第16話 また五十二万円減っている
森健司が金融会社の画面を開いたのは、朝食のあとだった。特別な理由はない。最近はもう癖になっている。借金を抱えてからというもの、銀行口座より先に保証債務の残高を見るようになった。
「……ん?」
表示された数字を見て、健司は指を止めた。保証債務残高 1,560,000円昨日の夕方は二百八万円だった。岩崎が五十二万円を直接返済し、そこまでは自分でも確認している。それが今は百五十六万円。さらに五十二万円減っている。
「また払ったのか」
誰が払ったのかまでは画面に出ない。健司が返したわけではないから、胸の奥が温かくなる感覚もなかった。身体にも変化はない。新しいスキルが増えた感じもしない。つまり、また上原たちの誰かだ。
「あと三人だったよな」
三百万円から始まった借金が、もう半分近くまで減っている。最初の催促状を見たときには、農業だけなら何か月、何年かかるだろうと思った。生活費も農機具も肥料も種も燃料も税金もある。だから十年以上離れていたダンジョンへ戻った。それが今は百五十六万円。健司は台所にいる母へ声をかけた。
「母さん。また借金減ってた」
「いくら?」
「五十二万」
「あら。昨日も五十二万じゃなかった?」
「そう」
「じゃあ二人で百四万?」
「そうなるな」
母は少し考え、「みんな五十二万円ずつなの?」と聞いた。
「多分」
「何人いるの?」
「五人」
「あら、それならみんな払えばすぐ終わるじゃない」
健司は笑った。母に説明すると、難しく考えていたことが妙に簡単になる。
「全員払えばね」
「払わない人いるの?」
「いるかもしれない」
「どうして?」
「払いたくないんじゃない?」
母は不思議そうに首を傾げた。
「でも自分のお金なんでしょう?」
「そうなんだよな」
「変なの」
「変だな」
それで話は終わった。健司は岩崎へメッセージを送る。
――また52万円減ってた。誰か払ってくれた?
すぐには返事がないので畑へ出た。今日は晴れ。雨上がりから一日経ち、畑もだいぶ乾いている。昨日、配信で紹介した直売所の通販は予想以上の反応だった。朝から職員に電話で「トマト多め! キュウリ! ナス!」と急かされている。米まで要求されたが、さすがに米は一晩で増えない。ゴンは畑の端で伏せ、モチはその背中に乗っている。
「お前ら、今日は働けよ」
ゴンは顔だけ上げて、また伏せた。モチだけが元気よく「ピィ」と返す。
「返事だけか」
健司は収穫を始めた。トマト、キュウリ、ナス。いっぱいになったコンテナを二つまとめて持ち上げる。
「岩崎さんの身体強化か」
もう「農業で鍛えたから」とは思わない。元々同年代より体力はあったが、今の軽さは明らかに違う。《身体強化Ⅰ》は便利だ。それだけに、岩崎が《身体強化Ⅲ》からⅡへ落ちたことが引っかかる。
「返せたらいいんだけどな」
本鑑定なら方法が分かるかもしれない。だが何万円もする。
「まず借金だな」
完済してから考えればいい。収穫を続けていると、スマートフォンが鳴った。岩崎からの返信だった。
――治癒役の水野です。本人から今朝連絡がありました。52万円直接払ったそうです。
「水野さんか」
続けて、残るのは上原、榊、久我の三人だと書かれていた。久我。魔法使い。岩崎が昨日、最後まで「自分はまだ何も失っていない」と支払いを嫌がっていたと言っていた人物だ。
「まあ、あと三人」
一週間待つという約束まで、あと五日。健司はそれ以上考えず、収穫を終えて直売所へ向かった。着いた途端、職員が台車を引いて走ってくる。
「来た!」
「何だよ」
「早く持ってこい!」
「急かすなよ」
「注文入ってんだよ!」
荷台からコンテナを下ろす。職員が一箱持つ横で、健司は二箱まとめて運んだ。
「お前、本当に力強くなってない?」
「スキルだった」
「昨日も言ってたな。農家にもスキルあるのか?」
「探索者の」
「ああ、そっちか」
