第18話 約束の一週間
約束した一週間が過ぎた。
森健司は午前中の畑仕事を終えると、縁側へ腰を下ろした。帽子を脱ぎ、首に掛けていたタオルで額の汗を拭う。
「暑いな」
今日もよく晴れている。
縁側の下の日陰では、ゴンが腹まで床につけるようにして完全に伸びていた。その背中にはモチが乗り、白い羽毛を丸く膨らませている。
「お前、暑くないの?」
ピィ。
「白いから平気?」
ピィ。
「適当に返事してるだろ」
健司は笑いながら麦茶を飲んだ。
冷たい。
午前中はトマト、ナス、キュウリを収穫し、直売所へ持っていく分をまとめた。
今日は配信をしていない。
毎日カメラを回す必要はないし、農家には農家の仕事がある。
そして今日は、もう一つやることがあった。
健司はスマートフォンを取り出し、金融会社のページを開いた。
保証債務残高 520,000円
「……変わってないか」
数日前からずっと五十二万円のままだ。
最後の一人。
久我玲奈。
A級探索者で、上原たちのパーティーでは魔法使いを務めている。
五人の中で、自分の負担分をまだ払っていない唯一の人物だった。
岩崎からは何度か連絡が来ている。
自分も説得している。
上原も話した。
水野も榊も話した。
それでも久我は払わなかった。
そして、一週間が過ぎた。
「……仕方ないか」
健司はスマートフォンを膝の上へ置いた。
ゴンが一度だけ目を開ける。
「待ったよな?」
ゴンはそのまま目を閉じた。
「一週間」
ピィ。
「そうだよな」
誰に確認しているのか、自分でも分からない。
ただ、岩崎には言った。
一週間は待つ。
それ以上は待たない。
借金は自分の名前で残っている。
保証人としての支払い義務もある。
今月は十万円を払っても農業経費には影響しない。生活費も残るし、装備の修理が必要になっても問題ない。
なら返す。
それだけだった。
家の中から母の声が聞こえる。
「健司」
「なに?」
「スイカ切ったよ」
「食べる」
借金返済の直前にスイカ。
自分らしいな、と健司は少し笑った。
◇
居間へ入ると、皿の上に赤いスイカが並んでいた。
母が一切れ取り、健司も一切れ手にする。
モチも当然のようについてきた。
「お前は駄目」
ピィ。
「食べられるか分からん」
母がモチを見る。
「少しくらいいいんじゃない?」
「分からんものはやめとこう」
「そう?」
代わりにゴンには、種を全部取り除いた部分をほんの少しだけ与える。
「お前はちょっとだけな」
ゴンが健司の手のひらからスイカを食べた。
母が笑う。
「甘いね」
「ゴンに?」
「モチにも」
「母さんもだろ」
「私は普通だよ」
「ブルーベリー毎日出してるじゃん」
「あれは果物だから」
「理由になってないだろ」
母は気にした様子もなく、自分のスイカを食べている。
健司も一口食べてから言った。
「今日、十万円返すよ」
母が顔を上げる。
「あの借金?」
「うん」
「あと五十二万円だったでしょう?」
「そう」
「最後の人、払わなかったの?」
「払わなかった」
母は少し残念そうに眉を下げた。
「あら」
「一週間待ったから」
「そう」
「十万円だけ返す」
「全部じゃないの?」
「全部はちょっと怖い」
「怖い?」
健司は《肩代わり》のことを母には細かく説明していない。
最近、借金を返すと変なことが起きる。
その程度にしか話していなかった。
「一度にいっぱい返すと、どうなるか分からないから」
母は少し考えた。
「じゃあ少しずつでいいんじゃない?」
「そうする」
「無理しないでね」
「うん」
スイカを食べ終える。
健司はスマートフォンを手に取った。
金融会社の返済ページ。
返済額の欄へ数字を入力する。
100,000円
そこで指が止まった。
この十万円を払えば、また何かが起きる可能性が高い。
最初は《剣術Ⅰ》。
次は《身体強化Ⅰ》。
三回目は《気配察知Ⅰ》。
一方で、上原たちが金融会社へ直接返済したときには何も起こらなかった。
条件はかなり見えている。
