第1話 三百万円の催促状
朝の畑仕事をひと区切りつけて家へ戻ると、食卓の上に見慣れない封筒が置いてあった。
「健司、あんた宛てだよ」
台所から母の声がする。
「俺に?」
森健司は首にかけていたタオルで額の汗を拭きながら、封筒を手に取った。四十六歳。独身。田舎の一軒家で母と二人暮らし。家の周囲には畑が広がり、少し離れたところにも先代から受け継いだ農地がある。納屋、鶏小屋、古い農機具、軽トラック。土地だけ見ればそれなりのものだが、農家というのは土地があるからといって金持ちなわけではない。むしろ現金にはいつも縁が薄い。健司も例外ではなかった。封筒の差出人は金融会社だった。
「なんだろうな」
椅子へ腰を下ろし、封を切る。中から何枚かの書類が出てきた。一枚目を広げ、上から読み進める。そして途中に書かれていた数字で、健司の目が止まった。保証債務残高 三〇〇〇〇〇〇円
「……三百万か」
思わず声に出した。もう一度見る。数字は変わらない。三十万円でもない。三百万円。契約者。上原――。融資目的。ダンジョン攻略費、および探索用装備一式購入費。そして、連帯保証人。森健司。署名も自分の字だった。印鑑にも見覚えがある。間違いではない。
「あら。三百万も当たったのかい?」
母が味噌汁の鍋をかき混ぜながら言った。
「当たってないよ。借金だよ」
「あらまあ」
「俺も、あらまあって感じだな」
母は少し考えるような顔をしたあと、鍋へ視線を戻した。最近、母は少し物忘れが増えた。同じことを二度聞くこともあるし、置いた物の場所が分からなくなることもある。それでも料理はできる。畑にも出る。健司が暑いから休んでいろと言っても、気づけば草取りをしている。
「ご飯できるよ」
「はいよ」
食卓の下では、雌の秋田犬のゴンが横になっていた。年老いた犬ではあるが、まだ散歩へ行けば元気に歩く。健司が帰ってくれば尻尾を振るし、鶏小屋の近くに知らない獣が来ればちゃんと吠える。庭からは鶏の鳴き声が聞こえている。縁側の向こうでは、いつからいるのか分からない亀が庭石の横をのんびり歩いていた。三百万円の催促状。味噌汁の匂い。寝転がるゴン。庭を歩く亀。いつもの朝と、そう変わらなかった。
「困ったなあ」
健司は紙を食卓に置いた。驚いていないわけではない。三百万円は大金だ。だが、頭を抱えても金額は減らない。家が燃えたわけでもない。畑が全部駄目になったわけでもない。母も元気だ。ゴンもいる。鶏も今日の餌を待っている。なら、やることをやるしかない。健司はスマートフォンを取り出した。連絡先から一人の名前を探す。上原。幼稚園の頃から知っている。小学校も中学校も同じ。高校も一緒だった。卒業してからは別々の道を歩いたが、地元へ戻れば顔を合わせたし、正月に飲むこともあった。上原は探索者になった。しかも成功した。
今ではA級探索者パーティーの一員。テレビやネットの記事に名前が出ることもある。数か月前、その上原が健司の家を訪ねてきた。新しいダンジョン攻略のために装備を揃える。遠征費も必要になる。融資を受けるのに保証人が必要だ。ただしA級パーティーなので返済には何の問題もない。名前だけ貸してほしい。
『健司に迷惑は絶対かけない』
上原はそう言った。健司は疑わなかった。子供の頃から知っている。何十年の付き合いだ。A級探索者なら三百万円くらい返せるだろう。そう思って判を押した。電話をかける。呼び出し音。一回。二回。三回。やがて機械音声へ切り替わった。
「出ないな」
一度切り、もう一度かける。同じだった。ゴンが顔だけ上げた。
「上原、出ないぞ」
ゴンは健司を見たあと、また顎を床につけた。
「お前に言ってもしょうがないか」
メッセージも送った。
――金融会社から三百万の請求が来た。どうなってる?
