第14話 身体強化を失った男
雨は、夜のうちから降り続いていた。屋根を叩く音で目を覚ました森健司は、布団の中でしばらく耳を澄ませた。強い雨ではない。風もほとんどない。一定の調子で、ざあざあと降っている。
「ちゃんと降ったな」
昨日、母が言っていた通りだった。外へ出ると、庭はすっかり濡れていた。畑の土も黒い。水やりは必要ない。だからといって、農家が雨の日に何もしなくていいわけでもない。健司は長靴を履き、雨合羽を羽織った。玄関までついてきたゴンへ、
「今日はお前はいいよ」
と言う。ゴンは一度だけ外を見た。雨。それから玄関の中へ戻った。
「賢いな」
ピィ。モチは健司の頭へ乗ろうとした。
「お前も濡れるぞ」
ピィ。
「飛んでいく気か?」
モチは外を見る。雨。一歩。戻る。健司は笑った。
「お前もか」
今日は二匹とも留守番らしい。畑を一周する。水が溜まりやすい場所。排水路。ビニールハウス。倒れかけた支柱。雨の日だからこそ確認するところはある。用水路の近く。健司は歩いていて、ふと足を止めた。何かいる。右。草の中。視線を向ける。小さなカエルが跳ねた。
「……これも分かるのか」
《気配察知Ⅰ》。
簡易鑑定を受けてから、意識すると以前より分かりやすくなった。人。魔物。動物。虫ほど小さくなると曖昧だが、近くで動く生き物には何となく気づく。便利。あまりにも便利。今となっては、これが突然自分の中に現れたものだと理解している。そして。誰かから失われた可能性が高いことも。
「上原たちが返してくれれば、それで終わりなんだけどな」
雨音の中。独り言。借金は二百六十万円。昨日、上原側から十万円返済された。健司が払ったときは起きた、胸の奥の妙な感覚。今回はなかった。新しい能力が増えた様子もない。
《肩代わり》はやはり、健司自身が保証債務を返したときに動いているらしい。
なら。簡単。上原たちが返す。本来の形へ戻るだけだ。畑を一周し終える。家へ。玄関。タオル。母が台所にいた。
「濡れたねえ」
「雨だからね」
「風邪ひくよ」
「着替える」
「ご飯できてるよ」
「はいよ」
味噌汁。焼き魚。漬物。ご飯。ゴンはいつもの場所。モチは母の椅子の背。健司は朝食を食べながら、スマートフォンを見る。金融会社。残高。2,600,000円変化なし。
「まだ二百六十万かい?」
母が聞いた。
「うん」
「昨日十万円返したんじゃなかった?」
「返したよ。上原が」
「じゃあ減ってるじゃない」
「三百万からな」
「ああ」
母は少し考えて、
「まだいっぱいあるね」
と言った。
「昨日も同じこと言ってたぞ」
「そうだった?」
「うん」
「じゃあ本当なんだね」
「そういう問題?」
母は気にせず味噌汁を飲んだ。健司も笑ってご飯を食べる。食後。今日はダンジョンへ行く予定はない。雨。畑の大きな作業もできない。剣の手入れ。装備の確認。倉庫整理。帳簿。やることはいくらでもある。郷田からもらった整備道具を倉庫へ持っていく。中古の剣。布。油。砥石。
「これでいいのかな」
説明は以前聞いた。だが剣の整備など十年以上やっていない。昔もそれほど几帳面な方ではなかった。スマートフォン。動画。検索。すぐに閉じる。
「郷田に聞いた方が早いな」
電話。三回。
『何だ』
「暇?」
『店やってる』
「暇?」
『二回言うな』
「剣の手入れ教えて」
『この前教えただろ』
「忘れた」
電話の向こうで大きなため息。
『今から店来い』
「雨だぞ」
『じゃあ自分でやれ』
「分かった。行く」
『最初からそうしろ』
電話終了。健司は装備を軽トラックへ積んだ。玄関でモチが飛んでくる。
「今日は郷田の店」
ピィ。
「来る?」
ピィ。
「籠」
モチが少し後退する。
「運転中は籠」
諦めて入る。ゴン。寝ている。
「ゴンは留守番」
耳だけ動いた。母へ声。
