いですね」
「駄目ならやめればいいだろ」
「その考え方、ちょっと羨ましいです」
手続きを始める。配信者名。健司はそこで止まった。
「名前って何にすればいい?」
「好きなので」
「森健司じゃ駄目?」
「別にいいですよ」
「じゃあそれで」
「本名そのまま?」
「地元じゃみんな知ってるだろ」
「まあ……そうですね」
匿名にする意味がほとんどない。住所まで出すつもりはないが、この辺で森健司と言えば知っている人は多い。ましてギルドへ来れば大抵顔見知りだ。
「配信タイトルは?」
「タイトル?」
「今日の配信につける名前です」
「ダンジョンに行く」
「もうちょっと何かありません?」
「借金返済?」
しずくの指が止まる。
「それ、いいかも」
「いいの?」
「分かりやすいです」
しずくが入力した。
【借金返済】Fランクの森おじさん、ダンジョンへ行く
健司は画面を見る。
「森おじさんって入ってるぞ」
「いいじゃないですか。普段呼ばれてるし」
「まあいいけど」
ドローンカメラのレンタルも申し込んだ。受付の奥から持ってこられたのは、手のひらより少し大きい黒い球体だった。四方に小さな羽根が収納されている。
「これが飛ぶの?」
「飛びます」
「ぶつからない?」
「自動で避けます」
「落としたら?」
「弁償です」
「いくら?」
金額を聞いた。健司の顔が少し真剣になる。
「絶対落としたくないな」
「自分の怪我よりカメラ心配してません?」
「借金増えたら困るだろ」
操作自体は簡単だった。起動。追尾対象を健司に設定。配信開始ボタンを押すだけ。コメントはスマートフォンでも確認できるし、ドローンが音声で読み上げる設定もあるらしい。
「全部読み上げられたらうるさくない?」
「人が増えたらそうなりますね」
「増えないだろ」
「最初はそうかもしれません」
しずくがカメラを健司の横へ飛ばした。球体がふわりと浮く。健司が右へ動く。ついてくる。左へ動く。またついてくる。
「おお」
「子供みたいな反応ですね」
「すごいな、これ」
「森おじさん、昔の人みたい」
「昔の人だよ」
「まだ四十六でしょ」
そんな話をしながら、ダンジョン入口まで向かった。配信開始。視聴者。0人
「誰もいないぞ」
「始めたばっかりですから」
「やっぱり駄目なんじゃない?」
「五分くらい待ってください」
「待つのも暇だな。潜っていい?」
「いいですよ」
健司はそのまま入口へ向かった。しずくが後ろから声をかける。
「森おじさん!」
「ん?」
「コメント来たら、余裕あるとき返事してくださいね!」
「分かった」
「戦闘中は無理しなくていいですから!」
「それは当たり前だろ」
健司はダンジョンへ入った。ドローンがついてくる。少し気になる。何度か振り返る。ちゃんといる。
「本当に勝手についてくるな」
機械へ話しかける。返事はない。少し歩いたところでスマートフォンが音を鳴らした。画面を見る。視聴者。1人
「お」
コメントが一つ。
《こんにちは》
健司は立ち止まった。
「こんにちは」
また歩く。コメント。
《初配信ですか?》
「そうです」
少ししてもう一つ。
《何歳?》
「四十六」
《本当におじさんだった》
「タイトルに書いてあるだろ」
自分でも少し笑った。視聴者が二人になる。三人。一人減る。二人になる。
「増えたり減ったりするんだな」
《当たり前w》
「そうなの?」
《配信慣れてなさすぎ》
「今日始めたからな」
曲がり角へ近づく。健司の足が自然に止まった。壁際へ寄る。少しだけ耳を澄ます。足音。一つ。健司は剣へ手をかけた。
《急に止まった》
《なんかいる?》
「いるな」
岩陰からゴブリンが飛び出した。健司は剣を抜いた。ゴブリンが走ってくる。昨日と同じ。錆びた短刀。低い姿勢。健司は構えた。そして少しだけ違和感を覚えた。
「……ん?」
剣が軽い。実際に重量が減ったわけではない。握り方。足の位置。刃の向き。昨日より自然だった。考えるより先に身体が動く。ゴブリンが短刀を突き出した。健司は斜めに身体をずらす。同時に一歩踏み込んだ。剣を横へ振る。刃がゴブリンの首元へ入った。一撃。ゴブリンが地面へ倒れた。健司は自分の剣を見る。
「昨日より使いやすいな」
コメントが流れる。
《え》
《今のFランク?》
《おっさん普通にうまくね》