健司自身が、本来は他人が負うはずだった金を肩代わりして返す。
そのとき、《肩代わり》が動く。
そして今、返済していない共犯者は久我一人だけだ。
なら、次に誰から何が来るのか。
考えたくなくても予想できてしまう。
久我の主力技能。
《火炎魔法Ⅲ》。
「……火か」
母がこちらを見る。
「何?」
「いや」
畑と火。
どう考えても相性が悪い。
「火事だけは気をつけないとな」
「何の話?」
「何でもない」
母が不思議そうな顔をする。
健司はもう一度画面を見た。
100,000円。
「払うか」
返済ボタンを押す。
確認画面。
もう一度押す。
《処理中》
数秒後。
《返済を受け付けました》
残高はすぐには反映されない。
そして――来た。
胸の奥が、ほんの少し温かくなる。
熱いわけではない。
身体の中を細い何かが通り抜けるような、これまでにも三度経験した感覚。
健司は目を閉じた。
数秒で、それは消えた。
「……来たな」
母が聞く。
「何が?」
「多分、あれ」
「痛いの?」
「痛くない」
「ならいいけど」
母は食べ終えたスイカの皿を持って台所へ行った。
健司は自分の手を見る。
見た目に変化はない。
指も普通。
熱くもないし、火が出るわけでもない。
「どうやって分かるんだ?」
《剣術》は剣を握れば違いが分かった。
《身体強化》は荷物を持てば分かった。
《気配察知》は周囲を意識すれば使えた。
だが火炎魔法となると話が違う。
もし本当に移ってきているとして、どうやって使えばいいのか。
昔Dランク探索者だった頃も、健司は剣と採取が中心だった。魔法を実戦で使った経験はほとんどない。
「……やめとこ」
少なくとも家で試すものではない。
古い木造住宅。
畳。
柱。
火。
どう考えても相性が悪い。
「母さん」
「何?」
「俺、ちょっと外行く」
「畑?」
「畑じゃないところ」
「どこ?」
「空き地」
母がさらに不思議そうな顔をした。
「何するの?」
「火が出るか見る」
沈黙。
「健司」
「うん」
「家の近くでやらないでね」
「だから空き地」
「消防車来るようなことしないでね」
「しないよ」
「本当に?」
「多分」
「多分は駄目だよ」
「……はい」
正論だった。
結局、空き地で火を出す実験は中止した。
「ギルド行くか」
ギルドなら魔法用の訓練場がある。
防火設備も消火設備もあるし、何かあっても対応できる。
軽トラックへ向かうと、モチが飛んできた。
「今日はギルド」
ピィ。
「籠」
健司が籠を開けると、モチは自分から中へ入った。
以前よりかなり慣れている。
ゴンは縁側の下から動かない。
「ゴンは留守番」
尻尾だけが一度動いた。
母が玄関から声をかける。
「晩ご飯までには帰る?」
「帰る」
「火、気をつけてね」
「まだ出るって決まってないよ」
「出るかもしれないんでしょう?」
「まあ」
「じゃあ気をつけて」
「はいよ」
◇
田舎道を軽トラックで走りながら、健司は何度か右手を見た。
当然、何も起きない。
「火炎魔法か」
もし本当にそうなら、これで剣、身体能力、索敵、それに魔法まで加わることになる。
元Dランク。
現在はEランク。
持っている能力だけ見れば、かなり変わってきた。
それでも本人はあまり嬉しくなかった。
「使い道あるかな」
籠の中からモチが鳴く。
ピィ。
「畑で草焼く?」
ピィ。
「駄目だな」
火炎魔法で雑草処理。
想像しただけで、何か間違っている気がする。
ギルドへ着き、自動ドアを抜ける。
受付にいた白花しずくが健司を見る。
「森おじさん」
「おう」
その視線がすぐ籠へ移った。
「モチ!」
「今日はいるぞ」
しずくの顔が一気に明るくなる。
「モチー」
「本当に俺より嬉しそうだな」
「そんなことないですよ」
「顔」
「業務中です」
「そういうことにしとく」
籠を開けると、モチが飛び出してしずくの肩へ止まった。
健司は受付へ近づき、少し声を落とす。
「しずく」
「はい?」
「返した」
しずくの笑顔が消えた。