「郷田のところ行ってくる」
「はいよ」
「昼には戻る」
「お昼いるの?」
「いる」
「分かった」
軽トラック。雨の田舎道。ワイパー。一定の音。武器防具店。店先。客の車はない。
「やっぱ暇じゃん」
入った瞬間。郷田。
「帰れ」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔見りゃ分かる」
「雨だから客いないなと思って」
「お前が最初の客だ」
「十時過ぎてるぞ」
「帰れ」
カウンター。モチが籠から出る。郷田の視線。
「そいつまで連れてきたのか」
「家に置いてくるとついて来るんだよ」
「店の物つつかせるなよ」
「モチ。つつくなよ」
ピィ。モチは剣の柄に止まった。郷田。
「もうつついてるじゃねえか」
「止まってるだけ」
「屁理屈言うな」
健司は剣を出す。
「で、手入れ」
「自分でやれ」
「見てて」
「俺は先生じゃねえ」
文句を言いながらも。郷田は布を出した。結局教える。刃。汚れ。傷。油。柄。留め具。防具の革。魔鋼部分。
「毎回ここまでやるの?」
「毎回全部やれとは言わん。帰ったら汚れは落とせ。血や泥つけっぱなしが一番悪い」
「農具と一緒だな」
「そう思っとけ」
「鍬も洗うぞ」
「知ってる」
健司が作業。郷田が見ている。
「そこ油多い」
「これくらい?」
「多い」
「難しいな」
「何十年農家やってんだ」
「剣は育たんから」
「農業に寄せるな」
モチ。カウンター。店内を眺める。健司はふと思いついた。
「これ配信したら見る人いるかな」
郷田が嫌そうな顔。
「俺は映さんぞ」
「手だけ」
「嫌だ」
「店の宣伝になるぞ」
「……」
止まった。
「暇なんだろ」
「暇じゃねえ」
「客いないぞ」
「雨だからだ」
「配信する?」
郷田は少し考える。
「店名だけ出せ」
「顔は?」
「出すな」
「手は?」
「まあいい」
話が決まった。ドローンは借りていない。スマートフォン。簡単な固定配信。タイトル。
【雨の日】中古装備の手入れを教わるだけ
開始。最初。二百人。五百。千。コメント。
《ダンジョンじゃない》
《今日は雨か》
《モチいる》
《モチ!》
《剣の手入れ助かる》
「今日は雨だからダンジョン休み」
《雨関係ある?》
「畑の確認あるから」
《そっちか》
《探索者より農家》
「農家だからな」
郷田の手だけ映る。
《誰?》
「武器屋の郷田さん」
「名前出すなって言ってねえぞ」
横から声。コメント。
《郷田さん!》
《鍬の人?》
《森おじさんを鍬で行かせなかった英雄》
郷田。
「何だそれ」
健司。
「有名になってるぞ」
「嬉しくねえ」
《声渋い》
《顔見たい》
郷田。
「見せるなよ」
「顔は嫌だって」
《残念》
作業。健司は手入れを続ける。配信としては地味。本当に地味。剣を布で拭いているだけ。それでも千人以上が残っている。
「何が面白いんだ?」
《こういうのでいい》
《作業配信好き》
《森おじさんが普通に喋ってるだけでいい》
《モチを映せ》
「最後の人は目的違うだろ」
モチ。画面の端。映る。コメント加速。
《本編》
《かわいい》
《白い》
《丸い》
郷田が呆れる。
「お前の配信、探索者いらなくないか」
「俺も最近そう思う」
「剣置いて鳥だけ映しとけ」
「それだと俺いらないな」
《正解》
「ひどいな」
一時間。装備の手入れ終了。店名。軽く紹介。
「武器防具買うなら郷田さんの店」
郷田。
「中古ばっかみたいに言うな。新品もある」
「新品高いから」
「お前基準で宣伝するな!」
コメント。笑い。応援。数千円。
「装備手入れして金もらえるんだな」
「世の中おかしくなったな」
「郷田が言う?」
「俺に聞くな」
配信終了。健司は片付け。そのときだった。店の外。車。一台。雨音。エンジン。健司の意識がそちらへ向く。