「昔Dだったんだよ」
《元Dか》
《なるほど》
「十年以上やってないけどな」
《それで今の動き?》
「昨日一日振ったから、ちょっと思い出したんじゃない?」
健司自身は本気でそう思っていた。長く使っていなかった身体が、感覚を取り戻した。それだけ。自分の中に昨日まで存在しなかった《剣術Ⅰ》が宿っているなど、考えもしない。魔石を回収する。コメントが増えた。
《素材拾うの慣れてる》
《ほんとに昔やってたんだな》
《なんで復帰したの?》
「借金」
《草》
「笑うところ?」
《いくら?》
「二百九十万」
数秒、コメントが止まった。
《え》
《ガチじゃん》
《タイトル釣りじゃなかった》
「昨日まで三百万だった」
《10万返してるw》
《返済早くない?》
「貯金から出したからな」
《何で借金したの?》
健司は少し考えた。配信でどこまで話していいのか分からない。上原の名前を出す必要はないだろう。
「知り合いの保証人になった」
《あっ》
《一番ダメなやつ》
《おじさん……》
「俺も催促状見て、ちょっと困った」
《ちょっとなの?》
「まあ、なんとかなるだろ」
コメントが少し増えた。視聴者。7人健司は歩き続ける。その後もゴブリンを数体倒した。昨日より明らかに剣を扱いやすい。踏み込みも自然。一撃で仕留める回数も増えた。だが健司にとっては、
「感覚戻ってきたな」
で終わる話だった。むしろ気になったのはコメントだった。
《森おじさん強くね?》
《Fランクってもっと初心者じゃないの》
《農家だからパワーあるな》
「農業は力使うよ」
《普段何キロ持つの?》
「肥料なら二十キロ二袋くらい」
《40キロ!?》
「一袋ずつだと二回行かないといけないだろ」
《その発想で強くなるな》
《効率の問題じゃねえw》
視聴者が十人を超えた。たった十人。人気配信者なら誤差のような数字だろう。それでも健司には、十人もの知らない人間が自分の探索を見ている方が不思議だった。安全な場所で休憩する。鞄から包みを出す。今日も母が入れてくれた塩むすび。
「昼にするか」
《飯タイム》
《何食うの》
健司が包みを開く。
《おにぎり》
《シンプル》
《具は?》
「ないよ」
《塩むすびだけ?》
「うまいぞ」
一口食べる。水筒から麦茶。
《遠足のおじさん》
「ダンジョンだよ」
《回復薬は?》
「持ってる」
郷田に持たされた小型の回復薬を鞄から見せる。
《ちゃんとしてた》
「郷田が持ってけって」
《誰》
「友達」
《装備屋?》
「そう」
コメントを読みながら食べる。意外と悪くない。一人で食べるより少し賑やかだった。食べ終わる頃には視聴者が十五人になっていた。
「十五人もいるのか」
《少なすぎて喜ぶの草》
「十五人集めるって大変だぞ」
《田舎の集会なら大人数》
「そうそう」
《基準が田舎w》
休憩を終えた。もう少し進む。途中で角兎を二体。ゴブリンを三体。昨日より探索速度が上がっている。剣を振るたび、身体が少しずつ昔を思い出しているような感覚があった。健司はそれを疑わなかった。予定していた時間が近づく。まだ先へ行ける。疲れてもいない。だが健司は引き返した。
《もう帰るの?》
「帰るよ」
《まだいけそうじゃん》
「畑あるから」
《ダンジョンより畑w》
「仕事だからな」
《借金返済は?》
「それも仕事」
《忙しいなおじさん》
「ゴンの散歩もあるし」
《ゴン?》
「犬」
コメントが急に増えた。
《犬いるの!?》
《見たい》
《何犬?》
「秋田犬」
《絶対見たい》
《配信して》
「犬の散歩を?」
《お願いします》
健司は眉を寄せた。
「犬が歩いてるところ見て面白い?」
《面白い》
《見たい》
《ダンジョンより見たい》
「なんでだよ」
よく分からなかった。ダンジョンから出る。配信を止めようとしたところで、スマートフォンに表示が出た。本日の視聴者最大数。23人受け取った応援。1,840円健司は画面を見た。
「金入ってる」
コメント。
《初投げ銭おめ》
《借金返済にどうぞ》
「これ、もらっていいの?」
《そのための投げ銭》
「ありがとう」
健司は素直に頭を下げた。
「千八百四十円か」
《生々しいw》
「二百九十万から引いたら……」
計算する。
《今計算すんなw》
「あと二百八十九万八千百六十円」
《遠い》
《頑張れ森おじさん》