しばらく待つ。既読はつかない。
「まあ、仕事中かもしれんな」
スマートフォンを置く。母が焼き魚と味噌汁を運んできた。
「冷めるよ」
「はいはい」
健司は催促状を端へ寄せて箸を持った。三百万円。農業だけで簡単に返せる金額ではない。それでも、いきなり全額を用意しろとは書かれていなかった。返済計画について連絡するよう記載されている。なら、払える分から払えばいい。一万。五万。十万。少しずつでも減る。
「三百万か」
味噌汁を飲みながら、もう一度呟いた。
「さっきも言ってたねえ」
「言ったっけ?」
「言ったよ」
健司は笑った。
「母さんの方が覚えてるじゃないか」
朝飯を終えると、健司はそのまま畑へ戻った。借金ができても、野菜は待ってくれない。トマトを採る。キュウリを籠へ入れる。倒れかけた支柱を直す。肥料の袋を肩へ担ぐ。二十キロの袋を二つ。一つずつ運べばいいのだが、何度も往復するのが面倒で両方持った。
「よいしょ」
重い。だが持てる。農業を長くやっていれば、このくらいの重さは珍しくない。土を耕す。物を持ち上げる。運ぶ。屈む。立つ。何時間も繰り返す。派手ではないが、身体は自然に鍛えられる。健司は特別な筋力トレーニングなどしたことがない。それでも同年代の会社員より腕力も持久力もあるだろう。昼近くなっても、息はほとんど乱れていなかった。少し離れたところでは母がしゃがみ込んで草を抜いている。
「母さん、暑いからもう中入れ」
「まだ残ってるよ」
「俺がやるから」
「健司は雑だからねえ」
「これでも農家なんだけどな」
母は聞いているのかいないのか、そのまま草を抜いた。健司は苦笑して鍬を握る。土へ刃を入れる。起こす。また振る。何十年と使ってきた道具だ。手に馴染んでいる。そこで健司はふと止まった。
「……ダンジョンか」
昔は健司も探索者だった。この地域にダンジョンが現れ始めた頃、地元の若者は大勢が探索者登録をした。健司もその一人。何年か続け、Dランクまで上がった。才能があったとは思わない。戦闘が好きだったわけでもない。ただ、無茶をしなかった。強そうな魔物がいたら逃げる。道が怪しかったら戻る。仲間が奥へ行きたがっても、自分が危険だと思えば止める。そのせいで「慎重すぎる」と言われたこともある。それでも、生きて帰る方が大事だった。やがて家の農業が忙しくなり、健司はダンジョンへ行かなくなった。探索者資格も長いこと更新していない。今から戻るならFランクからの再登録になる。
「昔は結構、金になったよな」
魔石。魔物素材。採取物。討伐報酬。今は昔より市場も整っていると聞く。農業だけで三百万円。これは重い。だが農業を続けながら、空いた時間にダンジョンへ潜ればどうだ。健司はしばらく考えた。
「……なんとかなるか」
鍬をもう一度振った。夕方になる前に農作業を切り上げた。鍬についた泥を水で流す。刃を確認する。まだ十分使える。柄にも問題はない。昔使っていた剣は、とっくに処分した。防具も残っていない。だがFランク向けのダンジョンなら、出てくる魔物もそれほど強くない。そして鍬なら使い慣れている。振れる。突ける。刃もついている。
「これでいいか」
健司は鍬を肩へ担いだ。玄関を出る。ゴンがすぐに立ち上がった。尻尾を振りながら後ろについてくる。
「お前は留守番」
ゴンは止まらない。
「散歩じゃないぞ」
まだついてくる。
「遠く行くかもしれんからな」
それでも門のところまで来た。そこへ母が家の中から声を上げる。
「健司!」
「なに?」
「遠出するなら持っていきな」
母が小さな包みを持ってきた。
「何これ」
「おにぎり」
包みを開く。大きめの塩むすびが二つ。海苔も具もない。昔から母が作る塩むすびだった。
「まだ郷田んとこ行くだけだぞ」
「腹減るだろ」
「まあ、そうだな」
健司は鞄へ入れた。
「ありがとう」
ゴンがまだこちらを見ている。
「ゴン。母さん見ててくれ」
名前を呼ばれ、ゴンが首を傾げる。
「今日は連れてけない」
しばらく健司を見ていたが、やがて諦めたように縁側へ戻った。
「賢いな」
頭を撫でる。それから健司は鍬を肩へ担いで歩き出した。郷田の店までは歩いて十分ほどだった。地方の探索者向け武器防具店。建物は古い。看板も少し色褪せている。だが手入れは行き届いているし、この地域で探索者をやっている人間なら大抵は一度くらい世話になる店だった。郷田とは小学校からの付き合いだ。今でも将棋仲間。冬になれば互いの家や集会所で盤を挟む。麻雀の面子が足りなければ、どちらかが呼び出される。店へ入る。