《気配察知Ⅰ》。
一人。店へ近づく。扉。開く。スーツではない。探索者用のジャケット。大柄。四十代。肩幅。厚い胸。健司は顔を見る。知らない。いや。見たことがある。どこで。男の方が先に口を開いた。
「森健司さん……ですよね」
「はい」
郷田の表情が少し変わる。客。だが武器を見に来た感じではない。男は健司へ頭を下げた。深い。
「岩崎です」
「岩崎?」
「上原と同じパーティーの」
そこで。健司は思い出した。写真。ニュース。A級パーティー。上原の後ろに立っていた大柄な男。盾役。
「……ああ」
健司は布を置いた。
「上原の」
「はい」
岩崎。顔を上げる。
「少し話せますか」
健司は郷田を見る。郷田は何も聞かない。ただ、
「奥使え」
と言った。
「いいの?」
「店先でやる話じゃねえんだろ」
岩崎の顔を見れば分かる。軽い話ではない。店奥。小さな休憩室。机。椅子。健司。岩崎。モチも来ようとしたが。
「モチ、郷田と待ってろ」
ピィ。郷田。
「何で俺が」
「頼む」
「鳥の面倒まで見てねえぞ」
そう言いながら手を出す。モチがその腕へ乗った。
「乗るのかよ」
扉を閉める。雨。外の音が少し遠くなる。岩崎。座らない。
「座れば?」
「……はい」
向かい。大柄な身体。健司より一回り大きい。腕。太い。だが。どこか落ち着かない。健司から話す。
「上原に言われて来た?」
「違います」
「じゃあ?」
岩崎は両手を膝へ。
「俺の判断です」
健司。待つ。
「昨日、上原たちと話しました」
「借金?」
「はい」
「十万円払ってくれたな」
「五人で出しました」
「ありがとう」
岩崎の顔が歪んだ。
「礼を言われることじゃないです」
健司は少し黙る。
「そうか」
「本来、俺たちが払う金です」
「そうだな」
責めない。慰めない。その通り。岩崎はそれが少し堪えたようだった。
「森さん」
「うん」
「あなた、ギフトのこと……どこまで分かってます?」
健司はすぐには答えない。しずくの言葉。全部話す必要はない。
「自分が返すと、何か増えるらしい」
岩崎の喉が動く。
「何が増えたんです」
「それ聞きに来た?」
「……はい」
「上原から聞いてない?」
「三つ増えたとしか」
健司は男を見る。この人。上原たちの一人。つまり。借金の件にも関わっていた。
「先に一つ聞いていい?」
「はい」
「保証人の話」
岩崎。固まる。健司は静かに続けた。
「上原一人がやったの?」
答え。すぐにはない。それだけで分かる。
「……違うんだな」
岩崎が目を伏せた。
「はい」
「みんな知ってた?」
「……はい」
健司は少しだけ椅子へ深く座る。怒鳴る気はない。殴る気もない。ただ。胸の奥。重い。上原。幼馴染。一人だけ。そう思っていた。騙したのは上原。仲間は知らないかもしれない。どこかで。そう考えていた。
「最初から?」
岩崎。
「最初からです」
雨。音。
「俺に押しつけるつもりで?」
「……はい」
健司は天井を見た。
「そっか」
それだけ。岩崎が顔を上げる。
「怒らないんですか」
「怒ってるよ」
「……」
「俺だって怒るよ」
健司は頭を掻いた。
「ただ今ここで怒鳴っても借金減らないし」
岩崎は何も言えない。
「それより」
健司。
「何があった?」
岩崎が拳を握る。
「俺の《身体強化》が落ちました」
健司。動かない。
「……いつ?」
「あなたが二回目の十万円を返した日です」
一致。完全に。一致した。健司の中。
《身体強化Ⅰ》。
岩崎。失った。
「何段階?」
「一段階」
「今は?」
「《身体強化Ⅱ》です」
「元は?」
「Ⅲ」
健司は息を吐いた。
《身体強化Ⅰ》。
自分。岩崎の《身体強化Ⅲ》がⅡへ。一段。
「じゃあ」
健司。
「俺に来たんだな」
岩崎は答えない。答える必要もない。健司は右手を見る。肥料袋。コンテナ。前より軽くなった。ダンジョン。疲れにくい。間違いなく便利。