「……十万円?」
「うん」
「今日が期限でしたっけ」
「一週間」
「久我さん、払わなかったんですか」
「残高変わらなかった」
「それで?」
健司は自分の胸元へ手を置く。
「来た」
しずくの表情がさらに真剣になる。
「あの感覚?」
「うん」
「何が来たんです?」
「まだ分からん」
「簡易鑑定します?」
健司はすぐに聞いた。
「三千円?」
「まだ言う」
「高い」
「必要経費ですよ!」
「でもなあ」
「でもじゃありません」
健司は少し考えた。
十万円返したので、借金は残り四十二万円になるはずだ。
ここまで来た以上、新しく何が増えたのか分からないままにしておくのも危ない。
「……やるか」
しずくが驚いた。
「え?」
「何?」
「素直」
「俺だって必要なら払うよ」
「羊羹何本分って言わないんです?」
「もう計算した」
「したんだ……」
◇
鑑定室には、以前と同じ透明な石が置かれていた。
健司は椅子へ座り、右手を石へ乗せる。
「二回目割引ない?」
「ありません」
「常連だぞ」
「常連になる施設じゃないです」
「スタンプカード」
「ありません!」
装置が淡く光り、光が手から腕、身体全体へ広がっていく。
数十秒後、鑑定が終わった。
しずくが端末を見る。
その目が止まった。
「あった?」
「……ありました」
「やっぱり」
健司も画面を見る。
保有ギフト。
《肩代わり》
確認技能。
《剣術Ⅰ》
《身体強化Ⅰ》
《気配察知Ⅰ》
そして、その一番下。
《火炎魔法Ⅰ》
健司は少しだけ眉を上げた。
「火だ」
「火ですね」
「いらないな」
しずくがすぐに振り返る。
「第一声それですか!?」
「だって農家だぞ」
「ダンジョンでは使えます!」
「剣ある」
「遠距離攻撃ですよ!」
「燃えたら素材駄目にならない?」
「そういう問題じゃ……いや、素材によっては問題ですけど」
健司はもう一度画面を見る。
《火炎魔法Ⅰ》。
予想通りだった。
「久我さんか」
しずくが小さく言う。
「ですよね」
「多分」
「《火炎魔法》持ちなんですか?」
「岩崎さんから聞いた」
「ランクは?」
「Ⅲ」
しずくが息を止めた。
「じゃあ今……」
「Ⅱになってるかもな」
完全移転。
一段失い、その一段が健司へ移る。
これまでと同じなら、久我の《火炎魔法Ⅲ》は《火炎魔法Ⅱ》になっている。
健司は少し顔を曇らせた。
「待ったんだけどな」
「一週間」
「うん」
「森おじさんが悪いわけじゃないですよ」
「そうなんだけど」
「返済義務は森おじさんに来てるんです」
「うん」
「久我さんが払うって言えば待ったんでしょう?」
「うん」
「一週間ありました」
「そうだな」
しずくは画面を見ながら言った。
「久我さんが選んだ結果ですよ」
健司はそれ以上何も言わなかった。
払うか。
払わないか。
一週間の猶予はあった。
その結果、健司が返した。
そしてギフトが動いた。
「まあ、今さら戻せないしな」
「本鑑定なら、戻す方法が分かるかもしれません」
「高い」
「そこは即答なんですね」
「完済したら考える」
「あといくらです?」
健司がスマートフォンを確認する。
残高はすでに更新されていた。
保証債務残高 420,000円
「四十二万」
「本当にもう少しですね」
「最初三百万だったのにな」
「早かったですね」
「向こうが返したから」
「能力を失いたくなくて、ですけどね」
「理由は何でもいいよ」
健司にとって大事なのはそこではない。
「借金なくなれば」
家と畑と生活を守れる。
それで十分だった。
健司はもう一度《火炎魔法Ⅰ》を見る。
「で」
「はい?」
「これ、どうやって使うの?」
しずくが瞬きをした。
「あ」
「知らない?」
「魔法訓練場行きましょう」
「無料?」
「そこ大事です?」
「大事」
「登録探索者は無料です」
「よし」
「顔変わった」
◇
地下の魔法訓練場は、石壁で囲まれた防火仕様になっていた。
消火設備もあり、奥には魔法用の標的が並んでいる。
健司は端の区画へ立った。