「おう」
カウンターの向こうから郷田が顔を上げた。
「おう」
挨拶はそれだけ。郷田は健司の顔を見る。次に肩を見る。鍬を見る。もう一度、健司を見る。
「……なんで鍬持ってんだ」
「相談があって」
「相談に鍬はいらんだろ」
「この後使う」
「何に?」
「ダンジョン」
郷田が黙った。
「……何しに?」
「潜りに」
「鍬で?」
「うん」
郷田は数秒間、何も言わなかった。
「お前、馬鹿なのか?」
「いきなり失礼だな」
「ダンジョンに鍬持ってくる奴に言われたくねえ」
「使い慣れてるぞ」
「畑耕す道具だ!」
「刃もある」
「そういう問題じゃねえ!」
店の奥まで声が響いた。健司は鍬を見る。
「猪くらいなら追い払えるぞ」
「魔物と猪を一緒にするな!」
「似たようなのもいるだろ」
「いるけど違う!」
郷田は額を押さえた。
「お前、昔Dランクまでやってたよな?」
「やってた」
「だったらなおさら分かるだろ」
「昔は剣持ってたから」
「今ないから鍬?」
「そう」
「その発想がおかしいんだよ」
健司は肩をすくめた。郷田がため息をつく。
「で、なんで今さらダンジョンだ」
「金がいる」
「いくら」
「三百万」
郷田の表情が変わった。
「……何した?」
「上原の保証人になった」
「は?」
「ダンジョン攻略費と装備代のローン」
郷田の顔が険しくなる。
「上原って、あの上原か?」
「ほかに誰がいる」
「A級の上原?」
「そう」
「お前と同級生の?」
「そう」
「幼馴染の?」
「そう」
「それで三百万押しつけられたのか」
「まだ押しつけられたかどうかは分からん」
「催促来たんだろ」
「来た」
「電話は?」
「出ない」
「それを押しつけられたって言うんだよ!」
郷田が怒っている。健司より怒っている。
「まあ、電話出たら聞くよ」
「お前は昔からそういうところあるよな」
「何が」
「人が良すぎる」
「判子押したのは俺だからな」
「だからって普通はもっと怒るだろ」
「怒ったって三百万減らんし」
「……お前なあ」
郷田は頭を振った。そこで、何かを思い出したように健司を見る。
「そういやお前、ギフトあったよな」
「ギフト?」
「忘れたのかよ」
健司はしばらく考える。
「ああ」
思い出した。
「《肩代わり》か」
「それ」
探索者が珍しくなかった時代。登録時には適性検査やギフト鑑定も行われていた。健司にも一つだけギフトがあった。
《肩代わり》。
ただし、名前以外のことはほとんど分からなかった。何を肩代わりするのか。いつ発動するのか。どう使えばいいのか。鑑定を受けても明確な答えは出なかった。戦闘で仲間のダメージを引き受けるわけでもなかった。疲労を代わりに受けるわけでもない。病気を肩代わりするわけでもない。結局、一度も発動したことがないまま、健司は探索者を辞めた。
「二十年以上、何も起きなかったな」
「名前だけなら今のお前にぴったりだな」
「何が?」
「借金まで肩代わりしてるだろ」
健司は少し考えた。
「……確かに」
「笑うところじゃねえ」
「今さらギフトなんてどうでもいいよ。使い方も分からんし」
健司にとっては、本当にその程度のものだった。若い頃なら、自分のギフトが何なのか気になった。強い能力ではないのかと期待したこともある。だが四十六にもなれば、二十年以上何もしてくれなかった能力に興味などない。畑を耕してくれるわけでもない。野菜を収穫してくれるわけでもない。鶏に餌をやってくれるわけでもない。
「肩代わりできるなら、この三百万そのものを代わりに払ってほしいけどな」
「それなら俺も欲しいわ」
二人で笑った。郷田が店の奥へ向かう。
「待ってろ」
「何?」
「いいから」
少しして、一本の剣を持って戻ってきた。飾り気のない片手剣だった。刃渡りは七十センチほど。鞘にも柄にも使用感がある。新品ではない。だがきちんと整備され、刃にも曇りはなかった。郷田が健司へ突き出す。
「持ってけ」
「いくら?」
「いらん」
「いや、払うよ」
「三百万借金ある奴から金取れるか」
「商売だろ」
「中古だ。下取りで入ったやつを俺が整備した。Fランクが使うなら十分だ」
健司は受け取った。思ったより重い。何度か軽く振ってみる。
「鍬の方が扱いやすいな」