「これ、お前のだったのか」
初めて。能力の元。本人。目の前。健司は妙な気持ちになった。嬉しくはない。罪悪感。それとも違う。自分が盗んだわけではない。欲しいとも言っていない。借金。押しつけられた。それを返した。結果。岩崎の力が自分へ来た。
「森さん」
「うん」
「返済を止めてください」
「上原にも言われた」
「分かってます」
「俺も答えた」
岩崎。
「自分たちで返せ、ですよね」
「うん」
「その通りです」
健司は少し驚く。岩崎が財布を出した。違う。通帳。スマートフォン。
「俺の分を払います」
「分?」
「残り二百六十万。五人なら一人五十二万円」
健司。
「ああ」
「五十二万円、今日払います」
「金融会社に?」
「はい」
「俺に渡すんじゃなく?」
岩崎は少し戸惑う。
「直接払った方がいいですか?」
「そうして」
「なぜ?」
健司は簡易鑑定の結果。昨日の十万円。
「向こうが払った十万円では、俺に何も起きなかった」
岩崎の目。大きくなる。
「……本当ですか?」
「多分、俺が払った時だけ」
岩崎。明らかに安心した。
「なら」
スマートフォン。操作。
「今払います」
「ここで?」
「今やります」
「帰ってからでも」
「今やります」
必死。健司も止めなかった。振込。確認。数分。岩崎が画面を見せる。520,000円
「これで、俺の分は」
健司は自分の金融会社のページを開く。まだ反映されない。
「すぐじゃないのかもな」
「確認します」
「いいよ。あとで見る」
「でも」
「払ったんだろ?」
「はい」
「じゃあいい」
岩崎。黙る。健司は少し考える。
「岩崎さん」
「はい」
「一つ聞いていい?」
「何でも」
「なんで来たの?」
岩崎は答えに詰まる。
「能力取られたから?」
「それもあります」
正直。
「次、自分かもしれないから?」
「それも」
健司。待つ。岩崎は拳を見る。
「昨日、揉めました」
「誰と?」
「パーティーで」
「借金?」
「はい」
残り二百六十万円。五人。一人五十二万円。払えば終わる。だが。一人。反対。
「魔法使いが払いたくないと言いました」
健司は眉を上げる。
「なんで?」
「自分はまだ何も失っていないから」
「……なるほど」
分かりやすい。岩崎は苦い顔。
「俺と榊はもう能力を失ってます」
「榊?」
「斥候です」
健司。
《気配察知Ⅰ》。
「その人か」
「何が?」
「俺の気配察知、多分その人から」
岩崎の顔。さらに険しくなる。
「やっぱり……」
「最初は上原だと思う」
「剣術?」
「うん」
岩崎。額を押さえる。
「全部合ってる」
「そうなの?」
「上原は《剣術》が落ちた。俺は《身体強化》。榊は《気配察知》」
三回。三人。完全。もう偶然ではない。健司。
「十万円で一つ?」
「今のところは」
「一段階ずつ?」
「はい」
《肩代わり》。
健司が十万円返す。共犯者。能力。一段階。移動。仕組み。かなり見えてきた。ただ。なぜその能力なのか。誰から選ばれるのか。順番。分からない。
「森さん」
岩崎。
「お願いがあります」
「何?」
「次の返済、少し待ってください」
健司は黙る。
「俺が他の連中を説得します」
「どれくらい?」
「一週間」
健司は考える。金融会社。今月。すぐに延滞する状況ではない。自分の生活費。農業経費。余裕。一週間なら。
「いいよ」
岩崎が深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「ただ」
顔を上げる。
「一週間で何も変わらなかったら、俺はまた払うよ」
「……はい」
「俺にも生活あるから」
「分かってます」
「信用の問題もある」
「はい」
健司は少しだけ笑う。
「あと」
「何です?」
「俺に払うなよ」
「はい?」