しずくは少し離れた場所にいる。
モチはまだしずくの肩だ。
「モチはもっと離した方がいい?」
「そうですね」
二人はモチをさらに後方へ移動させた。
「森おじさん、魔法使ったことは?」
「ほぼない」
「魔力を意識できます?」
「昔ちょっと習った」
健司は右手を前へ出す。
「こう?」
「たぶん」
「たぶん?」
「私、魔法職じゃないです」
「先生呼んだ方がよくない?」
「まず火が出るか確認するだけですから」
「燃えたら?」
「ここは燃えません」
「ならいい」
標的までは十メートルほど。
健司は右手へ意識を集中させた。
魔力。
火。
昔、魔石へ魔力を流す基礎訓練くらいはやったことがある。
だが、かなり久しぶりだ。
「うーん」
何も起きない。
しずくが横から声をかける。
「もう少し集中してください」
「してる」
「火をイメージして」
「火」
何も出ない。
「焚き火とか」
健司は昔の焚き火を思い浮かべる。
「燃やすなって言われるやつ」
「違います!」
「じゃあガスコンロ」
「何でもいいです!」
カチッ。
青い炎。
そのイメージを右手へ重ねる。
「……ん?」
指先が少し熱くなった。
ポッ。
小さな炎が出た。
十センチほどの火だ。
「出た」
しずくが声を上げる。
「出ました!」
炎はすぐに消えた。
健司は自分の手を見る。
「ライター?」
「魔法です!」
「弱いな」
「Ⅰですし、初めてなんですから!」
もう一度試す。
今度は先ほどより感覚が分かった。
ボッ。
拳より少し小さな炎の塊が飛び出す。
しかし標的へ届く前に消えた。
「……短いな」
「練習すれば伸びます」
「これ戦闘で使える?」
「今は無理ですね」
「やっぱりいらない」
「すぐ捨てようとしないでください!」
周囲にいた探索者が何人かこちらを見る。
四十六歳のEランク探索者が、初歩の火魔法を何度も飛ばしている。
ポッ。
ボッ。
途中で消える。
健司は真剣だった。
しずくは少し笑っている。
「笑ってる?」
「笑ってません」
「顔」
「頑張ってください」
「何か馬鹿にされてるな」
五回。
十回。
少しずつ距離が伸びた。
一メートル。
二メートル。
三メートル。
まだ標的には届かない。
「疲れる」
健司は腕を下ろした。
筋肉の疲れではない。
身体の内側から消耗するような感覚だった。
「これ、身体強化と違って疲れるな」
「魔力消費です」
「農作業より疲れる」
「比較対象そこですか?」
「俺には分かりやすい」
休憩用のベンチへ座り、水を飲む。
モチが戻ってきて、健司の頭へ止まった。
「熱くなかった?」
ピィ。
「お前の近くでは使わないからな」
しずくも念を押す。
「家でも絶対やめてください」
「母さんにも言われた」
「当然です」
「畑でも?」
「乾燥してるときは絶対駄目です」
「草焼きに使えそうだけど」
「駄目です」
「やっぱり?」
「当たり前です」
健司は水をもう一口飲んだ。
《火炎魔法Ⅰ》。
本当に能力が増えた。
これで四つ目。
《肩代わり》が動いた回数と、増えた技能の数が一致している。
「これ」
「はい」
「十万円ごとなんだな」
しずくは少し考える。
「少なくとも、今のところはそう見えますね」
「じゃあ残り四十二万を俺が払ったら」
二人とも黙った。
十万円なら四回。
端数二万円。
四つ来るのか。
一つなのか。
そもそも全く違う動きをするのか。
分からない。
しずくが首を横へ振った。
「やめた方がいいですね」
「俺もそう思う」
「一気に四十二万円は怖いです」
「誰から何が来るかも分からないしな」
「向こうが直接払えば何も起きない」
「はい」
「なら残り払ってくれるの待つ」
「久我さんも今回のでさすがに――」
そのとき、健司のスマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
「誰だ?」
しずくが見る。
「出ます?」
「うん」
健司は通話ボタンを押した。
「もしもし」
数秒間、何も聞こえない。