「帰れ」
「冗談だよ」
「お前の場合、本気か冗談か分からん」
郷田は壁から簡易胸当ても外した。
「これも」
「悪いな」
「本当に悪いと思ってるなら死ぬな」
「分かった」
「あと、その長靴で行く気か?」
健司は足元を見た。いつもの農作業用長靴。
「駄目?」
「駄目に決まってるだろ!」
結局、探索用の靴まで借りた。店を出る頃には鍬を郷田へ預け、健司の腰には剣が下がっていた。
「帰りに鍬取りに来る」
「今日中に帰れよ」
「そのつもり」
「欲張るなよ」
「昔から欲張ったことないだろ」
「そうだったな」
郷田は少しだけ表情を緩めた。
「気をつけろ、健司」
「おう」
町外れの低級ダンジョンまでは軽トラックで二十分ほどだった。入口は昔とそれほど変わっていない。山の斜面に開いた巨大な穴をコンクリートで補強し、その前に管理施設が建っている。探索者証を出す。長期間活動していなかったため、ランクは失効。再登録扱いでFランクからになると説明された。
「昔Dまで行ったんだけどな」
職員が苦笑する。
「規則ですので」
「まあ、しょうがないか」
最低限の手続きを済ませた。久しぶりの探索者向けに注意事項も聞く。それから入口へ向かう。中から流れてくる空気はひんやりしていた。湿った土。石。わずかに混じる魔力特有の匂い。健司は少しだけ懐かしくなった。
「久しぶりだな」
腰の剣へ手を置く。昔はこれが普通だった。ダンジョンへ入り、魔物を倒し、魔石を持って帰る。それがいつの間にか畑と鶏の毎日へ変わっていた。どちらが嫌だったわけでもない。今の暮らしの方が性に合っていると思う。だが三百万円は返さなければならない。
「まあ、無理なら帰るか」
健司はダンジョンへ入った。第一階層は広い洞窟。Fランク探索者も多く使うため、主な通路には照明用の魔導具が設置されている。健司は急がない。足元を見る。壁を見る。曲がり角の手前で一度止まる。昔からの癖だった。しばらく進んだところで物音がした。岩陰から小さな影が出てくる。緑色の皮膚。子供ほどの身長。手には錆びた短刀。
「ゴブリンか」
懐かしい。一体だけ。健司は剣を抜く。構える。そこで眉を寄せた。
「こんな持ち方だったか?」
十年以上の空白は長い。大まかな動きは覚えている。だが細かなところが曖昧だ。ゴブリンが叫びながら走ってきた。短刀を振り上げる。健司は半歩下がる。短刀が空を切る。そこへ剣を振り下ろした。
「ふっ」
刃がゴブリンの肩へ深く入った。そのまま地面へ倒れる。健司は少し驚いた。
「一発か」
自分の腕を見る。剣術が上手いわけではない。単純に一撃が重かった。鍬。草刈り機。米袋。肥料。収穫籠。農業では毎日のように重い物を持つ。足腰も使う。何時間も働くため、持久力もつく。
「農業も役に立つもんだな」
魔石を回収する。袋へ入れる。少し進むと、今度は二体のゴブリン。健司は無理に突っ込まなかった。近づいてくるのを待つ。一体目が短刀を振る。身体をずらす。剣を横から叩き込む。二体目。少し焦って振った剣は浅かった。
「おっと」
追撃。二撃目で倒す。
「やっぱり剣は慣れんな」
鍬ならもう少し上手く振れる気がする。郷田に言えば、また怒られるだろう。一時間ほど進んだところで健司は休憩した。壁際の安全な場所へ座る。鞄から母にもらった包みを取り出す。塩むすび。少し潰れている。
「いただきます」
一口。塩気が強い。汗をかいた身体にはうまかった。水筒から麦茶を飲む。豪華な探索者用食品でもなければ、回復効果のある料理でもない。ただの塩むすび。だが健司には十分だった。拾った魔石を眺める。
「これでいくらになるかな」
一万円。二万円。積み上げれば三百万円。途方もない数字ではある。それでもゼロから三百万を作るわけではない。農業の収入もある。少し貯金もある。ダンジョンで稼げる。
「なんとかなるさ」
塩むすびの残りを口へ入れた。休憩後も欲張らなかった。予定していた時間まで探索し、帰路につく。倒したのはゴブリン七体。角兎二体。大した成果ではない。それでも魔石と素材を査定に出すと、二万円を少し超える金額になった。
「結構なるな」
昔より相場が上がっている。健司は少し嬉しくなった。帰りに郷田の店へ寄る。
「戻ったか」
「戻った」
「怪我は?」
「ない」
「何倒した」
「ゴブリン七匹と、角のある兎二匹」
郷田が少しだけ目を見開いた。