「今後も誰かが自分の分払うなら、直接金融会社へ」
「ギフトが発動する可能性があるから?」
「そう」
岩崎はすぐ頷いた。
「分かりました」
話。終わり。健司は立つ。岩崎。立たない。まだ何か。
「どうした?」
「……森さん」
「うん」
「すみませんでした」
頭。深く。今度は。能力のためではない。そう感じた。
「保証人の件」
「うん」
「あなたなら断らないって、みんなで話しました」
健司。黙る。
「上原が言ったんです。昔から頼まれると断れない奴だからって」
胸。少し痛い。上原。よく知っていた。健司を。知っていたから。利用した。
「そうか」
「俺も賛成しました」
「うん」
「装備の更新もしたかった。遠征にも行きたかった。三百万くらいなら、農地持ってる森さんなら何とかするだろうって」
健司の目。少し細くなる。
「農地?」
「……」
「畑売ればいいって?」
岩崎は答えなかった。それが答え。健司。しばらく。本当に。しばらく何も言わなかった。怒鳴らない。だが。さっきまでとは違う。
「それは駄目だな」
岩崎。顔を上げる。
「借金は払える」
健司。
「ダンジョン潜ればいいし、畑もある」
「……」
「時間かければ返せる」
「はい」
「でも畑は」
健司は窓の外。雨。
「金に困ったから売ればいいってもんじゃない」
父。祖父。もっと前。土地。何十年。何百回。種。収穫。失敗。台風。雪。夏。
「俺だけの畑じゃないからな」
岩崎。何も言えない。健司はそこで初めて、少しだけ強い声。
「そこまで考えてたなら、ちゃんと返してくれ」
「……はい」
「五十二万払ったから終わりじゃなくて」
「はい」
「上原にも言っといて」
「分かりました」
「俺、まだ怒ってるって」
岩崎の目が少し見開かれる。健司。
「顔に出ないらしいから」
岩崎は。少しだけ。苦い笑い。
「伝えます」
休憩室を出る。店。郷田。腕。モチ。
「遅え」
「ごめん」
「鳥返す」
モチが健司の肩へ。ピィ。岩崎も出る。郷田。顔を見る。何も聞かない。
「帰るのか」
岩崎。
「はい」
「雨強くなってるぞ」
「大丈夫です」
玄関。健司。
「岩崎さん」
止まる。
「何です?」
「振込反映されたら連絡するよ」
「お願いします」
「あと」
「はい」
「能力」
岩崎。
「……」
「返せる方法分かったら返す」
岩崎は目を大きくした。
「森さん」
「分からないけどな」
「いえ」
「別に俺が欲しくて取ったわけじゃないし」
岩崎は何か言おうとした。言えない。頭。一度。下げる。車。雨の中へ。出ていった。店内。静か。郷田。
「面倒な話か」
「面倒」
「借金?」
「うん」
「聞かねえ方がいい?」
「そのうち話す」
「ならいい」
郷田はカウンターへ戻る。
「昼飯食ってくか?」
「母さんが作ってる」
「なら帰れ」
「さっきから帰れしか言ってないな」
「客でもねえのに二時間いる奴に言う言葉はそれしかねえ」
「配信で店宣伝したぞ」
「……」
「売れたら羊羹」
「何で俺がお前に買うんだ」
「宣伝料」
「帰れ!」
健司は笑いながら店を出た。軽トラック。雨。帰宅。玄関。
「ただいま」
母。
「おかえり」
ゴン。ゆっくり立つ。モチ。先に飛んで中へ。昼。うどん。温かい。母と食べる。
「郷田さん元気だった?」
「元気」
「将棋してきたの?」
「今日はしてない」
「珍しいね」
「仕事の邪魔になるから」
母。
「雨の日なら暇じゃない?」
健司。吹き出した。
「母さんまで言う?」
「何が?」
「いや」
食後。スマートフォン。金融会社。更新。健司の指が止まる。保証債務残高 2,080,000円五十二万円。減っている。
「……本当に払ったな」
母。
「また減ったの?」
「うん」
「いくら?」
「五十二万」
「あら」
「残り二百八万」
母は指を折る。途中でやめる。
「まだいっぱいだね」