倉庫では他の農家も忙しそうだった。米が売れた、味噌が売れた、枝豆も配信に映せと声が飛ぶ。
「俺は通販番組じゃないんだけど」
「同じようなもんだろ」
「違うよ」
周囲が笑う。直売所の通販ページを見ると、健司のトマトは在庫なし。キュウリは残りわずか。地元米には注文集中、手作り味噌まで在庫なしになっている。
「味噌、俺映してないぞ」
「入口がお前なんだよ!」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
よく分からないが、地域の人が喜んでいるなら悪くない。今日配信するならまた直売所のことを言えと頼まれたが、健司は「露骨だろ」と渋った。
「配信者が今さら何言ってんだ」
「俺、配信者が本業じゃない」
「探索者?」
「農家」
「じゃあ野菜売れ」
「……それ言われると弱いな」
昼は家へ戻り、母のざるそばを食べた。薬味は畑のネギと大根おろし。モチがそばを欲しそうにしたが、食べていいか分からないので代わりにブルーベリーをもらっていた。午後、ギルドへ向かう。白花しずくは健司を見るなり、「モチは?」と聞いた。
「家」
「……」
「毎回その顔やめろ」
「今日はダンジョンですか?」
「露骨に切り替えたな」
「業務です」
健司は第二階層を少し奥まで見に行くと伝えた。しずくは端末を確認し、最近奥で《鎧蜥蜴》の目撃があると教える。体長二メートル弱。四足。背中と頭の鱗が硬く、腹と脚の付け根が比較的柔らかい。Eランク上位相当。力はオークほどではないが、防御力は高く、突進と太い尾が危険。
「じゃあ会っても戦わない」
「即決」
「初見で硬いやつ嫌だよ」
「正しいです」
逃げ道があるところから見るだけにする。ドローンを借り、配信を開始した。
【借金残り156万円】Eランクおじさん、第二階層を少し奥へ
視聴者はすぐ千、二千と増えた。
《156万!?》
《昨日208万だったよな》
《また52万》
「また一人払ってくれた」
《勝ったな》
「何に?」
《借金》
「まだあるぞ」
第一階層は慣れた道を進み、ゴブリン二体の気配を感じると迂回した。今日は奥を見るのが目的で、戦闘数を稼ぐ必要はない。第二階層へ入ると空気が少し冷たい。壁の魔力灯が途切れる場所もある。
「今日は知らない魔物いたら戻る」
《戦おう》
「嫌だ」
《即答》
「初見は見るだけ。四十六だから怪我治るの遅い」
《リアル》
牙犬一体を避け、魔力苔を採取しながら進む。少し奥で大きな気配を感じたが、出てきたのはオークだった。
「今日はいいや」
《倒せるのに》
「怪我したら損だからな」
別ルートへ回り、さらに奥へ。やがて、低く長い影が見えた。灰色の板状の鱗。太い尾。三角の頭。体長は一メートル八十ほど。
「多分、鎧蜥蜴」
気づかれない距離で観察する。歩きは遅い。脚は太い。背中に剣を当てても弾かれそうだ。腹は低く、狙うには危険な姿勢になる。
「やめとく」
《えー》
《戦わないの》
「今日は見るだけって言っただろ」
《配信者としては戦ってほしい》
「怪我したら治療費払ってくれる?」
《応援投げる》
「足りる?」
《たぶん》
「多分じゃ駄目」
距離を取り、別の道へ。未知の魔晶らしきものも見つけたが、知らない物には触れず、映像だけ残す。帰路に入った頃、《気配察知Ⅰ》が複数の人間と一体の魔物を捉えた。金属音と叫び声。角を曲がると、若い探索者三人がオーク一体と戦っていた。盾、槍、魔法。連携は悪くない。オークも押されている。
「大丈夫そうだな」
健司は手を出さずに見守り、戻ろうとした。その瞬間。右奥から小さく速い気配。牙犬。三人はオークへ集中して気づいていない。
「右!」
健司が声を上げる。若い魔法使いの背後へ牙犬が飛び出した。健司は《身体強化Ⅰ》で踏み込み、間へ入る。剣を斜めに走らせ、肩を深く切る。転んだ牙犬が立とうとしたところへ、もう一撃。
「後ろいたよ」
「ありがとうございます!」
その間に若者たちもオークを倒した。