やがて女の声がした。
『森健司?』
強い声だった。
健司はすぐに察した。
「久我さん?」
しずくの目が見開かれる。
『……そうよ』
「こんにちは」
『……』
「どうしたの?」
久我は一瞬言葉に詰まったあと、低い声で聞いた。
『あんた、今日返済した?』
「したよ」
向こうの呼吸が少し荒くなる。
『いくら』
「十万」
『……』
「約束の一週間だったから」
沈黙のあと、久我が言った。
『私の《火炎魔法》が落ちた』
健司は目を閉じた。
やはりそうだった。
「Ⅲから?」
『Ⅱになった』
完全に一致した。
「そうか」
『そうかじゃないわよ!』
しずくにも聞こえるほどの大声だった。
『返して!』
「返し方知らない」
『あんたのギフトでしょう!』
「二十年以上、使い方知らなかったんだよ」
『そんなの知らない!』
「俺も知らなかった」
『返しなさいよ!』
健司は少し黙った。
怒鳴り返す気にはならない。
「久我さん」
『何よ』
「俺、一週間待ったよ」
『……』
「岩崎さんから聞いてた?」
『聞いてた』
「上原からも?」
『……聞いた』
「俺、期限過ぎたら返済するって言ったよね」
『だからって!』
「借金、俺のところに残ってたから」
『五十二万くらい――』
久我の声が止まった。
自分で口にして気づいたのだろう。
五十二万円くらい。
健司は静かに答えた。
「うん」
『……』
「五十二万くらいなら、払ってくれればよかったんじゃない?」
長い沈黙。
久我は何も言わない。
健司も待った。
隣にいるしずくも黙っている。
モチだけが小さく鳴いた。
ピィ。
やがて、電話の向こうから久我の小さな声が聞こえた。
『……むかつく』
「ごめん」
『謝らないでよ!』
「じゃあ謝らない」
『そういうところよ!』
健司は困った。
何が正解なのか分からない。
「俺、火炎魔法欲しくて返したわけじゃないよ」
『でも取ったじゃない』
「借金返しただけ」
『……』
「返し方分かったら返す」
久我の声が少し変わる。
『本当に?』
「うん」
『信じろって?』
健司は少し苦笑した。
「信じなくていいよ」
『……』
「俺も上原信じて保証人になったから」
電話の向こうが完全に静かになった。
しずくの目が少し丸くなる。
健司は嫌味を言ったつもりではない。
ただ、本当のことだった。
信じるのは難しい。
今回、それを学んだ。
「だから、信じなくていい」
『……』
「返す方法が見つかったら連絡する」
しばらくして、久我がかすれた声で言った。
『残り』
「うん?」
『四十二万よね』
「今は」
『……私が払う』
健司は少し驚いた。
「全部?」
『払う』
「無理しなくていいよ」
『あんたに言われたくない!』
「分かった」
『今日中に払う』
「金融会社へ直接頼む」
『分かってる!』
「俺に送ると、また何か起きるかもしれないから」
『分かってるって言ってるでしょ!』
「じゃあ頼む」
久我の荒い呼吸が聞こえる。
そのあと、少し間を置いて言った。
『……火炎魔法』
「うん」
『使った?』
健司は普通に答えた。
「さっき」
『……』
「三メートルくらいで消えた」
沈黙。
しずくが口元を押さえる。
『は?』
「まだ標的まで届かない」
『私の《火炎魔法》が!?』
「Ⅰだから」
『……』
「ライターよりは強い」
再び沈黙。
『……返して』
「方法分かったらね」
『絶対よ』
そこで通話が切れた。
健司はスマートフォンを見る。
「怒ってたな」
しずくが健司を見る。
「森おじさん」
「何?」
「最後ちょっと面白がってませんでした?」
「何を?」
「ライターのところ」
「本当だぞ」
「そうですけど」
健司はベンチから立ち上がった。
「もう一回練習するか」
「まだやるんです?」
「返すにしても、今使えるのは俺だから」
「……まあ、それはそうですね」
「危ないときに使えた方がいい」
欲しかった技能ではない。
それでも今は自分の中にある。
ダンジョンへ行く以上、命を守る手段は使えた方がいい。