「でもかなり減ったよ」
三百万。二百八万。九十二万円減少。自分が三十万。上原側十万。岩崎五十二万。
「一人分だって」
「何人いるの?」
「五人」
「じゃあみんな払えば終わるね」
単純。正しい。健司。
「俺もそう思う」
胸の奥。変化。なし。身体。変化。なし。新しい気配。なし。やはり。他人が直接払えば。
《肩代わり》は動かない。
健司は岩崎へメッセージ。反映された。残り208万。ありがとう。返信。すぐ。確認しました。残りも話します。必ず連絡します。健司はスマートフォンを置く。外。雨。ゴン。寝る。モチ。ゴンの背中。母。洗い物。いつもの家。それなのに。少しだけ。世界の見え方が変わった。
《身体強化Ⅰ》。
岩崎。
《気配察知Ⅰ》。
榊。
《剣術Ⅰ》。
上原。全部。誰かのものだった。借金を押しつけた代償。ギフト。
《肩代わり》。
健司は自分の手を見る。
「……これ」
本当に。肩代わりなのだろうか。金を。自分が。能力を。相手が。お互い。別のものを。肩代わりしている。そんな気がした。ただ。まだ一つ。分からない。上原たちは五人。すでに三人から一つずつ。残る。二人。もし次に健司が十万円を払ったら。そのどちらかから。何が来る。健司はそこまで考えて。首を振った。
「考えない方がいいな」
欲しくなる。それは嫌だった。だから。一週間。待つ。上原たちが払えば。何も起きない。それが一番いい。
――その夜。
上原のパーティー。岩崎が机へスマートフォンを置いた。
「俺は払った」
残高。二百八万円。魔法使いの女。顔をしかめる。
「本当に五十二万出したの?」
「ああ」
「馬鹿じゃない?」
岩崎。
「何?」
「森が払えばいいでしょう」
空気。変わる。岩崎は女を見る。
「お前」
「何?」
「森が払ったら、次はお前かもしれないぞ」
女は笑った。
「だから?」
「だから?」
「私から取られるって決まってるの?」
「……」
「上原かもしれない。榊かもしれない。あなたからまた取られるかもしれない」
正論。確率。自分だけ。まだ無傷。
「だったら」
女。
「森に払わせればいいじゃない」
岩崎の拳。机。鈍い音。
「いい加減にしろ!」
部屋。静まる。
「俺たちは最初からあの人を騙した!」
女。
「今さら何?」
「今さらだからだよ!」
岩崎。立つ。
「俺は今日、本人に会ってきた」
上原。顔を上げる。
「健司に?」
「ああ」
「何話した」
「全部」
上原の顔色。変わる。
「全部って」
「保証人にしたのが、俺たち全員の計画だったことも」
「岩崎!」
「畑売れば何とかなるって話してたことも」
上原が立ち上がる。
「何で言った!」
「本当だからだろ!」
二人。睨む。斥候の榊。黙っている。治癒役。顔を伏せる。魔法使い。苛立つ。
「それで? 森は何て?」
岩崎は答える。
「怒ってるってさ」
上原。止まる。
「……健司が?」
「ああ」
森健司。怒鳴らない。殴らない。怒りを見せない。それでも。
『俺、まだ怒ってるって』
岩崎は言う。
「上原」
「何だ」
「お前、あの人が怒らないと思ってただろ」
沈黙。
「断らない。怒らない。最後は許す。だから選んだんだろ」
上原。答えない。
「俺たちも同じだ」
岩崎は全員を見る。
「だから払え」
二百八万円。
「俺の分は払った」
上原。榊。治癒役。魔法使い。
「残り四人」
岩崎。
「次に森さんが払うまで、一週間だ」
魔法使いが鼻で笑う。
「脅してるの?」
「違う」
岩崎。
「俺はもう止めない」
「何を?」
「森さんの返済を」
部屋。静か。
「一週間後、まだ借金が残ってたら」
岩崎。
「森さんはまた十万円払う」
魔法使いの笑み。少し消える。
「その時」
岩崎。
「誰の何がなくなるかは、俺も知らない」
誰も。何も言わなかった。雨。窓。静かに。降り続いていた。