「怪我ない?」
「大丈夫です」
青い顔をした魔法使いが、「今の、全然気づかなかった……」と呟く。
「オーク見てたからね。次から気をつければいい」
配信コメントは《また助けてる》《森おじさん保護者》と流れる。
「たまたまだよ」
三人も健司の配信を知っていた。帰る方向が同じだったので一緒に戻ることになる。
「俺についてくるより、自分たちで道覚えた方がいいよ。迷ったら言って」
先頭を若者たちに歩かせ、健司は少し後ろから見守った。途中、彼らが鎧蜥蜴のことを聞く。
「見たよ」
「戦いました?」
「逃げた」
「森さんでも?」
「初見だから」
「でもオーク倒せますよね?」
「オークと鎧蜥蜴は違うだろ」
三人は納得したように頷いた。
「知らない相手と無理に戦わない方がいい。逃げられるうちに逃げる」
昔のDランク時代、健司は何度も見た。強い探索者が死ぬこともあれば、弱くても無事に帰る探索者もいる。強さと、生き残ることは別だ。ギルドへ戻ると、しずくが三人を見て「あれ?」と首を傾げた。
「拾った」
「人を拾わないでください」
牙犬の件を説明すると、しずくはため息をつく。
「またですか」
「またって?」
「この前も若い探索者助けたでしょう。森おじさん、もう初心者側じゃないですよ」
「Eだよ」
「そのEの中でも経験ある側です」
昔の経験。剣や身体のスキルだけではない。逃げる判断、道の見方、魔物との距離。それも残っている。査定は五万二千三百円。配信応援は二万四千六百十円。
「今日悪くないな」
「鎧蜥蜴と戦わなくてもこれですからね」
「戦わなくて正解」
しずくは若手向けの講習をやらないかと言い出したが、健司は即座に断った。
「人に教えるほど強くない」
「強さじゃなくて、逃げ方です」
「『危なかったら帰れ』で五分で終わるぞ」
「でも大事です」
帰宅すると、いつものようにゴンとモチが迎えた。母は畑で小さな籠にピーマンを採っている。
「俺やるよ」
「もう終わるよ」
夕飯は豚の生姜焼き。ご飯を二杯食べる健司へ、母が「最近よく食べるね」と言った。
「動くから」
「太らない?」
「多分」
「お腹出たら配信で言われるよ」
「母さんまで配信気にするようになったな」
食後の羊羹は、なぜかいつもより薄かった。
「薄くない?」
「最近食べすぎ」
「一切れだぞ」
「毎日でしょう」
負けた。茶を飲みながら金融会社のページを開く。健司の指が止まった。保証債務残高 1,040,000円
「……また?」
百五十六万円から、さらに五十二万円減っている。
「百四万」
母が聞く。
「何が?」
「借金」
「あら、また減った?」
その直後、上原から電話が来た。
『健司』
「おう」
『残高、見たか』
「今見た」
『……俺が払った』
「五十二万?」
『ああ』
「ありがとう」
『礼言うなよ』
「岩崎さんにも言われた」
上原は、岩崎からすべて聞いたと健司が知っていることを確認した。
「みんなでやったんだって?」
『……ああ』
「最初から?」
『ああ』
健司は少し間を置いた。
「俺の畑売ればいいって話も?」
電話の向こうが黙る。
『……聞いたのか』
「お前もそう思ってた?」
長い沈黙。
『思ってた』
胸の奥が少し痛い。長い付き合いで、畑も家も母も知っている。その上でそう考えた。
「そっか」
『健司。悪かった』
初めて、上原がはっきり謝った。健司はすぐに許すとは言わなかった。
「あと百四万」
『分かってる』
「二人?」
『榊と久我。榊は払うって言ってる』
「じゃああと一人か」
『……久我が、まだ』
約束の一週間まで、あと五日。
「じゃあ待つよ」
『健司』
「約束したから。五日。それまでに払って」
『……ああ』
「俺、十万円ならいつでも払えるから」
『分かってる』
「脅してるわけじゃないよ。借金返すだけだから」
しばらくして、上原が低く言った。
『……それが一番怖いんだよ』
「何が?」
『いや、何でもない』