健司は再び標的の前へ立った。
右手を出す。
ボッ。
炎が飛ぶ。
四メートルほど進んで消えた。
「伸びた」
「早いですね」
「農業のおかげ?」
「絶対違います」
「魔力も農業で鍛えられてるとか」
「鍛えられません!」
「そう?」
「そこまで万能じゃありません!」
周囲から小さな笑い声が聞こえる。
健司はもう一度試した。
今度は五メートル。
小さな火球が飛んだ。
まだ標的には届かない。
それでも、少しずつ感覚が分かってきた。
魔力を集める。
火へ変える。
まとめる。
前へ飛ばす。
「面白いな」
ぽつりと口にすると、しずくがすぐ反応した。
「気に入ってるじゃないですか」
健司が止まる。
「……ちょっとだけ」
ピィ。
モチまで鳴いた。
「でも家では使わない」
「絶対ですよ」
◇
その日は配信をしなかった。
借金のこと。
《肩代わり》のこと。
久我のこと。
まだ何もかも視聴者へ話す必要はない。
帰り道、健司は軽トラックをコンビニへ寄せた。
店内で羊羹を一本手に取る。
値札を見る。
「鑑定代の方が高いな」
比較する意味はない。
それでも結局、羊羹は買った。
家へ戻る。
「ただいま」
「おかえり」
ゴンが玄関の近くにいる。
モチは籠から出すと、先に家の中へ飛んでいった。
母が聞く。
「火、出た?」
「出た」
「火事にならなかった?」
「ならないよ」
「よかった」
「三メートルくらい」
「それ、すごいの?」
「分からん」
「じゃあ、よかったね」
相変わらず簡単だった。
夕飯は焼き魚、冷ややっこ、きんぴら、味噌汁。
健司はご飯を二杯食べた。
食後、買ってきた羊羹を出すと、母が言った。
「羊羹あったのに」
「鑑定で三千円使ったから」
「だから?」
「何となく食べたくなった」
「変なの」
羊羹を切り、二人で茶を飲む。
健司はスマートフォンを確認した。
保証債務残高 420,000円
「まだだな」
母が聞く。
「何が?」
「残り」
「最後の人、払うって?」
「今日中に」
「じゃあ待てばいいね」
「うん」
テレビでは明日の天気予報が流れている。
晴れ。
明日も朝から農作業になりそうだ。
九時。
九時半。
十時。
健司は特に急かすこともなく、テレビを見たり、ゴンの様子を見たりしていた。
やがてスマートフォンへ通知が届く。
金融会社からだった。
健司は何となく画面を開いた。
表示された数字を見て、一瞬意味が分からなかった。
もう一度見る。
保証債務残高 0円
「……ゼロ」
母が茶を持ったままこちらを見る。
「何?」
健司は画面を見たまま答えた。
「借金」
「うん」
「なくなった」
母が少し目を丸くした。
「あら」
それだけだった。
健司は笑う。
「三百万」
「あったねえ」
「なくなった」
「よかったじゃない」
「うん」
ゴンは寝ている。
モチはその背中に乗っている。
母は茶を飲み、テレビを見ている。
外には畑があり、家もいつものままだ。
何も変わっていないように見える。
ただ、画面の数字だけがゼロになった。
催促状。
三百万円。
あの日から始まった借金返済が、ようやく終わった。
健司はしばらく画面を見たあと、ぽつりと言った。
「……明日から配信タイトルどうしよう」
母がテレビを見たまま答える。
「畑でいいんじゃない?」
健司は笑った。
「それ、ダンジョン配信じゃないな」
借金はなくなった。
それでも畑はある。
ダンジョンもある。
ゴンもモチもいる。
そして、なぜか四つも増えた技能まである。
森健司の日常は、まだ終わらなかった。
あとがき
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
三百万円の借金は無事完済しました。
ですが、物語はまだ終わりません。
森おじさん、もう一度借金を背負うことになります。
今度は騙されて背負う借金ではありません。
引き続き、森健司の田舎暮らしとダンジョン探索を楽しんでいただければ嬉しいです。