「ぼちぼちやるよ」
配信を終了した。受付へ戻る。しずくがすでに笑っていた。
「見てただろ」
「見てました」
「仕事は?」
「受付しながらです」
「いいのか?」
「暇な時間だったので」
ドローンを返す。しずくが機体を確認した。
「無傷ですね」
「落としたら借金増えるからな」
「そこだけ慎重すぎません?」
「金は大事だぞ」
「戦い方も慎重でしたよ」
「昔からだよ」
「最大二十三人かあ」
「結構いたぞ」
しずくが一瞬黙る。
「森おじさん、その感覚のままでいてください」
「なんで」
「その方が面白そうだから」
「よく分からんな」
査定へ素材を出した。昨日より少し多い。三万円を超えた。そこへ配信の応援分も加わる。大金ではない。それでも、昨日より確実に収入が増えた。健司は明細を見る。
「これなら続けてもいいな」
「配信ですか?」
「うん。カメラ借りる金を引いても少し残るだろ」
「そこなんですね」
「借金あるからな」
しずくは笑った。
「また借りるなら言ってください。森おじさん用に取っときます」
「そんなに余ってるの?」
「平日は余ってます」
「じゃあ頼む」
ギルドを出た。帰りに郷田の店へ寄る。
「今日も行ったのか」
「行った」
「どうだった」
「剣、昨日より使いやすかった」
郷田が健司を見る。
「もう感覚戻ったのか?」
「多分」
「昔からそんな器用だったか?」
「知らん」
健司は剣を抜かず、鞘ごと軽く持ち上げる。
「昨日は持ち方から違和感あったんだけどな。今日は妙にしっくりした」
郷田は少し不思議そうだった。
「まあ、元Dなら身体が覚えてたのかもな」
「俺もそう思う」
《肩代わり》の話は二人とも思い出さなかった。
二十年以上何の役にも立たなかったギフトだ。健司にとっては、もう昔の話だった。
「そういや配信始めた」
「お前が?」
郷田が笑う。
「何がおかしい」
「いや、お前がカメラに向かって喋ってるところ想像できなくてな」
「勝手についてくるカメラだった」
「ドローンだろ」
「そう。それ」
「で、何人見た」
「二十三人」
「少なっ」
「多いだろ」
「まあ最初ならそんなもんか」
「千八百四十円もらったぞ」
「妙に細かく覚えてんな」
「金だからな」
郷田が笑った。
「三百万背負うと変わるな」
「あと二百九十万だ」
「変わらんだろ」
家へ戻る。門を開ける前からゴンが待っていた。
「ただいま」
ゴンの頭を撫でる。
「散歩行くか」
尻尾が大きく動いた。
「お前、今日配信で人気だったぞ」
ゴンには何のことか分からない。それでも嬉しそうについてくる。田んぼの脇の細い道を歩く。夕方の風が吹いている。遠くで草刈り機の音。近所の家から夕飯の匂い。すれ違った老人が手を上げた。
「健司、ダンジョンまた始めたんだって?」
「もう知ってるの?」
「郷田から聞いた」
「早いなあ」
「借金もあるんだって?」
「そこまで言ったのかよ」
老人は笑いながら歩いていった。健司はため息をつく。
「やっぱ田舎だな」
ゴンだけが隣を歩いている。家へ戻れば母が飯を作っている。鶏もいる。庭には亀もいる。三百万円の借金ができたところで、生活そのものが急に変わったわけではない。ただ、少しだけ違うものが増えた。剣。ダンジョン。そして配信。
「まあ、これも悪くないか」
ゴンがこちらを見る。
「お前の散歩も配信してくれって言われたぞ」
尻尾が揺れる。
「分かってないだろ」
健司は笑った。その頃。上原は訓練場で、昨日から続く違和感に苛立っていた。何度剣を振っても戻らない。調子の問題ではなかった。休んでも変わらない。身体の動きそのものが、ほんの少し劣化している。
「おかしい……」
パーティーメンバーの一人が声をかけた。
「まだ気にしてんのか?」
「気にするだろ」
上原は剣を握り直す。
「俺の剣、明らかに落ちてる」
「歳じゃないの?」
「一日で落ちるか」
苛立ちながら剣を振る。またわずかにずれる。上原は舌打ちした。自分たちが森健司へ押しつけた三百万円。そのうち十万円が、すでに返済されている。その事実を、上原はまだ知らない。そして――。田舎の道を秋田犬と歩いている幼馴染が、自分から失われた剣術を何の疑問もなく使い始めていることも。もちろん知るはずがなかった。森健司自身ですら。まだ、何も知らないのだから。