通話が終わる。母は羊羹を食べながら、「上原さん払ったの?」と聞いた。
「うん」
「よかったじゃない。あと二人?」
「一人は払うって」
「じゃあ一人だけ?」
「多分」
母はいつもの調子で言った。
「その人も払えば終わりだね」
健司も頷いた。
「そうだね」
通話を切ったあと、健司はすぐ金融会社の画面を閉じた。数字ばかり見ていても残高は勝手には減らない。夕方の仕事が残っている。鶏へ餌。水。畑の見回り。雨のあとに倒れかけた支柱を一本直し、出荷できないトマトを家用の籠へ入れる。モチがその籠へ寄ってきた。
「これは家用だけど、お前のじゃないぞ」
ピィ。
「一個だけな」
小さく切る。モチが食べる。ゴンも近づく。
「お前も来るの?」
少量。食べる。健司は二匹を見ながら、ふと思う。借金が三百万円あった時より、今の方が周囲は騒がしい。配信。ギルド。上原たち。能力。それなのに家へ戻れば、やることは変わらない。
「あと百四万か」
数字を口にすると、最初の三百万円が遠く感じる。母が縁側から聞いた。
「もうそんなに減ったの?」
「うん」
「健司、頑張ったねえ」
健司は少し考える。
「俺が返したの三十万だけだけど」
「でもダンジョン行ったでしょう?」
「行った」
「なら頑張ったんじゃない?」
簡単。そう言われると、そうなのかもしれない。健司は笑った。
「じゃあ、頑張ったことにする」
母も笑う。その日の夕飯は、雨で少し割れたトマトを使った卵炒めだった。借金残高がどう動くか。誰が払うか。健司には決められない。だから、自分で決められることだけやる。畑。ダンジョン。そして約束した一週間を待つ。その頃。A級パーティーの斥候、榊は自分のスマートフォンで五十二万円の支払い確認画面を見ていた。迷いはなかった。すでに《気配察知》を一段失っている。二度目は絶対に嫌だった。支払いを受け付けました。
「終わり」
息を吐く。残るのは一人。久我玲奈。魔法使い。腕を組み、榊を見ている。
「払ったの?」
「ああ」
「馬鹿みたい。五十二万よ?」
「俺の気配察知より安い」
「また自分から取られるって決まってないじゃない」
榊は久我をまっすぐ見た。
「お前以外、全員払ったぞ」
「だから?」
「残ってるの、お前だけになる」
久我の表情が一瞬止まる。
「森さんが次に十万円返したら、誰から取ると思う?」
久我は無理に笑った。
「そんな単純な仕組みだって証拠ある?」
「ない」
「でしょ」
「でも、試す?」
久我は答えなかった。
《火炎魔法Ⅲ》。
彼女の火力、収入、A級探索者としての価値。その中心にある技能。五十二万円は払える。それでも払いたくない。最初から、その金を森健司へ押しつけるつもりだったから。
「あと五日」
榊は言った。
「森さんは待つって」
「五日もあるんでしょ」
「ある」
「なら考える」
「好きにしろ」
榊が部屋を出る。久我は一人、支払い画面を見た。520,000円指は。まだ。押さなかった。久我が支払い画面を閉じた頃、健司はもう布団へ入っていた。スマートフォンは枕元。残高をもう一度確認しようとして、やめる。
「朝でいいか」
一日に何度見ても、誰かが払わなければ数字は同じだ。隣の部屋から母がテレビを消す音。廊下ではゴンの爪がゆっくり床を鳴らす。モチの小さな声。健司は目を閉じた。借金はまだ残っている。それでも三百万円だった頃より、ずっと出口が見えている。
「あと少しだな」
誰に聞かせるでもなく呟き、そのまま眠った。明日になれば、また畑へ出る。返済が進んでも進まなくても、野菜は待ってくれない。その単純さが、今の健司にはちょうどよかった。残りの数字がどう動くかは相手次第だ。だから今夜はもう考えない。自分ができることだけをやればいい。それで十分だった。急いでも仕方がない。待つと決めた以上、その約束だけは守る。それもまた健司なりの筋だった。朝になれば、また数字を見る。それまでは休む。それでいい。それだけだ。