「初日としては悪くないな」
「昔やってたからな」
「剣はどうだった」
「鍬の方が――」
「返せ」
「最後まで聞けよ」
郷田が手を出したので、健司は笑った。
「剣の方が魔物にはいいと思う」
「当たり前だ」
「鍬返して」
「明日畑あるんだろ」
「ある」
郷田から鍬を受け取る。
「ありがとな」
「剣は持ってけ」
「いいのか」
「返済終わったら飯でも奢れ」
「分かった」
軽トラックで家へ戻る。門の近くまで来ると、ゴンがすぐに気づいた。ゆっくりだった足取りが少し速くなる。
「ただいま」
大きな頭を撫でる。庭では鶏が騒いでいる。
「はいはい。飯だな」
ダンジョンから帰ってもやることは変わらない。鶏へ餌をやる。水を替える。畑を見る。収穫籠を片づける。朝に見た亀は庭の反対側まで移動していた。健司はしゃがむ。
「お前も結構歩いたな」
亀は何も言わない。家へ入る。母が煮物を作っていた。
「健司、おかえり」
「ただいま」
「どこ行ってたんだい?」
「ダンジョン」
「そうかい」
少しすると、母がまた振り返った。
「今日はどこ行ってた?」
健司は少し笑った。
「仕事してきた」
「そうかい。なら手洗ってきな」
「はいよ」
夕食を食べる。煮物。焼いた茄子。漬物。米。派手ではない。でも健司はこういう飯が好きだった。食後、戸棚から羊羹を出した。厚めに一切れ切る。茶を淹れる。
「食う?」
母へ聞く。
「少しだけ」
二人で羊羹を食べた。健司は甘いものの中でも羊羹が一番好きだった。疲れた日に濃い茶と一緒に食べると、妙に落ち着く。
「さて」
食卓へ催促状を出す。三百万円。今日のダンジョン収入だけでは、まだ遠い。だが、手元の貯金もある。農産物の売上も近いうちに入る。初回くらい、少し多めに返しておこう。健司は金融会社へ連絡した。事情を確認。返済方法を聞く。指定された口座へ十万円を振り込む。100,000円スマートフォンの画面に手続き完了と表示された。残る保証債務。2,900,000円
「あと二百九十万」
十万円。まだ二十九回分もある。それでも、三百万より二百九十万の方がいい。
「ぼちぼちやるか」
健司は茶を飲んだ。その瞬間。胸の奥に、ほんのわずかな熱を感じた。
「ん?」
胸へ手を当てる。痛くはない。一瞬だけ、身体の中を温かいものが通ったような感覚。すぐ消えた。
「久しぶりに動いたからかな」
ダンジョンへ潜ったせいだろう。そう思った。健司は知らない。二十年以上、何の役にも立たなかったギフト。
《肩代わり》。
それが初めて条件を満たしたことを。他人が負うべき債務を、自ら肩代わりして支払う。その代価を、健司に債務を肩代わりさせた者たちから徴収する。健司には何も見えなかった。通知もない。ステータス画面も存在しない。だから、自分の身体に《剣術Ⅰ》が宿ったことなど知るはずもなかった。同じ頃。遠く離れた都市にある、A級探索者向けの訓練施設。一人の男が剣を振っていた。上原。四十六歳。森健司と同い年。幼稚園から高校まで一緒だった幼馴染。そして今は、現役のA級探索者。上原は何度も剣を振る。縦。横。斜め。踏み込み。切り返し。長年繰り返してきた動き。何千回どころではない。
何万回と身体へ叩き込んだ技術だ。だからこそ、その違和感にはすぐ気づいた。
「……ん?」
剣を止める。構え直す。踏み込む。振る。剣先が、わずかにぶれた。上原の眉が寄る。
「なんだ?」
もう一度。今度は少し速く。だが、思った場所へ剣が走らない。数センチ。普通の人間なら気づかないほどのズレ。だが上原には分かる。自分の剣ではない。昨日までより、わずかに鈍い。
「疲れてるんじゃないか?」
近くにいたパーティーメンバーが声をかけた。
「いや」
上原は短く返した。腕を回す。痛みはない。怪我もない。体調も悪くない。もう一度、基本の型から振る。違う。確実に違う。昨日まで自然にできていたことが、ほんの少しだけできなくなっている。身体が忘れたような。技術の一部だけを、誰かに切り取られたような。
「……なんだよ、これ」
上原の額に汗が浮かぶ。その理由を、上原は知らない。自分たちが騙し、三百万円の保証債務を押しつけた幼馴染。森健司。その健司が、つい先ほど。最初の十万円を返済した。ただそれだけ。たったそれだけのことだった。森健司は《剣術Ⅰ》を得た。そして、その分だけ。上原の剣術は――確かに一段階、失われていた。




